ざわめいた、昼休みの教室。
 廊下側の自席のイスに座ったまま、保は、前の席を見ていた。
 自分の席じゃないのに、占領して。
 上体をそっくり返らせて、保の机に頭を乗せてきている、目を閉じた範紀の顔を見つめている。
 浅黒い肌の色。
 鼻筋のはっきりした、高くて、大きな鼻。
 濃く長く生えているまつげ。
 ぶあつく赤い、横にも広い唇。
 ……そんな、触覚でもおぼえている、パーツたちが。
 今は穏やかに、視界の中央に、居る。
「……なー」
 思い切って、保は口を開いた。
「うん?」
 目を閉じたまま、範紀が答えた。
「こないだ話したじゃん、おじいちゃんが倒れたって」
「……うん」
 範紀は、目を開けなかった。
 いつもみたいに。罪のない、重要じゃない、忘れてしまっても全然かまわない。
 学校やテレビの、ちょっと面白い話に、うつのと同じ、軽いあいづちを。
 予感なんて全然ないように、うってきた。
「……父さんが、面倒みたいから、事務所、おじいちゃんの家の近くに、移転させるかもって……」
「…………」
 保は、つばを飲みこんで、続けた。
「家族で、おじいちゃんの家に、引っ越そうと思うって……」
 範紀が目を開け。
 ……けれど、その瞳が見ているのは、天井だった。
 予想していた反応のうち、一番ヤバい反応だった。
 暗くて、静かで。
 ――ひたすらに内向的。
「…………また、自殺未遂したら、なんとかなるかなァ……」
 天井を睨みながら。
 そう、言った。
 それから範紀は。
 学ランに包まれた首を、ぐーっと伸ばし、上目づかいで保を見上げてきた。
 範紀の、強く光っている、黒目がちな瞳。
 上目づかいのその目は、めずらしく、かなりの面積、白目をのぞかせていて。
「なあ」
 返事を求めるように、強く範紀が繰り返す。
 保は。
 範紀から視線をはずし、一重のまぶたを、スッと落として。
 それから、つよく、つぶった。
 非力な自分を、責められているような気がした。

 ◆

 範紀と初めて口をきいたのは。
 中学二年生の冬の今から、二年ほど前、入学式の翌日の日だった。
 まだ全然慣れない教室で、保はおとなしく、ごく普通に着席して、朝のホームルームを受けていたのだ。
 ……すると。
 ふと、後ろの席から、妙な気配がしたのだった。
 特に何か、音がしたわけではなかった。発生源らしき後ろの席の人物は、激しく動いているわけでもないらしい。
 でも奇異な感じが、明らかにぬぐえなくて。
 保は、ぱっと振り向いた。
 目に映ったのは。
 ――配布されたプリントを、両手でくしゃくしゃに握りしめ、揉んで柔らかくしながら。
 端からかじって食べている、範紀の姿だった。
「…………」
 びっくりして保が固まっていると。
 見られているのに気づき、範紀が、保を見上げてきた。
 ……痩せたノラ犬を連想した。
 中学一年、入学当時の範紀は。
 いつもそういう、ちょうどノラ犬みたいな、すさんだ、何かを憎んでいるような目をしていたのだ。
 色黒なその肌も、野生の犬科を連想させた。
 ……そんな、ぎらついた、警戒心のみなぎった目に見つめられて。
 保は、ぱちぱちとまばたきをした。
 どうも、そんな目で睨まれているのに。怖くはなかった。
 が、反応には困っていた。
 なにごともなかったかのように……というのも、この責めてくるような目の色の前じゃ、許されないような感じだし。第一、それじゃノーリアクションみたいで、なんだか哀れだと思った、相手が。
 保は体勢をひねって、自分の机の上に、視線を走らせた。
 チャックをあけている筆箱。口から見えるのは青いシャーペン、ミニ定規、そして真新しい鉛筆二本。
 銀色のシャーペンと、消しゴムは、さっきまで使っていたので、ころころと机上にころがっている。
 あとは、相手が食べているのと同じ、さっき配布されたプリント。
 載っているのは、それくらいで。
 まだ本格的な授業は始まっていないから、かばんの中にも、特に何も持っていない。
「…………」
 保はプリントを、ぺらっと自分の手に取った。
 もう一度、範紀を見た。
 範紀はあいかわらず、保を見つめていた。
 ……取れる行動の選択肢は、いくらもなくて。
 ――今、思い出すと、笑ってしまうけど。
 なんとなく保は、そっと範紀の目の表情を、のぞきこみながら。
「……食べる?」
 と言ってしまったのだった。
「…………」
 そのセリフを聞いて。
 ふっと、範紀の目から、警戒心が消えた。
 ろうそくの火が、微風に消えて。温度が、失せるような。
 草食動物のような無表情で、印象がやさしい瞳への、変化。
 それを見て保は、
『あ、なついた』
 と、反射的に思った。

 ◆

 範紀は『宗教の子』なのだ。
 地元ではひそかに有名な、ある宗教の子どもがたくさん暮らしている施設に入っている。
 親も、同じ宗教に入っているそうだ。だけどこの町ではない他の町にいる。大人だけが集められた、別の施設で暮らしているのだ。
 その宗教の主義として、『親と子は別々に育てるべき』というのが、あるためらしい。
 だから範紀は、その宗教に属している親の子どもだけを集め、預かり育てている寮施設に、赤ん坊の頃から入っているのだった。
 親とは、ほとんど会ったこともなくて、顔もおぼろげにしか記憶していないそうだ。
 保が知っている範紀の事情は、基本的にはそれくらいだった。
 元々異様に無口な範紀は、あまり、施設での生活のことを、保に話さないから。完璧には知れない。
 ――だいたい、そこで実際に生活をしてみない限り、本当には理解できそうもない世界のような気が、する。
 でも、友達になってから、範紀があの日紙を食べていたわけはわかった。
 施設の食事は、朝、夕の一日二回と決まっているのだそうだ。
 それも宗教の教義から、そうなっているらしい。一日に二食と定めている宗教は、古来にはともかく現代にはまれだから、そういうところにも厳格な体質が出ている、と保は感じる。
 とにかく、そういう主義なのだが。
 学校がある日は、学校で昼に給食が出る。そうすると、一日三食になってしまう。それで計算を合わせるため、学校のある日は、施設では朝食を出さないで子ども達を送り出すのだそうだ。
 ――その、入学式の翌日は、たまたま。
 範紀は、同じ子どもの入所者とケンカ……のようなことになってしまい、行動の時間割どおりに動けなかったことで。施設の人に怒られ――と言うより、聞いていると、怒られている時の態度でますます怒らせたようなのだが――罰として前の日の夕食を、摂れなかったのだそうだ。
 ただでさえ成長期な範紀は、朝食を食べないで来るだけでも、空腹のあまりの昼前のめまいが、日常茶飯事だと言う。
 それで、その日はもう、飢えのあまり。食えそうな紙を、かじることにしたそうだった。
 それが、保がふりかえった時で。
 ――正直、ごく一般的日本人として生活する保には。
 その施設での生活は、もし自分が、『明日からそうしろ』と言われたら、ごめんだごめんだと逃げ出したくなるイヤなものだった。
 食事回数に現れているように、色々いかめしいのだ。
 他に知っているだけでも。テレビは子ども全体に対して一台だけだから事実上見られず、学校帰りに友人と遊びに出ること、休日に遊びに行くこと、部活動など、が禁止。
 自分でその暮らしを選び取った修行者になら……もちろん個人の自主性だ、人の苦言なんか関係ない……と思うが。
 範紀は、たまたま生い立ちから、入所しているにすぎない。
 それはなんか違わないか? と思わせられてしまう。
 ――なぜなら、範紀の様子を見ていると、その宗教は少なくとも範紀には向いていない、と確信できてしまうのだ。
 範紀は人嫌いが激しい。
 寮じみた施設での集団生活になんか、考えるまでもなく不適合なタイプだし、実際にずっと、人間関係から完全にはみっているらしい。
 おまけに、けっこう疑り深い性格だから、なのか、実はその宗教の神様を、信じてもいないのだった。
 保はだいぶ親しくなってきたあたりで、範紀に聞いたことがあるのだ。
「キーんとこの、神様って、なんなの」
 歩きながら、足を止めないまま、範紀の方に振り返り。後ろ歩きしつつ聞いた。
 帰り道だった。
 放課後の光が満ち溢れる、のんびりと人がまばらに散った、土手の上。
 範紀はうつむいたまま、
「……知らない」
 と、すごく暗く答えた。
 保は、もともと丸い目を、さらに丸々とみはって。
 ふざけた調子で、言った。
「……ンなわけないでしょー」
 赤ん坊、要は生まれた時から、まるごと十二年。
 生粋の純粋培養である、宗教っ子だ。
 いつもぼーっとしていて、どこ見てんだか、なに考えてんだかわかんない、無関心男とはいえ。
『人に説明できるだけの知識がない』なんて、そんなわけがなかった。
 すると範紀は、拗ねたような調子で、
「信じたくも、ねーもん」
 とつぶやいた。
 そうして、地面を見ていた頭を、急にゆっくりと上げ。
 まっすぐに保を見つめてきた。
「おれ、神様なら、おまえがいい」
 はっきりと、そう言った。
「…………」
 ……保は少し赤くなった。
 なんか、壮絶に恥ずかしいような台詞だったが、それ以上に。
 普段、完全に無機質な範紀の大きな目が。
 真剣に光っている。
 ……範紀に『まっすぐ』見つめられたのは、もしかすると初めてかもしれなくて。
 どくどくいう、自分の心臓の音。
 その響きを、耳元でがんがん聞きながら、ああ、範紀はこんなに黒目の勝る、宝石みたいに輝くまっくろな瞳をしていたんだ、と保は思った。
 範紀はいつもいつもうつむいているから、気がつかなかった。
「……おまえが、いい……」
 今度は。
 ほのかに甘く、繰り返される。
 切ないような訴え。
「――」
 耳まで、熱かった。
 自分の皮膚がぜんぶ、真っ赤になっているのがわかった。
 かすれきった声で、なんとか、
「……そ?」
 保ははぐらかすように軽い、返事をした。
「みんな、おまえ、好きだよなぁ……」
 範紀がなんだか、淋しそうに言う。
「おれでも、好きだもん」
 そうして、再び。
 うなだれて、つぶやいた。
「おれ、人好きになったことなんか、なかったんだ」
 すごく、ぽつんと。
 すごく、あたりまえの事みたいに。
「――……で、も、おまえ」
 保は。
 思いっきり動揺させられた声で、
「十二年も生きてくりゃーさー。……誰かいただろ?」
 尋ねた。
 だけど、
「……優しくしてくれた人なんか、いなかったもん」
 いつのまにか、完全停止した足で。
 右のスニーカーの先で地面をつつきながら、範紀は、すねたように言い返してくる。
「しょうがねーんだけど。おれ、こんなだし。あそこ、……人、ばっか、いっぱいいるし」
 そう、言い終え。
 範紀はうつむきがちのまま。
 保を、まるで物理的に何かねだるみたいな、甘えのはっきりわかる目で、すくい上げてきた。
 存在の全部をそそぎこんでくるような。
 くすぶった情熱が、一直線にこちらに迸ってくるような、そんな、眼差し。
「…………」
 少しこわくて。
 ものすごく嬉しくなったのを覚えている。
 必要だと、大好きだと、一番だと。
 まさに目の前で、絶叫されているみたいで。
 ――どんどん。
 どんどんそうやって、どうしようもなく、愛しくさせられていったのだった。

 ◆

 範紀に、転校しなければならないかもしれない、と、告げた、数日後の昼休み。
 保は日常どおりに、自分の机に座っていた。
 また前の席にいすわっている範紀と。毎日そうしているように、だらだらと会話する。
 ……といっても、範紀はほとんどしゃべらない。
 保の、家族の話や、難しかった宿題の話、昨日見たテレビ番組の話などに、
「うん」
 とか、
「へぇ」
 とか、
「そうなんだ」
 とか……相づちを打つだけだ。
 ホントに無口だなぁ、と、わかりきっていることとはいえやっぱり保は、思わないでもなかったが。
 だからといって、範紀に『もっとしゃべれ』と要求するのは、無茶な話なのだ。
 こんなたあいのない時間帯にするのは、身の回りの話題――テレビやマンガやゲームや趣味の話、それから学校内のあれこれについての雑談、あとは勉強の内容、くらいしかない。
 だけど範紀は、学校内の噂などには、全く関心がない。唯一の友人である保で、狭小な『社会への興味』スペースはぜんぶ、埋まりきってしまっているような範紀だ。クラスメイトの名前どころか担任の名前すら、あやしい場合もある。
 ……勉強は正直、クラスの誰より成績が悪かった。やる気が一番ないのだから、当然とも言えた。
 加えて、施設の話とか自分自身の話は、言いにくいのか……保がよっぽど根掘り葉掘り聞きでもしないと、しゃべってくれないのだ。
 ――だからと言って、それじゃあ他の娯楽的な話題を提供しろと言うのも、無理があった。
 そもそも、修道院にも似た思想を持つ施設だから、子ども相手とはいえ、娯楽道具を置く義務を、あんまり感じていないようなのだ。
 おそらく聖書のようなものならあるのだろうが、神様に反感を抱く範紀が、積極的に手にするわけもない。
 百人近い子どもたちに対し一台しかないテレビにしたって、自由に番組を選んで見ていいわけでは、どうやらないらしかった。『見ていいよ』と子ども達の世話係の大人に、選定された番組だけ、見ていいらしいのだ。
 しかも争いを勝ち残らないと、まともに見られるポジションになんかつけないわけで……そんな熱血が、範紀にあるなら。
 ここまで保が、範紀という人間に。
 その根本に、不安を抱えなければいけないわけがなかった。
 ――実際、そんな風な時間、範紀は。
 ベッドにもぐっているか、ひどいときはトイレの個室に、閉じこもりっぱなしらしい。
 ……とことんそういう性格なのだ。
 迫害されているのではと感じるほど、いつも、自分自身を、より虚無な方へ隔絶された方へと、追いやっていってしまう。
 誰よりも一定した環境で育ってきていながら、誰よりもその固定された環境に、合致できていない。
 ……ともかく、そこまで条件が、揃ってしまっているので。
 必然的に範紀は相づち専門だった。
 ……だけど、範紀の相づちは、だらーっとしているとか、めんどくさそうとか、そういうありがちな相づちではなかった。
 うつむいているのは普段どおりだけど、一文字ずつの発音が、しっかりとした。
 一本調子で感情は見受けられないものの、『聞いてるよ』というメッセージなら、なんとか伝わってくる。おそらく範紀としては、せいいっぱいに真摯であろう返事。
 だからこそ保は、いつもほとんど一方的にしゃべらなければいけないことを、気にしてはいなかった。
 もっとしゃべってほしいな、とは思うけれど。無理を言っても、しょうがないのだから。
 そうやって保が話していると、同級生の中村が、だるそうな足どりで近づいてきた。
「たもつ、放課後ボーリング行こうぜー」
 と。
 意図的に、保にだけ、言う。
「えー。放課後は、ちっと……」
 保が返事すると、中村は、
「なんでぇ? つきあい悪すぎだよー、おまえ。みんなおまえと遊びに行ったことねって言ってるぜー?」
 と、ねずみチックに出っ歯な口元をとがらせ、ぶぅぶぅ言った。
 ――ガタァッ!
 脇で、二人の会話を。
 黙って無表情に聞いていた範紀が、突然、派手な音をたてて、立ち上がった。
「……トイレ」
 集まった二人の注目のなか、一言だけを言って。
 ふい、と席をはずす。
 そして、するすると教室を縫うように歩き、ドアを出ていった。
 ……範紀のその後ろ姿に、視線を向けながら中村が、
「しっかし、おまえもよくつきあうよなあ。どーせ今日の放課後、ダメなのも、あいつと一緒に帰るからだろ?」
 と、つぶやいた。
 そして保に向き直って、
「あんなヤツとつるんでて、おまえ、楽しーの?…………あいつ、二組にいるさ、おんなじ宗教の奴らにも、嫌われてんだぜ」
 キッと、不服で目を吊り上げて、言う。
 二組には二人、範紀と同じ施設にいる子どもがいる。
 やはり家庭環境……と言うか生活環境が特殊なので、その二人も、クラス内でやや孤立しているようだった。そんな噂が耳に届いてくる。保に以外は口も開かない範紀とは、比べ物にならなかったけど。
 その二人とも、範紀が学校で交流する様子はなかった。
 きっと施設の方でもそうなのだろう。嫌われているというよりは、無視をされているスタンスに見えた。
「おまえが面倒みてやってばっかじゃん。なんか話しかけても、シカトこきやがるしよ」
 中村と保は、小学校も同じで、小学生のうちはかなり仲が良かった。
 けど、中学に入ってからは、保が範紀にかかりっきりになっているので、中村は普段から少し怒っているのだった。
「いや、俺には、けっこーしゃべるよ」
 それでもつい、保はかばうように言う。
 確かに、相手から好かれっこない、という意識からだと思う、自己防衛的に範紀は、人との関わりを自らシャットダウンする傾向がある。
 そんな事情だからって返事もしなけりゃ嫌われて当然なのは、公正に見て、保にもわかってはいるが。
 ……正確には、遅れきったタイミングでぼそぼそと細くなら、返事していたりもする、んだけどな……。
 保がそんなことを考えていると、隣で中村が、フン、と勢いよく一つ、鼻息を吹いた。
「そら、そうみたいだけど……」
 ぶつぶつ言う。
 ……それから中村は、しばらく黙っていた。
 そして、少しあらたまって。
 保の顔を、まっすぐに見て。
 置き去りにするみたいに、言い捨てた。
「かかしみたいじゃん」
「…………」
 保はまばたきをした。
 そして、何か言おうと、口を開く。
 ――その保の視界に、いきなり範紀の学ランが飛び込んできた。
 範紀は中村の両肩を掴んで、どっ、と押していく。
 保の視界のはしへと、中村の、保と同程度の平均な体格が。大柄に属する範紀の影に隠れて、ふっ飛んでいった。
 そのまま中村の背中は、教室の壁に、がんっ、と背中から勢いよくぶつけられた。
 目にしている風景以上に、『暴力』を主張する物音だった。
 保はあわてて、イスをがたがたっと倒しながら立ち上がり、
「なにやってんだよ、キイ!」
 言いながら、その地点に走っていった。
 範紀は、痛みでうずくまっている中村を、見おろしていた。保の声に反応し、振り返る。
 保は、長身の範紀を見上げた。
 濁った目をしていた。
 保に視線を向け返してはいるけど、何も見ていない目。
 どろりと生気の失せた、死んだ魚みたいなソレだった。
「――」
 ……範紀はそのまま。
 ふっと保から目をそらし、教室を一方的に出ていった。
 全て、一瞬のできごと。
 だけどもちろん、クラスじゅうの生徒が、気がついてこちらを見ていた。ざわついている。
 ……つい、範紀の背を見送ってしまっていた保は。耳に入ってきたそのざわめきで、我に返った。
 いそいで中村の前に、しゃがみこむ。
「ごめんな、大丈夫か、中村」
 そう言いながら、中村の肩をつかんで。気をつけて小さく、揺する。
 ……中村は、ゆるゆると、顔を上げてきた。
 保と、顔を見合わせる。
 そして、ごくん、と唾を飲みこんで。
 引ききった声で、つぶやいた。
「……なんだよ、あいつ……」

