商店街のアーケードをくぐると、さっそく白髪だらけの痩せ細った老人が、一人寝ている。
 おおみそかの晩で、雪も降っているのに、毛布を一枚かぶっているだけだ。店の軒下に入ってよけてはいるが、雪が体にも少しつもっている。
 弘治の母親が、そばに駆け寄ってしゃがみこむ。牧師の酒井さんがそれを追いかけ、大きな手さげ袋から缶コーヒーを取り出し、母親に手渡した。
 母親は缶コーヒーを老人につかませ、カン高い声で言う。
「こんなところで寝てちゃダメだよ?」
 老人はよろよろと上半身を起こし、ありがたそうに温かいコーヒーを手で包む。震える手でプルを開け、すする。
 その背中を、母親が必死でさすり始めた。
「こないだ募集した、教会の仕事にもこなかったでしょ? どうして? ちゃんと来なきゃ」
 老人は目を細め、ごまかすように笑った。何本も抜け落ちた歯が、口の中のところどころに真っ暗な穴を作っている。
「すまんね、すまんねえありがたい……」
 コーヒーをすすりながら、老人がそうつぶやく。母親がまた、カン高い声で言い聞かせるように叫んだ。
「あたしじゃないの、そうじゃないのよ、キリスト様がね、キリスト様のおかげなんだよ……」
 弘治はゆっくり一度、まばたきをした。
 視界の中をちらちらとまばらに、雪が舞う。
「母さん」
 母親の痩せたシルエットが、振り向いた。
「俺、川の方に行ってくるから」
「そう、よろしくね」
「酒井さん、お願いします」
 母親の後ろに立っている、牧師の酒井が、軽くうなずいた。
 弘治は踵を返し、川の方へ歩きだした。背後から、また母親の高い声が聞こえた。
「ケーキね、ケーキ、食べようね。せっかくおおみそかなんだからね……」

 ◆

 川沿いのホームレス小屋が並んでいる地帯につくと、弘治はまず、一番はじのはずれにある、大きめの小屋のビニールシートを叩いた。
「なにー」
 中から子どもの声が返ってくる。弘治は入り口のビニールシートをめくった。
「ああ、弘治」
 防寒のため山積みにされている古雑誌の奥から、なつめがひょっこり顔を出し、そう言った。下半身に毛布を巻いている。
「ケーキとコーヒー、持ってきた。食べるだろ?」
「あーおばさんが焼いたの。うん」
 そう棗が返事した。
 弘治は靴を脱いで、畳に上がった。
 小屋の中はわずかに悪臭が漂っている。一歩進むと、雑誌の山が視界から消え、カセットガスコンロ、ポータブルテレビ、小さなタンス、なべ、などの道具が、ごちゃごちゃと置いてある空間に出る。
 石油ストーブの前に、棗が座っている。
 弘治も座り、肩にかけていたカバンをおろして、ケーキの入ったタッパーを取り出す。そして棗に聞いた。
「一応、チョコとプレーンがあるけど。どっちがいい?」
「甘いのどっち?」
 棗が弘治のカバンを覗きこみながら、言う。棗の、垢とフケのすっぱい匂いが、ふわっと弘治の方に流れてきた。
「チョコの方が甘いよ」
「じゃ、そっち」
 ラップにくるんであるブロックケーキを弘治が渡すと、棗はもぐもぐと食べはじめた。生地に練りこまれているクルミの砕ける音が、サク、サク、とたまに聞こえる。
 弘治は、別の保温袋から缶コーヒーを出す。プシ、とふたを開けてから、棗に手渡した。
「はい」
「ありがと」
 飲み食いする棗を見ながら、弘治はぼんやりと、棗は何日、銭湯に行ってないのだろう、と考えた。
 油っぽくまとまって、くしゃくしゃにカールした髪、鼻のあたりにいくつかふくれあがっているにきび。目尻だけが切れ上がった、丸い目のまわりにも、小さなにきびが浮いている。
 多分、そろそろ二箇月くらい入っていないはずだ。
「……今月、学校行った?」
 行ってないだろうな、と思いながら弘治は聞いた。案の定、子どもっぽい、弾力のある高い声で棗が答える。
「行ってないよ〜」
「……終業式くらい行ったほうが……」
「いいんだよ、多分、いまさら。それに行ったっていじめられるもん」
 あっさりと棗が言う。弘治は軽く息を吐いた。
 棗は現在、中学二年生だが、あまり学校に行ったことがない。小学校の頃もそうだった。汚いっていじめられるしね、と、最初に聞いた時など、明るく言ったものだ。
「銭湯代、……アレ、なら、うちに来て入ったらいいのに」
 弘治が言うと、ケーキを食べおわった棗は、首を少しかしげて、
「湯ぶね汚れるから悪いよ。いいの。銭湯で」
 と言う。
「……んなこと言って銭湯、めったに行かないじゃん」
 少し怒って弘治が言うと。
 棗はなぜかにた、と笑った。
「だってさあ」
 弘治をいたずらっぽく見上げて言う。
「今、入る必要ないだろ?」
「…………」
 弘治は顔を赤くした。うろうろと小屋の四方に視線を飛ばす。
 対照的に、棗はくっくっ、と笑い始めた。気ままに弘治の方にはいずってきて、顔をそらしたままの弘治の顔に、手をのばしてくる。
「……ちょっ」
 弘治はあわてて、棗の手首をゆるくつかんだ。
 棗はおかましなしに、弘治の、真面目っぽい黒ぶち眼鏡を取ってしまった。弘治の横幅が広い目が直接、さらされた。
 ……完全に寄りかかってきた棗に、弘治は鼻や、小さめなおとなしい口元を、順々にさわられる。
 弘治は振りほどくこともできずに、じっとされるがままになっていた。
 ……間近にある、丸くて幼い棗の顔を、目を合わさないように見つめる。
 棗の、ふっくらと厚い下唇がひび割れて、白い薄皮がはりついていた。
 いつも、棗はそうなのだ。キスするとき、がさがさした感触が、いつも、していた。
 そんなことを思い出してから、弘治は視線を、棗のひたいに移す。
 棗のおでこの、左の生え際のあたり、十五センチ四方は、異様に毛が薄い。その毛が薄い所の地肌は、紫色で、ひび割れている。
 痛々しい、やけどの痕だ。
 ……弘治は左手を伸ばして、棗の小さなほほをつつんだ。
 棗は目を細めて、弘治の手のひらに、ほほすりつけてきた。あたたかいのか、気持ちよさそうだ。
「……何?」
 そして棗は、少しぼんやりした声で言った。
「……寒いと」
 弘治はぽつり、ぽつりと言う。
「いつもより、痛む?」
「痛まないよ」
 棗は目を閉じて、答えた。
 そしてすぐに開けた。
 弘治の鼻に、手に持ったままだった眼鏡を、カチン、とかけ戻してくれる。
 それから、棗は弘治に体重をかけてくるのをやめて、少し離れ。よいしょっと姿勢をまっすぐに直しつつ、笑いながら言った。
「痛くないって、もう」
「……うん」
 弘治は低くつぶやいた。
「……うん」
 うなずきながら、もう一度つぶやいて、棗のほほからやっと手を離す。
 棗はへろっと笑い、弘治に、
「……牧師さんとおばさんは?」
 と聞いてきた。
「え、……あ、うん」
 一瞬、何を聞かれたかわからずに、弘治はまばたきをした。
 そして、気を取り直して答える。
「商店街の方、見回ってる。……棗こそ、おじさんは?」
「ねねさんのトコ。みんなで集まってる。餅代でたし、年明けまで飲むよ、きっと」
 ねねさんは、一年ほど前から住みついた、同じホームレス長屋の住人だ。ホームレスなのに化粧をいつも欠かしたことがない。たぶん五十代くらいの細い人で、男にやさしく、男好きだ。そういうわけでねねの小屋は、たいていの夜、男達の酒場のような状態になっているのだった。
「……餅代ってなに」
 弘治は迷ってから聞いた。棗の世界の単語を知らないのが、恥ずかしい。
「なんか、年越しだからって政府がくれる、おこづかいみたいなモンらしいよ」
 棗はあっさり答える。子どものくせに、妙にホームレスが板についているのだ。
「ねねさんってさ、人気あるよねー」
 棗が、ころりと寝転がりながら言う。
「……化粧も、ちゃんとしてるもんな。ここ、女の人なんか、二人しかいないのに」
 弘治はうなずく。
「スナックのママやってたって」
「……そうなの?」
「本人にそう聞いたって、父さんが。ホントかなァー。……なんでこんなトコにいるかね」
「…………」
 そうだな、なんでこんなトコに、とも言えないので弘治は黙った。
 棗がテレビに視線を向けて、明るく言う。
「あ、名物、出た」
「……あいかわらず、衣裳すごいよな。なんの歌でも関係ねー、って感じ」
「今年はミカワの負けだよねー」
 棗がうなずく。そして、続けた。
「おれ、おおみそか好きだな。この対決とかー」
 棗は妙に、真面目な目でテレビを見ている。
「金かかってて、景気いーし、好き」
 景気がいいことなんて、それくらいしかない。
 とでも言いそうな、妙に老成したセリフ。
 弘治はため息をついて、立ち上がった。
「そんじゃ、ほか行くわ」
「うん」
 棗はテレビから目を離して、振り返る。
「いってらっしゃい」
 見送る笑顔で、そう言ってくれた。
 小屋を出ると、雪の勢いが少し強まっていた。
 大きな川に沿った、河川敷の小綺麗な石畳の遊歩道は、ゆるくカーブを描いて視界から消えている。
 その道に延々と、鉄パイプの骨組みにビニールシートをかぶせてできた、ホームレス小屋は続いている。

 ◆

 今年の春、亡くなった弘治の父親は、教会の牧師だった。
 父親は昔から、信者の奥さん方と一緒に、教会のすぐそばの大きなホームレス長屋へ、炊き出しなどのボランティア活動をしていた。
 それによく、弘治も母親もついて行った。初めて行ったのは、中学に入ったばかりの頃だったと思う。
 棗は、その頃からホームレス長屋にいた。
 最初は、棗の小屋は、父親と母親の三人暮らしだった。
 ある日、いつものように弘治がさしいれに行くと、扇風機と、ポータブルテレビの画面のガラスが、壊れていた。どうしたのと聞いたら、お母さんが出ていった、と、淡々と小学校六年生の小さな棗は言った。
 弘治が絶句すると、棗は子どものくせに、さまになった大人っぽい苦笑を浮かべて、いいんだよ、あの人、おれの本当のお母さんじゃないし、と言った。
 本当の母親は、ずいぶん昔に出ていっていたのだということを、弘治はその時、初めて棗に教えられた。
 ……いつも。
 そんな調子なのだ。
 学校でいじめられても、母親が出ていっても、そういう時には、絶対に、もろさや幼さを見せない。ただ、達観した静かな目をするだけの、棗。
 こんな子がいていいのかと、弘治だって思う。世の中を諦めた大人にまぎれた、無気力な子ども。
 棗の父親は、棗をかわいがってはいる。それでも、まともに働くことがどうしてもできないらしい。
 やくざにしか見えない大きな体で、アル中に近いけれど健康そのものだから、日雇いの仕事に志望した日はたいてい取ってもらえる。そういう恵まれた状況にいるのに。
 そんな父親とは引き離して、棗は施設で暮らしたほうがいい。
 それが弘治の父親の意見だったし、弘治もそう思っていた。
 だいたいあの火傷だって、ここに暮らしていなければ、できようがなかったのだ。
 ……だけど。

