ぼくもう、みんなの本当の幸いのために、百ぺんこの身を焼いたって、かまわない。
 夏も暑くないし。
 冬も寒くないし。
 いつだって眠くもならないし。
 どこかが痛いこともない。
 あのさそりの星座みたいな。
 赤い、血みたいに赤い、花束を。
 かならず捧げて、あげる。

 ◆

「やー、土地カンがないのに、本当ご苦労さんだったねー」
 がらがら、と。にぎやかに音を響かせながら、目の前の人物が、開いてゆく。
 いまどき見かけなくなった引き戸の玄関。黒い柵状の鉄ワクに、はめこまれているのは曇りガラス。
 治安の良い田舎だからこそ許される、昭和のなごり。
 チャイムを鳴らしたら、わざわざ『つっかけ』をひっかけて、外まで出て迎えてくれた――この家の父親が、先に入っていく。
 ……その時、強引に持とう、とされたので。押し問答のようなやりとりで、乱れたバッグの肩ヒモを。
 背中を少し動かしてバランスを直してから、後ろ姿へ続いた。
 宿でもないのに、ずいぶんなもてなしの態度だ。
「ここいらは本当、交通の便、悪いからねぇ。自家用車じゃないと大変だっただろ〜ぜったい迎えに行ってあげるつもりだったんだけどー」
「いえ、すんなり来れましたし……。お気になさらないでください」
 あいづちを打ちながら、脱いだ靴を揃えて。
 先導しだした背に、ついてゆく。
 キシ、キシ、キシ。たまにギシ、と鳴ってクボむ、日焼けしきった木製の廊下。
「さっきまで東京から、直接仕入れのお客さんが、打ち合わせにいらしててさ。どうしてもはずせなくてねーこんなことめったにないのにねぇ」
 説明してきながら、大きな柱の横で、立ち止まった。
 つられて柱を見やれば、田舎のお約束、家族の成長記録。そのときどきの身長部分につける傷が、いくつも刻まれていた。
 その柱を両脇からはさんだ、ふすま。
 ま新しい白では、もちろんなく、アイボリーすら通り越して。まだらな蛇柄に渋が走った、茶色。
 そんな古ぼけたふすまが、パン、と開けられた。
 部屋には、さんさんと秋の快晴の、日がさしこんでいる。
 目がかすみ、少し眉をしかめた。
 やはり古びているが明るい居間。
 冬はこたつに変わるであろうちゃぶ台、かつて嫁入り道具だっただろう妙に立派なタンス。
 ……ボロボロ一歩手前の、毛羽立ちきった、これも日に色あせた古い畳にすすみ。
 ぺしゃんこになった四つの座布団のうち、一つを勧められ、腰をおろす。
「お茶いれてくるね」
 たった今、同時に座ったばかりなのに。
 せかせかと立ち上がって、この家の大黒柱は、姿を消した。
「…………」
 取り残されて。
 座布団わきに、肩がけの荷物を、どさりとおろした。
 まばゆい窓側へ、視線を転じる。
 猫がいかにも好んで、腹を見せて寝そべっていそうな、ぽかぽかとした縁側。猫を飼っているわけではなさそうだが。
 ここにまで日ざしが届いてくる。冷えていた、坊主頭に近い、髪をそぎおとした地肌がぬくまってくる。
 首を再びめぐらして、室内を見やると、テレビ上の写真立てが、目にとまる。
 仲の良い家族なのだろう。ほほえましさが溢れ出るような家族の集合写真だ。
 ベンチに座っている父親と母親を中央に、ベンチ後ろから、青年と女性と少年がかぶさるよう、おしくらまんじゅうじみた密集で映っている。
 見つめていると、ギシ、ギシ、ギィ、と、廊下から足音が響いてきた。
「あぁあ、膝、くずして、くずして」
 ふすまを開くなり、あわてたように言ってくる。
 言われたとおり、正座からあぐらへ、体勢を変えた。
「あ、テレビ見たいの?」
 入室してきた時、そちらに視線が向いていたからだろう。そう尋ねられた。
 頭をかぶりながら、否定する。
「いえ、写真立てが……」
「あぁー、家族の写真だよ。ちょうどいいや」
 湯のみが二つのったお盆をちゃぶ台に置き、テレビ上から、写真立てを手にとった。
 そして、机上に持ってくる。
「……コレは、おれだろ」
 一角をはさむ位置の席に座り、写真を指さしながら、見せてくる。
 まず指さされたのは。
 人のよさそうな目や、丸い鼻、低めの身長と、性格があらわれたような……非常に親しみやすい容姿の、当人。
「で、これが奥さん。――二年前に、早死にしちゃったの。……病気でねぇ」