 ◆

 トイレにも、近くの空き教室にも。
 範紀はいなかった。
 だから保は、あそこだな、と見当をつけて、最後の心当たりに足を向けた。
 校舎一階の西はじの一画。
 そこには、冬季以外に石油ストーブをしまっておくための、階段下のデッドスペースを利用した倉庫がある。
 倉庫は冬の間は、当然、空の空間になった。
 範紀が一年の時に、誰も気がつかなかったその空き部屋を見つけた。それから範紀はずっと、そこを気に入っている。保が一緒にいれない休み時間などは、しょっちゅう、そこに閉じこもっているのだ。
 日陰にひそむように取り付けられた、普通のドアの半分くらいしか高さがない小さな扉を開け。
 背をかがめて、その扉をくぐった。
 案の定、範紀はそこにいた。
 換気用の小さい窓から日が射しこんでいるだけの、暗い部屋の中。
 壁に背を預け、座り込んで、膝をかかえて。
 その膝に顔をうずめて、座っている。
「…………」
 一歩踏み出すと。
 ギシギシと、異質なきしみが、響き始める。
 石油がこぼれてもいいように、床一面に敷き詰められたトタン。
 薄汚れて錆びの浮かぶ、赤茶けたそれを、バランスを取るように踏みしめながら、歩いていく。
 範紀の前で止まり、しゃがんだ。
 範紀と同じく地に尻はつけずに、足を、かかえる。
 派手だった足音で、とっくに接近には気がついているはずなのに。範紀は、かたくなにも感じ取れるほど、頭を上げようとしない。
 ……野生動物を、刺激しないようにするみたいに。
 やさしく、尋ねた。
「……トイレ、行かなかったの?」
 範紀は、何も答えてこなかった。
 顔を膝にうずめたまま、動かないでいる。
 ――トイレに行っていたはずなのに、範紀はあそこにいた。
 そして、中村を壁に叩きつけてしまうほど、怒っていた。
 ……ということは。中村の言った言葉まで、隠れ聞いていたことになる。
「ただ、早かっただけかぁ……?」
 石油まみれの、黒いねっとりした埃がたまった床を、眺めながら。
 保はことさら、のんびりとした口調で、聞いた。
「……あいつと」
 範紀が、ぽつ、と。
 口を開いた。
「しゃべってるの」
 頭をかすかに揺らし、ようやく、顔面を少し持ち上げる。
「見たくなかった、から」
 こまめに切られていない、うざったそうな量の多い前髪から。
 茫然としたような、妙に一点に定まりきった双眸が、のぞく。
「廊下……ドアのへんにいた……」
 しっかりと、涙声だった。
「――、……」
 保は、背筋に震えがくるのを感じた。
 範紀はいつも、こんな調子で。
 ストレートに嫉妬心や独占欲を口にする。
 まるで母親をひたすらに慕う、小さい子どもみたいで。
 むしりとるようなそれに、関心の全てを奪いつくされてしまう。
「…………」
 無言で保は。
 範紀の前にしゃがんだまま、体を前後に軽くゆさぶった。トイレを我慢するような仕種。
 ……なんとか、妙な気分を、散らそうとする。
 よりによって。
 場所が。
 ――ここは、落ち着かないのだ。
「……地獄耳だねぇ……」
 くるりと背中を向け、逃げ出してしまいたいような、焼けつく羞恥心と戦いながら。
 保はわざと、からかうように言ってみた。
「……あいつ、の方、が好き?」
 範紀が、また。
 何も隠そうとしない台詞を、はかない声で、つぶやいた。
「……ナーニ言ってんだ」
 保はまたもや軽く答える。
 だけど今度は、声がうわずった。
「…………」
 気まずく保は、範紀の頭から、範紀の手元へ、視線を落とした。
 どうしようもなく、恥ずかしかった。
 いつだって、範紀はあからさまで。直球しか知らなくて。
 今も、加速的に、顔が熱くさせられていく。
 範紀が、
「苦しく、なった、んだ」
 ふっと、ため息を吐くように言った。
 完璧に無気力な口調で、添える。
「ホントのことだから」
「…………」
 保は、目を細めて。
 範紀の褐色がかった、肉厚なために柔らかそうな手を、見つめ続けた。
 範紀の膝こぞうのところに、そっとのっかっているそれ。悲しい話でも、ぴく、とも動かない。
 何も言えなかった。
 言っても、ウソっぽく響く気がした。
「……――」
 目を細めて、自分の内。
 結晶をつくるように、確認する。
 ――ウソっぽくなりそうなのは、ウソだからだ。
 否定、して、やれない。
『かかしみたい』
 聞くに耐えないような単語じゃなかった。
 むしろ、中村がかかえている範紀への反感を考えれば、ソフトな悪口だったと思う。
 だけど、残酷に的確だった。
 子どもならではの、直感の刃みたいなものが嗅ぎ取れた。
 範紀も、それを感じとったのだろう。
 だからこそ傷ついたのだ。
 体以外で育ってきたものはない。
 考えていることはない。
 目標も。
 だから、はっきり言ってしまえば、友人としての魅力も。
 ……童話のイメージ、そのままだ。
 わら。おがくず。色あせた茶色。さらさらと軽い。滅びたモノ。
 ――中身、からっぽだ。
 愛しいからこそ、そう、確立するように再確認する。
 ……正確に見取ってやらなければならない、と思うから。
 入学したての頃は、常にノラ犬みたいな目をしていた範紀だったが、保とつきあうようになってからどんどんそういう目をのぞかせる刻は減っていった。
 だけど、憎しみや警戒心が消えたその目は。
 いつも、怖さを覚えるほど、無表情でうつろな表情に覆われている。
 中村の言うとおり『かかし』みたいなのだ。
 ……元々の性質だって多分、明るい方でもないのに。
 合わない環境で、誰にも心を開かずに育ってきたせいなのだろう。
 範紀は、心を消したまま大きくなってしまった感じがする。
 保が一対一で、感情を移すように、範紀だけを懸命に相手にしている時なら。
 嬉しそうな表情や愛情を示すような熱っぽさを、不透明で厚い殻を破るみたいに、のぞかせることもあるけれど。
 それだって、稀だ。
 あとは――侵食されているようなあの時間にくらいしか、範紀の『人間味』を拝むことはない。
 範紀が、もぞもぞと身じろぎしながら、言う。
「……むかついた……」
 騒ぎを起こしてしまったという後悔と。
 他人にあたってもどうにもならないという、むなしさを。
 のぞかせた声音。
 たまらなくせつなくなった。保はやさしく、なぞり上げるように、
「……きぃ」
 呼びかけた。
 ……範紀が、そうっと顔を上げ、保に目を合わせてくる。
 遠慮なしの、すがるような瞳に成っていた。
 ――体中の血液が沸騰し、真っ赤に膨れ上がっていくような気がした。
 いつも、こうなのだ。
 たいてい、範紀に子犬みたいな濡れた目をされて。
 好かれているとか、頼られているとか、助けになりたいとかいう想いの根が、煽られて。
 自分全部で応えてやりたくて、どうしようもなくなってしまう。
「…………」
 範紀が、保に向かって、右手を伸ばしてきた。
 保の腕は、その手ににぎられてしまった。
 範紀の目が、意志を宿した漆黒に光っている。
 普段は絶対に見ない焼火の彩。
 ……開始を宣告してしまう、まなざし。
「――っ」
 保は小さく、身震いした。うつむく。
 だから。
 ここは、落ち着かない。

 ◆

 ――この場所で、目茶苦茶にセックスしてしまった日は。
 中一の冬に範紀が自殺未遂をした、数日後。だった。
 原因は、保に起因しての事だった。
 仲良くなってから、範紀はいつも保と下校するようになった。
 お互い離れがたくなってつい、日が暮れるまで、そのへんで一緒にいることもあった。
 ――施設では、そういう『学校帰りの寄り道』を認めていないのだ。
 学校が終わったら、すみやかに下校しなければいけないことになっていて。
 下校後の昼下がりから、夕方までにやらなければならない仕事も、ちゃんと子ども達に用意されている、らしい。
 だから、その宗教の施設で生活している子ども達は、クラブ活動などを認められていない。保達の学年の、二組の二人も、この中学に在学する他の子どもも、クラブに入っていない。そしていつも、まっすぐ施設に帰っているらしかった。
 範紀も、小学生の頃は真面目にまっすぐ帰っていたらしい。世話係の人の言うとおり、逆らわずに。
 けれど中学になってから、そうやってまっすぐに帰らなくなり始めたせいで、何度となく世話係の人に叱られていた。
 それでも範紀は無視して、保と帰るのをやめず、……だからあいかわらず帰るのが、よく遅くなった。
 保ははっきり知らないが――他の、宗教的教えに反感を示した、などの理由で、世話係ともめることもあったらしい。
 ……それで。
 世話係と施設側が、範紀を完全に『問題児』として、識別するようになってしまって。
 いきなり範紀を、よそにある同じような、その宗教の育児用施設に移してしまったのだ。
 真冬のある日、学校に行くと。
 朝のホームルームで担任が『範紀が転校した』と突然告げたので、保はびっくりしたのだった。
 そして、びっくりすることしか、できなかった。
 施設に、範紀をここに戻してくれ、と言いに行ったとしても。
 ……相手にされないだろうという予想は、すぐに立った。
 他人のガキがそんなことやっても無駄だ、と、考えただけでわかった。
 ――だけど、じゃあ、どうすればいいのか。
 よっぽど落ちこみきった顔をしていたらしく、その晩、理由を母親に聞かれて。そのまま相談してみたが。
 その時ばかりは思った、アテにならない。
 話し終えても、「家庭の事情だから……」といさめるように、肩をなでられただけだった。
 友人ほぼ全員が、母親を『ババア』と呼ぶ年齢になっても、自分だけは呼べないような、そんな『イイ子ども』であるという自覚があったけど。
 よっぽど、「友達相手の話じゃねえよ、寝てんだよ」と足踏み鳴らしてぶちまけてやろうかと思った。
 ……周りの友達は、なぐさめてはくれたけど。
 範紀をどうしたらここに戻せるか、一緒に考えてもらえる雰囲気ではなかった。そもそも、範紀は嫌われている。
 八方ふさがりどころか。
 どれだけいらだっても焦燥しても、なんの行動も起こせない。
 そんな状態が数日続いて。
 ……追いこまれ、どうしようもなく保が、思いつめ始めた頃だった。
 範紀が、この中学に帰ってきたのは。
 ――左手首に真っ白な包帯を、幾重にも巻いて。
 その時も、朝だった。
 範紀がどうしたら戻ってこられるかを、自分の席でうつむいて、懸命に考えこんでいた。
 だけど、来る日も来る日も、どんどん考えの活路は塞がれていくばかりで。
 ……範紀の親に連絡を取ってみようか。でも知らない。施設に問い合わせたって、範紀の反抗的態度の根源な自分へ、教えてくれるわけはない。
 ……じゃあかたっぱしから施設を訪ねて行こうか。だけど、子ども用施設の所在地一覧なんて、どこにも公表されていない。
 そんな風に。
 希望は、浮かんでは消しつぶされていく、水泡のようで。
 もう、完璧にパニックになりかかっていた。
 ――ワッと、いきなり膨れあがるような音が、耳元ではじけ。
 教室が、突如としてざわつきだしたのに。
 保は気がついた。
 なんだ、と思って、ふせていた顔を上げた。
 範紀が、自分の目の前に、立っていた。
「…………」
 現実離れした光景だった。
 けど、保はすぐに、これは現実だ、とわかった。
 頭の回転なら速いほうかもしれないという、わずかな自信があったけど。
 こんな、妄想に近いような、リアルな想像力、あったためしがなかったから。
 ……なのに。
 範紀が幻であるような気がして、しかたがなかった。
「――、……」
 何度か、ぱちぱちとまばたきをした。
 範紀はそこに居る、でも、どうしても、視界の中央を占める範紀の姿が、幻であるかのような気が、ぬぐえない。
 白昼夢というものの中にいるような、ふわふわとした感じだった。
 その頃は、窓際の日当たりのいい席で。
 まばゆい朝日の光のせいもあって、余計に、足元が浮いているような心持ちだった。
 目の前の範紀が、口を開いた。
「戻してくれ、って言っても、相手にされないから」
 範紀が、はにかむように、わずかに笑った。
 はっきりと『笑う』に分類される表情を、範紀がするなんて。目にしたのなんか、初めてと言ってもよかった。
「……はさみで、切ったんだぜ」
 そう言って、範紀は、黒い学ランの袖をひっぱり上げ、手首部分をさらした。
 腕を差し出し、保へ、その左手首を見せてきた。
 範紀の地黒な肌が、日光によって白っぽくなり、光っていた。
 包帯は、もっと朝日を吸って。雪みたいな純白で。
 目に痛いほど。
 ――保は、何も言えなかった。
 茫然と、しばらく黙った後。
「…………」
 保はそっと、範紀の包帯の巻かれた手首を、両手で、つつんだ。
 さらさらと。こまかな突起がつづく独特の手ざわりがした。消毒薬に似た匂いが、ふわと立ち上る。
「っ……!」
 いきなり、鼻のつけ根を殴られたように。
 顔を中心から、ごしゃりと歪めて。
 保はがたんっ、と、席を立った。
 範紀の手を、しっかりと左手で握って、歩き出す。
 手を引かれるままに、保が、後ろからついてくる。
 クラス中、自分達を遠巻きに見ているのがわかったが、それは一切無視した。
 そのまま、教室を出て。
 範紀のお気にいりの、ストーブ倉庫に向かった。
 ……これは、絶対泣く、と、自分でわかったからだった。