 そこまで考えた時、弘治はねねの小屋の手前にさしかかった。
 小屋の前に、誰かいるのが見える。外灯の下に立っているのが、なんとなくまぶしくて、かえってよく見えない。
 薄闇に浮かんだ、痩せた白い顔と、異様に肩幅の大きな後ろ姿。あれは……ねねさんと、棗の父親だ。
 何をしているのかよく見えずに、弘治は目をこらして二人を見つめてしまった。
 ……万札だ。
 棗の父親が、ねねに一枚、万札を握らせている。
 それがわかって、弘治はその場に立ち止まってしまった。
 ……するとねねが、弘治に気がついて。
 もじもじしながら、
「弘治君」
 と弱々しい声で話しかけ、近づいてきた。
「寒いから気をつけてね、ごくろうさまね」
 その明らかに、わざとやっている上目づかいや、外灯の光ではっきり目立つ、ねねの赤い口紅が、こわかった。
「これ、ケーキです。……みなさんで分けてください」
 弘治は早口でそう言って、ねねにケーキの袋を渡した。軽く会釈し、素早く通り抜ける。
 棗の父親は、最後まで振り向かなかった。
 二人を追い越して、弘治は棗がいつも着ている水色のパーカーのことを思った。
 夏以外、着たきり雀のそれは、弘治が中学の頃に着ていたお古だ。三年ほど前、弘治の母親が棗にあげたのだ。
 最初は明るい青だったのに、季節ごと、だんだんと色が抜けて白くなっていったパーカー。
 棗には大きすぎて、いつも手首のところで袖が幾重にも折り曲げられている。
 ……万札か。
 そう思った。それ以外のことは考えないようにした。
 どうせ、あの人が父親失格なのは、わかりきっていることなのだ。
 だから見かねた弘治の父親が、生前、施設に行くように棗を説得したことがあった。
 するとその時、棗は泣き出した。一生懸命、嫌だと首を振った。棗らしくなく、……子どもみたいに。
「父さんと離れるわけにはいかないんです。……一緒に暮らしたいんです」
 その時、棗のそばについていた弘治は、びっくりしたのだった。棗が泣くところなんて、それまで見たことがなかったのだ。
 あの棗が泣いてしまうくらい、父親と暮らしたいと思っているなら、弘治はもう、棗の好きなようにさせたいと思ってしまう。棗がもう何年も学校に行っていないことも、どうでもいいような気がしてくる。
 また棗が泣くのは、絶対に嫌なのだ。
 だいたい弘治自身は、棗にそばにいてほしいのだから。

 ◆

 ホームレス長屋がある遊歩道には、月に一回、県の見回りが来る。小屋を立ち退かせるためだ。そのとき小屋が遊歩道上にあると、後で撤去されてしまう。
 だけど遊歩道の横の、土手の上にある道は市の管轄なので、そこに一日だけ移動してしまえば、県の職員には何もされない。だから見回りの日はみんな、朝から小屋を解体して上の道に運ぶ。上の道で小屋を組み建てなおして、翌日、また元の道に戻る。
 行政との、いたちごっこなのだ。
 小屋は鉄のパイプと、ビニールシートと、段ボール、古雑誌などでできているから、これはけっこうたいへんな作業だ。教会の奥さまボランティアが、一番活躍する日でもある。
 今日は弘治も朝から、棗の小屋の解体を手伝った。
 棗の小屋、正確には棗の父親の小屋は、他の小屋より大きい。たいていの小屋は一・五畳からせいぜい四畳くらいの広さで、高さも低いのに、棗の父親の小屋は六畳ほどある。
 棗の父親は、このホームレス長屋に十年ほどいるし、体格もものすごくいい。だからある程度、ホームレス達の内部で権力がある。おまけに棗という子どももいるので、少し大きな小屋を持っても、周囲ににらまれないのだった。
 やっとできあがった小屋を見上げながら、弘治は棗と座りこんで、一息ついていた。
 そこに、全体を見回っていた酒井さんがやってきた。まだ二十代半ばの若い牧師だ。
「こんにちは。ごくろうさまですね」
 酒井は、なよなよしい、の一歩手前で踏みとどまっているような顔立ちを、にこにこ笑ませて二人にそう話しかけてきて、棗の向かいに座った。
 そして棗の頭の火傷痕を見て、痛ましそうに眉を寄せた。
「その傷、今年の夏に、暴走族に放火されたんだって?」
 酒井がそう尋ねるのを聞いて、弘治は川の方に視線を飛ばした。
 今日の川はおだやかだ。河口近くなために豊富な水が、さらさらと心地よさそうに流れていっている。
「はあ」
 棗が気の抜けた声で答えるのが、聞こえた。
「痛まない?」
 そう聞かれて、棗はカラカラと笑った。
「みんなそう聞くんですよね〜。大丈夫ですってもう。……古傷っつーのです」
 そうですか、とうなずいて酒井は、
「配膳はじまってるよ」
 と棗に教えた。棗はあわててぴょんと立ち上がり、ボランティアの人が食事を配っている川上に歩いていく。
 二人になってから、酒井は弘治に、
「棗くんって、ずっとここにいるの?」
 と聞いてきた。
「……ボランティアの人から聞きませんでした?」
 弘治は、顔をしかめて聞き返した。
 棗のことを調べられるのは、嫌なのだ。調べられたら結局、棗はここにいられなくなってしまう。
「みんな、よくは知らないみたいだよ。やっぱり弘治くんが一番よく知ってるだろうなあ」
「……うわさどおりですよ。ここで父親と暮らしてるんです。民生員にバレかけたら、あわててアパートに移る。やっていけなくなってまた戻る。何回もそれ、繰り返してるんです」
 むずかしい表情のまま、弘治が早口でそう言い終えると、酒井は少し苦笑して、
「棗ちゃんが、ここからいなくなるの、嫌?」
 と聞いてきた。
 ふいをつかれて、弘治は赤くなる。
 そして、これだけ嫌そうに言えばそりゃバレるか、と思った。
「……棗は満足してるみたいなんで。移るのはいつもすごいボロのアパートで、あの小屋とじゃたいして変わらないし。家賃がいらない分、飯が食えて、こっちのほうがいいかもしれないと思う位だから」
「そうか」
 少し迷ってから、弘治はつけ足した。
「……父親と、いたいみたいなんです」
 弘治は酒井の、かなり長い髪でほとんど隠れた横顔を、じっとうかがって、言う。
「そっとしといて、あげてください」
 酒井は答えずに、しばらく黙ったまま棗の小屋を見ていた。そして、また後で、と言って去っていった。
 弘治が小屋に入って待っていると、しばらくして棗が帰ってきた。
 深い紙皿に、どんよりとした黄土色と煮くずれたジャガイモが目立つ、カレーライスを持っている。そして、棗は口にプラスチックのスプーンをくわえたまま、言った。
「メチャ列できてたよ」
 弘治の前に座りこんで、間髪をいれずに食べ始める。食べながら、弘治に聞いてきた。
「弘治、食べる?」
 ……なんでこんなに腹減ってるのに、俺に分けてくれようとするんだろ。
 そう思い、少しあきれて、弘治が答える。
「……俺は家帰って食べるって」
 弘治はわりとおいしそうに食べる棗を、じっと見つめた。
 見慣れている、棗の細い細い手首を、強烈に意識する。
 ……やっぱし、腹へってんだなぁ……。
 弘治も何回か食べたことのある配給の食事は、味がやはり、弘治にはこんなにうまそうに食える……ものではなかった。
 ……よくそんな風に食えるなぁ……。
 あっというまに最後のひとさじになったカレーをすくいつつ、棗が弘治を見上げ、聞いてきた。
「あの牧師さん、弘治が継ぐまで教会にいるの?」
 弘治は無気力に、首をゆらゆら揺らしてうなずいた。
「異動がなかったら、多分ね……」
 その時、小屋の前の道から、高い話し声が聞こえてきた。教会の、奥さまボランティアの人のようだ。
「……あの人、なんか勘違いしてるわよね」
 もう少し低い、別の声が答える。
「自分が邪魔なのがわからないのよ」
 弘治はすっとうつむいた。
 ……自分の母親のことを言われているのだと、わかったからだ。
「だんなさんが亡くなったんだから、退くべきだと思わない?」
 歩いているらしく、だんだん遠ざかっていく声達が、続ける。
「ああいう人なのよ。ほっときなさいよ」
 そして二人が通り過ぎていったらしく、静かになった。
 しばらく棗と二人して黙ったあと、弘治はゆっくり顔を上げて、棗を見て、聞いた。
「……聞いた?」
 棗は悪びれず、あたりまえじゃん、という顔で答えた。
「うん」
 はは、と力なく笑って、弘治はうなだれた。
 情けない声でつぶやく。
「ほんとさ、……ほっといてください」
「……んぅ」
 棗が小さくうなる。そして、さらっと言った。
「おばさん、変だもんねぇ」
 辛辣なセリフに、弘治はびっくりして、すごい勢いで棗を見あげた。
 すると棗は、きょとんとした顔をして弘治を見ていた。
 ……そうか、これが棗だっけ。
 そう思い、気が抜けて。
 弘治はげたげたと笑いだした。
 棗は怪訝そうな顔をして、
「なんで笑うの」
 と聞く。
「ううん」
 ヒーヒー言いながら弘治は答えた。
 こういう子どもなのだ。素直で、鋭くて、生意気な。
 うれしかった。妙な嘘のない、現実だけを直視したセリフが。
「……棗は、いいなあ」
 笑いすぎで少し浮かんできた涙をぬぐいながら、弘治は思わずそう言った。
「そう?」
 棗が首をかしげて、幼い表情まるだしで不思議がる。
「うん、いい。かっこいい」
 弘治はまだ笑いながら、うなずいた。そして、そう言いながら自分でも。
 ……別れた男に言うセリフじゃねーよなあ……。
 と、感じた。