 すすっ、と指を移動させて。
 淋しそうに説明しながら、当人より身長の高い、痩せ型の女性を示す。
 強そうな切れ長の瞳、直線的な顔立ち。
 肌がこの写真のなかで一番、きわだって褐色だ。
「これが一番上の長女で、『香』。三十とっくに超えてるからー君より年上だね」
 とがったアゴが目立つ、少々キツそうな女性。
 あきらかに母親似で、ほとんど生き写し。
「このひょろっとしたのがその次の、長男ね。『作』ってゆって、こいつは大学の農学部でて、会社で働いてるから、一人暮らしで、家にはいない」
 柔和そうな目が父親ゆずりな。
 背が高いのとあいまってとても痩せて見える、誰とも似ていないほど色が青白い青年。
「こいつが末っ子の、『豊』。これはまだ高校三年生。で、こいつからも仕事、おそわることになると思うよ。あんまり勉強好きじゃなくって、いっつも農作業に逃げてきがやるの」
 しょうがないな、という表情で、でもまんざらでもない風に。ハハ、と、なごやかに笑う。
 姉のようにきっぱりとした目元だが、ふっくらした印象の口やアゴが、むしろ父親寄りな少年。
 長男についで、色白だ。
 カタン、と、写真立てをテーブルに置いて。
 一息つくように、湯のみをズズーと、すすりだした。
 ならって自分も、口をつけた。やや冷めてしまった緑茶。
「……これまでは、大迫町の石橋さんところに、居たんだよね?」
 つらつらと思い出しつつ、しゃべっているように。
 湯気と共に、天井を向きながら、そう話しかけてきた。
「ええ。たくさん勉強させていただきました」
 将来は自分で農業をやりたい。
 そのためにボランティアのような賃金で、知り合いからまたその知り合いへと、色々な農家をわたり歩き、修業している男。
 ……という、こと、に、している。
「給料、ほぼ出せないと思うけど、本当にいいの?……休憩とか、休日とかは、だいぶ自由にとってもらえるけど……。と言っても、このあたり、若者が息抜きに遊びに行くような場所、車でかなり飛ばさないとないしねぇ」
 視線を合わせてきながら、思案顔で言う。
「そんなお気遣いまで、ありがとうございます……が、無趣味な人間でして。パチンコすらやりませんので」
 進みでるようにして、あぐらから正座になりつつ。ジーンズの両膝を畳におろし。
 座布団を、後ろ手で、サッと横にのけて。
「ですから、ぜひ、よろしくお願いします。泊まらせてまでいただいて、ご迷惑をおかけしますが……。お役に立てるよう、せいいっぱいがんばりますので」
 畳にじかに座り、深々と、土下座をしてみせた。
「あ、いやいや、そんなことしてもらっちゃあ……」
 驚いて、むこうもおじぎをしている様子が伝わってくる。
 ぺこぺこしあう、奇妙な風景が完成しているだろう。
「もちろんこの農繁期に手が増えてくれるなら、願ってもないんだよ――この辺、思いっきり過疎が進んじゃって、助け合いでいこうにも、どうにもねぇ……。君みたいな若い人が、一人増えてくれるなら、本当、皆、助かるよ」
 物寂しさを、噛み砕きあらためて悟っているような。
 そんなしみじみとした口調で、歓迎の意をあらわしている。
「じゃあ、ひとまず、お部屋に案内するよ。ボロ屋なもんで申し訳ないんだけど……」
 ひととおり話を終え、父親は、よいしょ、と、こぼしながら、部屋へ案内するため立ち上がった。
 荷物を小脇に抱えて、続いて立ち上がる。
 さっきの廊下に出て、しばらく進むと。
 ほどなく二階への階段の、前まで来た。
 バリアフリーを鼻で笑う急勾配だ。古い木造建築。
「あ、いるな?」
 しかし、その階段をのぼろうとした寸前。
 父親は顔を、横に向けて、足をとめた。
 階段横の、台所らしき部屋。
 すりガラスの、木枠の引き戸のドア。
 中に、誰かの水色の服が、チラチラ動いているのが見えた。
「かおりー。紹介……」
 言いながら、ガラリ。と、父親が、戸を引いた。
 多少ほこりっぽい廊下の空気と、台所からの湿気のある匂いが、フワリ、混ざり合った。
 こうばしく、仄かにすっぱい、甘酒のような匂いのする台所だ。
 足をすすめる父親についで、入室した。木ビーズののれんが、くぐる時にシャリと、頭をなでた。
 ガス台の直上の、すすけた天井。ひねるタイプの蛇口には、年季が入っているせいでサビが浮いている。