 切り取ったように小さい明かり取りの窓が、産み出す影が、妙に長くて。
 密閉された空間は、学校内なのに、ことさら静かで。
 ――座りこんで、ほろほろと声もなく泣く保を。
 向かいで、壁に背をもたれ、脚をのばして座る範紀が、ぼんやりとした目で眺めてきていた。
 戻ってきたその姿を、保は無言のまま、静かに見つめる。
 自分より背が高くて、大きな範紀だ。
 こうやって脚をたたまずに座っていると目立つ。脚がやたらと長い。スタイルがいいのだ。
 性格のせいで、その点も、女子に注目されることがないけれど。
「……泣いてんのは」
 ぽそ、と。
 範紀が口をひらいた。
 低い声で、途切れがちに、続ける。
「嬉しい、から、だよ、……な?」
 その言葉をきっかけに。
 びくっと全身で跳ね上がった、一拍後。
 保の、手が、体ぜんぶが、かたかたと震えだした。
 歯の根も合わない。
 なにかの留め金が、ハズれてしまったように。
「…………う」
 保は、手をぎゅっと握りこんで。
 必死にこくこく、何度も、範紀にうなずいてみせた。
 ……不思議そうな表情になって、範紀は、
「……なんで、震えてんの」
 と、聞いてきた。
「……だって」
 保は相変わらず震えながら、うつむいた。
 ぶらさがるように、目を覆う水膜が、重くなったのがわかる。
 そこまでして。
 そこまでして戻ってきた相手に。
 そこまで、自分を想ってくれている、相手に。
「……どうしてやればいいか、わかんねぇから」
 何を、してやれば、いいのか。
 密度の濃い、短く生え揃ったまつげから、はたはた涙をこぼしながら。
 絶望しているみたいに無彩色なトーンで、保は、そう告げた。
「…………」
 考えるような沈黙を、数瞬、置いたあと。
 範紀がぼそり、とつぶやいた。
「……セックスして、ほしいなあ……」
 保はまた、びくっと大きく肩を跳ね上げた。
 体の震えが、止まる。
「…………」
 保は真意をはかるような、不安の交ざった視線を、向けた。
 範紀はいつになく穏やかな瞳をしていた。
 その瞳で、見てきていた。
 大きな黒目。紅くぶあつい口。色黒な肌。範紀のかたち。
「……ほしいなあ……」
 もう一度。
 範紀が、言った。
 ――別に。
 ぜんぜん、初めてなわけじゃなかった。学校の中でさえなければ。
 既に、範紀に要求されるものは全部、ほとんど明け渡してしまった後だった。
 相手と自分の、想いの確かさを拠り所に。
「…………」
 保はゆっくり、目を閉じた。
 はらわれてパラパラ落ちていく、塩水。
 こみあげる涙は急速に、引いていっていた。
 無言で立ち上がる。
「…………」
 数歩であゆみ寄って、範紀の伸ばした、脚の上に。
 正座するように膝を曲げて、またがり座った。
 範紀の首に、体重をかけるように、腕をまわした。
 近づいた相手の顔に、唇を重ねる。
「……ん」
 範紀が、口を開かないので。
 首をひねって角度を変えながら、そのまま数秒も、唇の表面にふれるだけのキスをした。
 範紀は、ただじっとしている。
 されることを最大限に享受しよう、とでも言うように、瞳を閉じてされるがままになっていた。
「……ん、ン」
 しめってきた吐息を洩らしながら、保は、範紀のあごを、両手でとらえた。
 ひげの感触が少しある。四角めいた顔型のせいか、指ざわりが柔らかい顎。
「……ァ」
 範紀の口を、唇と舌先で、こじあけるようにうながし、開けさせた。
 赤い大きな上唇に、下方から挟むように、唇を使ってかみつき。
 はじから揉むように、小刻みにはんでいく。
 ……唾液をふくんで、ツルツルと艶を帯びはじめる範紀の唇。
「…………」
 範紀が。
 保の両耳部分を、そっと、左右の掌で包んできて。
 自分の顔から、距離を置かせた。
 ……引き離され、閉じていた目を、保はひらく。
 目前にある範紀の黒い瞳は、少し、不安そうに揺れていた。
「……ど、したの?」
 困惑したように、範紀がつぶやいた。
 いつもは、暴走しがちな範紀を、セーブするくらいで。
 こんなに積極的に、自分から行動することはなかった。
「……やさしく」
 保は赤く染まりながら、てれきった声音で、答えた。
「……して、やってんの……」
 返事を聞くと、範紀がバチ、とまばたきをする。
 そんな範紀の目を、睨みがちに見返しながら。保はぽそぽそ続けた。
 ――いつだってこういう時間、優しくしてやりたい、みたいな気持ちなら、あったけど。
 ――『奪いたい』に近い色で、温かさを与えたいと思いつめるなんて、初めてだった。
「……イヤ、なら、……やめっけど」
 範紀は一瞬、元から大きな瞳を、丸くして更におおきくした。
 それから、
「……いーな」
 と、単純で幼い風に。顔をしわくちゃに崩れさせた。
「もっと、やって……」
 範紀には不似合いなほど、明るい声で。
 ねだってくる。
「…………」
 応じて、保は範紀の学ランのボタンに、手をかけた。
 縦に四つ並んだボタンを、一つずつ、順々にはじき外していく。
 そして、範紀の学ランの前を、全開にはだけさせ。
 あらわになった、浅黒くテリのある首筋に、犬歯で、甘く噛みついた。
 ……前歯や犬歯の角を使って、歯を当てていく。
 痛くない力と、角度で。
 時折、唾液で濡れた柔らかい舌が、意図的にではなく、範紀の肌にかすってしまう。
 また目をつぶり、その感触に身を任せていたようだった範紀が、
「……脱ぐ」
 と宣言した。
 応じて保は、密着していた体を、離す。
 範紀が、さっと学ランとシャツとランニングを、まとめて脱ぎ。丸めて脇に捨てた。
 小麦色の上半身が、あらわになる。
「――!」
 保は、ぎくりとした。
 日々、青年っぽさを帯びていっている、範紀の体つき。それは毎回の最初に、驚きのような感情を伴って、保の目を引きつけたけど。
 今日、保の目を引きつけたのは。
 小麦色の腹に、あきらかにいくつも散った、赤いこぶしの跡だった。
 ……何秒間か黙った後、保は、
「……殴られ、たの」
 と、つぶやいた。
 多分、元の施設に戻せ、と訴えている過程で。
 純粋に、大人の力で抑制されたのだろう。
「……うううん」
 範紀が、力なく答える。
 ――ウソつけ、という目をして、保が範紀をにらむと。
 範紀はわずか、口のはじだけで、笑った。
 そして、
「……そう、言わないと」
 と、小さく。
 つけ加えるように、言った。
 ……学校の先生や、誰かに言ったら、また殴られてしまうのだろう。
 保も、目を伏せた。
 そうしている保のほほに、範紀の左手が、持ち上がって、ふれてきた。
 そのまま幾度も、上下してほほを撫でてくる。
 ……保の、視界の端。
 白い包帯が、連動して、幾度も動く。
 どうしても単語を連想してしまう。
 自殺未遂。
「……キィ」
 心臓に、握りこまれたような苦しさが走った。
「……おま、バカだよ……」
 また、堰を切って流れだす感覚。
「なんで、ここまでして……」
 保は、範紀の手首の包帯に。目元をすりよせていった。
 涙が、乾いた包帯の生地へ、吸いこまれていく。
 範紀が手首を軽く動かし、すりよせられる保の顔を、撫でてくれる。
 そして、冷静な、冷めた瞳で言った。
「……おまえしか、いないもん……」
 そう言って。
 少し、淋しそうに。
 顔を緩めた。
「…………」
 保は目を開けて、範紀のその微笑を、正面から見た。
 感染して、保も淋しくなった。
 ……でも、嬉しくもあった。
 範紀の想い。
 いちずに自分だけを求めてくれている、その気持ちが。
 どうしても、自分を喜ばす。
 ――混乱する、気持ちが、ぐちゃぐちゃになる。
 かわいそうで。
 愛しくて。
 さわって、ほしくて。
 たまらず保が、目をぎゅうっと閉じてしまうと、範紀が、
「……おれ、帰ってきて、うれしい?」
 と囁いてきた。
「…………」
「なぁ、保……」
 喉がつまって、声が出なくても、範紀はある意味、容赦がなかった。
 返事をするまで。
 うながす声で、一心に、問いかけてくる。
「……ぅ、……っ」
 泣き声しか出せずに保は、こくん、こくん、とうなずいた。
 涙が、また、ぱたぱた音をたてて、顔からすべり落ちていく。範紀のパンツに、黒い点のしみをつくる。
「…………」
 保は涙をごまかすように、範紀の裸の胸元に、ひたいをゴッ、と、ちから任せに押しつけた。
 勢いに押される様子もなく、範紀が。
 尾てい骨あたりに、両掌を廻して、抱きしめてくる。
 ……温かいその手は、慣れた手順で動いた。
 保のパンツのベルトに、指をかけてきて。
 甲高い、金属が擦れる音を響かせてから、黒皮のベルトがシュルシュルと解かれる。
 太くて、指先の丸いその手が、前部にもまわってきて。
 ファスナーもさっさとおろしてしまう。
 ――そのまま無遠慮に、ぐいぐい、と。
 下着ごと纏めて、パンツを捕まれ、下に引かれた。
 保は素直に、片足ずつを、順々に上げた。
 冷たい空気へ、さらされていく素足。
 上履きも、靴下も、いっしょくたに。
 つまさきから、丸めて抜かれていく。
「…………」
 目を合わさないようにして、その共同作業をやりすごす。
 ……単なるてれくささとか、恥ずかしさで、嫌がれるものじゃない。
 範紀の求めには、いつもそれだけの、瀬戸際の気迫があった。
 飢えを満たそうとするような、激情が。隠れもせずに。
 ――ぺた、と、後まわしになった右脚の、膝と足先を、汚れた床につけると。
「保」
 同時、呼びかけられて、保は上向いた。
 自然体に、少し開いていた唇に。
 範紀の舌が、割りこんでくる。
 歯粒の形を、ひとつひとつ舐めて確かめていくように、浅い位置で横方向へと、蠢く。
「……ん、……ッ」
 息苦しさはほとんどなかったが、範紀の左手が。
 ふいに学ランの中へ、シャツの下アンダーの奥へ、潜りこんできて。
 背骨のラインを下に線引いたので。
「……んんっ……」
 保は声を洩らしながら、眉を寄せた。
 左手はそのまま、みぞへと滑っていく。
 外気でピリリと敏感にうぶ毛だっていた肌に、やたらと範紀の指が、生々しい。
 範紀が、少し、唇を離し、
「……濡らさ、ないと……」
 と、低く、つぶやいてきた。
 保の口に、右手の方の中指が、そろそろと押しこまれてくる。
「……ゥ」
 目を固く閉じて、保は、口腔内に入ってきたそれに、自分から吸いついた。
 むぐむぐと奥に招きいれ、舌を波打たせ、濡らしていく。
 汗の塩味。他のなにかの苦味。
 範紀の手は、妙に水っぽかった。
 体つき全体はやせているから、骨っぽくてもおかしくないのに、やたらと包容力のあるフォルムをしている。
 ――ほとんどすぐに、範紀の指は、口から出て行って。
「――、あ」
 目元を上気させながら、保は。
 ふともものつけねにかすってきた、範紀の右手を。
 片尻を持ち上げるようにし、受け入れた。
 バックからまわりこんできた範紀の中指が、唾液をなすりつけながら。
 たしかめるように、表面を、幾度も撫でてくる。
 ……まず、つめ先が、えぐりこまれてきた。
「っ、――!」
 ピピ、と。
 電子信号のようなものが、下肢を駆ける。腰が、一瞬、砕けかける。
 まだ不快の手前。
 快感よりも、ずっと前。
 そのまま、小刻みにブレながら、進んでいく範紀の指。
「――、ヴ」
 中ほどまで埋まったところで、はっきりと。
 不快の波がうねり襲ってくる。
 内臓を、触診、されている、そんな拒否感。
「――、……ぁ、う、ぁ」
 それでも、いまさら、……耐えられないわけもない。
 ゆっくりと呑んでいく。
 ……やがて、範紀の中指、一本まるごとを。
 長く、自分の裡に取り入れた。
 するとそうなるなり。範紀が、指を引き抜いて、
「も、いく……」
 一度、そこまで到達しただけなのに。
 そう低く囁いた。
「……ぅ、……ん」
 保は、うめくようにあやふやに、答える。
 本当は。
 もう少し、もう少しでも、準備が欲しかった。
 真冬、こんな冷え切った場所。
 誰もいない自宅でおこなうのとは、肉体の緊張度が、違う。
 だけど、全身をぶつけて繋がりたい、早くそうしたいという範紀の欲情が、判った。
 自分にもそんな、刹那寸前の、気持ちの火種があった。
 ファスナーをジィッと開け、範紀が、もたつきながら自身をむきだしにさせた。
 保から見えない箇所の空気が、熱くかき混ぜられる。
 そして保が動きやすいように、両手で保のウエストを支えてきた。
「…………」
 サポートを受けて、保は、意を決し。
 浮かせている腰の、位置をずらす。
 ……勃起した範紀自身を、後ろ手に探りあてた。
「……ん、ん……」
 そこで保は、ぷるんと首を振った。
 汗でまとまりはじめたストレートの髪が、ばさりと乱れる。
 ……大きくなっている、何度も見たこともある、範紀のそれを。手でもって知る。
 耳のつけねが痛むほど、頬が熱を持っている。
 鼓膜でガンガンと残響するほど、動悸がうるさくなっている。
「……もつ」
 ためらっているのを、見越しているように。
 範紀が、せかしてきた。
「ん……」
 振り返りかけているような体勢で、保は、うなずいて返した。
 ……ぎこちなく奥歯を食いしばっているせいで、一滴、唇のはじから、唾液がしたたった。
 範紀自身を握りなおし。
 思いきりよく自重を落とす。
 ほんの一瞬で、先端が入りこんできてしまう。
「……あっ……ッ」
 覚悟以上の深度に、保は悲鳴を上げて、床に両手の先をついた。
 結合を、浅くしようとする。
「ッ! っ」
 だけど範紀の掌が、保の腰を強くはさみ、下げようと引いてきた。
「……ちょ、……ッ!」
 片腕で、保は範紀の胸を、無法則にたたく。
 必死に腰を浮かせようとする。
「……ダメ、……て。……あばれんな、……ッ……」
 それを、肩をかぶせるように抑えこみながら。
 範紀が、いいきかせるように言ってくる。
「ぅ……っ、あ、はぁ……ッ、や、はな、……ッ、……や、……ぁッ……っ」
 首を振り、右腕を暴れさせたまま。
 保は苦悶した。
 長く、弱く暴れる、保の涙が。ぽたぽたと音をたてて、範紀の腹へ落ちる。
「……しょうがな、な、ぁ……」
 荒く息をつきながら、範紀がすばやく。
 腕をのばし、保の両足首を、それぞれの手につかんだ。
 ――二本とも力任せに、持ち上げてしまう。
「あっ……! や……ぁッ……!」
 保は目を見開いて、抵抗する。
 しかしすでに、範紀に持ち上げられてしまっている脚先は、全く思う方向に動かなかった。
「……ッ!……ヤッ、だ……っ!」
 保は一生懸命、足首をねじった。
 なんとか自分の足から、範紀の指をはずそうとする。
「っ!……」
 だけど、範紀は。
 反発に目をすがめながらも、強引に、保の足を。
 かかとでスライドさせるように、範紀の胴体の両脇の床へと、移動させてしまった。
「あ、あ……っ!」
 それによって。
 前のめりだった保の体勢が、後ろにそっくりかえって。
 範紀へ抱きつきしゃがむような形から、範紀の上に座りこんだ形に、変わる。
「ん、ん」
 こうなるともう、どんなに腕を床へつっぱって、体重を支えても。
 深い結合状態から、最終的には逃れられない。
「……ぅっ!」
 それでもなんとか、保はふらふらしながら、両腕で体重を支えていたが。
 数秒後、ついにバランスを崩し、範紀の上に完全に座りこんだ。
「……ッ!」
 悲鳴は。息の羅列でしかなくて。
 声にはならない。
 肩をいからせて震わしながら、保はぼたぼたと、涙をこぼしていく。
「……く」
 同時に範紀も、目をぎゅっと閉じた。
 深く、密接な結合。
 ほぼ全て呑みこまれた肉棒が、根元からしぼりあげられる。
 ――波は平等なほどに激しく襲いかかる。
「……ふ、ふッ……、……ふぇ……っ」
 保は、崩れ落ちかかって、前傾姿勢で。
 鼻にかかる声を洩らしながら、顔をくしゃくしゃにして、ただ息をついだ。
「たも、つ」
 範紀の、励ますような声が、響いてくる。
 前方だけではなく。
 腹の下から、直接に。
 ……ふいに、目の下を覆っていた液が、なくなった。
 ぴたぴた、と触れてくる、相手の指の感触。
 不器用なしぐさで、涙をぬぐいとってくれている。
「…………ン」
 つられて保は、一瞬だけ、目線を上げた。
 ……車窓をよぎる景色のように、消えかけながら見えた。
 範紀の、顔。
「……ぅゥ」
 再び、首を丸めながら。
 保は下唇を、噛みしめてしまう。
 ――そんな、迷子もてあますみたいな、困り顔、するくらいなら。もう少し穏やかに、進めてくれてもいいのに。
「――、……っあ」
 ふいに。
 右頭頂部の髪が、ふわりと乱れる感じがした。
 いたわるように包まれる。
 汗ばんでいる範紀の、丸めた手のひらに。
「…………っ、……んん」
 そのまま、つつつ、と、ゆっくり、頭を前進させられる。
 範紀の肩口へ、誘導されていく。
 ……ひたいが、範紀の鎖骨の肌に、あたった。
 ――支えにしあうような、頼りあうような体位。
 呼吸、脈拍、温度。
 よりあわされていくみたいに、色々なものが。スパイラルを描いて、同調していくような錯覚。
「……息、浅く、すって……」
 この上なく、優しい声で。
 範紀が、行為の足がかりを、よこしてくる。
「……は、……はっ、……っ……」
 水っぽい唾液をこぼしながら、保は、呼吸を整えようとした。
「ヘーキだから……」
 囁きながら範紀が、保の学ランのボタンを、はずしてくる。
 もはや、空気の冷たさは感じない。
 首筋や、あごのラインを。
 何度も往復していく、厚ぼったい、範紀の唇。
「……ぁ、……はっ……!」
 駆け上がるように、いっそうに速くなる鼓動。
 保は、乱雑に呼吸を継ぎながら、範紀の広く痩せた胸へ、頭を押し当てつづけた。
 体内でいきどころがなくなっている二人分の熱の波を、ぶつけるみたいに。
 ――範紀からは、セックスの時、男の匂いがする。
 普段、無機質な感じがするのと対照的に。
 空気の粒子を染めあげるような、濃い意志の、欲の、発散。
「ゥ……ぅ」
 高ぶった体で、保は異様なほど、それを感じていた。
 範紀の地黒な肌から、汗から、それを。
 異様なほど。
「ぁ、くあ……!」
 床についた手を、きゅうっと丸める。
 握った手のひらの中に、床に積もったほこりの感触。
 すすの混じった、ざらざらした手触り。
「……ん、……ぁ、……は……っ、……あ」
 ほんの少し、保の息が、整い始める。
 それをきっかけにするように。
 苦痛の幾部分かが、突然、静寂にとってかわる。
 それは、あんまり急激で。
「ぁ……――?」
 天体が瞬く夜空に、ほうりだされたような。
 上下や左右が、わからない。
 だから保は、うつろな瞳で、範紀の姿を探した。
 すぐに、映る。
 範紀の真っ黒な髪と、目。
「…………の、り、……ィ」
 チリチリ、と、微弱な電流が、その目と通いあうのが、確信できた。
 次の瞬間、相手がどう動くのかが、わかる。
 超常に近い現象。
 抑えこまれていた律動が、一気にとき放たれて。
「あ……っ! あ、あ……ッ!」
 下からの衝撃に、また、保の四肢は、暴れ始めてしまう。
 こらえることはできなかった。
 それをだきしめ、押さえつけてくる。範紀の全身。
「……ッ、ふぁ……っ!」
「……も……、……つ」
 腰いっぱいを、範紀に占められて。
 崩すように、こねるように、揺さぶられて。
「……ぅ、……ぅぅっ……ッ」
 保は滑る爪を、床に必死に立てた。
 たえまなく襲ってくるうねりを、耐える。
「……ッ」
 軽いうなり声が。
 髪が接している、範紀の喉笛から、して。
 体内ではじける、重い飛沫。
「……っ……!」
 瞬間、保の視界全体は、かすむ。
 情緒とは関係のない涙が、湧き。
 押し出されるように、絶頂へ押しやられてしまう。
「――――!」
「う、……あ、……は、……」
 ……範紀が。
 だらりと脱力して、保を腕に抱きしめたまま、だらしなく息を吐く。
「――、……ふ、ふぇ……ッ、ッ」
 ――保は、まだ。
 身に追いつききれずに、震えていた。
 その保の。
 しめっている体を、範紀は、一層ぎゅうう、と抱きしめてきた。
 ぷるぷる震える首筋に、顔をうずめ。
 匂いを嗅ぐように、胸を上下させ、大きく吸いこんで。
「……戻っ、……てきたな、ぁ……」
 とつぶやいた。
 まるで、感嘆するような響きで。