 ◆

 月初めの月曜日、弘治の学校では模試がある。
 高校三年生のこの時期、たいていの学生が、毎月その手ごたえに打ちのめされている。弘治が学校で一番よくつるんでいる友人の、堀内もそうだった。
「ああ、おれもうダメだー。今年ダメだー」
 そうぎゃあぎゃあわめきながら、今も弘治の机に、でかい頭と上半身をのせて、ごろごろとのたうちまわっている。
「あきらめんなよー。先月の模試は上がったんだろ」
 弘治はイスに座ったまま、肩口が少しチョークの粉で汚れている堀内の学ランを、たたいて軽くなぐさめた。
 すると堀内は少し涙の浮かんだ目で、じっと弘治をにらんできた。
「足りねーんだよー。全然足りねー」
 そう言って、またひたいを机に押しつけ、
「いいよなーおまえは推薦で、もう決まってるもん」
 と情けない声でつぶやく。
 弘治は、牧師になるためのコースがある大学に、すでに合格決定していた。
「志望がきっちり決まってたからよ。高望みも全然しなかったし」
 弘治が言うと、
「牧師さんね。あー! おれも牧師になれねーかなァ」
 と堀内が叫んだ。
「医者志望がなにを言ってんだ」
 弘治はあきれる。
「志望してるだけなのよん。なれそうにないのよん。あーあぁ……」
 堀内はひょろひょろとした、力ない声になっていった。
 そして堀内は急に顔を上げて、普通の表情になって言う。
「でもすげーよな。『牧師さん』だって。まあおまえ、まじめだし、向いてるけど」
「えー」
 弘治が眉をしかめる。
 弘治が牧師を志望したのは、弘治自身の志望というより、なりゆきだった。
『先生』が、絶対的なオプションつきですすめてくれたから、ただそれだけ。
『先生』は、弘治の家の教会が所属するプロテスタントの一宗派……の中で、一番えらい、その宗派の牧師すべての上司にあたる人だ。
 その人は、弘治の父親がお世話になった恩人であり、弘治の父親とは同じ大学出身の先輩後輩でもあった。
 ……父親が死んだ後。弘治の母親の両親は既に亡くなっていたし、父方にあてはなく、弘治と母親は行くところがなくなっていた。
 アパートを探して出ていくこともできたが、その場合、弘治は経済的に、高校を卒業したらすぐ、働かなければならない。
 それはいいとして、母親が働けない。そして、母親は……いつ、入院させなければいけなくなるかわからず、いつ退院させられるかもわからない。かなり苦しい状況に追いこまれていた。
 その時、その先生が、跡を継ぐ気があるなら、教会の隣の牧師館にこのまま住んでいていい、と言ってくれたのだ。
 父親は立派な牧師だった。息子の君は今困っている。跡をつぎなさい、将来うちの牧師になるんであれば、住むところだけではなく、学費も生活費もできるだけ援助してあげるから。
 とさすがの威厳で『先生』に上座から言われ、母親に、早く、はい、と言えと、横からせっつかれて。
 弘治は何も考えず、ハイ、と小鳥のようにうなずくしかなかった。
 その後、これでよかったのかな、とチラチラ考えることもあったが、だけど、どう考えてもやっぱり、これが一番、自分と母親にとって得な道だったと、今でも確信できるのだ。
「向いてるって」
 顔のどのパーツも、つぶれたようにくちゃりとまるっこい堀内が、三枚目の顔をにたつかせ、言った。
 たしかに気が小さくて細かい、真面目なA型気質だ。宿題とかは、やらないと落ち着かないし、責任感もあるほうだと思うけど。
 ……元々から、牧師に向いてなんか、ねーんだよな……。
 だいたい弘治にはほとんど信心がないのだ。棗と初めてセックスしたときだって、ヤバイとは思っても、キリスト様に申しわけないなんて、思わなかった。
 そんなこと、みんなは知らないが。

 ……牧師になるどころか、人間失格なんだということは、誰にも、知られて、ない。
 棗が誰にも、言わなかったからだ。
 いっそみんなに言ってほしかった、かばわれている方がつらい、なんて、うそは言えない。
 言われなかったからこそ、救われた。

 ◆

 弘治が帰って、家の玄関の戸を開けると、妙な気配がした。
 家の中に誰もいないかのような、静かな空気。
 でもよく聞くと、高い……音の振動が、響いている。これは母さんの。
 悲鳴。
 ……リビングからだ。
 弘治はゆっくり、リビングに向かって足を踏み出した。呼吸が浅くなる。
 漠然とした、嫌な予感。手のひらにじっとりと冷汗がたまって。
 リビングの中から、確かに人の気配がした。おまけに、中にいるのは、一人ではないようだ。
 弘治はドアレバーを強く握りしめ、一気にバッとドアを開けた。
 視界の正面に飛びこんできたのは。
 小さい悲鳴をしぼり出しながら、牧師の酒井に向かってイスを振り上げている、母親の姿だった。
「な」
 弘治は一瞬、硬直して。
「なにやってんだ!」
 あわてて、母親に駆け寄った。
「母さん!」
 母親の両手首を握り、イスを下におろさせる。そのまま強く拘束し続けながら、
「母さん! 母さん!」
 と耳元で大きく連呼した。
 母親がものすごくスローモーに、弘治を見上げた。
 その何も見ていない、妙に透明な質感の目に、しばらくしてから、やっと弘治の像が映る。
「こう、じ」
「なにやってんだよ、なんで……」
 弘治は震える声で、必死に聞く。
「だって、だってこのひとが、このひとも」
「ゆっくり息すって。とにかく、部屋行こう」
 酒井をその場に残し、ふらふらする母親を抱きかかえながら、弘治は廊下に出る。
 母親の部屋に一緒に入り、母親をベッドに入れた。
「だって、だって……」
 弘治に、首元にまで布団をかけられながら。
 まだ母親は、透明な目で、つぶやき続けている。
「もう、来るなって……ひどい、ひどい……」
「ボランティアのことで、なんか言われたの?」
 弘治は、おだやかに尋ねてみた。
「酒井さんまで……酒井」
 母親はあいかわらず一定のトーンでつぶやくだけで、反応がない。
 弘治はあきらめて、部屋を出る。
 ドアを後ろ手で閉める瞬間、また母親の、抑揚のないつぶやきが耳に入った。
「みんな神様を信じていないの?」
 神様は関係ないのだ。

 ◆

 部屋を出ると、そっと声をかけられた。
「どうですか」
 薄暗い廊下に、酒井がたたずんでいる。
「酒井さん」
「すみません、あんなことになるとは……」
 酒井が申し訳なさそうに、うつむいた。
 弘治はだるい気持ちをおさえ、丁寧にしゃべった。
「すみませんはこっちの言うことじゃないですか。……怪我しましたか?」
「いえ、たいして……」
「すみません。手あてしますから」
 二人でリビングへ行く。
 リビングで弘治は救急箱を取り出し、酒井とイスに向かいあって座った。
 酒井の怪我は、手の甲の一箇所のすり傷だけだった。
 消毒薬をシュシュ、と吹きかけ、かわかしてから、絆創膏を貼る。
 手あては、すぐに終わってしまった。
 長い間、二人ともしゃべらなかった。
 弘治はふっと、自分の足元にできているイスの長い影に気がついた。日が暮れ始めているんだな、とぼんやり思う。
 立ち上がって電気をつけるような余裕はなかった。酒井も、そんな気はないようだった。
 沈黙だけが、緊張だけが、場を支配していた。
 やっと。
 酒井から、切りだした。
「……先生から、お母さんの精神病の話、聞いてはいたんですけど」
 酒井はそう言って、まっすぐに弘治を見た。うつむいて顔を上げられないまま弘治は、それを感じた。
「弘治くん」
 真剣な声で、酒井は言う。
「入院、さしてあげたほうがいいんじゃないですか」
 苦しかった。酒井の声も、視線も、真面目で重くて。
「…………」
 無言で、弘治は肩越しにふりかえり、母親の部屋の方に目をやった。
「正直、正常の域じゃないですよ。今日、ボランティアの人にもつかみかかったんです」
 正論。
 だと、やっぱりそう感じた。そうだ、それが正論なのだ。
 それは、わかっている。でも。
「……ボランティアのほうには、もう行かせないようにします。……から……」
 弘治は母親の部屋に視線を向けたままで、続ける。
「今日は特別、調子が悪かったんです。昨日、眠れなかったらしくて、朝から躁状態だったから……」
「眠れなくて?」
 酒井が怪訝そうに聞く。
 母親が、この家に男性が下宿してくることを嫌がったので、酒井はこの牧師館に住まず、近くにアパートを借りて住んでいる。
 だから酒井は、弘治の母親の病状にはくわしくないのだ。
「一晩、ねつけなかったら、精神状態のリズムが狂って、だいたい躁状態になるんです、母さんは」
 ようやく酒井と目を合わせて、弘治は言った。
「父さんが死ぬ前は、こんなにひどくなかったんですけど」
 弘治はためらいながら、それでも口にした。
「入院は……」
 かすれる声を、必死にしぼりだす。
「……本人が、嫌がってるんです」
「…………」
「前にもちょっと入ったことがあって。なかなか、出てこられなかったし」
 そうして、弘治は酒井の目を、じっと見つめた。
 今度は酒井が、すぅっとうつむいた。
「今日のこと、先生には言わないでくれませんか」
「気持ちはわかりますが」
 酒井が、くっ、と顔を上げ、弘治の目を見て、きた。
「弘治くん。……だまってても、解決にならないですよ」
 ……弘治はふぅ、と息を吐きながら、うなだれた。
 ここでこれ以上議論しても、無駄だった。正論はむこうなのだ。
 酒井が少し、気の毒そうに言った。
「今週の日曜日、先生の自宅の方に行ってください。事情は、お話ししておきますから」

 ◆

 いつからだったろう。
 両親よりも、友達よりも、もちろん教師なんかよりも、誰よりも一番。
 あの、小さな体の子どもにたよってきた。
 年下の、不幸な、老成したガキは、いつでも自分を甘やかしてくれた。
 父親が死のうが、母親がマズかろうが、棗の方がよっぽど不幸に決まっているのに、泣き言を言う弘治をいつも、まじめでしょーがねーなぁ、とからかって笑った。
 やわらかい、やさしい手のひらが。水分の多い、しっとりとした体が。
 いつも自分を奮い立たせてくれた。
 自分の情けなさに、自己嫌悪しても、どうしようもなく。その循環を、棗の下を、ここちよく思っていた。
 ……もう自分に、その資格はない。
 今年の夏。濡れた棗の体を抱きしめながら、そう決めた、のに。
 弘治は足を速める。
 外灯がともり始めた、夕方、川沿いの遊歩道。
 泣くわけにはいかない。
 泣くわけには。
 必死に涙をこらえる。
 ……棗。
 目尻だけがピンとはねた、円い目。
 ……棗。
 ゆるく笑う、赤い厚い唇。
 結局。
 ……完全にたよってるじゃんか。