 システムキッチンとはほど遠い、そんな場所で、
「ああ、いらっしゃったの?」
 ちょうどエプロンを結んでいるところだった女性が、くるり、こちらに振り向いた。
「……ぁ、いらっしゃい、ようこそ。まずは、ゆっくりしてね。……えっと夕食はねぇ……。二時間後くらいだから」
 もう既に、ここに本人がいたせいで、少しだけ戸惑ってから。長く挨拶してくる。
「お酒はのむ? ビールと日本酒どっちかしら?」
 すこし浅黒い肌。シャープなあご。スレンダーに細い躯。
 目つきの凛々しさとあいまって、優しい言葉選びでしゃべられているのに、少し圧迫を感じる。
 多分、ふだんこういったしゃべり方をする人ではないのだろう。
 もっと強気に、遠慮なく物を言うタイプらしかった。
 口調の速さと、言葉と言葉のつなぎ……あいまのスピードに、なんだか開きがあるのだ。
 家族じゃないし、でもこれからしばらく下宿するわけだからあんまり礼儀どおりに猫かぶってられないし……。どうしゃべったらいいのかしら、そう距離感を選びかねてしゃべっている風。
「飲めないわけじゃありませんけど、特に好きでもありませんから。お気になさらないでください」
「そう? けどね、お父さんが……」
 言いながら、自分の父親へと、視線を移して、
「今日はお刺身も、おつまみも用意するし。できれば相手が欲しいでしょ。……つきあってあげてくれるかしら?」
 同じくらいの身長である父親を見たままで、そう言ってくる。
 父親の方と言えば、『うんうん』と、満面の笑みでうなずいている。
 ただでさえ上機嫌に見えてたが、いっそう機嫌がよさそうになっていた。
 おおっぴらに酒がのめるのも嬉しいのかもしれないが、どうやら『刺身』が好物なようだ。
 そうして、つけ足した。
「豊はあんまり飲まないからなぁ」
「とーさん、アレ、いちおう未成年なのよ……」
 困ったふうに眉尻を下げて、あきれた口調で、姉が釘をさした。

 二階廊下は、一階より、総じて、窓が小さいせいか。
 射しこむ日の量が少なく、かなり冷えていた。
 一番奥まった部屋にみちびかれる。
「ここ使ってくれるかな。ちょっと狭くてもうしわけないけど、日当たりはいいから。となりは末の子の部屋で……、その隣は空き部屋なんだけど、そっちは一応長男の部屋なもんで」
 六畳の、またあった古めかしい大きなタンスが、スペースを占領している和室。
「ありがとうございます」
 にこり、一回きり、笑顔を返した。
 初めて笑ってみせたせいで、『部屋はここでいいみたいだな』と納得したふうに首肯しつつ、
「休んでてね」
 猫背でせかせかと部屋を後にしてゆく。
 ぽすん、とふすまを閉めていくつつましい音が、締めくくった。
「…………」
 通された部屋の中央。
 しばし棒立ちに、佇んだ。
 古いうえに和風なため、近い天井。
 さらに低く、頭すれすれの位置にある蛍光灯のカサ。レトロな頑丈すぎるデザイン、薄汚れた生活感をまとっている。
 シンとした二階の静寂が、ひたひたと浸水してきて、いっぱいになる。
 ふと、窓の外にひろがる自然に気がつき、足をすすめた。
 足裏をがさがさと、ささくれ荒れた畳がひっかく。
 カラリ。
 ひらいた窓から。いやおうなしにせまり、圧倒してくる自然。
 日暮れ独特の、もの寂しい。鼻先をつまんでいくような、ひんやりした空気。
 リーリーコロコロ、鈴虫、こおろぎ、秋の短い北国での、すぐになくなる虫の音。
 窓際に尻をおろし、あぐらをかいた。
 右膝に、片ヒジをついて。
 窓から身をのりだして、前のめりに、ほおづえをつく。
 くれないから、くろへ、幕をおろすように暮れなずんでゆく、田舎の風景。
 素晴らしい土地だ。
 精霊の存在を信じられるほど、肥沃で、懐かしげな。
 生きる糧を生み出せる。
 望ましい、想像したままの風景。
 ゆったりと、歓喜を、噛みしめながら。冷静に思い返す。
 この家で栽培しているのは、二種類の林檎だそうだ。
『ジョナゴールド』と『ふじ』。
 そのうち先に収穫が来るのは、ジョナの方。
 あの、品種の。
 林檎の収穫期は――。
 ぼんやりと、泳ぐように、経験を思い出していると。
 ガラッ。
 隣の部屋から響いてきた、窓をすべらす音。
 息子が帰宅したのか?