 ぶちっとわずかに、放送回線をオンにした音が響いて。
 キーンコーンカーンコーン。
 覚えきったシンプルな音色が、構成するメロディ。
 ……空間に、チャイム音が、鳴り渡り始める。
「っ」
 保は救われたように、うなだれていた顔を、上げた。
 ――もうすっかり、どうしようもなく。
 そういうことに雪崩れこみそうな雰囲気に、なっていた。
 保は急いで、自分の腕を握ってきている範紀の左手を、つかんだ。
 絡んできている指を、やんわり解き、自分の腕から離させる。
「……ホラ、教室、帰ろーぜ」
 そう言って、優しく。
 範紀の手首を、改めてにぎり直す。
 そして立ち上がる。
 範紀も立たせて、くるりと背を向けた。
 ぐいぐいと、自分より大きな範紀を、出口に向かって引っ張ってゆく。
「……転校するかもとか言い出すし」
 範紀が。
 恨みがましいような声で。
 細く暗く、つぶやいた。
「…………」
 ――あれから。
 家庭の、現在の状況を伝えてから、初めての。
 明確な。
 責めと、泣き言だった。
 ……お互いにずっと思っていること、何も口に出せずにいた。
 重すぎて。
 ありふれた出来事なのに。せまってきた壁は、高すぎて。
「…………」
 保は悲しい、困った気分になりながらも、容赦なく足を進めた。
「……セックスも、させてくれないし」
 ほとんど、泣き声で。
 範紀が、続ける。
 ――最近完全に声変わりを終えた。
 範紀の低い、かすれた声をもって。
 そんなことを囁かれて。
「…………」
 保はえりあしのうぶ毛が、ぞわりと逆立っていくのを感じた。
 顔が熱くなる。
 意識して含ませているのかどうか知らないが、性的なアピールが、その声には溢れていて。
 息が一瞬、荒くなってしまう。
 ……それでも、保は。
 範紀に背中と、赤くなった耳たぶを向けたままで、言った。
「……あとでな」

 ◆

「……すっかり、遅くなっちゃったなー」
 見下ろせる自分の体のパーツが、ぜんぶ夕暮れ色に染まっている、帰り道。
 保は後ろを歩く範紀を振り返りながら、そう言った。
 放課後。昼の中村とのケンカが原因で、範紀と保は担任に、職員室に呼び出された。
 そして今の今までみっちり、事情聴取、及び説教を受けていたのだった。
「…………」
 範紀は返事もせず、無言でうつむいているだけだ。
 が、保にはなんとなくわかった。
『あとで』とは言ったけど。
 こんな時間になってしまったので、範紀は直行で、施設に帰らないといけない。
 それで拗ねているのだ。
 わかりやすい範紀の反応に、苦笑する。
 保はからかうように、ちょっと得意げな感じに笑いかけながら、言った。
「遠回りして、商店街の方、通って帰る?」
 いつもは商店街の道を抜けて帰るのではなく、山の手の裏道を通って帰る。その方が、近道だからだ。
 だけど、今日は、ちょっと離れがたかった。
 範紀は黙ったまま、やっぱりわかりやすく、うなずいた。

 商店街に入ると、広いメインロードは、夕方という時間帯のせいですれちがう人とたまに肩がぶつかりそうになる程度に、混んでいた。
 揚げたコロッケの匂いが漂い、特売野菜を売りこむおばちゃんの声が、響く。
 保と範紀は、その中を歩いていった。
「…………」
 と。
 後ろを歩く範紀が、いきなり立ち止まったので。
 保はすぐに気がついて、足を止めた。
 範紀を振り仰ぐ。
 すると範紀も、首をねじっていた。
 後方を見ていた。
「…………」
 保は、範紀の視線を追う。
 ……範紀は、一人の男の人を、見ていた。
 水色のつなぎの作業服を着た、痩せ型の、彫りの深い顔立ちをした四十歳くらいの男だった。
 その男も、範紀を振り返って、見ていた。
 範紀も。
 男性も、何も言わない。
 ただ、二人とも、少し目を見張って、お互いを見つめている。
 ――妙な雰囲気だった。
「……キィ?」
 怪訝に思い、保は、様子をうかがうように。
 範紀にそっと、呼びかけてみた。
 保のその呼びかけに対する答えのように、範紀がつぶやいた。
「……父さん」
 ――驚愕した。
 保は男性に、目を戻す。
「……久しぶり」
 範紀の父親が。
 範紀に向かって穏やかに、笑んで、言った。
「ちょっと、あそこに届けないといけない書類があってね。……来たんだが……」
 そう続けて、言いにくそうに、少しうつむいて言う。
「……世話係の方が、おまえが帰ってこないって、気にしていらしたぞ」
 少し厳しい目になって、範紀を見た。
 そして、
「なんでこんなに、遅くなったんだ?」
 と尋ねる。
「……い」
 保はあわてて、一歩前に出た。
「いえ、今日は……」
 範紀の父親の視線が、保に移ってくる。
「学校で、先生の仕事を、二人で手伝ってて……。だから、ちょっと、遅くなったんです」
 ほぼウソの保の言い訳を、聞いて。
 範紀の父親は、目を細めた。
「そうか……」
 と、何かに納得したように、つぶやく。
「……君が、保くん……」
「え……。はい」
 いきなり名前を呼ばれて、保はあわてて背筋をぴん、と正した。
 そして気づく。
 ……自己紹介していないのに、なぜ名前を知られているのだろう。
 ……範紀が、前に言った、とか?
 範紀の様子を、横目でちらりとうかがった。
 範紀はピリピリとした雰囲気を、目つきと、学ランの体中から、発している。
 父親を、警戒しているようだった。
 ……じゃ、ねーみたいだな……。
 多分、施設から連絡がいっているのだろう。
 クラスメイトの保、という奴が問題で、帰宅が遅くなったりします、とかなんとか。
 保は腹の中で、舌打ちした。面白くない。
「……範紀が、ずいぶんお世話になってるみたいで……」
 範紀の父親が、いちおう温厚そうな笑みを浮かべて、保に言ってくる。
「あ、いえ……」
 保はあわてて、渋面になりかけた顔を、明るい笑顔に変えた。
「範紀は、いい子ですから。俺、大好きなんです」
 愛嬌は得意分野だ。
 子どもらしい口調で、にこにこしながら、そう言った。
 ――するとなぜか。
 範紀の父親の顔は、困ったような感じに、変化した。
 その表情はそこから、苦笑に転じる。
「……特定の相手とだけじゃなくてね、個性などなくし、誰にでも、愛をいだかないといけない」
 なんだかセリフめいた、なめらかな口調。
 静かに、語る。
「そういう風に、人はならなければいけないんですよ。範紀ももちろん、それを目指さないとならないんです。……縛りつけないでやってくれませんか」
 そう言う範紀の父親は。
 自己陶酔しているような表情をしていた。
「――、……」
 保はまばたきした。
 何度も、した。
 ――一度そうするたび、猛烈に腹立ってくるのが、自分でもわかった。
『縛りつける』って、なんだ。
 まるで、自分がいるから。範紀は施設になじめないのだ、という言い方。
 範紀は、範紀は。
 そういうタイプじゃないのに。
 宗教の理念なんだかどうだか知らないが。
 範紀は、自分と友達になる時にだって、警戒してなかなか打ちとけてくれなかったのだ。
 自発的に他人を好くなんて、物凄くできないタイプで。
 本当に自分を理解してくれようとする少数の人へ、自分を伝えるので、きっと努力いっぱいいっぱいになるような気質なのに。
 なのにそんな……融通のきかない個性を、簡単に『なくせ』?
 自分自身で望んで変えられるようなら、苦労しないだろう。
 誰にでも、わけへだてなく愛?
 この父親。
 範紀のこと、何にもわかっていないんだ。何にも。
 はらわたが煮えくりかえるような気分に、加速度的になっていった。
 ……けれど。
 保は抑えて、あくまで愛想はよく、対応し続けた。最後まで。
 ……範紀は、もう父親へ口を開くこともなく、無言で。
 そんな保に、ただじっと、視線を注いできていた。