 ◆

 小屋の前に立ち、ビニールシートを二回ノックする。ぱさぱさ、という軽い音がたつ。
 返事が返ってくる前に、弘治はシートをめくった。
 ただもう、早く棗の顔が見たかった。深い墨色の瞳で、見つめられたかった。
 だから、
「あら、弘治くん」
 と、棗の顔ではなく、ねねの顔が振り返った瞬間。
 がっかりするより、ただ一気に。
「……あ」
 という、ものすごくふぬけた声を発してしまうほど、気が、抜けた。
 ねねが、弘治の用を察して言う。
「棗ちゃん?……雑誌拾いに行ったんじゃないかしら。今日、月曜日ですもの」
「あ、はい……」
 月曜日の夕方。
 そうだった、昼から夕方にかけて棗が、ごみ箱を漁って月曜新発売の雑誌を拾う日。そして夜、その雑誌を町で、おじさんが露店で売るのだ。
「待ってたらどう? そのうち帰ってくるわよ」
「……はあ」
 言われるまま、弘治は靴を脱いで、畳に上がった。
 ねねがいきなり。何もしゃべらなくなった。
 弘治は横目で、ちらりとねねを見た。ねねはうつむいて、何かを考えこんでいるようだった。
 身の置き所がなくて、弘治は床を見つめる。
 いつもより多く小屋に入ってきている、フナムシが気になった。ぞろぞろと活発に、黒光りした体が動いている。
「……弘治くんは」
 唐突に、ねねが言った。
「大学に行くのよね」
「……はぁ」
 弘治は弱く、相づちを打つ。
 嫌な感じがした。なんだか、少し、怖い。
「男の人はやっぱり、大学に行かないとダメよねえ……」
 ねねが、そろそろと手を、弘治に、のばしてきて。
 その細い指を、弘治の手の甲に重ねて。上目づかいで見上げてきて。
 上半身で、しなだれかかってきて。
「ねえ、弘治くん」
 ささやいて。
「俺、この町、出るかもしれません」
 ふいに、冷めた声が、自分の口から出ていって、弘治は驚いた。
 弘治は、妙に冷たい気持ちで、ねねの顔を見下ろした。
 細い眉、人工的に真っ赤な薄い唇、細長くて粉っぽい貧弱な顔。
「……だから、何の役にも、立ちませんよ」
 つめたい、声だと。
 自分でも思った。
 すると突然、背後からどなり声が響いてきた。
「なにやってんだ、てめえ!」
 突如、後ろから右肩をぐいっと引かれる。振り向くような体勢でバランスを崩した瞬間、あごにすごい熱を感じた。
 思わず目を閉じる。歯を食いしばる。
 一瞬の浮遊感。そして頭に、がんっという音がし、背中が強く床に叩きつけられた。
 それからやっと。
 ……痛い。
 という感覚が湧いてくる。
 殴られたのか……。
 がんがん痛むあごをさわると、急激に腫れあがっていく感触が、指から伝わってきた。歯と頭と背中も、じんじんする。眼鏡が、ふっとんだらしく、ない。
 弘治は顔を上げ、おじさんの姿を探した。
 おじさんは弘治を、もっともっと殴りたいらしく、全身ですがって止めているねねを振りほどこうと、巨体をよじってもがいていた。
 ねねが何か叫んでいる声が、ワンワン響いている。
 急に感情が高ぶってきた。押さえていた涙があふれてくる。
 痛い。
 なんだこいつら。
 棗は、棗は。
「……ねねさんに、手なんか出さないですよ」
 ものすごく、低い声が出た。
 立ち上がって弘治は、ぶんっ、と首を振る。涙を振り落とす。
「俺が、こんな年上の、……この、人に、手だすわけないでしょう! 頼まれたって出しません!」
 ただもう、無性に腹が立つ。おまけに悲しくてしかたがない。
「……情けないですよおじさん!」
 そう叫んで、弘治は顔をふせた。
 足元にあった眼鏡が、目についた。
 ……それを拾い。早足で、小屋を出ていこうとする。
 そして、出入口のシートを、めくろうとした瞬間。
 おじさんが、口を開いた。
 奇妙なほど冷静な声だった。
「なんだよ、てめえなんか。棗を見殺しにしたくせに」
 一瞬で。
 弘治の顔から頭から、ざあっと血が引いた。
 ゆっくり、ぎこちなく、振り返る。
 般若のような三白眼で、弘治をにらんできているおじさんの顔。
 怒りを抑えた、ドスのきいた声で、おじさんは言った。
「棗は何も言わないけどなあ、おれらがかけつけたとき、棗はまだ燃えてたろうが。なんでおまえはあんな早くからいたんだ。ほんとは棗がやられてるときも、物陰から見てたんじゃねえのか。あいつらが火ィつけて気が済んでいなくなるまで、こわくて、出られなかったんだろ。だから棗は燃えちまったんだろうが!」
 弘治はゆっくり口を開いた。息を吸う。
 ……でも、何も言えなかった。何も。
 強く弘治をにらんでいたおじさんの目が、細められた。怒りの目ではなく、憎しみの眼に変わっていく。
 その眼が、弘治を捉え続ける。
 おじさんの吠えるような声が響く。
「おまえもおれらのことは、クズだと思ってんだよ。火、つけられてもしかたない、……って」
 ちがうちがう。そんなことは思ってなかった。思ってなかったのに。
 ……なかった、のに。
 弘治はあわてて踵を返し、靴を履いた。にらまれてる。にらまれてる。
 つまずきながら、脱兎のごとく小屋から出た。土手まで全速力で逃げる。
 土手の中腹で、前かがみになって、弘治は膝に手をつき、はぁはぁ、と荒く息をついた。
 一度ひっこんだ涙が、じわり、としみだしてくる。
 思ってなかった。思ってなかった。
 好きだった。誰よりも。

 ◆

「どうしたの」
 そのまま、そこに座りこんで放心していると。
 どれくらい時間が経ったのだろう。棗の、澄んだ声が頭上から降ってきた。
 弘治は上を見上げた。視界いっぱいに、棗の顔のやわらかな輪郭、丸い目、厚い唇が迫ってくる。
 ああ、棗だ、と感じた。
 色んなものに、ぎゅうぎゅうにおいつめられていた気持ちが、それだけで、ものすごく、安らいだ。
 棗は、弘治の隣に座ってきた。
 そして、暗くてきかない視界のはずなのに。弘治のあごの動きが痛みでぎこちなかったのか。
 棗は背を丸めて膝をかかえながら、柔らかい声で聞いてきた。
「おばさんに、殴られたの」
 聞かれて、弘治はふいに、殴られたのはおじさんにだと、棗に知らせるわけにはいかないと思った。絶対に。
 弘治は棗から視線をはずし、前方の川を見る。そして、ぼやけた声で言った。
「母さんが」
 さわさわと、風がふく。二人の髪の表面だけを軽くなびかせてゆく。
「……入院させられるかも」
「えらい、恩人の先生に?」
「うん」
「……しかたないとは、思ってんでしょ」
 弘治は黙った。
 強い風が来る。
 土手の雑草が、ざあっと音を立てて揺れた。
 棗が地面に置いている、雑誌が大量に入ったゴミ袋も、がさがさと音をたてている。
 その風が行ってしまってから、棗がため息をつき、言った。
「……しょーがねーなあ。まっじめ善人なんだから」
「善人じゃないよ」
 弘治はすばやく言い返す。
「知ってるだろ」
 厳しくこわばった声で、続ける。
「嫌がってる母さん入院させたりして、……これ以上、ひとでなしになってたまるかって、思うんだ。ただでさえ、どの面下げて牧師になるんだ、って思うのに」
 弘治は真面目に、訴えた。必死に。
 すると棗に、
「……ふん」
 と、つまらなそうに、言い捨てられた。
 弘治は少しむっとして言った。
「棗だって」
 棗の顔をのぞきこむ。
「棗だって、おじさん捨てられないんだろ。……こんな生活してんのに」
「弘治と一緒にすんなよ」
 前を見つめてしゃべる、棗の声は、少し怒っていた。
「弘治とおれじゃ違うんだよ」
 そして、ぽつりとつけ足す。
「……恩がね」
 弘治は不審そうに、目を細めて聞き返した。
「……恩?」
「うん……」
 棗は一瞬、困ったように眉を寄せた。
 そして打って変わった、おだやかな調子でしゃべっていく。
「母さんさ、……二度目の母さんだけど。おれが小学校の時、出ていったろ?」
 弘治は急に、恩とはなんなのか、と聞いたのを後悔した。
 何かが出てくる。棗がますます痛々しい存在になってしまう、悲しい何かが。
「母親でさえ、とっくに実の、じゃなかったんだよ?」
 棗が、スッと弘治に、顔を向けてきた。
 冴えた月光に照らされた、ほのかな微笑。
 月の眷属に入ってしまったかのような、ひそやかさ。
「……だからね、父さんが本当の父親なわけないと思わなかった?」
「……思わなかった」
 弘治は茫然と答える。
 しょうがないなあ、という風に。
 棗が瞳を細めて、笑った。
「もっと、ちっさい人だったよ。顔なんか、とっくに覚えてないけど」
 恨みの感情が感じられない、静かな口調。
「……だからもうおれ、あんま背ェのびないだろうなァ……」
 そう言って。
 棗はそっと目を閉じ、うーんと言いながら、両腕で伸びをした。
 また、川沿い特有の強い風がふいてくる。棗のくしゃくしゃにカールした髪が、あおられていく。
 フケと垢の、強い匂い。
 弘治はじっと、棗を見つめていた。
 ちょっとさみしそうな顔をしている。でも、現状に満足している表情だ。あの、妙に板についた大人っぽい。
 その棗の横顔を眺めていると、弘治の心の中に『棗は幸せになればいいのに』という思いが、唐突に浮かんだ。
 自然にその思いを浮かべてしまってから、ああ、どうしようもなく好きだ、と自覚する。
 とにかく、どこにもいない。棗ほど強烈で、光っている人間は。
 ただもうこいつは、生きることに淡々と必死で。愛しくて。
 いろんな感情が湧いてきて、弘治はうつむいた。
 ほろほろと泣きだしてしまう。
 重い。
 情けない。
 愛しい。
 好きだ。
 ああ、もうホントにどうしようもない男だ、俺は。
 ……棗が泣いていないのに。
 しばらくして、棗が弘治の頭を、両の手のひらで、軽く二度、たたいてきた。
 ぽふぽふ、とやさしい音がたつ。
 弘治は、うん、うん、と、二、三度うなずいた。
 ……そして、さすがにはずかしくなって。
 顔を赤くし、立ちあがった。
「……帰るよ」
 ぽつん、と告げる。
「そう?」
 座ったまま、弘治をくりんと見上げ、けっこうどうでもよさそうな声で、棗が聞く。
 そして棗も立った。ぱんぱん、と自分の色落ちしたジーンズの尻についた土をはらい、
「じゃあね」
 と、にっこりして、弘治に言う。
 幼児のようにふっくらとした、あどけない口元。かたちが特徴的な目。
「……うん」
 弘治はこくん、とうなずいた。
 トコトコと棗は、弘治に背中を見せて、土手をくだっていった。そして、小屋に向かって歩いていく。
 その姿が、小さくなっていく。
 それを見つめながら、弘治は息苦しくなっていった。
 追いかけて、すっぽり閉じこめてしまえる棗の体を、抱きしめたかった。
 どうしても好きなんだと、訴えたかった。
 忘れてくれと無茶を言いたかった。
 ……消せるわけがないのに。
 あの傷が。自分を見上げた棗の目が。
 きっぱりと、終わったのだ。
 終わるしかなかった。魅かれたままなのに。
 棗の背中が小屋の裏に隠れる。パサリと入り口のビニールシートをめくる音がする。バサンとシートが落ちる音が聞こえる。
 まわりが静かになる。大きな川の、流れる音だけが聞こえる。
 目がかすむ。鼻のつけねの皮と眉間に、醜くしわが寄り、ぐぐぐっと眉尻がさがっていく。
 そんなふうに、顔をぐしゃぐしゃにゆがめ、弘治は自分のこげ茶色の、ダッフルコートの胸の部分を、右手でぎゅっとつかんだ。
 ものすごくせつなくなったのだ。