 首をめぐらせて、反射的にそちらを確認した。
 さっき写真で小さく見た顔が、そのまま大きく引き伸ばされて、そこに在った。
 顔を合わせて数秒間。
 向こうも、こちらも、口を開かずに見あう。
 色白な肌に、茶色っぽい眉や、まつげが浮き上がっている。
 まっすぐなカタチの唇も、薄桃色。
 日本的な漆黒は見受けられない色素。
 全体的にそう色が淡いせいか、さっきの姉よりトゲトゲしくない印象だが。
 父親にはない、切れ上がった大きな目が、いかにも勝気そうな姉との血縁を感じさせる。
 毛並み、と言いたいほど細い質感の髪が、ふわふわと風にそよいでいた。電灯を受けている部分も、ケラチン質が脆弱なのか、輝いていない。ただ、より茶色に風合いを、淡く見せているだけ。
 ……ふいに、そんな相手の顔面が。
 容赦なしに、皺くちゃ、『ぐちゃり!』と崩れた。
 近よりがたい印象だった、強く意志の宿った顔に、唐突に、陽気さがあふれでる。
 父親には似てないとさっき断定したはずなのに、その感想が一掃された。
 踊りに感じるような生気が、ぶわっと吹きつけてくる。
 ――ドクン、と胸の中で、ひとつ不自然に、鼓動が跳ね上がった。
 切りつけられたように同じ箇所、痛みが走る。
 そして納得する。
 ああこれは――重なったんだ、と。
 黙って佇んでいる時は、気配すらほぼ消している、生来の静。
 無い表情から、いきなり歯までみせて全部ほころぶから、強烈で貴重な笑顔。
 弱く細い幼さを残した光を、まとう髪質と。
「原本冬樹さん」
 年齢のわりには落ち着いた、深みのある声。
 それで呼んできてから。
 いったん息を吸いなおして、
「……でしたよね?」
 と、問うてくる。
 ――はい。
 ショックから抜けきれないままに。
 さっきまでと同じく、丁寧を心がけ、言葉を返してゆく。
 ――このたび、お手伝いさせていただくことに……。
 遠くから聞こえてくるような、自分の口からの、応答。
 現実感がまだ、身に戻ってきていない。はがれて浮いたままの魂。ほんの少し泣きそうに。
「ええ、はい」
 言いながら、短く二回、うなずいている相手。
「一番末の……豊です。おれも仕事、一緒にさせていただくことになるん、でー」
 少し会話にまよった風に。
 瞳を、上回しに、泳がせて。
「林檎、もうすぐ、大きく実りますから」
 あの、緑の木に、たわわに幾つも丸くみのる赤い果実。
 見慣れていても、奇跡を思わせる光景を、想像したのか。
 ほのかに嬉しげに、頬を上気させた。
 そして、その収穫をわかちあおうとする感情を。
 いっぱいにのせ、投げて、きた。
「よろしく」
 警戒する必要のなくなった気温に芽を伸ばし、まちかねて五月初め、花開くあの木の。
 うっすらピンクがかった白花のように。
 ほどけたばかり、しなやかで水々しい。
 ――好意を拒絶する理由があったとしても、そのしこりが消滅していくような。微笑み。
 つい。
 今、この瞬間だけ。
 ありのままの気持ちで、返事していた。
「……よろしく」

 ◆

 みそ汁の麹のにおいが、湯気と共に立ちのぼって、テーブルまわりを占領している。
 炊きたての白米がおさまった茶碗、冷蔵庫からタッパーのまま食卓に出されているきゅうりの漬物、豆腐とわかめのみそ汁。
 台所のまんなか、いちおう四人座れる――だけど合計二人分のこのメニューの皿数で、もう食器が並びきらなくなる寸前、そんなサイズのテーブル。
 ここの家族は、晩御飯をのぞいて、わりとバラバラに食事をとる。