 ◆

「のりき……っ」
 保は腕を引かれていた。
 強く。ずっと。
 自分の歩調ではないペースで、足取りもよろつくほど、ひきずられている。
「ちょ……、キィ、って……!」
 何度も、停止をうながす声をかけるのに。
 範紀は、一言も返事をしない。
 振り返りもしないまま、荒々しい大股で歩いている。
 ――怒っている。
 その雰囲気だけは、いやおうなく理解できた。
 そんな範紀の、薄闇に沈んだ背中を見ながら、また、中村に向けたような独占欲なのだろうか、と保は思っていた。
 ……自分自身の父親に対してまで? 嫉妬するのか?
 確かに、愛嬌は振りまいたけど、それは。
 ……違う、全然違う。
 範紀の父親のことなんて、保は、どうでもよかったのだ。
 シンから範紀の父親に好かれたくてやったわけじゃ、全然、ない。
 範紀の父親に悪印象を持たれると、回り回って、多分、それが施設にも影響する。
 そしたら範紀と、ますます会いにくくなる。
 それを心配しただけなのに。
 範紀は一度も振り返らず、保の腕をひっぱってゆく。
 あれから道を引き返し、山の手の裏道を通るルートの帰り道に来たため、周囲に人影が全くない。
 建物もない。
 木と、背の高い雑草だけが、日が暮れて急速に黒いベールがおりてゆく視界を、占めている。
 ……しかし前方に、緑に淡く発光する、四角い物体が見えてきた。
 緑の常夜灯が灯り始めた、電話ボックス。
「…………」
 範紀はそこに向かって、ぐんぐんと歩いていく。
 保は嫌な予感がした。
 ――まさか。
 あそこ、で。
 そう考えているうちに、範紀が電話ボックスに入った。
 一瞬後、あっという間に保は、電話ボックスの中に引きずりこまれた。
 ガタガタッという激しい音を立てながら、乱暴に。
「……い、た……っ」
 小さく声を上げる。
 ずっと握られっぱなしの手首が、骨まで締めてきているように感じるほど、痛い。
 ふらついて電話ボックスに入った保の体を、範紀が抱え上げた。
 背後から、保に覆いかぶさってくる。背中へ体重をのせ、押さえこんでくる。
「……のり……きっ!」
 叫んで、保は、範紀を咎めた。
 腰から折り曲げられた体を激しくよじり。
 靴のかかとで、範紀の足をがんがん蹴りつけて、抵抗する。
 ――範紀はそれを無視して、保の学ランの裾から、手を侵入させてきた。
 シャツごしに、肌をなぞりだす。
「ちがうっ、……って!」
 保は激しく首を左右に振りながら、必死に訴える。
 ずっと無言の、範紀にむかって。
「おまえが……、俺と会いやすくな、……っなるように……ッ」
「…………おれ、……バカじゃない」
 ――ぞっとする程、低い声で。
 範紀が、保の耳元に、囁いてきた。
「…………」
 保は全ての抵抗を、止めた。
 首だけで、おそるおそる範紀を、振り返る。
「……わかってる」
 まったく同じ声で、範紀が続ける。
 それでも。
 それなのに。
 範紀のその目は、完全にいかっていた。
 なんとなく、保は直感した。
 打算の上の愛嬌でも、ふりまいているのを目のあたりにすると、どうしようもなく腹が立つ位に。
 あの、父親が。本当は。
「……あの人、嫌い、なわけ?」
 至近距離で、えぐりあうような。
 お互いに、苛烈な視線。
 ビリビリと帯電しているような緊迫感のなか、保は範紀の目を見つめたまま。
 自然とひそめられた声で、聞いた。
「…………」
 範紀は何も言わなかった。
 何も言わずに、強引に手先をねじこみ。保のパンツを、ベルトも解かずおろそうとしてきた。
「……キぃッ!」
 はっとして保は、抵抗を再開した。
 それでも範紀の行動は、止もうとする気配を見せない。
「…………」
 保は、いったん、ぎゅっと目を閉じた。
 それからギッと目尻を尖らせ、にらみつける。
「……ざけんな!」
 大きくそう怒鳴り、自分の固めた右拳を、左手で包んだ。
 そのままスピードをのせて、範紀の頬めがけ。
 肘鉄をぶち込んだ。
「……ぐッ……」
 もろにそれを受けて。
 範紀は顔だけで、ふっ飛んだ。
「――、ったァ……」
 一拍後、首を振りつつ。
 範紀は低音で呟きながら、ぺっと唾を。コンクリートの床に吐いて。
「……っ」
 そして次の瞬間、保の上頭部の髪は、範紀の左手にひっ掴まれた。
 あらがう間もなく、頭を持っていかれる。
 電話の、ボタンが並んでいる面に、手加減なしで思いきり側頭部を叩きつけられた。
「……っ!」
 ガシンッ、と、大きな音がたつ。
 保の目の前は真っ赤になった。くらくらする。
 瞬間、力が抜け無抵抗になる、体。
 ……かちゃかちゃと、手早くベルトの音が響きだした。
 そのまま下着ごと、保のパンツは、膝まで落とされた。下着ごと。
 そして、唾液で濡れた範紀の、中指が。
 秘部に割り入ってくる、感触。
「……ぅ」
 さぐってくる指に、ゆるく爪を立てられて。
 保は、抑えた鳴き声を洩らした。
 ――ここのところしばらく、体を重ねるチャンスがなかったせいで。
 範紀の爪は、少し長く伸びていた。
 柔らかな入口に、刺さって、痛い。
 狭い電話ボックスの中で、ぴたりと密着した体。
 さっきよりもしっかりと、背中へ体重かけられてしまい、もう、抵抗も、できなかった。
 ……常になく暴力的な、範紀の行動。
 これはすぐに、押しこまれそうだと、保はどうしようもなく予測していた。
 そしてそれは正しかった。
 唾液で濡れた指は、こわばりを無視し、内部へと侵入してくる。
 その指が更に奥へ深くへと、クネクネ、うねりながらささってきて。
 ――そして、すぐに引き抜かれた。
 ほとんど慣らされないままに。いきりたった範紀自身を押しあてられる。
「……っ!」
 ……背骨に、ビシリと、予兆的に鞭打たれたような緊張が走って。
 保はあわてて、歯を強く、くいしばった。
 ……未だ乾いた秘部に、勢いにまかせ。
 力ずくで先端が押し込まれる。
「……ッァ……!」
 保は高い、かすれきった悲鳴を上げた。
 秘所にピッ、ピ、と鋭い、裂かれていく痛みが走る。
「……ッ」
 範紀も、締めつけと、こすれが痛いらしく、一瞬息を飲んだ。
「……はっ、は……」
 目を固く固く閉じ、保は、肩を大きく上下にあえがせながら、必死に呼吸を継ぐ。
 半開きの口から、唾液が大量にあふれて、大きな塊になってこぼれていく。
 快感のせい、が一滴も存在しない、よだれ。純度が残酷に高い痛みしかない。
「……ふ、ん……ッ」
 突然、そう息を吐き。
 範紀がなすりつけるように、腰をぐりぐりと左右に振り、杭打ってきた。
「アッ……、ヒぁ……!」
 受け止めるしかない保は、瞳孔を見開き、喉の奥から叫ぶ。
 傷が更に裂ける。
 増える。
 ――柔らかな生皮を剥がされる。
 果てしなく強引なその行動で、範紀自身は、かなり押しこまれてしまった。
 硬く太く、体内に居すわる重量感。
 圧迫感で、呼吸が止まる。
 胃がせり上がってくる。
「……ぐ、……げ、……おぇ……ッ……っ」
 鼻の頭から、脂汗をしたたらせながら。
 保はたまらず、嘔吐時のような声を出し始める。
 範紀は腰を埋めたまま、じっとし続けていた。
 痛みと嘔吐感に振り回されながら、保は。腰の両脇を掴んできている、範紀の太くやわらかい指を、手のひらを、妙にリアルに知覚していた。
 動かされているわけでもない、その感触。
「ぅ、………………ぁ」
 それでも鋭敏になった保の体は、腰を包まれているだけで、愛撫をされているように感じていく。
 辛苦に耐えられず、羽毛のようなささやかな感覚を、クローズアップして。
 快楽信号にして届けてくる。
 脳に流しこんでくる。
 ――やがてがくがくと震えだす、保の膝。
「……は、……はぁぁ……っ!」
 保はこらえきれず。
 眉尻を下げ、思いきりなやましい声で、あえいだ。
 慣らされた体は、どう呑み込めばいいのかを、奥の方でちゃんと記憶している。
 繰り返されたセックスで、体の中につくりあげられているその機能が、揺さぶられ、冴えはじめる。
 脂汗が、すっと冷汗に変わっていって。
 ただただ、ちぢこまって、異物を押し出そうとしていた体の肉が。
 皮膚が。
 血が。
 ざああっと、範紀の肉棒を、体に受け入れる方向へ流れていく。
 変化していく。
「あ、は……ッ!」
 そう、悲鳴じみた鳴き声を上げた瞬間。
 完全に萎縮していた秘部が、すうっと。
 範紀自身に馴染んでいくのが、自分でもわかった。
「……ぅ、……っ、……」
 急坂を、疾走し、ついに頂上へ抜けたような。
 まばゆい酩酊。
 重くさびた鎖から、放たれた躯で。うつろな目で。
 は、は、と、保は、ようやく息を吸う。
「……ふ、ぅ……」
 範紀が、感嘆したようにため息をついた。
「……すげぇ、なァ……」
 そう言って。
 汗でずぶ濡れな保の白いえりあしに、あごを押しつけてくる。
 それが上下に動き、真っ直ぐな保の髪を、かき分け乱す。
 夕方になってかなり伸びてきている範紀の髭が、ざりざりと、砂のような触覚を与えてきた。
「慣れてるもん、なァ……」
 保は。
 一際大きく、ぶるぶると震えた。
 言葉で、体中を、撫でまわされた気がした。
 すさまじい羞恥心で、全身総毛立つ。
「……う、……ふ……っ」
 保は顔をくしゃくしゃにし。
 泣きながら、鳴いた。
 ――ちょうどその時、ガラスからふいに、ぽつ、という音が響いてくる。
「…………」
 保はまなざしを上げ、ぼんやりとガラスを見た。
 細い雨粒が、電話ボックスに、ぶつかってきていた。
 堰を切った雨粒は、ガラスを瞬く間に、しとどに濡らしていく。
 うるんだ保の視界をますます不鮮明にさせていく。
「なんで……っ、……っ」
 保は、投げかけるようにつぶやいた。
 答えはかえってこなかった。
 ……電話ボックスの隅にぶらさげられた、二冊のタウンページが、ぎちぎちと揺れ始める。
 突いては、引き、また強く突き立てる動作。
 保は歯を、ひび割れそうなほどくいしばる。その力で首のスジまでが引き攣れていく。
 分泌液とはぬめりの濃度が違う液体が、秘部から伝っていくのを、生々しく感じる。
 確実に出血しているのがわかった。
 肉塊を削りだされる業熱のすさまじい痛みとは、また別な。
 血液が皮膚をつたい落ちていく、妙に冷たくグロテスクな、その感覚。
 ……保は目を、力なく閉じ、
「なんで……? っ、ぁ……っ?」
 行為にうわずる声で。
 すがるように、嘆いた。
 すすり泣いた。
「……なぁ、わかってる?」
 範紀が、動きを止めて。
 静かに囁きかけてきた。
 痛みで背骨を丸めている、保の背中。
 その学ランを、後ろからめくってきた。
 あらわになった保の背中の肌に、首を折って範紀が、ほほをすりつけてくる。
「……おまえしか、いねぇんだから」
 誇るように。
 範紀は言い切った。
 保は、目を見開いた。
「…………」
 ……それから、ゆっくり、まつげを伏せる。
 はたりと、涙のかたまりが落ちていった。哀しそうに。
 ……それで。
 そんなことでどうするのだ。
 ひょっとしたら。ひょっとしたら、多分。
 いなくなるのに。
 ――嬉しくないわけじゃない。
 違う。嬉しいのだ。
 どうしたって、嬉しいのだ。
 範紀が自分に向けてくれる、想いは。
 それがなおさら悲しくて。
 だって、だって、置いていかなきゃいけないのに。
 ……何粒も涙をこぼしながら、保はただ、ガラスについた指をまるめた。
 濃い黄緑色をした電灯の光に照らされて、保のその手も、体も、範紀も。
 異様な深い緑に、染まっていた。

 ◆

 家に帰ってから、保はずっと、横だおしに寝転がっていた。
 自分の部屋には行く気になれず、電気の煌々とついた、明るい茶の間にいた。
 ……自分の部屋に一人でいると、泣いてしまいそうな気がしたのだ。
 別に、今日のことがショックだったわけではなく。
 いや、少しショックだったけれど。
 終わった後には、腹も立ったのだけど。
「…………」
 リラックスできる場所にいるのに、気持ちが乱高下のように揺れている。目を閉じた。
 さっきできた、体の奥の裂傷が、痛い。
 名残なんてもんじゃない。
 焼いた刻印のように、きざまれた。
 保はぎゅっと、自分の、両方の二の腕を握って、そのまま体を丸めた。
 正気に戻った後、範紀は必死で、謝っていた。
 言葉を詰まらせて。目に涙を溜めて。
 今にも嗚咽を上げ始めそうに、……情けなく。
『捨てられる』のを、『見はなされる』のを、ひたすらに恐れるその姿。
 それを見ると、怒る気にはなれなかった。
 自分を理解しようとしない父親が嫌いで。
 ……その父親に向けられた保の笑顔に、どうしようもなく腹が立ってしまったらしい範紀の気持ちも、わかってやれる気がしたから。
 ……しかも範紀は、本当は。
 今は普段から、保にも怒っているのだ。
 保が、もうすぐいなくなってしまうかもしれない、と告げたから。
 ――そんなことの全てが積み重なって、着火してああいう行動に出てしまったのだろう。
 だから、怒れない。
 保はそう考えながら、右手を持ち上げ、指先を自分の唇にあてた。
 無意識のうちに親指で。
 下唇をゆったり、擦り始める。
 ――それに。
 範紀が積極的になったり、得意げになったり、荒々しくなったり。
 人間くさい匂いを、させるのは。
 陰気に定まりきったトーンを脱ぎ捨てるのは、……ほんと、セックスの時くらいなのだ。
 正直それもあって、怒れない。
『範紀』という男のかたちを、感染させられるみたいに無理矢理、ダイレクトに齧りとれる、時。
 ……今日は範紀が、嫉妬、怒り、不安、いろんな感情で混乱していたから。
 もっと、その匂いが、直接にむきだしで。
 濃かった。
 ……すごかった。
 普段、こっちが不安になるほど、範紀はからっぽだから。どうしても。
 その匂いを発している時の範紀には、魅了されてしまう。
 これだけ痛くても、やっぱり、それはゆらげない本音で。
「…………」
 保は、更にぐるりと、体を丸める。
 眉間に皺を寄せながら、また視界を閉じる。
 ……範紀。
 ふっと、ある言葉が、頭に、浮かぶ。
 ……なんで。
「…………」
 ごろんと寝返りをうち、浮かんだ言葉を反芻する。
 ……なんで?
 自分だけが、範紀に浮かべさせることができる、笑顔。
 嬉しそうにふれてくる指。
 ふだんとは実質的に色すら違う、自分を見つめる、光を集めた漆黒の瞳。
 そういうものを。
 窒息しそうなくらい切実に、幸福の情景、として、かんじる、たび。
 ……自分のものだ、そう繰り返し思うのに。
 こんなに、自分も相手も、お互いのもんなのに。
 ――なんで。
 ――連れていけないの?
 ちょうどその時、廊下から、ぱたぱたというスリッパの音がしてきた。
 保は目を開け、そちらに視線を向ける。
 背の低い母親が、スリッパを脱いで、茶の間に入ってくる姿が見えた。両腕で洗濯物を抱えている。
 そのまま母親は、保の横に正座して、洗濯物をたたみ始めた。
 右手を伸ばした先に父親、その隣の右上が保、左上は妹、左手がのびる先が自分――母親のぶん。
 細い指先にたたまれては、そんな配置に順々に振り分けられていく、四人家族の洗濯物。
 保はぼんやりと、それを眺めた。
 ……こういう、ゆったり時間的余裕をもって、穏やかな表情で家事をする母親、が見られるようになったのは、結構最近のことだ。保に六歳年下の、妹が生まれてからになる。
 妹が生まれるまで、母親は父親の事務所で、バリバリに働いていた。
 その頃は忙しすぎて、家事なんか、けわしい顔をして、戦闘みたいにバババッ! とやっていたものだった。
 だから保は、保育所育ちで、その後もずっと鍵っ子だった。
 妹が生まれてからは、母親も、父親の建築設計事務所がもう軌道に乗ったということもあって、家にいるようになったのだ。
 保は、母親の動作を横目で窺いながら、
「……ねー」
 と呼びかけた。
「……ホントに、転校すんの?」
 それを聞いた母親が、少し目を丸くして、保を見てきた。
 それから、柔らかく笑った。
「あんた、範紀くん好きだもんねぇ……」
「うん……」
 保は目を伏せて、返事をした。
 勘ぐるスキもなく。
『友人として』以外、含みはありえない言い方だった。
 それでも、ほほが少し、赤くなってしまった。
 母親が続けて言う。
「あんたって、そうは見えないけどねぇ、さみしがりだし」
 反射的に、誰のせいだ、と心の中で、ちょっとだけ保は思った。
 正直、恥ずかしいけれど自分でも、さみしがり屋だとは思う。
 両親ともにフルタイムぶっちぎりな共働きだった、から。
 保母さんや、同年代の友だち……だけど言ってしまえば『他人』ばっかりが、うろうろする場所で、一日のうちほとんどの時間をすごし育ってきたせいで。
『誰もそばにいてくれない』という時間は、……まぁ実は、ほとんどなかったような気がするけれど。
『誰かにそばにいてもらえるように』明るく、親切な、しっかりした、性格に……。
 自主的に、成っていった自覚がある。
 別に。そういう性格にできあがった今の自分が、嫌いなわけじゃないからいいのだけれど。
「お風呂、もうわいてるわよ。入る?」
 母親が思いついたように勧めてきた。
「今日、入んない」
 思わず保は不必要に、打ち返すよう即答した。
 これから何日間かは、風呂やトイレは地獄だろう。
 最初にヤッた時も、そうだった。
 ……これで怒れないのだから。
 少しは、相手に腹も、立つのだけれど。
 けどそれ以上に悲しくて不安で。
「……芽衣子は? まだお昼寝してんの」
 ふと。周囲に妹がいないのに気がついて、保は尋ねた。
「まだお昼寝してるわよー。ほんと、よく寝る子よね。外でばっかり遊んでるからよね。もぉ、おてんばで……」
 なんだか長くぶちぶち言い出した、母親に。
 保は、
「芽衣子は転校、いやがってないの」
 と聞いてみた。
「――美貴ちゃんと離れるのは、やっぱり、嫌みたいだけど……」
 保と同じ、一重まぶたのすっきりとした、明るい顔だちを、わずかに曇らせて。
 母親が答えてくる。
「……もし、さ」
 保はためらいながら、思い切って言い出した。
 もじもじと、寝ころがったまま畳の目に視線を這わせながら、続ける。
「ムリなのなんか、わかってる、けど」
 ……本当に、わかりきっていた。
 今から口にするのは、『たとえ話』にしたって、現実離れした、夢物語だって。
 保はそれくらいの賢さを、残念ながら持った子どもだった。
 保はもじもじした態度をやめ、母親の目をじっと見上げて、言った。
「……範紀、連れていきたいとか言ったら、どうする?」
 ――母親は眉を寄せた。
 母親には、だいたい範紀の、宗教や施設にまつわる事情を、話してある。
 範紀はあの宗教に完璧に向いていない、と思っている保の気持ちも知っているし。
 施設側の時間拘束が厳しくて、引っ越しなんかしたら保と範紀は、もうほぼ会えなくなるであろうことも、心得ている。
 だからだろう。
 思いやるような話し方、だった。
「……バカなこと、とも、言えないけどー」
 眉根に皺を刻んだまま。
 妙にか細く、糸をつむぐように、しゃべる。
 ……完全に、困りきった表情をしていた。
 ただ。
 迷っているそれではない。
 わかりきっている結論の、語り方、伝え方を、考えあぐねているだけ。
 そういう……。
 終了した、顔。
「……ウソ」
 保はすぐに、母親を安心させるのをかねて、そう言って。
 ごそごそと、顔をおおうように両腕を組んで、表情を隠した。
 そのせいでこもった声で、つぶやく。
「多分キィ、あっこから出たら、生きていけないよ……」
 カゴの中の鳥、とは、よく言うものだ。
 法則がわかっていても。
 飛ばせてやれない。
 ――保は、昔、一度、範紀の施設に遊びに行った時のことを、思い出していた。