 ◆

 日曜日、弘治は言われたとおり、電車で二時間弱のところにある『先生』の家に来ていた。
 教会ではないのに、そんな感じのする、大きな家。
 プロペラが天井でまわっている、広い応接間。
 あたたかげな毛足をした絨毯。
 自分が座っているのは、ゆったりとしたソファ。
 そして、机をはさんで正面に座っている。やせたロマンスグレーの、堂々とした紳士。
 ……恩人の『先生』だ。
 弘治は緊張するな、と必死に自分に言い聞かせる。
 それでも、完全に萎縮してしまっていた。
「やはり、国立病院がいいと思う」
 と先生はいきなり言った。
 一年前、父親が死んだ時と変わらない、あいかわらず威圧感のある声だった。
「この市の国立病院の医師には、私の友人もいる。特に精神科は、優秀だと評判なんだよ」
 先生は、テーブルの湯呑みを取って、一口飲む。
 トン、と置いて続ける。
「開放病棟といって、病室から出るのもかなり、自由でね。患者の意志を尊重してくれる」
 弘治は先生の指元ばかり見ていた。威圧感で顔が上げられず、上の方は見られないのだった。
「うちは病院にも、君の大学も近い。君はうちに下宿しながら、大学に通ったらいい。病院に、毎日でも見舞いに行ける。それなら、お母さんも安心だろう。……牧師館のほうは酒井が面倒をみてくれるから」
 自分の顔が、じっと見られているのが感じられる。弘治は顔をますますうつむかせた。
 ほぼ、予想どおりのことを言われていた。だいたい、今の牧師は酒井さんなのだから、弘治達があそこを占領しているのは、言ってしまえばおかしいのだ。
「費用も……当面、心配しなくていい。君のお父さんは、よく、仕えてくれた」
 駄目押しのように、一際強く、先生はそう言った。
 そして、少しだけ言いにくそうに、
「入院に、抵抗があるのはわかるが……」
 とつけ足した。
 弘治は、先生の目を見ないようにしながら、やっと、これだけは言った。
「以前、入った時も、長い間、出てこられなかったんです」
 カラカラの口の中に、なんとか唾を出し、必死に言葉をつむぐ。
「だから……」
 しかし、断固とした口調で、さえぎられた。
「自殺だけでは済まないこともあるんだよ」
 膝の上に置いている、弘治の握りこぶしは震えた。
「俺が、母に危害を加えるかもしれない、っていうことですか」
「……君が、加えられるかもしれない」
 先生が重く、答えた。
 弘治はうなだれた。
 そして、ゆっくり、答える。
「……母と相談して、決めたいと思います」
 この期に及んでまだ、と言われたような気がした。そう言わんばかりの、先生の呆れたような視線を感じる。
 それでもさすがに、子羊を導きなれた声で。
 最後には、やわらかく言われた。
「つらいかもしれない。だけど、お母さんのためなんだよ。これは、結局……」

 ◆

 弘治はとぼとぼと歩いていた。
 ホームレス長屋の脇の、土手の上にある道だった。
 棗の小屋に向かう方向だったが、会いに行くつもりはあまりなかった。
 もうなんだか、早く眠りたい気持ちだった。八方塞がりだ。
 本音を言えば、入院はしかたないと思っている。入院させたい、とも、すごく思っている。どんなに本人が嫌がっていたって。
 ……今年の夏の出来事がなければ、すんなり入院に同意していたと思う。
 でも、もう、何かを見捨てるなどという、牧師にふさわしくない非人道的な行為は、一個たりとてするわけにはいかなくなっているのだ。
 今年の夏。むっとした空気の夜だった。
 抱きしめた、濡れた棗の体。
 棗の髪からは、水がまだ、ぽたぽた、としたたり落ちていた。
 その水は、自分の肩口に伝わってきた。しみこんできた。
 震えていた、棗は。
 ――ああ、もう。
 弘治は頭を振る。
 ……八方塞がりだ。
「弘治」
 突然、後ろから声をかけられた。棗の声だった。
 弘治はゆっくり、無気力に振り向く。
 そして、目を見開いた。
「……棗……」
 棗が、キレイに、なっていた。清潔に。
 銭湯に行ったのだと、棗がかかえている洗面器を見なくても、すぐにわかった。
 あんまり棗がキレイに見えたので、弘治は唖然として、
「……どうしたの」
 と聞く。
「うん」
 答えて、棗は、弘治を横から、すっ、と一歩追いぬいた。
 少し前を、棗が歩いていく。白いうなじがちょうど弘治の目の前にきている。視線がひきつけられる。
 棗の体からは、安物の石鹸の、きつい匂いがした。
 洗濯したのか、薄い水色になっていたパーカーが、ほとんど白に近くなっている。
 弘治は小走りで棗に追いつき、横目でこっそり、棗の横顔を盗み見た。
 こんなに赤い口だったろうか、と思わず感じた。表面に貼りついていた白い皮が取れて、さくらんぼのような、純な色。
 ふくれあがっていたいくつかのにきびが、赤く小さく、つぶれている。
 油ぎったカールが、完全に取れて、さらさらのストレートになっている髪。
 いつも棗は、自分で適当に髪を切っていたので、髪の端が全部ふぞろいだった。そのふぞろいさが、こうやってストレートヘアに乾くと、うまい具合に、綺麗なシャギーヘアのように、目に映る。
 そうやって弘治が、棗の姿に目を奪われていると、ふいに棗が口を開いた。
「弘治、この町出るんだって?」
 世間話のように。動揺のない声。
 弘治は足を止めてしまいそうになった。
 なぜ、棗がそんな話を知っているのだろう。
「牧師の酒井さんが教えてくれた。おばさんが入院する病院がある、町に行くって」
 振り向いた、棗の顔。
「あの人、弘治に決心してほしいみたい。おばさん入院させる、さあ」
 そう言って、はにかむように笑う。
 風がその髪を、さらさらと揺らしている。
 かわいい、綺麗な、少年の姿。
「……おれに説得してくれってさ」
 棗は、ぽつん、と補足した。
 弘治は少しむっとした。棗は、自分がこの町を出ていっても、棗のすぐそばから離れても、ぜんぜんダメージがないのだろうか。
「……説得するの」
 無愛想に、弘治は言った。
「んー」
 風が強くなる。
 棗は顔を上げて、弘治をまっすぐに見つめてきた。
 棗は、ひたいの生え際の髪を、左手でかき上げる。ちょうどやけど傷のあたり。
 傷が、手の甲に覆われ、見えなくなる。
「……弘治」
 棗の髪が、風に勢いよくなびいている。形のいいおでこが、あらわになっている。
 綺麗な瞳。
 小さな鼻、紅色の口。
 細いくせに曲線しかない、子どもの体つき。
 やっぱり、その全部に惚れていた。
 その全部が、今、正面から自分に、強く向けられていた。
 うれしいような、不安なような、わけのわからない気持ちになった。
 ただ、心臓が波打って。
 ただ、強い風が吹いていく。

「……棗、くん?」
 いきなり、誰かが声をかけてきた。
 棗が振り返る。弘治も、声の方を見た。
 見知らぬ小柄な、中年で長い髪の、スーツ姿の女性が立っていた。
 カツカツと、女性は近寄ってきて、棗の横で止まる。
 そして名刺を取り出し、棗に渡した。
「わたし、児童相談所の桑見です。よろしく」
 そう、名乗った。
 弘治は息を呑んだ。
 棗の顔を見る。
 棗の顔は平静だった。ショックでもなさそうに、じっと桑見の顔を見返している。
 ふっと、弘治は桑見の視線を感じた。弘治も桑見を、ちらりとうかがい返す。多分、コイツは何だろう、と思われているのだろう。
 弘治の右手の指に、棗の指が、ふれてきた。
 そのまま、弘治の手をそっと、握りしめる。
 弘治は少し驚いて、棗の横顔を見つめた。
 やっぱりその顔は、怯えているようにも、不安そうにも、見えなかった。
 それでも指先からは、棗の心細さが伝わってきた。
 桑見は、棗が弘治の手を握ったのを見て。安心したように表情をやわらげた。
 そして、簡潔に。
 用件を述べた。
「お父さんが、さっき逮捕されました」
 ぎゅっと。
 弘治の手を握る棗の手に、力がこもった。
「市役所で、職員を刺したんです。……職員はたいした怪我じゃないから、心配しなくて大丈夫」
「……なんで」
 茫然とそう言ったのは、弘治だった。
 桑見は弘治の方に向いて、言った。
「……不正に作製された印紙で、失業手当を受け取ろうとされたんです。それを職員に指摘されて。カッとなって……」
 それから桑見は、棗に向き直る。
「お父さんは、少し刑務所に入らないといけないの」
 桑見は少しかがんで、棗と目線を合わせてから、言う。
「だから一緒に行きましょう」
「……荷物も」
 棗が小さな声で、ぽつんと言った。
「荷物も何にも、準備してないから」
 きゅ、と目をつり上げ、厳しい瞳になって言う。
「明日にしてくれませんか」
「でも……」
 桑見はすっと、土手の下に視線を落とした。
 ホームレス小屋を見ているのだ。児童相談所が棗の実態を知った以上、ここに一人で泊めるわけにはいかない、と思っているのだろう。
 それを察したらしく、棗が、
「……今夜は、こいつの家に泊めてもらいますから」
 と、弘治を右手で指さしてきて、言った。
「こいつの家は、まともです」
 そんなことも、つけ足す。
「明日の朝までには準備しときますから」
 桑見は、迷ったように弘治を見た。
 そして、
「……お願いできる?」
 と、弘治の態度を観察するような目で、聞いてきた。
「はい」
 桑見に信用されるよう、弘治は真面目に、しっかりとうなずく。
 桑見は、意を決したように言い始めた。
「それじゃあ、明日迎えに来ます。え〜っと……」
「明日の朝九時くらいに、このあたりにいますから」
 棗がそう告げる。
「わかりました、それじゃあ……」
 そう言って、桑見は弘治に、弘治の家の住所を聞いてきた。そして、住所を控え、去って行く。
 桑見の背中が小さくなってから、棗はするっと、弘治の手を離した。
 弘治は棗が心配で、棗の表情を見ようとしてすぐに、横を、棗を、見た。
 しかし弘治が表情を見る前に、棗がつっと、一歩前へ出た。弘治の視界には、棗の背中しか映らなくなった。
 何も言えなかった。狭い肩幅の、少し猫背な背中は、揺れてもいない。
 しっかりと、何かを考えている。また、大人みたいに。
「弘治」
 きりり、とした声で、棗が言った。
「あとで……十一時くらいに小屋にきて」
「……なつめ」
 そう呼びかけた後で、自分でもすがるような声だと感じた。すごくみっともなく響く。
「なに」
 棗の声は対照的だった。振り返って弘治を見上げてきた瞳は、思いっきり動揺している弘治を咎めるように、厳しい。
「……うん」
 弘治は自分の両手の手のひらを、ぐ、と握りしめた。
 もう一度、言った。
「……うん……」