 実際、父親は、日ざしが強くなる前にと、
「薄暗いうちに、鳥よけテープの補修だけ、してくるよ」
 さっき言って。
 日光を反射してギラつくテープを、張る仕事をしに出ているし。
 姉はさっきから、バタバタ台所に走りこんできて、何かをしてはまた出て行って、と、もう出勤準備をしている。
 ……テープ補修がすんだら、今日の次の仕事はどれになるだろう、と考えながら。箸を動かしていると。
 いま持ち上げている茶碗のぶん、あいてるテーブルの空白に――自分の視界に、コトリと置かれた。
 水色の水玉もようが散った、白い皿。
 その中央にあるイエローのかたまり。
 続いて声が、ふってくる。
「原本さん、これも食べなよ」
 ……目を細めてしまいながら、前をあおぐと。
 片手にもう一つ、そろいの水玉もようの皿を持っている。それにもスクランブルエッグが、卵三つ分くらいはありそうな大きさで、入っている。
 てきとうに身につけただけの、深緑のエプロンを取りさりながら、『弟』が対面の席につく。
 長袖シャツと黒パンツ。シンプルで学校独自の特徴がない制服。
 視線を向けっぱなしなこちらに、かまうそぶりはなく。
 フォークをさっそく突き刺し、もぐもぐと、自分のスクランブルエッグを制覇しにかかっている。
 姉が自分ついでに全員分を用意してくれた、豆腐とわかめのみそ汁、だけでは足りなかったらしい。
 それはいいのだが。
 どうして自分のぶんまで作ってくれるのだろう。しかも、卵二個ぶんほどある。
 ほかほかと湯気をたてる卵料理を前に、それなりに、聞こえるよう、ため息をつく。
 ……聞かせてやっても、なぜか無駄なのだが。
 やたら食べろ食べろと食事を差し出してくる、この行動。この子に毎日のようにされている。
 そう追加された品を、ほとんど残してやったこともあるのだが。
 気分を害し怒ったことはなく。
 かといって、押しつけだったかと反省してくれることもなく。
 やっぱり何かにつけ、めげもせずに、これはどうだ、こっちはどうだ、と、繰り出してくる。
 ……初日から即座に、この子に気づかれたのは、どうやらマズかったらしい。
 自分で、人目を引くらしい、と気がついてからは、掌でおおいかくすように茶碗を持つようにしているし。
 他人の大人のことだ。今まで指摘はされても、過干渉はされたことがなかったのだが。

 ここに到着した当日の夕食は、歓迎会じみたものだった。
 父親の好物であるらしい刺身が、まぐろ、イカ、タコ、はまち、と並んでいた。
 それを、大衆的な紙パックの純米酒とやりながら。
 ほとんど自分一人で飲みつつ、父親は、顔をどんどん真っ赤にしていきながら、賑やかにもてなしてくれた。
 それに追随するかたちで、姉と弟も、律儀に、歓迎の意を口にして。
 やがて父親がつぶれ、茶の間の、畳の上、そのまま眠ってしまったのを区切りに終了した。
「お祝いごとで、思うぞんぶん飲むときは、いつもラストこうだから」
 言いながら食卓を部屋のはじに寄せる、姉と。
 元あったスペースに、父親の寝室から取ってきた敷布団と枕を用意して、おもむろに。
 酒臭い息でごーごぅーと眠っている父親を、『手伝いましょうか』と申し出る隙すらなく、
「え、……しょ、よっ」
 ぽっこりした腹を中心に、やんわりした蹴りも駆使して、ころがしていって布団におさめた弟の。コンビネーションが印象的だった。
 そんな小さな宴会のあと。
 自室で眠る前、歯磨きをしようと、手持ちのハブラシを持って洗面所に入った。
 けれど、口をゆすぐものを求めて、すぐに出て、台所に足をむけた。