 ◆

 去年の夏だった。
 範紀が、自殺未遂をする前で。
 施設に入っている子は、クラブ活動も、放課後あそびに行くことも、……休日に遊びに出ることも、基本的には禁止されている。
 そんなどこにも隙のない状態だけど、逆に、『友達を施設に連れてくること』は、施設の世話係に、すすめられているそうなのだ。
 だから保はその日、学校帰りに範紀に連れられ、行ってみた。
 ……施設側にしたら、保は『範紀の帰りを遅くする悪い友達』というものらしいから、少し行きにくいな、とは思っていたが。
 その施設は、ちょっとした山の、頂上近くにある。
 施設に至るまでの坂道は、妙に大きな丸い石がごろごろしている、砂利道で、とても歩きにくかった。
 コンクリートの門の前に着くと、つい、保は足を止めてしまった。
 まじまじと一点を眺めてしまう。
 ――右側の門柱の前。
 異様な物体が、置いてあった。
 山の上だからか町よりもっと盛んに、セミのジーワジーワという鳴き声に支配された空間で、立ちつくす。
 保の腰までくらいの高さの、ひまわりみたいな……。
 目のくぼみと、鼻の突起がわずかに見てとれる、擬人化された。
 太陽の、像。
 赤銅のような色も、全体にあしらわれた揺らめく炎のような模様も、太陽を示している。
 手と足も細くあるのだが、それらのシルエットが溶けたように、どうしようもなくぐにゃりとしていて、非常に抽象的な像だった。
 ……どこか芸術という領域を踏みこえた異様さがある。
 その像を目にして、初めて保は、現実的に萎縮した。
 範紀にわざわざ聞かなくても、わかった。
 これはこの宗教の、シンボル像なのだ。
 そう思うと、ますます像は、奇妙なものに感じられた。
「…………」
 無意識に保は、鋭い瞳になって、その像を警戒するように睨んでいた。
 ――そんな保の様子を。
 気づけば、横にいる範紀は、じっと見てきていた。
 まるで植物のような、気配の無い瞳で。
 やっと門をくぐって、ちょうど学校のような建物の中に入ると。
 一人の大人がやって来た。
 前日に、保を連れてくる予定だと、範紀が伝えていたからだろう。
 すんなりと、じゃあこっちへ、という案内に移ってもらえた。
 子ども達の世話係の一人だという飾り気のないショートカットなその中年女性は。
 歩きながら、高橋です、と、化粧を全く施していない、穏やかな笑顔で、自己紹介をしてきた。
「今日の作業は、本づくりなんですよ。いい時に来ましたねぇ」
 にこやかにそう言われたが、そもそもその『本づくり』という作業が、どういうものなのかもわからない。
 何の本を作るのか。どんな工程を受け持つのか、それとも全工程を一人で手作りしていくのか。
「はい……」
 だから保は、あやふやにそう答えつつ、建物の奥へと進んでいった。
 ある程度行ったところで、高橋が、ひときわ大きな引き扉を開くと、大食堂らしき広場が姿をあらわした。
 室内には子ども達が、たくさんひしめいていた。
 小一くらいから、中学生ほどまでの年齢層。
 子ども達は、いくつもの川の字をなした長いテーブルに、それぞれ取りついて何かをやっている。
 ……これが『本づくり作業』らしい。
 遊びに来た、という名目だったが、当然いまから保も、この作業に加わるのだろう。
 それはまだ、郷に入っては郷に従え、という雰囲気で解釈して、理解できたが。
 手近なテーブルへと導かれて、その前につくなり。
「範紀君は、自分の位置で仕事してちょうだい」
 やんわりとながらピシリと、範紀を追い払われてしまった。
「…………」
 範紀は無言で、……もはや、すべての感情のゆらぎが失せた感のある瞳で。
 保にも何にも色を見せずに、部屋の最奥の方へ去っていった。
「私が最初は教えますから、一緒にやりましょうね」
 優しげに、改めて高橋にそう言われて、やっと保は、高橋の目を見返した。
 次いで、しげしげと机の上を見つめてみる。
 瞬間。
 正直、ゲッ、と思った。
 一目見てわかった。
 ――これは、布教用の小冊子だ。
 普段、完全に信仰を意識しない生活を送っている保は、軽くおののいた。
 しかも一般的になじみない宗派のソレだ。
 ヘビーなボディブローを、開始ゴング直後にかまされた気分。
 それでもなるべく態度に出さないようにしながら、保は、通学用のリュックを脇におろした。
 それから、しばらく高橋に付いて、分配された作業を覚える。
 ものすごく簡単な、流れ作業の一部分だった。
 手作りっぽい、茶色の和紙のような紙に、かすれ気味で文字が印刷されている。
 その紙が一冊分ごと、まだ綴じられていない状態……本になっていない状態であるところに、飾り紙のようなピンク色の紙を、表紙の裏に位置する所に一枚ずつセットしていく。基本的にはそれだけだった。
 ……せっかくなので、合間を縫ってチラチラと。
 保は小冊子を読もうと、見ようとしたのだが。……結局は、あんまりできなかった。
『この思想はこんなにもすばらしいのです、よってそれにもとづいて構成されたココの世界はこんなにもすばらしいのですよ』という、きらびやかに輝く、否定者のいない単一で塗りつぶされた、賛美オンリーの誌面は。
 正直、汚らわしいような気すらした。
 範紀がココで育つことによって抱えてしまった問題を、知っているから。
 ……そのうち、高橋が、「あとはたのみます」と、どこかへ行ってしまった。
 自分一人で作業を続けるようになり、だいぶ経ってから。保はふっと、範紀の姿をもう何十分も見ていないことに気がついた。
 ……範紀に連れられてきたのに、別に見学に来たわけじゃあないのに。
 ちょっと理不尽なような気がして。
 トイレに席を空けるような顔つきで、保は、場を離れた。
 こっそり、範紀を探して、広大な部屋の後方へ移動していく。
 すると汗がスゥっと引いていき、涼しさが体感できるようになった。
 今まで居た所は、そばに稼働している印刷機があって、それが熱を発していたために汗はかいていたのだが。
 冷房は入っていないみたいなのに、『低いけれど山の上』という立地条件のせいか、この建物はじゅうぶん過ごせる温度をたもっているらしかった。
 ……宗教で冷暖房とかも禁止されてんのかな、だから冷房なくていいように山の上に建てたのかなぁ、でも冬が寒いよな……。
 と、ダラダラ考えながら。保は足を進める。
「…………」
 範紀が居る風景が、目に入った瞬間。
 保は立ちすくんだ。
 範紀は、本としてできあがり流れてきた一冊一冊に。朝顔のイラストが印刷された『季節のたより』のようなチラシを、はさんでいっていた。
「…………」
 ――よく見るような、料理前の。
『死んだ魚』の、目じゃあない。
 テレビでしか見たことのない、死んだまぐろの瞳が、そこに在った。
 大きく、それだけに。
 鏡のようにただ物体を反射させているだけなのが、つきつけられるように迫力をもって目立つ。
 一切の情操のかき消えた、無機質の黒。
「…………」
 しばらく、声もなく、その目を見つめていた。
 色々な機械に囲まれた一角に、範紀がいるせいで。
 まるで、ただの機械の林を目にしているようなイメージだった。
『かかし』という形容すら、生ぬるい。
 さらに人間味を冷質に拒絶する、没熱、没個。
 しているのが機械的な作業とはいえ。
 その時、景色のなかに、世話係の人らしき男の人がはいってきて。
 範紀に近づいて、何か話しかけた。
 だけど範紀は、作業を中断はしたものの。
 瞳の色をまったく変化させなかった。
 ――保ですらひるむかもしれない、微意も映らない、漆黒。
 世話係の言葉に、まさに、機械的にうなずいている。
 ……人と話す時ですら。
 この施設の中では、いつも?
 あんな、目でいるのか。
 保はどうしようもなくそう感じて、その場に立ちつくし続けた。
 ……世話係の人はすぐに去り、範紀はまた作業を始める。
 恐ろしいほど透明に光っている、大きな目。
 とてつもなく、すぐそこにいる範紀を、遠くに感じた。
 自分がついているせいか学校では、あそこまでからっぽな目、していないのに。
 ――ここに、好きな人などいないと、範紀は言っていた。
 人がたくさんいるだけの場所だ、とも言っていた。
 ……それは保にも、ほんのわずかになら、覚えがある感情だった。
 まだ上手く『おしゃべり』できず、淋しければただウロウロと、左右を見まわすしかできなかった。
 話術も、陽性な笑顔も、身につけてはいなかった保育園の頃の記憶。
 おそらく。
 範紀は今も、そんな状態なのだろう。
 愛嬌をふりまく術を身につけるチャンスがなくて、学校だけじゃなくここにも全然、なじめちゃいないのだ。
 こんなに長く暮らしていても、『慣れている』だけで、『ハマれて』ない。
 ――範紀はここに向いていない。
 改めて、重くそう思った。
 もっと限られた人数の中で、わかりやすく、密着に、愛し愛されて生活しないと、この鉄面でもって生活しつづけることになるのだろう。
 ――だけど同時に。
 その時、初めて。
 保は、範紀はここから出してはいけないのかもしれない、と感じたのだった。
 ……外の世界では、きっと、はじかれる。
 不気味がられて、排斥され、ちゃんと人の中で生きていけないだろう。
 避けられて嫌われるだけではなく、いじめられるだろう。
 ――学校でそうなっているように。
 でも、ずっといたここでは、とりあえず生きていけているのだ。
 誰とも深い関わりを持てないままでも。何の幸福感も得られないままでも。
 時間を流して、生活をしていけている。
 ――そのすべを、心得ている。
 周囲も、範紀自身も。
 ……もう、ここでしか、生きていけないのかもしれない。
 どうしようもなく、行き着く様に『カゴの中の鳥』という言葉を連想した時。
 範紀が、こちらに気がついた。
 からっぽだった表情に、ろうそくのそれみたいに、ほんの少しぽっと、喜色が灯る。
 鉄製のシャッターが開いていくような、あざやかさを伴って。
 保は。
 今まで考えていたことを覆い隠して、精一杯笑いを返した。
 泣きそうになっていた。

 ◆

 ぐんにゃりとした、太陽像に守られた。
 四角い大きな建物や、古ぼけた印刷機。
 工場のような倉庫や、畑や、ビニールハウスもあった。広い敷地。
 あそこから、範紀は出られない。
 ――自分と範紀は、一緒にいられない。
「キィは、……あっこから出たら、生きて、けないよ……」
 ずっと、あそこで、育ってきてしまったから。
 それだけ、で。
 保は、畳に目尻を押しつけて。
 こっそり声を立てず、涙を落とした。

 ◆

「年末までに、越すから」
 突然、夕食の最中に。
 父親が言った。
 保は思わず、あんぐりと口を開けた。茶碗を持ったまま。
「……今日、本決まりになったんですか?」
 母親が、同じく目を丸くして、聞いていた。
「ああ。個人の学習塾がつぶれた所があって……、そこが広さ的にもいいだろうって、不動産屋から今日ファックスがきたからな。週末に下見に行くけど……。だいたい、そこに事務所移すことに、決まった」
 淡々と、食事を続けながら、父親は言う。
「やっぱり、お引っ越しするの〜?」
 小学二年生の芽衣子が母親を見上げて、あどけない声で、不満そうに言う。
 母親は芽衣子の頭を撫でながら、
「おじいちゃんの体の具合が悪いからね。お隣の県だから、大丈夫、美紀ちゃんともしょっちゅう会えるわよ」
 と優しく言い聞かせている。
「…………」
 保は一瞬、ぼんやりと、首をめぐらしそれを見た後。
 はっとして箸と茶碗を、がちゃんとテーブルに投げつけ、立ち上がった。
 そのまま自分の部屋へと、駆け出す。
「ちょっと、保っ?」
 母親があわてて、保の背中に向かって呼びかけてきた。
 保は振り返らずに、怒鳴って答える。
「キィんとこ!」
「あんた、今行っても、会えないんじゃ……」
 母親の声だけが、壁越しに小さく聞こえてくる。
 自分の部屋で黄色のダッフルコートを着こみながら、保はもう一言、怒鳴り返した。
「会えるの!」
 そのまま玄関を、裂くように飛び出て。
 夜に包まれた道路を、ダッシュで走りだした。