 ◆

 弘治は、台所でなべの前に立っていた。
 じゃがいもが煮えてきている。
 冷蔵庫を開けて、ルーを取り出し、パキンと割った。
 そうやってカレーを作りながら、心はうわの空だった。
 色んなことをぐるぐると考えていたせいで、もう時計は十時をまわっていた。それでもまだ、十一時まで一時間近くある。
 ……棗。
 カレールーをなべに落としながら、その名前だけを浮かべる。
 今日あった、考えなければならないことは、他にもいっぱいあるのに。
 ……棗、は。
 もう、棗にまつわることしか考えられないのだった。
 カレーを作りおわると、早めだが、もう出てもいい時間帯になっていた。
 カレーのなべをガス台に置いたまま、玄関にバタバタと向かう。くつ箱の上に置いておいたダッフルコートを羽織る。
 さっき腹がすいたと請求にきた母親は、置いておいたカレーを勝手に食べるだろう。そう思い、弘治はさっさと靴を履き始めた。
 すると後ろから、ぱたぱたとスリッパの音がしてきた。母親の、叫びのような、耳障りな高い声が響いてくる。
「弘治っ? 出かけるのっ?」
 興奮状態になっているな、と思った。弘治は靴ひもを結びながら、
「うん」
 と振り返らず、答えた。
 こんなに冷たくあしらったことは、初めてだった。
「…………」
 母親は呆気にとられて、黙った。
 弘治は立ち上がって、玄関のドアを開ける。外に出る。
 ドアを閉める瞬間、一瞬だけ振り向き、言い置いた。
「棗のとこだから」
「…………」
 母親は口を丸く開けて、ぼんやりとした目で弘治を見ていた。
 ……人も車も、何もない深夜の道路。
 走り出す。走りながら思う。
 あんなに冷たくあしらって。母親はあばれるだろうか。眠れなくなって徹夜してしまうだろうか。また酷くなるだろうか。
 どうでもいい。そう思った。
 棗が。棗が。

 ◆

 小屋のシートをめくると、棗がまんなかに座っていた。
「……いらっしゃい」
 にごった口調で、迎えてくれる。
「大丈夫?」
 棗の目の前に座って。
 弘治はまず、一番にそれを聞いた。
「ん、なんも……」
 棗が、少し疲れたように、返事をした。
 弘治は無言で、棗を見つめた。
 棗はあぐらをかいて、足首を両手でつかんでいる。そのだらっとした姿勢で、ゆっくり、ゆらゆらと体を前後に揺らしている。
 ただ、目が。
 珍しく目が、弘治を見ない。やかんやストーブ、遠くの無機物ばかりを目に映している。
 そして、棗はその目を、すっと閉じた。
「おれ、知ってたんだ」
 ぽつん、と、少しさみしそうに言う。
「父さんが、昔っからニセ印紙買ってたの」
「……印紙って、なんなの」
 弘治は、不安気に聞いた。
「日雇いで仕事したときに、その会社から一日一枚、もらえるの。二箇月で二十六枚集めたら、働く意志がある証明になるから、仕事がないときに、国から金もらえんだ」
「……買えるの」
 棗は目を閉じたまま、軽く、こくこくとうなずいた。
「ヤのつく人から」
 そして棗は唇の端で、少し笑む。
「おまえも大人になったらそうしろって言われてたから」
 そう教えた父親に、呆れているような、口調。
「……そのうちバレるかもって心配はあったんだよなぁ」
 くくっ、と小さく声を出して、棗は笑った。
 そうして、手でひたいの髪をかきあげ、背骨を前かがみに丸める。
 低くつぶやく。
「傷害事件まで行くとは思わなかった」
 悲しそうな声だった。
「棗」
 弘治は棗に呼びかけた。
 嫌な予感がした。それしか、ほとんどそれしかないとはいえ、今の今まで、信じてなかったことだった。
 まさか、棗は。
「行くの」
「行くよ」
 あっさり、棗は答えた。
「それしか、ないっしょ」
 ふっ、と目を開けて、棗はそうつけ足す。
「……そう」
 そう答えながら、弘治は愕然としていた。
 棗が、弘治をじっと見つめ、聞いてきた。
 ライトが、白い可憐な花となって咲いている、漆黒の円鏡。
「……ショック?」
 棗が、父親と離れる。
 棗が、この町を出ていく。
 ……棗が、自分からいなくなる。
「…………」
「弘治は?」
 聞いてくる棗の声が、厳格で。
「まだ、無理してかかえ続けんの」
 そして、棗はすっと、そっぽを向き、
「……おれは、もう、捨てるよ」
 と、言いきった。
 棗の、切れ上がった目尻が、くっと上がる。決意を表すように。キツく。
「自分の、ためだよ……」
 強い。棗は。
 心から、弘治は感じた。
 ――自分が自分本位な汚いニンゲンであることを、認められる。
 弘治は震える口を少し開けて、また閉じた。
 再び、少し開ける。
 もう一度ぎゅっと結ぶ。
 棗がいなくなる。
 もうだめだと思った。最初から母さんを入院させなきゃいけないのはわかっていたのだ。ただ、そうしたくなかっただけで。
「……俺はサイテーだ」
 弘治はわななく口で、素早くつぶやいた。
 ひたいを強く、握りこぶしで押さえる。
「もともとがサイテーなのにな」
 はぁ、と息を吐いて、弘治は、
「……最悪……」
 と絶望的な気持ちで言った。
「……サイテーかよ」
 弘治は顔を上げた。棗がにらんできている。
 弘治は、少し、笑った。
「棗はいいよ。棗は正しい」
 心の底から、そう断言する。
「俺はさ、せめて……」
 言いながら、弘治は涙声になっていった。
「せめてこれからはちゃんと……」
 母親くらいはと。
「と思ったんだよ……」
 暗く、暗く沈みこみながら。弘治は、言った。
 棗にあんなことをしたんだから。母親くらいは。ちゃんと、守って。
 牧師云々の前に。人として。
 そう思っていたのに。
「……ゆるすって、言ったじゃん」
 そう言いながら、棗が。
 弘治の沈みきった頭に、腕を伸ばしてきた。
 髪を、手のひらでふわりと撫でて。
 寄り添いあうように。抱きしめられた。
「何べんも、何べんも言ったじゃん。これ以上おれにどうしろって言うんだよ」

 ◆

 熱帯夜だった。
 だから、弘治の母親が、見回りに行きましょうと弘治に言ったのだ。暑い夜には、死人がでることがあるから。
 母親が商店街の方に行くというので、弘治は途中で母親と別れて、棗の小屋のある、ホームレス長屋の方に向かった。
 深夜を過ぎていた。息を吸うのも嫌になるような、重い、じっとりした空気の日で。
 人通りのない、夜の川沿いの遊歩道を歩いていく。
 そしてホームレス長屋の一番はじ、はずれに位置する、棗の小屋が見えてきた。
 棗の小屋の前には、十人近くの人だかりができていた。
 ……なに、集まってんのかな。
 弘治は最初、そう思った。
 深夜の見回りの時に、遊歩道の上を人がうろうろしているとしたら、それは絶対住人のホームレスだと、今までの経験上わかっていたからだ。
 ただ、次の瞬間、異常だと気がついた。
 棗が、その人間たちに円形に取り囲まれているのが、やっとわかったのだ。
 囲んでいる人間たちは。
 ……若い。
 ぱっと、人だかりの周囲を観察すると、大きなバイクが何台も止めてあった。
 もう一度、囲んでいる人間達を、目をこらして見る。
 男も女もいる。長い茶髪。身につけている銀のアクセサリーの光。ジーンズ。はだけた男の胸。
 ……暴走族。
「な」
 かすれた声が、息と一緒に洩れた。
 次の瞬間、弘治は叫んだ。
「なつめぇ!」
 弘治は全力で、人だかりに向かって突進した。
 ためらいはなかった。棗だったら、棗なら、逃げるわけにはいかなかった。
 いったん助けを呼びに行くことは、逃げることではないけれど、その間に何が起こるかわからない。
 棗を一人にしておけない、と思った、のだ。
 人だかりが一斉にこちらを向いた。
 走りながらそれを見て、弘治の身はすくんだ。
 それでも勢いをゆるめることなく、弘治は人だかりにつっこんだ。
 棗に向かって、両腕を伸ばす。
 棗が弘治をバッと向いて、見上げてきた。
 瞳に、涙が張っていた。
 その瞳が弘治を見て、救いを得たように輝く。
 弘治を頼っていた。すがっていた。
 弘治は棗にたおれこむように、人だかりの中心になだれこみ、棗を、ぎゅうぅ、と音がするほど、強く抱きしめた。
 棗の頭に、右手の手のひらをまわし、頭もしっかりと引き寄せる。
 自分の肩口に密着させた棗の頭の上に、弘治はあごを乗せ、はぁ、はぁ、と息をついた。
「……な、つ……」
 棗を目線だけで見おろして、弘治は途切れ途切れに、名前を呼んだ。
「……あんた、なにぃ〜?」
 高い声が聞こえた。
 暴走族の一人、深い藍色のショートカットの女が、弘治を不審そうに、目を細めて見ている。
「ホームレス。……じゃ、ないよねー。これは」
 別の長い茶髪の女が、楽しそうに言った。
「こいつの友達だろー?」
 黒い皮のベストを脱げかけに着崩した男が、ガムを噛みながら、棗を親指で指さした。
 妙に落ち着いた感じのする、金の短髪の男が、なぜかにっと笑う。
 そして金髪の男は仲間全員を手招きして、自分の方に、少し寄せた。
 弘治は棗を抱きしめたまま、連中の動きをにらんだ。
 連中は少し、一箇所に集まり気味になっているものの、弘治達を囲んでいる円陣はほとんど崩れていない。脱出するのは不可能だった。
 ……棗のようすが気になり、弘治はそっと首を折り曲げて、棗の顔をのぞきこもうとした。
 うつむいたままの棗。前髪が揺れていた。震えているのだ。
 そして、弘治はハッと気がついた。棗の後頭部を抱いている、自分の手も、がたがたとおかしいくらいに震えている。
 一瞬後、自分自身の、未だ荒い息にも気がついた。これは、走ったせいじゃない。
 ……怖い。んだ……。
 そう意識してしまってから、弘治はあわてて、唇をぐっと噛みしめた。
 落ち着け、落ち着け!
 怖がっている場合じゃない、なんとか、なんとか守らないと。
 そう思い、弘治が再びぎゅっと棗を抱くと、連中の小さな声が聞こえてきた。
 くくくっ、と、抑えたような声。これは。
 ……笑って、る?
 弘治はこわごわ、横目で連中の様子を窺った。
 連中が、弘治達を見ていた。
 そのいならぶ目は、光っているように見えた。
 足がすくんだ。
 黒いベストの男が、大きなバイクに近寄っていく。そしてバイクから、ニッパーのような工具を取り出した。
 妙に周囲の空気が動いている気配がして。弘治は、金の短髪の男に、視線を移した。
 金髪の男は、なぜかライターを、仲間から集めていた。
 黒ベストの男が戻ってきて、金髪の男に、ニッパーを手渡した。
 金髪の男は、百円ライターの一つを手に取って。
 ニッパーを使って、ギチッと音をたて、ライターのふたをひっこ抜いた。
「……っ?」
 弘治は目を見開く。
 金髪の男は、仲間から集めたライターのふたを、次々に抜いていく。
 ふたを抜いたライターは、順々に黒ベストの男に手渡されていった。
 弘治は黒ベストの男の顔を見た。男はにやにや笑っていた。
 全てのふたを抜き終わったらしい金髪の男が、ふたを抜かれたライターの束を、黒ベストの男から受け取る。
 そして金髪の男は、おもむろに弘治達に近寄ってきた。正確には、より近い位置にいる棗に向かって。
 弘治は棗をかばって、棗の体を自分の体ごと百八十度回転させた。弘治は金髪の男に背を向けた状態になる。
 弘治は首をひねって、金髪の男を振り返った。
 しかし金髪の男は、弘治の視線を無視して、棗の背後に素早くまわりこんだ。
 そして、ふたをはずしたライターを、一つ掲げる。
 目前に、強いオイルの匂い。
 弘治はあわてて、金髪の男の顔を見上げた。相手は弘治を見ていなかった。棗の、棗の頭だけを目に映している。
 ぱしゃ。
 金髪の男が、ライターの中身のオイルを、棗の髪にかけた。
 驚いて弘治は、棗の頭を見おろす。向かって右の上頭部が、濡れていた。
 ぱしゃ、ぱしゃ。
 金髪の男が、次々にライターのオイルをかけていく。
 棗が軽く頭を振った。嫌なのだ。嫌に決まっている。
 それでも、相手を刺激しないよう、弱々しくしか頭を振れないのだ。
 ほんの少し揺れる、棗の髪。ものすごく痛々しかった。
 弘治もどうしようもなかった。走りだしても逃げきれないことが明白で。殴りかかっても、この人数だ。やられて終わりだろう。
 何より、こんな風にオイルをかけだした、相手の行動が今ひとつ読めなかった。
 正確には、察しはついたのだ。でも、まさか、そんな、と思っていた。
 金髪の男が、棗に最後のライターのオイルをかけた。かけ終わってもまだ、最後の一滴までふりかけるように、左右に軽く振り続けている。
 すっかり濡れた、棗の左上頭部の、髪。
 金髪の男が、落ち着いた声で言った。
「火ィつけろよ」
 弘治に、言った。
 弘治は目を見開いた。
 ――その言葉は、まさかそこまで、と思っていた予想、そのままで。
 更に酷かった。
「今、おれらがつけようとしてたんだけどな。せっかくだから」
 金髪の男が、唇だけをにたりと笑ませて、言う。
 そして弘治は、金髪の男に、ぐい、と腕を引かれた。
 しっかりと抱きあっていた棗の体と弘治の体が、離れてしまう。
 金髪の男が、胸ポケットからジッポーを取り出した。
 弘治は右手に、そのジッポーを握らされた。固く。
「ホームレスのガキなんか、クズだって」
 金髪の男が、囁いた。
 弘治はジッポーを握りしめたまま、震えた。震えることしかできなかった。
「やんないなら、おまえの両腕とか、いろいろ、折るぜ?」
 そう言いながら、金髪の男は背後にあるバイクを、振り返らず親指で、示す。
「みんなでバキバキ、何往復もしちゃったらさあ……、一生なおんないよねぇ……」
 茶髪のロングヘアの女が言った。
「骨、ばーらばーら」
 藍の髪の女も笑った。
 そして、誰か男が、楽しそうに叫ぶ。
「うわ、シンショーじゃん!」
 キンと響いた、その単語。
 ふいに、弘治の頭の中は、すっと冷えた。
 もし、このまま母親が悪くなり続けたら。
 そんな母親をかかえて、もしも自分が牧師になれなくなり、誰にも援助してもらえなくなったら。
 ……ここで自分がしっかり、して、いなければ。
 自分達は一体どうなってしまうのか。
 瞬間、弘治は棗の目をのぞきこんでしまった。すると棗も、弘治の目を見た。
 自分の目を見上げる棗の目に、さっと浮かんだ怯えを見て、弘治は自分が棗に火をつけようとしていることに、気がついた。
 誰よりも棗を大事に思っていることも、そんなことをすれば牧師になるどころか、人間として最低だということも、頭からぶっとんでいた。
 これからの自分のこと。ただそれだけを考えていた。
 ゆっくりと。
 弘治は棗に、こわばった右腕をのばした。
 棗は目を見開いて、弘治を見上げていた。首をわずかに、振ったようにも見えた。
 シュ、と、小さな音をたてて。
 ぽっと、ジッポーに赤い火が灯った。
 その火はあっという間に、棗の髪に移った。
 髪に火がついた、と思った瞬間、弘治の視界から棗の姿が、ふっと下方に消える。
 ぎちぎちと。弘治はぎこちなく、視線を落とした。
 ダンスを踊るように激しく首を振り、棗が地面をのたうちまわっていた。
 ……いきなり、周囲の空気が、一斉に動いた。
 連中がバイクに走り寄っていく。全員が、バイクにまたがる。ブルルン、というエンジン音が、いくつも響く。
 くすくす、あはは……。笑い声が、反響のように、まわり中から聞こえてきて。
 あっという間に、遠ざかっていって。
「ばっかでー!」
 最後に、一際高い、大きな、男の声がぶつけられてきた。
 そして、突然、静寂が訪れた。
 パチパチ、という、火のはぜるわずかな音。その音だけが、聞こえる。
 弘治は一瞬だけ、目を閉じた。
 目を開けた。
 ……燃えている。
 目の前の地面に転がっている。体を丸めて、頭をかかえて、燃えている、棗。
「……なつめ!」
 弘治は棗に走り寄りかけて、すぐに立ち止まり、踵を返した。
 棗の小屋に、転げ入る。
 水を汲み置いてある、入り口の横のバケツを、持ち上げた。
 足をもつれさせながら、棗の下へ戻る。
「……ぅっ、……ひッ……っ!……ぅぅっ!」
 その時初めて、歯をくいしばった棗の、叫びにもならない呻き声が、弘治の耳に届いてきた。
 弘治は棗の頭に、バケツの水全部をぶち撒ける。
 ざばんっ、と激しい音がたつ。棗の髪から、炎が消えた。
 弘治の足元に、水がざああっと流れてくる。
「なつめ……!」
 弘治はあわてて膝をついて、棗の顔をのぞきこんだ。
「……ぐっ、……ぅ……!」
 棗が頭をかかえて、よろりと半身を起こす。
 棗の前髪から、雫がぽたぽたぽた、と垂れている。
 そして棗が、うなだれていた首を、持ち上げた。
 はぁ、とはっきり聞こえるほど深い息を、ひとつ、ついた。
 それから。
 怯えた目で、弘治を見上げた。
 完全な、怯えているだけの目だった。
 弘治に対する怒りも、責めも、憎しみも、その目にはなかった。
 弘治の息が、すぅ、と止まった。
 その目の中に、自分と棗の間に絶望的に入ってしまった亀裂、断層、の映像を見た、気がした。
 視界が真っ白になった。そのあと、真っ赤に。
「……なつ……」
 弘治はふらふらと、棗に腕を伸ばした。
 棗はよけなかった。弘治の腕に、抵抗もせず、おさまる。
 弘治は、はっ、はっ、と、大きな音をたて、息を吸い続けた。
 苦い、焦げた臭気。棗の髪から。皮膚から。
「……あ」
 弘治は震えながらつぶやいた。唇がびくりとも動かない。
 目から涙が大量にあふれてきて。
 よだれが、口の端から流れていく。
「……あ、……あ」
 今あったこと全てを打ち消すように、ただただ強く、棗を抱きしめた。
 消せるわけがないことは、わかっていた。
 もう一生戻れない。
 自分がやってしまった。自分が捨ててしまった。
 弘治は歯をくいしばる。
「……っ、……ぅっ……」
 弘治はくぐもった声でうなった。涙だけがこぼれていく。
 棗の焦げた髪に、手をあてた。痛みを与えないように。空気のように、そうっと。
 棗はひゅーひゅーと、ひっくり返ったような音をたてて、ただ、呼吸を繰り返していた。その体は、ぷるぷると震えていて。
 怖くて弘治は、棗の顔をのぞきこめなかった。でも見なくても、茫然とした棗の表情が、目に浮かんだ。
「……ひぐ、……っぐ……っ……」
 棗を抱きしめたまま、弘治は低く、低く、何度もうなった。
 泣く資格もないのに、涙は止まらなかった。