 はぁはぁと、自宅から休みなしで山頂まで駆け上がってきた、息をつきながら。
 施設の門の前、やっと、保は足を止めた。
 三階にあるらしい。範紀の部屋の、窓ガラスを見上げた。
 六人部屋だと言っていた。それにふさわしく、大きめな部屋の窓を、じっと見上げ続ける。
 ――母親には、会えるの、と怒鳴ったけど。
 どうやって、いま会えるか、なんて、考えていなかったまだ。
 ただ、会わなきゃ、と切迫に思って。
 だから来ただけで。
「――、……」
 会う方法を考えながら、保はどうしようもなくて、範紀の部屋の窓を、見上げていた。
 上側がわずかに削られた楕円の優しい月が、ぽっかりとちょうど建物の上に浮かんでいるせいで。
 なんだか、きっとはたから見たら、月見しているみたいな状態に、入り込む。
 ……どんどん、汗はひいて、寒くなってくる。
 そのままそうして、たまに寒さのあまり足踏みをしたりしながら。
 離れることも、何か行動を起こすことも、できなくて。
 無意味に時間を費やしていた時。
 横手の雑草の茂みから、いきなりがさがさと、草の音が響いてきた。
 ぎょっとして、保は振り返る。
 だけど、すぐに、
「……キィ……」
 安堵のつぶやきが、洩れた。
 範紀が、草の合間から、顔を出していた。
 保はびっくりして、
「……どうして」
 と聞いた。
 どうして自分が来たのが、わかったのだろう。
「……トイレの窓から、見えた」
 こちらへ歩いてきながら。範紀がそう、答えてくれても。
 保はまだ、目を見張ったままでいた。
 テレパシーとか以心伝心とか、なんだか、そういった甘い味つけのものでは、とても納得できなかった。
 一年は、三百六十五日で。一日は、二十四時間で。
 なのにどうして、今、この時に。
 ここに出てきて、くれたのか。
 範紀が、うつむいた。
 そして、言いにくそうに、続ける。
「……来ないかな、と思って、いっつも外、気にしてるからさ」
 保はますます、目をまん丸にした。
「……来たこと、ないのに」
 茫然と、言い返す。
「うん……」
 範紀は。
 弱々しい、細い声で、肯定した。
 てれている声のようにも、聞こえた。
 しばらく黙った後、範紀は、ポソポソと続ける。
「……夢、みてるみたいな、もんだからさ。…………そういう時間って……」
 そうして、顔を上げて。
 保を見て、小さく歯を見せて、笑った。
 保はじっと、範紀を見返していた。
 魅せられたように、そうしていた。
 ……だけどだんだん、範紀の顔は、にじんでいく。
 あっという間に、そのにじみは、酷くなっていく。
 ――わかる気がした。
 うぬぼれではなく、範紀のなかでは。
 範紀のなかでの、自分の存在は。
「……っ」
 ――夢見るように、待つ、存在。
 保はたまらず、前のめりに膝を折って。
 その膝の上に、だんっ、と、叩きつける勢いで、両手をついた。
 ……伏せた顔から、涙と、ゆるい鼻水がしたたった。
 情けなくて、何に対してなのかくやしくて、思いきり音を響かせ鼻をすすった。
 頭を乱暴にふり上げて、範紀の目を、キッと見上げる。
 ――自分がいなければ。
 ――その世界は?
 挑むように、叩くように、破るように。
 自分と同じだけ傷つけようとするみたいに、告げた。
「やっぱり、行くって」
「…………」
 範紀は、表情を変えずに。
 水分を含みつづけてしまう保の眼球を、見返してきていた。
 闇に沈んだまま棒立ちで。
 何も言葉も発さないまま、範紀は長い間、そうしていた。
 ――そして。
 突如、背を向けて。
 言った。
「……こい」
 そのまま、全力疾走しだす。
「っ?」
 保はあわてて、範紀の背中を追った。
 施設の裏側にまわりこみ。
 範紀は、三メートルほどのフェンスを、登っていって乗り越えた。
 首をひねり、目だけで保を呼ぶ。
「…………」
 保は促されるまま範紀に続いて、身軽に金網のフェンスを越えた。
 保が来るのを視認してから、範紀はフェンスのすぐそばにある倉庫へ、タッと走ってゆく。
「…………」
 フェンスを降りた保は、範紀の後を追いながら、そっと周囲の様子をうかがった。
 フェンスと、施設の建物自体には、庭をはさんでそうとうの距離がある。
 施設の人間に、保達が気づかれる心配は、なさそうだった。
 範紀が倉庫の、鍵がかかっていないらしい二枚合わせのスライド扉を、ためらいなくガァーと開けた。
 そのまま中に入って、ごそごそと。壁に並べられた棚から、どうやら何かを、探し始める。
「…………」
 保は、扉に手をかけて、倉庫の中をそっと覗いてみた。
 倉庫の中は暗く、フェンスの上にそなえつけられた外灯のわずかな光が、窓から射しこんできているだけだった。
 範紀の肩や腕が、その光の中で動いている。
 そのまま範紀を見ていると。
 範紀が何かを手にして、振り返った。
 ……大きくて、丈夫そうな箱だ。
 その箱にはマジックで大きく『車修理の用具』と書かれていた。
「……キィ?」
 怪訝に思い目を細めて、保は、範紀を見上げた。
 範紀は、無言で、それを持ったまま。
 フェンス方向へ引き返していく。
「っ」
 保はあわてて、倉庫の扉を引き閉め、範紀を追った。
 範紀が箱を、自分の藍色のぼっかりしたセーターをめくって、パンツのベルト部分にむりやり押しこんで、しまいこんでいるのが見える。
 そうやって両手をフリーにして、もう、フェンスを乗り越え始めた。
 そしてストンと向こう側に降りたあと、施設の表門の方へ、急いたように戻ってゆく。
 保はわけのわからないまま、またフェンスに取りつき、後を追った。
 いちいち保を振り返らなくなった、範紀の後ろ姿。
 ……表門の前の地点に、帰ってくると。
 範紀が腹の中から箱を、吐き出すように出した。地面に置く。
 ふたを開けると、中から三十センチくらいの鉄の工具が、顔を出す。
 巨大な注射器のようなシルエット。
 先端が細い管で、尻の方が……何かのカートリッジを含んでいるのか、とても太い。
「鉄の芸術品とかの時に、大人が使ってるやつで」
 手にしながら、説明するように、範紀が言った。
「これで鉄、熱くできる、んだ」
 そう言って、工具を持ち。
 範紀は右側の、門柱の前の、太陽像の所に歩んでいった。
 像の前。
 片膝をついて、しゃがみこむ。
「…………」
 保はぼんやりと、その行動を目でなぞっていた。
 意図がわからなかった。
 カチリ、と、スイッチが入る、音がして。
 ――範紀の構えている工具から、火が、噴射された。
 保は瞬間、化学の実験を思い出した。
 ガスバーナーの、温度の高い、青っぽい火。あのままの色をしていた。
 範紀はその火を、太陽像に近づけていく。
 正確には、その像の足の裏部分から伸びた、直径五ミリほどの細長い鉄の棒。
 その鉄の棒のもう一方のはじは、四角いコンクリートの台座へと埋め込まれている。
 ――像のなかで一番もろそうな、細い部分。
 そこに範紀は、火を当てた。
 ……はっとして保は、範紀の背後に駆け寄った。
「キィっ?」
 しゃがんでいる範紀の左肩を、上からつかんだ。
「折るんだよ」
 強い、ぎらぎらした輝きを放つ。
 範紀の、目が。
 斬りつけるように仰いできた。
「おれ」
 範紀が息を大きく吸った。
 拍子に、その喉がひゅう、と鳴った。
 そんなわずかな、カン高い音が、バーナーのゴウゴウという音の中に混じって、やたら耳を打って。
「――だいっきらいだ。こんなとこ」
 苛烈に、そう吐き捨て。
 範紀は正面に向き直り、火先を再び固定する。
「…………」
 保は少しの間、茫然として。
 それから、ふらふらと。
 範紀の横に、放心したように、しゃがみこんだ。
 うかがうように範紀を見た。
 普段は黒いだけで無気質な瞳に、熱い、青い光が、映っている。
 宿っている。
 さっき道具を取る時、倉庫のどこかでこすったのか。黒いコールタールのような汚れが、範紀の地黒なほほやあごに、こびりついていた。
 そうだ、最初は、肌の色にドキッとしたんだった――と、保はふいに思った。
 たくましい、汗が似合う色。
 セックスの時、その情景を目にするたび、幾度も、自分もこのくらい地黒だったらイイのになあと思っていた。
 その肌色にふさわしい、大づくりな濃い顔立ち。
 しばらく、範紀の顔に見とれていた。
「…………」
 ……それから保は、太陽像の方に、視線を向ける。
 鉄色に冴々と光る、像の根元の棒が、熱せられ、ススの奥、赤く光っている。
 赤色に穢れている。
 ――折れる。
 そう思った瞬間、保は範紀の肩をつかんで、ぐいと押しのけた。
 驚いて保を見た、範紀の目をのぞきこんで、保は強く言う。
「俺もやる」
「…………」
 範紀は一度、まばたきをして。
 それから、素直にバーナーを、保に渡してきた。
 バーナーはずしりと重かった。
 火も、手元で見ると、わりあいに大きくて。
 ……保はバーナーをかかえ、像の根元を熱しだした。
 強い火は、熱くほほや目にしみた。
 顔を食い入るように、近づけすぎなのかもしれなかった。
 ――やけどくらい、どうだっていいと思った。
 誰かに見られてもいい。
 殴られてもいい。
 何でもいい。折りたかった。
 悲しさや切なさが吹き飛ぶほど、その願いだけが強く胸の中にあった。
 範紀を縛るこの世界。
 そのシンボル。守護の像。
 ――目の前の鉄は、もう燃えているように、赤かった。
 隣の範紀が立ち上がり、太陽像の頭の部分を、鷲づかみにした。
 そして、渾身の力をこめて。像を左横へ、へし折る。
 ……けれど。
 これだけ熱せられていても、鉄は強度をたもっていた。少し曲がっただけで、切り離される気配すら見えない。
「っ!」
 保も立ち上がった。
 像の、ひまわりの花のように派手な頭を。
 両手で捕まえて固定し、ガシガシと猛烈に蹴りを加える、ひたすらに。
 つま先でえぐるように。かかとで穴を開けようとするように。
 暴力衝動なんてものに、身を任せるのは、初めてだった。
 袋だたきに二人がかりで、激情をぶつける。
 ……めちゃくちゃな方向に休みなくひっぱられ続け、ショックを与え続けられた像は。
 範紀が両足で、体重をのせとび蹴りを放った瞬間、ねじれ細くなっていた棒が、加えられた力の方向へ、根元からぽっきりと、折れた。
 台座から上が、地面にぼとん、と音を立てて落ち、ごろんごろんと転がって、止まる。
 茫然と。
 二人してそれを見おろしていた。
 ハァハァ、と、異様に荒いお互いの息が。
 音の消え失せた空間に、濃密に響く。
 夜に覆われた視界が、根元からゆらぎだす。眩暈に似ている。
 隣の、肩がふれあう位置にいる相手だけが、その輪郭だけが気配だけが、ゆらがなくて。
 世界の中心みたいに。
 どこも触れていないのに、支え合ってやっと立っている……確かな錯覚。
 ――太陽像の根元から、どんどん赤い色がうばわれていく。
 熱が、冷めていく。
 さっき冴々と光っていたはずの鉄色は、今はもう、じゃり道の上、焦げた鉛色にしか見えなかった。
 だらしなく転がっている、擬人化された太陽像は、守護像でも何のシンボルでもなく。
 汚れた鉄の物体でしかなかった。
「おれ」
 像を見おろしたまま、ぼそりと、範紀が口を動かした。
「こんなとこ、逃げてやる」
 ……目にたまっている涙が、こぼれないように。
 そうっと首をねじって、範紀を見上げた。
 範紀も。涙をこぼしてはいなかった。
 範紀の目、いっぱいに張った涙に、外灯の光が淡く映りこんでいる。
「…………」
 まばたきをした。
 すると瞳の表面を、せいいっぱい決壊せずに覆っていた涙が、ぽたん、ぽたん、とこぼれていく。
 ――また、『終了してる』と思った。
 たとえ、範紀自身が、心からここをうとんでいるにしても。
 ここ以外の場所、一般の社会で暮らしていくのは。
 範紀にとってものすごく怖くて、大変なことのはずなのだ。
 お金を持ったことも使ったこともない。テレビもマンガもゲームもスポーツも……『大衆の文化』の知識がぜんぜんない。他にもいっぱい、特徴があって。つきあいづらいとかカンが悪いとかいう域じゃない。
 ……それを、その困難さを、範紀は、自分でわかっているはずだ。
『自分はかかしみたいだ』と自覚している位だから。
 今の言葉にも。それが、あらわれていると思った。
 ヤケの入った乱暴なつぶやき。威勢だけはよくて。だけど、なんかの捨てゼリフみたいに、実行力が感じられない。
 ……もう威圧感はない、凛と立ってはいない、地に臥した太陽像を、眺める。
 腹いせ――だったのだろう。
 これを折った、範紀の行動の、源は。
 自力じゃとても運命に抵抗できない。けど、うねって燃える腹立ちに悲しみに耐えられない。だから。
 そう。
 自分と、同じ、無力な心。
「…………」
 はぁ、と息をついて、保は。
 鼻筋をつたって落ちていく、自分の涙を見つめながら、うなだれた。
 範紀が片腕を絡めるようにして、保の首を、絞めてきた。
 そのまま保の全身を、やわらかく抱きしめてくる。
「…………」
 範紀は、一瞬。
 厚く赤い、自分の下唇を噛んで、黙ったあと。
 言葉をつむぐ。
「……ウソ、なんだ」
「うん」
 保は、まつげを伏せながら。
 かすれた、あきらめきった声で、応えた。
「……ホント、に、イヤ、なのに……」
 ぶるぶる。
 なんかの病気に罹ったように、速く震えていた。範紀の躯は。
 保の体まで、震動してしまう。
 範紀のほほが、かすめている首筋も。濡れて、冷たくなっていく。
「うん」
 その雫を感じながら。
 保は少し、無意味に、うなずいた。
 ……範紀が、深く。
 死にたいみたいに長く長く、途切れることのない息を吐いた。
 その果てに。
「……いてほし、ぃ、……」
「うん…………」
 保は、瞳を閉じたまま。
 範紀の匂いを、吸いこんだ。
 目を閉じていても、まぶたに、範紀の顔は浮かんだ。
 今まで見ていた、うるみきった瞳の、いたいけな顔。
 自分だけには、はにかんでわずかに笑う、顔。
 セックスに夢中になっている時の、怖いくらい真剣な顔。
 ……こんなに色んな表情ができるのに。
 範紀は、このまま。
 中学を、義務教育を終えたら、範紀は高校には行かず、この施設で仕事をするようになる。
 あるいはどこか別の施設に移住して、そうなる可能性だってある。
 毎日学校に通っていた今までとは違い、ほぼ出なくなるのだ。
 自由時間は実質、与えられないから、遠くで生活する保とはもう会えない。
 あの布教の小冊子を作った日みたいに。保が会いにくることはできるが、そういう時はどうせ二人して作業をさせられるから、二人で長く話すことは、できないだろう。
 外に出ることなく。
 慣れているけど、なじめていない場所で。
 ずっと。
 生きていく。
 あの闇鏡みたいな瞳で。
「…………ッ!」
 ――ビリッと、脳裏が破かれる。
 そんな風に頭の中に、強烈な閃光が走った。
「……やだ、よ……」
 無意識に、口から。
 低い言葉。ほとばしるみたいに。
「……なんでっ、置いていかなきゃいけないんだよ!」
 視野を覆っていた範紀の肩が、いきなり遠くへ離れ、視界が晴れて風景が映る。
 暴れるようにその肩をつきとばし、絶叫していた。
 ばらばら音をたて、目から涙がこぼれていく。
 肩をいからせ、興奮しすぎて前のめりになりながら、保ははぁはぁ荒く息をつく。固く握ったこぶしが、わなわなと震える。
 だって、自分の前では。
 あんなに、人間らしい、表情が。
 こっちをひっかきまわすくらいの怒りも、胸が溶け出す喜びも、魅入られて呼吸が奪われてしまう悲しみも……見せるくせに。
 なんで、なんであきらめて。
 置いていかなきゃいけないのか。
「ホントに出ればいいだろ!」
 範紀がつきはなされた距離から、瞳孔が開くほど目をいっぱいに見開いて、保を見ている。
「俺、好きだろ!」
 続けざまに小さく叫ぶ。
 ……範紀は奇妙に、おろおろと。
 母親をふりかえるみたいに、肩をひねって、黒く沈んだ施設の建物をあおいだ。
 それから保を見て、茫然と、
「ムリ、だろ……?」
 とつぶやいた。
 ――両方の意味を含んだ問い、に聞こえた。
『自分はここじゃないと生きていけないだろう』というのと。
『他人の子どもを連れていってくれるわけがないだろう』というのと。
「知るかよ!……俺だって自殺未遂だって何だってするよ!」
 涙をぼたぼたとこぼしながら、怒鳴った。
「……ッ」
 範紀がまるで、おそれるみたいな表情で、息を呑んだ。
 お構いなしに、いちずに想った。
 そうだ、なんで範紀だけなんだ。
 いなくなったら潰れてしまいそうなのは。範紀だけじゃない。
 白い包帯が目に浮かぶ。
 朝日に純潔だった。
 底冷えがするほど一心だった。
 なんで。全部ぶち壊す覚悟で抵抗するのが、範紀だけなんだ。
 親を困らせることがない、泣かせたことなんかない、いい子だった。
 だけどそんなの、……比べれば、ちっとも大事じゃないのに。
 なんで『常識を超えられない』って思っているんだ。
 俺も。
 おまえも。
 冗談じゃない。
 冗談じゃないんだ。
「俺がこうでも、そんでもおまえはあきらめんのかよ!」
 こぶしをわななかせ、完全にヒステリックな声で。理不尽な怒りを相手にぶつける。
「…………」
 じわりと、催眠がとけていくみたいに。
 睨み上げている、範紀の瞳が、黒く変化していった。
 複雑な深みのある色に。
 茫然とした色ではなく、何かを決意していく瞳の色に。
「……っ!」
 突如、紅い口を、真一文字に結び。
 がっつと、範紀はいきなり、右手首を強く握ってきた。
 そのまま、ぐいぐいと歩きだす。
 ――山をくだる方向へ。
 ふっくらとした、小麦色の手、いつもの。
 緊迫でか、わずかに、粘性のある汗をかいているのが、伝わってくる。
 ……手を引かれるまま、保も歩き始めた。
「――、…………っ、ッ」
 ぐすん、ぐず、と鼻をすすり続ける。
 興奮しすぎて、涙がどうしても止まらなかった。
 ――ただ、この手を。
 強く自分を求める手を。
 自分が強く求めている手を。
 自分から、相手から、あきらめなくていい。離さなくて、いい。
 そんな予感。
 それだけでもう、涙が止まらなかった。

 ◆

「……じゃあ」
 保の父親は。
 丸い顔型の童顔なのに、年令より老けて見える。ひたいの髪がMの字に薄くなっているせいだ。
「君はその宗教を、出たいんだね」
 保と範紀は、並んで、保の家のダイニングで、父親と向かい合い座っていた。
『お客さんが来た!』とはしゃぎかけた芽衣子は、むりやり布団に入れ寝る部屋に閉じこめて。
「…………」
 範紀は、口は開かず。
 それでも、頷いて返しては、いる。
 これでも範紀としては、努力をふりしぼっている反応だ。
 ――山をくだって、行きつく心当たりは、やっぱりここしかなかった。
 なにせまだ、中学を卒業すらできていない、お互いに。
 親を説得して、できる限り協力してもらうことが、現実的にどうしたって不可欠だった。
「でも、うちがしてあげられることなんか……」
 悲しそうだけれど。
 にがそうでもある表情で。
 父親が、語尾を濁す。
「…………」
 緊張で渇いた保の喉が、ひきつる。
 ……やっぱり、終了しているコメントだ。
 純粋につっぱしる我が子の、幼いオロカさだと、悪意はあまりなしに、頭からなだめようとされている感じ。
 だけど、こんなやんわりとした拒絶に、ちょっとだって挫けている場合ではないのだ。
「そんな、いろいろ、してほしいわけじゃないんだよ」
 厳しい顔つきをした自分の父親の顔を見つめ、保は必死で訴えた。
「でも、高校は?」
 保の右側、父親からは左側にあたる位置。
 机のサイド、やや保の方に近い位置で、ちんまりと座って静観していた母親が、尋ねてくる。
「高校はあそこの子は、どうせ進学しないんだ」
 保は、今度は母親の方を向いて言った。
 やっぱり母親もずっと、困り顔をしている。
「あそこから範紀みたいに希望して出た例って、みんな、おじいちゃんおばあちゃんとかに引き取られて、なんだよ」
 どうしても説得しきって、手助けを約束してもらわないといけない。
 退路がない、そのプレッシャー。
 胃がしめつけられて、興奮で涙腺が、常に壊れかけている。
 でもどっちも力ずくに、押さえつけているしかない。
「範紀は、親が入っちゃってるし、親戚もいないんだよ。……な?」
 範紀が、保の視線を受けて、うなずく。
「本当に?」
 父親が、なんだか疑わしそうにも見える目で、言った。
「……一人も、会ったこととか、ないです」
 範紀が細い声で回答する。
「……でも、脱走しなくても……脱会くらい、好きにできるんじゃ……?」
 少しだけ、声を和らげて。
 困惑したように、父親は言った。
「…………脱走、しても、捕まって……戻されてます」
 範紀が、ぼそぼそと、それでも途切れずに続ける。
 保は自分がしゃべる時よりも、胃が痛くなってきた。
 ほんとは初対面の人間になんか、しゃべれる奴じゃないのに。範紀も、がんばっている。
「……児童、福祉施設、とかに。行ったやつも、います、けど……。引き取り先が、ないから」
 範紀はうつむいて、
「やっぱ、返されてきてて」
 自分の指先を組み合わせながら、なんとか答えていく。
「だから、ただ脱会したいんだとか言っても……」
 相手にされない。
 言外に、範紀はそう言い切った。
「……そんな」
 父親が、髪が薄くなっているひたいに、右の手先を、ちょっとあてた。
「そんなのって、あるのか?」
 それから手をはずし、父親は、しばらく黙って保と範紀を見てくる。
 範紀はうつむいたまま、保は、すがるように父親を見つめたまま、次の反応を待った。
 ……ずいぶん経ってから。
 父親は、ため息を吐いた。
「でも、中学は出ないとまずいだろう?」
 ――やっぱり冷静に、そう言って、
「それに、人様のお子さんを、なあ……。勝手に……」
 と続け、母親の方を、同意を求めるように見た。
 それから机に大きく身を乗り出してきて、
「ご両親にわかってもらえないのか? 君の気持ちを」
 と。
 叱るような調子で、範紀に問いかけた。
「親は、昔から、入ってるから。……母親は、もう何年も、見てないし」
 範紀は顔を伏せたまま、それでもしっかり言う。
 そしてわずかに悲しげに、続ける。
「……父さんにも、世話係の言うこときけ、しか、言われたことないし」
「……俺も、会ったこと、あるけどさ」
 保はたまらず、範紀の言葉にフォローをかぶせた。
「そんな感じの人じゃなかった」
 この間会った、範紀の父親が頭に浮かぶ。
 あれは範紀にとって、他人だ。
 範紀のことをしっかり見つめようとか、わかろうとか、何もしていない。
「…………」
 父親はまだ、眉間に皺を寄せた、あからさまに不機嫌な表情でいる。
『やっかいな』という風に、その目は保を少し、責めていた。
 保はそのまなざしも、強く見返しながら。つばを嚥下して。
 ほとんど一枚しか持っていない切札を出した。
「キィ、自殺未遂したことあるんだ」
 一瞬。
 場が静まりかえるのが、わかった。
「……あそこにいるのが、イヤで」
 少しウソだったが、そう説明した。
 父親だけ、目を丸くしている。
「あなた」
 少し涙目になっている母親は、父親に向かってそう、話しかけた。
「そうなんですって。それは、それだけは、保に前から聞いてたの」
 そう言ってくれた。
「真剣なんだよ。キィ、真剣に、出たいんだ」
 保は懸命に、たたみかける。
「このまま引っ越して、キィになんかあったら、俺、俺も」
 息を詰まらせて、保は続けた。
「どうなるかわかんない」
「おい!」
 父親が白目を剥いて、保を咎めた。
 その様子には、さして反抗期がなかったためあまり見たこともない、叱りつける父親の威厳が、充分で。
 保は瞬間的に、ビクリと体を揺らしてしまったが。
 それでも言う。
「……おどすわけじゃないけど、ホントに」
 頭に血がのぼりすぎて、とうとう、目に、大量の涙がじわりと出てきた。
 今にもしたたりそうになる。
「だって、キィにはこれで、最後のチャンスなんだ」
 俺しかいないんだ。
「キィをこのまま置いていけないんだ。お願い」
 気合いで見開きすぎた目が痛い。
 そんな血走っている目で、保は、机上で土下座をするように頭を下げた。
「……お願いします!」
 これで断られたら、範紀と一緒に家出するしかないのだ。
「仕事とか生活、おちつくまでの面倒でいいんだ。それだけでいいんだ!」
 常識外のことを言っているのは、わかっていた。
 保が把握している父親像は、優しくない人じゃあないのだ。
 だけど過労死という単語がチラつくほど、よく働いてきた人だった。
 独立して建築設計事務所をかまえ、努力して軌道にのせて。
 その開業の時の借金だって、まだローン状態でまだけっこうあるらしい。
 家族を守っていく以上のこと、こんなおおごと、容易に決断できるわけがない、んだろう。
 そんな想像が、あまり実感が伴わないながらも、できた。
 それでも。
 負担をかけることがわかっていても、他に方法はないのだ。
「…………」
 容赦なしの懇願を受けて、父親は、何も発言しなくなってしまった。
 顔を伏せて、重々しく考えこんでいる。
 だんだん、時空が歪み、意識が煮飴みたいにねじれていくような。
 沈黙だけが、その場を支配していった。

 ◆

「……だから、中学の卒業式が終わるまでは、脱走しちゃダメだぞ。中卒以上じゃないと雇用されないし、絶対連れ戻されちゃうから……」
 保は、布団の上に片膝を立てて座って。
 範紀と並んで、メモをのぞきこみながら、行動の確認をひとつひとつしていた。
 もう四時を過ぎていた。
 光線自体は感じないものの、窓がわずかに青く明るい気もする。
 ――だいたいの『脱走計画』を立てるのに、今までかかったのだ。
 結局。
 今すぐではなく、一年と四箇月後の中学卒業まで。
 範紀の脱走は、延ばすことに決まった。
 厳然たる親権者が範紀の父親であり、その人が組織を離れる意志がなさそうである以上、卒業まで待たなければ意味がない。
 ――保の両親は。
 そんな風に、主導で計画を立てていってくれた。
 そうして、段取りを組み立てていっているうち、どうしようもなく遅くなってしまったので、範紀は今晩、こうして泊まることになったのだ。
 ……脱走する企てを持っている以上、本当は、施設との揉め事は避けたい。夜のうちに帰したかったのだけど。
 どうせもう、抜け出したことはバレているだろう。
 太陽像を折ったことも、おそらく時を置かず、バレている。
 それらは、ひっくるめてなんとか、『保の転校が本決まりになって荒れて』でごまかすしかないだろう。
 絶望という根拠で、信憑性はある。
「靴の中のテレカと金、見つかるなよ」
 脇にある範紀の顔に、視線を振り、保は念を押す。
 真面目そのものに、こくり、とうなずく範紀。
 ……服の中は、探されるかもしれないので。
 さっき範紀の靴の中に、母親が、ポイントに指先をつっこんで、ほじくるようにしないと出現しない、超薄のポケットをつくってくれたのだった。
「で、こっちが、うちの新しい電話番号で……覚えた? 下校中のチャンスとかに電話してこいよ」
 保はシャーペンの先で、紙に書かれた電話番号をたどりながら、続けた。
 手紙は、開封チェックを受ける可能性が高いので、連絡には使えないのだ。
「あと、置き手紙の文面……。脱会して就職します、ってちゃんと書き置きして……。親宛てに挨拶も、書いて」
 これも両親からのアドバイスだった。
 誘拐にならないために、意志だけははっきりと残し置いて、行かなければならないのだ。
「出されちゃうだろうけど、捜索願い出すなって、一応頼んでおいて……。…………」
 下唇に、親指をあて。
 保は、ぶつぶつ呟くのを切り上げ、ふぅ、とため息を吐いた。
 えいっ、と固まった背筋を伸ばし。
 ふとんの上に、ぽふんと体を投げ出す。
「……やっぱ、オレらって子どもなんだな……」
 だら、と、右手を持ち上げて。
 それをひたいに落とし、前髪をぐちゃぐちゃにかきまわしながら、保はもらした。
 まだおおまかとはいえ、こんな、一応整った計画。
 しかも数時間で。
 自分達だけだと、たぶん立てられなかった。
 想定することは、やまほどあった。
 太陽像を折ってしまったこともあり、範紀が再び、見知らぬ施設に移される可能性も高いし。
 脱走した後、施設側からの訴えで、警察が動く可能性もある。
 そういう可能性を考慮済みの計画にしたててくれたのは、結局もちろん、保の父親と母親だった。
 ……つくづく、大人の協力なしには、脱走は不可能だったと思い知った。
 その後の暮らしがあるのだから、なおさらだ。
 ――できるだけ、親に負担なんか、かけないつもりだったけど。
 この調子だと、この先もいっぱい、かけてしまうのかもしれない。鬱々とした気持ちになる。
「でも、こんだけしても、危ねぇのかな……」
 ごろごろと敷布団の上、回転しながら。
 今日だけでも露呈した自分の幼さと、先行きの困難さに、不安にかられる。
 ……範紀の返事がないので、保は口をつぐんで、寝ころがったまま窓に、目を向けた。
 正方形の闇は、もう一段、明るさを増している気がした。夜明けの近い、ミッドナイトブルーを弱めた空の色。
「……も、すぐ、夜、明けるな……」
 ぼんやりと、小さく言った。
「……もし、捕まって、連れ戻されてもさ」
 範紀が唐突に口を開いた。
 保はパッと首をひねって、横にいる範紀を見上げる。

 範紀はつられてなのか、さっきまで保が見ていた窓の方向を、見ていた。
「ちゃんと、戦うよ」
 揺るぎない、力のはりつめた声で。
 綺麗な積極性の滲んだ、迷いのない、漆黒の瞳で。
「絶対、出るよ……」
「…………」
 保はぱちぱちとまばたきをした。
 範紀がひどく、普通に。
 人間らしく見えた。
 範紀が少し、首を丸めるように頭を垂れて、続ける。
「……がんばるよ。外に出るのも、ほんと、初めてだけど」
 それから、ふりかえり。
 じっと保を、見おろしてきた。
「保が、いるんだもんな」
「っ……」
 その言葉に、ピクっと反応してしまう。
 ぎゅ、と、抑えるように保は、自分の両手を握りしめた。
 膝をかかえるようにして座っている範紀が、一直線に見下ろしてきている。
 隙間ない密度で生えている、範紀のまつげ。
 影を落とすほど長いそのまつげの下から、真摯な視線が、顔に降りそそいできている。
 ――コイツは。
 ところかまわず、いきなり色気、撒きだすから困るんだ。
 反抗するため、むずかしく眉をしかめて、見つめかえしながら。
 心の中で、そう毒づいた。
 ……範紀の手が、のびてきた。
 保の、乱れっぱなしだった前髪を、大切、に撫でてくる。
 そのまま、皮が厚くて、でも柔らかい手のひらを。何度も、ひた、ひた、と、おでこに当ててくる。
 まるっきり、愛撫するような動きへ、移行していく。
 保はたまらず、固く目を閉じ、あせって、
「……わぁ、……キぃ……っ」
 と咎めるような声を出した。
「うん……」
 範紀が、抑揚のない声でのんびりと答える。
「……傷、痛いもんな」
「…………」
 保はついに、顔を完全に赤面させ、
「……それ以前に、親いるだろぉ……」
 と脱力しながら言った。
 今日できたばっかの恩もあるし。
 一生カミングアウトできないかもしれない、死力を尽くして隠さないといけない関係なのに。
 上体を起こし、範紀の肩に、頭をのせる。
 保のパジャマが小さすぎたので、範紀は保の父親の、おじさん臭いグレーに縦じまの厚手パジャマを借りている。そのパジャマの肩に、くしゃりと皺がよる。
「……絶対、逃げろよ。……ヘマすんな」
 低く。
 すごむように、真剣に言う。
「うん」
 いっそあんまり気負いのない、素直な返事がかえってきた。
「……明日、帰ってからが問題だよな……」
 施設が移されるかどうかで、脱走の困難度が変わってくる。
 せめて今日、保のもとに容易に抜け出してきたように。
 抜け道くらいは熟知している今の施設から、移されないといいのだが。
「やっぱ……像、折った犯人だって、バレてるよな」
 なんせバーナーを、あのまま放りだしてきてしまった。内部犯に決まっている。
 そして朝まで帰ってこなかった範紀は、絶対犯人だと思われているに違いなかった。事実だが。
 保は範紀の肩に頭を押しつけたまま、ぐいと首をねじり、心配そうに範紀を見上げた。
「また殴られるんじゃねーの?」
「そういうの、あんま、怖くはないんだ」
 淡々と。
 範紀はすぐに、言ってくる。
「…………」
 保は、ハ、とため息を吐いた。
 ぐりぐりと頭を、範紀の肩に押しつける。
「……怖がれって……」
 呆れたようにそう言うと、範紀がちょっと淋しそうに首をかたむけて。
 でも、そのあとそれ以上に嬉しそうに、笑った。

 ◆

 すがすがしい朝だった。
 強烈な冬の朝日で、視界がなんとなく白っぽい。
 ほとんど寝てないせいもあるかな、と思い、保は一人、くすりと笑った。
 隣を歩く範紀が、不思議そうな目で見てくる。
 まだ朝の六時すぎだった。
 範紀をできるだけ早く帰さないとまずいから、二人はパンだけを食べて、さっさと家を出てきたのだ。
 日曜の朝なので。
 なぜか保の父親と、妹の芽衣子が、三十メートル程後ろから、ほてほてとついてきていた。
 父親は芽衣子に叩き起こされたのだ。今朝バドミントンをする約束を、してしまっていたらしい。半分以上閉じた目を、こすりながら歩いている。
「お兄ちゃん、待ってー」
 芽衣子が保に向かって、高い声で呼びかけてきた。
 それに応じ、いちおう保が振り向くと。芽衣子が父親の足元にまとわりついて、父親を、早く早く、とせかしているのが見えた。
 芽衣子は、起きたら、保も起きていたので、保にも遊んでもらうことに決めたらしい。
 用事だからついてきちゃだめ、と玄関で言い聞かせてきたのに、父親を引きずって、保についてきてしまった。
 ……どうせ、範紀を施設の前まで送るわけじゃないので、追い返しはしなかった。
 でも、芽衣子が追いつくのを待っていてはやらない。
 今は範紀の隣にいることの方が、大事だった。
 二人だけでいることの方が。
 ……なんだか、異様にのんびりとした空気だ。
 日曜六時の橋の上には、全然人がいない。
 車の通れる道路でもないので、いるのは保達と、遅れてついてくる芽衣子達だけだ。
 保は橋の上から、首をめぐらして景色を眺める。
 いい天気だった。
 乾ききった風。スーパーが橋の下方に見える。遠くに、マンションの群れ。
 隣の、範紀を見た。
 なんとなく嬉しそうに、前を見ていた。
 保の視線に気がついて。どこか豊かに、瞳を細める。
 ……こいつ浮かれているな、と感じて。
 保は、範紀に笑いかけた。
 それから、ああ、自分も浮かれてる、と思う。
 思いきって、範紀の右手を確認して、自分の体で隠すようにしながらその手を取った。
 指々を絡めて、強く握る。
 二つの手を、一つのこぶしに、一つの個体にするみたいに。
 範紀が、自分の頭を見おろしているのがわかった。その視線を感じながら、保は言う。
「……あきらめ、んなよ」
 静かにそう、言う。
「うん」
 逡巡なく、範紀が答え。
 そして。
 範紀が、立ち止まった。
 もう一度、答えてくれる。
「……うん」
 保も立ち止まって、範紀の顔を見上げた。
 すると範紀は、前方を向いていた。
 前へ続く道を見つめていた。
 真っ黒な、どんぐりまなこが。
 朝日に光っている。
「……ここで、いいよ」
 範紀が前を見ながら、はっきりと言う。うつむかずに。
 保はハタリ、まばたきをして。
「……うん」
 言って、範紀から、一歩離れた。
 範紀が、歩きだす。
 ……三歩、あるいてから。
 首だけで保を振り返ってきた。
 振り返ったまま、足だけを進めていく。
 保は、やっぱ、なんか、範紀らしいなあ、と苦笑しながら、そのまま範紀を見つめていた。手も、軽く、振ってやる。
 橋を降りた地点で、ようやく範紀は、首を戻し普通に歩きだした。
 その背中が、だんだん小さくなっていく。
 遠ざかっていく。
 離れていく。
 ――だけど。
 きっと平気だ。
 自分の限界に、相手の限界に、大人ぶって納得せずに。
 隣にいることをかたくなに守り続けようとすれば。
 きっと、どんな形でか、大丈夫なんだろう。
 ……ぼんやりと、遠く範紀を見送っていると。
 保はふいに、足元に気配を感じた。
 芽衣子が追いついてきていた。
 いつの間にか、父親も、すぐ背後にいた。あいかわらず眠くてたまらないといった顔をしている。
 芽衣子が大きな瞳を、ぱちぱちとしばたたかせながら。
 いきなり保に、
「ねー、お兄ちゃん、のぉきくんと、結婚するの?」
 と聞いてきた。
「……はぁ?」
 保は思いっきりすっとんきょうな声を上げた。
 次いで、あっという間に、耳の裏側まで真っ赤になってしまってから。
 ……手遅れにあせった。
 だって、父親が、そばにいるのに。
「すっごく仲良しなんだもん」
 保を見上げたまま、ひどく無邪気に、芽衣子は続ける。
 真っ赤になったまま、保が何も言えないでいると。
 父親がしゃがみこんで、芽衣子の顔をのぞきこみ、うさぎのように両耳の上、二つに結ばれた芽衣子の髪をなでながら、言った。
「あのね、芽衣子ちゃんも、中学生くらいになったらわかるよ」
 言い聞かせるように続ける。
「中学生くらいのときが、一番、お友達が大事でしかたないんだよ」
「ふぅーん」
 芽衣子が。
 明らかによくわかっていない調子の声で、返事をしていた。
 ……その会話を横耳で聞きながら。
 まだ赤くなったまま、保はなんとなく、昨日の夜のことを思い出していた。
 あの、施設からの帰り道を。
 まっ暗な視界の中を、ぐいぐいと歩き、男の力強さで、人間の力強さで、自分の手を握って、引いていた範紀。
 体温の高い、肉厚な手のひら。
 ――不安はいっぱい、あるけれど。
 これからはもう、がんばれる。
 そう、昨日までと違って今日からは、あの手を離さないよう、一生懸命、がんばれるのだ。
「…………」
 保はすっと目を閉じて。
 それから、にっこり、笑った。幸せだった。
 ……空を見上げると、山が、昇りきった朝日の下。
 綺麗に稜線を、描いていた。