 ◆

「何べんも、何べんも言ったじゃん。これ以上おれにどうしろって言うんだよ」
 棗が少し、舌をもつれさせながら言った。
 弘治はそっと、頭を持ち上げた。
 その動きにつられて、棗の手さきが、弘治のあごの方へとすべっていく。
 そうして弘治が見たのは、眉尻を下げ、目を細めて、苦しそうにこちらを見つめてくる、棗のいたいけな表情で。
「これ以上、おれにはどうしようもないんだよ」
 棗はその表情で訴えてくる。
 そして弘治の頭を両腕でくるみ、自分の胸へと、再び、寄せた。ぎゅっと、弘治の体を抱きしめてくれる。
 抱きしめられながら、弘治は、
「なんで、許せるんだよ」
 反抗するように。うめいた。
 棗が小さく、言い聞かせるようにささやく。
「……わかるからだよ」
 なにが、とは言えなかった。
 なにもかもに決まっている。
 自分のことなんか。なにもかも。
 棗がそっと、手のひらで、弘治の髪を撫でおろしてきた。
 やさしいその手のひらに、すべてが溶かされていくような気がした。
 ずっと、昔からずっと、そうだった。しっとりとしていて、まだまだ小さい、癒そうとしてくれるその手のひらに、甘え続けてきたのだった。
 流されるままのような……生き方とは裏腹に、いつも、いつでも、……その心が熱い。
 弘治はのろのろと顔を上げ、棗の顔を見つめた。それに合わせ、棗が腕を、弘治の体からそっと解いた。
 自分を見ている棗の目が、淡い電球の逆光に照らされて、しずかに光っていた。
 ひっきりなしに流れ出てくる涙でかすむ目に、神々しく映る。
「……痛い?」
 弘治は骨ばった手のひらを、棗に向かってのばした。その腕の上にも、涙がぽとんぽとんと落ちる。止められない。
 棗の、桃のようなほほを、つつんだ。
 その手に、棗が手のひらを重ね、目をつむった。そっと告げてくる。
「痛くないよ」
 そして強い調子で語る。
「生きてんだもん。傷、ふさがってくんだ。膿みも出なくなるし、髪も生えてきてんだよ?」
 はあ、と苦しげに息をついて、棗はやけのように、つぶやいた。
「忘れて、すすんでくんだ」
 弘治はぱちぱちとまばたきをして、涙を払い落とした。必死に棗を見た。
 いつのまにか棗も泣きだしていることに、弘治はやっと気がついたのだった。
「……おれら、あきらめるしか、ないんだよ」
 そう言って、棗はしゃくりを上げた。あどけない顔だった。悔し泣きしている、子どものみたいな。それは、棗らしくない表情。
 たまらなくなった。
 弘治はぎゅうっと棗を抱きしめた。
 棗の体は、あいかわらず小さかった。
 抱きしめた腕がこんなにあまるほどの、こんな、小さな子どもが、自分を許すのだ。
 そして、先に立って、導くのだった。自分が怯えて、踏み出せずにいた、新しい道。
 弘治は泣きながら、棗の右手を、手にとった。
 なつかしい、手のひらに口づける。
 今、確かに自分の手の中に。
 何度も、何度も口づけた。
 そのまま棗を押し倒した。棗は素直に、ころりと弘治の下敷きになって、ころがった。
 弘治は棗のパーカーの、腹の部分に噛みついた。上へひっぱる。
 ひっぱりあげた生地に、またかみつきなおし、それも上へずりあげる。そうして棗の胸元まで服をたくしあげ、肌を露出させた。
 時間を置いた、久しぶりすぎる……。
 慣れた、記憶をなぞって。
 なだらかな胸に、唇をすべらせていく。
 小さな乳首に、やわく歯を立てた。
「……フ、ん……」
 棗の鼻声が、素直に返ってくる。
 弘治は棗の服を、何かにせかされるように、がむしゃらに脱がせていった。
 棗も、過去のどのシーンよりいっそう、協力的だった。あっというまに棗は、半裸以上の状態になって。
 棗の脚を折り曲げ、がむしゃらに、肩にかつぐ。
 秘部をあらわにされ、棗が目元を赤く染めて、少し、ふるえた。
「……っ」
 手順に気づき、弘治は自分の人差し指と中指に、唾液をからめようと、その二本を口の中に入れた。
 興奮ではなく、寒さに震えるのと同じ感覚で、駆り立てられて、はやっている気持ちに。歯はがちがちとわなないていて、指にくいこんできた。
 ……それでも、液をまといはした中指を、棗の秘部へ。
 ぐっ、と挿入した。抵抗のある内にかまわず、指を押し進める。
「……ん……」
 棗が、浅い、速い呼吸を繰り返す。
 棗のようすをうかがいながら、弘治は、人差し指も、繰り出すように、押し入れた。
「……っ」
 棗が、ぶんっ、と勢いよく首をすくめる。バラバラと乱れていた髪が、ますます乱れた。
 つるりとした棗のほほが、上気していく。赤くつぶれた、若々しいにきびの跡。
「棗」
 鼻と鼻とがこすれあうような距離で、弘治はささやきかけた。
 許可を請うように。
 目もとに力をこめていた棗が、ふっと目を開ける。
「…………」
 どこか。
 対象をすりぬけ、遠くを見ているような、そんな棗のまなざしが、弘治を捉えた。
 そのまま、弘治の目に、棗の丸い指が、近づいてきた。
 ……まだかかっていた、弘治の、黒ぶちの眼鏡。
 やたら丁寧に。両手を添えて、はずしてくれる。
 カチャリ、と、どこか秘めたような、かすかな物音。
 ……名残惜しそう、と、でも、形容できそうな。
 弘治は、ぶるん、と首を振った。
 こぼれ落ちそうになっていた涙をこらえる。
 棗の体から指をひき抜き、脚をかかえなおした。
 力を得ている自身を、棗の秘部に、あてる。
「……ん……」
 棗が、目を固くつむり、一瞬、うめいた。
 弘治は体ごと、棗の体に沈んでいった。
「……ッ!」
 棗が、声になっていない高い、高い息を洩らす。
「……っ……、ぅっ……」
 小刻みに震える、棗の体。
 目尻から、涙がしみだしている。
「……ぅ」
 弘治も思わず少し、声を洩らした。
 全身がしびれてしまうような、快感。
 苦痛なほど狭く、搾ってくるくせに、吸着してくるような、腫れぼったいヒダ。
 首の裏側にも、ぞくりと心地よさが走りぬけていく。
 ――繋がっている、歓び。
「あ、……はぁ……ッ、……」
 刹那の膠着状態の後、こらえ、小刻みに痙攣していた棗が、耐えきれず高い嬌声をあげた。
 その声にはじかれ、弘治は腰を一度、突き上げた。
 加えた力そのままに。
 棗の躯が、ゼリーのように揺れた。
「ふ……っ、あ、ぁあ……っ」
 鼻にかかった、棗のあえぎ声。
 動きを再び、停止状態で固めて、フハ、ハ、と、荒い息をつきながら、弘治は右腕を持ち上げ、棗のひたいにかかる前髪を、手で大切に、かきあげた。
 首を折って、棗の顔に、口づける。鼻の頭、ほほ、紅い厚い唇の上。
 体内に入りこまれた影響だろう、早くもしっとりと汗の浮かんだ、棗の肌。
 懐かしい体だった。近くにあるのに絶対にふれることのできなくなっていた、恋い焦がれた体だ。
「……なつ、め」
 至近距離で、舐め取るように見つめながら。
 響きで愛撫するような甘い声で、弘治は囁いた。
「ん……んッ」
 それにつられるように、棗が体を、波うたせた。
 暴れるように、棗の開かれた両足が、幾度か左右に動く。
「……ッ!」
 セックスどころか、棗にふれることさえ、今日まで長く禁じていた弘治には、それは致命的な刺激だった。
 とっさに下唇を、カシリ、と音がするほど、噛みしめた。
 反射的に、逃れさすように、弘治は自身を引く。
「ン……っ、ふ!」
 だが裏目に出たらしい。棗が腰を、たよりどころがないように弱々しく、震わせていった。
 それは、抵抗のしようがないような反流へと、転化されて。
「ッ……」
 フラッシュのように、目の奥に、烈しい閃光が行き交う。
 制御のゆとりなく、たまっていたものが、押し流されていってしまう。
 ……なんの準備もできていない、棗の内壁へと。
「――ッ!」
 二人ともで、一種コミカルに、ばたばたともがきあった。
 ……ほんの数瞬後。
 棗の両肩を、両手でかかえた姿勢で。
 弘治は我に返った。
「……っ、ごめっ……」
 はぁ、はぁ、と、せわしなく呼吸を吐き出しながら、あわてて半身を引き出そうとする。
 と。
 つけっぱなしの電球に、ほの明るく発光する肌。
 細さよりは、短さのほうが目立つ指先。
 引き絞られたようにたよりない手首。
 それが肘へとつづく、綺麗な腕のライン。
 それらが、弘治の視界にふわっと迫ってきて……首に絡みついてきた。
「も、――っと、ちゃん、……っ、と、するっ……」
 瞳をしっかりと閉じたままの棗に、そう、首を左右にふられた。
 そのただをこねるようなしぐさで、涙の粒が、ふりまかれた。
「しば、……く……。……最後、だか……ッ」
 嗚咽に彩られた。
 想いと一緒に、すがりつかれ。
 頭をわしづかみにされて、思いきりシェイクされたような衝撃で、弘治は眩暈のなかに放りこまれた。
 ……こんな――めったに見せない……。
「……ッ!」
 ほとんど怒るような顔になって、弘治は、つかめばその指の形のままへこみが残ってしまう気がするほど、未完成な棗の体を、叩きつけるように地へ押しつけた。
 両手を床につき直し、もう遠慮はせずに、刻みつけるように挿入する。
「ッ、……ひぁ……っ、……あ」
 棗が、弘治の肩に、両腕で必死にしがみついてきた。
「……な、つめ……」
 水分の粒子が手にうつってくるような、独特な棗の素肌をさぐりながら、弘治は夢中で、囁きかけた。
「棗」
 ――ふいに。
 棗の汗の浮かんだひたいの上に、ぽたん、ぽたん、と透明な雫が落ちていくのが、目に映った。
 汗と一緒に落ちていく。
 ……自分の、涙。
 弘治は自分がこぼしている涙を、その崩れた雫の形を、一瞬だけ見つめた。
 棗を見る。
 棗もむせび泣いている。
 悦しそうにも、悲しそうにも見える、眉を八の字に下げた、幼げな表情。
 ……弘治は眉を寄せて、固く、目を閉じた。
 棗を強く、抱き寄せる。
 こらえても、こらえても、涙が溢れてくる。
 多分、二人とも。
 なんで、この夜は終わるのか。
 なんで、世界は変わっていくのか。望まぬほうに。
 なんで、すべては、……止められない。
 なんで、なんで。
 一生、夜が明けなければいいのに、と深く思った。
 一生。
 …………そばに。いて。

 ◆

 何かをささやかれたような気がして、弘治はうぅ、とうめいて、寝返りをうった。
 やたら頭がいたい。体が、鉛のように重い。それでも。
 ……目を開かなきゃいけない。
 と、ぼんやり思う。
 ……棗。
 ……棗が。
 行ってしまう、から。
 ――弘治はバッと目を開けた。
 目の前に、棗の姿がない。
 跳ね起き、後ろを振り返る。棗が唯一持っていた、白い小さなリュックも消えている。
 あわててパーカーをかぶる。そのファスナーを上げながら、パンツを足だけではこうとする。
 そうして、服を体にひっかけただけの状態で、弘治は小屋の外に転がり出た。
 そのままの勢いで、土手の上を見上げる。
 棗がいた。

 昨日の児童相談所の、桑見という女と、既に歩き始めていた。
 朝日の方向に。弘治に、後ろ姿を見せて。
 弘治は立ちすくんだ。
 追いかけなきゃ、とあせってはいた。
 それでも、朝日にかすむ棗の姿は、あんまりにも綺麗だった。
 追い、かけて。
 何が、できる、わけでもない。また自分は、行かないでくれ、と、醜く泣き言を言うだけなのだ、きっと。
 去っていく、棗の背中。
 ……進んでいく、背中。
 振り返らない。
 孤独な、それなのにやさしい。
 ……やさしかった。
 涙が溢れだしてくる。途切れることなく。アホみたいな量が、ぼたぼたと落ちていく。
 目が痛い。
 それでも目を、閉じられなかった。
 棗の姿が、もうものすごく小さい。
 それからついに、朝日に溶けこむように、見えなくなってしまった。
 そして、弘治は初めて、目を閉じた。痛かった。目が。指が。胸が。
 ガラスが割れ、破片が飛び散っていくように、その痛みが小さく砕けて、体のあちこちに散っていった。
 その痛みはきらりと、まばゆい光に変わっていく。
 目の奥で、体の中で、乱反射する。止まらない。
 棗が自分に向かって、最後にささやいた言葉と一緒になって、いつまでも、キラキラと光り続けた。
「……がんばれよ、……牧師さん」