 家族共有の洗面台用コップが、ふせてあったが。
 それを使いたくはなかったから。
 台所には、
「これ、原本さん専用ね。他のも自由に使ってね」
 と父親が説明してくれた、紫がかった黒いマグカップがあるはずだった。
 木製ビーズの短いのれんをくぐると、
「あれー」
 炊飯ジャーを前にし。
 米粒まみれの、しゃもじを片手に。
 首をひねっている『弟』の後ろ姿が見えた。
 入ってきた人影に反応し、こちらをふりかえって。
 また炊飯ジャーを見て、何かに気がついたように、またこっちを見る。
「原本さん、米、食べた?」
「お米ですか?」
 うん、と軽くうなずきながら、
「米はおれが、セットするのがお約束だから……。朝のぶんセットしようとしたんだけど……すごくあまってる。原本さん、食べてないじゃん?」
 と言う。
「いただきましたよ」
「どれくらい?」
 さらに尋ねてくるので、食器かごから、まだ水滴をまとった茶碗を、一つ取り出した。
 自分が今日食べた分量を、わかりやすく再現する。
 だいたい、茶碗半分に届くか、届かないかていどの盛り。
「――」
 ぽかん。
 たっぷり数秒、弟、は、それを見てから。
「し、小食なのな……」
 引いている声で、感想した。
「どっか悪いのー? そういえば、ガリガリだもんね」
「いえ、どこも」
 身長百八十近い、二十代の男が食べる量じゃないことは認識してる。
 でも、体はこの量でも動くし、ならもう、どうでもよかった。
「体質、みたいです」
 ここ数年は。ずっとそうだ。
 腹なんて減ったことがない。体を維持するため、飲みこもうともしない喉へ、押しこんでるだけだ。
「…………」
 見上げてくるまま。
 相手は、いかにも何か言いたげな顔で、黙りこんだ。
 その鳶色に透けてる瞳が。
 やたら、ハッキリした光を放っているのが――気にはなったが。
 けれど何も言われなかったから、納得したものと思っていた。

 ――あの時ちゃんと、説明したのに。
 箸を入れてみれば、卵のあいだから、チーズがとろりと溶け出した。チーズスクランブルエッグだったらしい。
 チーズと、卵の半熟が、色合いの違う黄色でまじりあう。
 しかたなしにそれを箸でちぎって、口に運んでいると。
 タタタ、しゃらん。
 廊下に、小走りな足音。台所の出入口のビーズのれんをくぐってくる音。
 そのまま部屋に走りこんできながら、テーブル上のティッシュ箱から、しゅっと一枚、細い女の右手がぬきとっていった。
 ジャー。間をおかず、部屋奥まで行って、水道の蛇口をひねる音。
 ちらりとそちらを見れば、ティッシュに水を含ませて、乱暴に唇の下をぬぐっているのが見えた。
 そのまま、ごみ箱へぽーいと、捨てられたティッシュ。
 飛翔していくそのホワイトに、リップ輪郭からはみでた分をぬぐったのであろう、口紅のレッド。
 そんな、せっかちで手早い仕事のすませ方をしながら、
「なんか買ってくるものある?」
 ナスのへたや、枝豆の葉が、顔をのぞかせているダンボールを、床から両手で抱えあげつつ。
 姉は、弟のほうを見ながら、声をかける。
「んー」
 返事する弟は、もぐもぐ口を動かしたまま。
 眠たいのもあいまって、というふうに、まつげも茶色い目を。パタパタまたたかせた。
「あ、小物の洗濯物干しー。ついに半分以上、洗濯ばさみが砕けた、……」
 ……靴下やタオルを干すための、角ハンガーを思い出した。
 この家のそれのうち一個は、使いこまれすぎて、プラスチックの洗濯ばさみにのきなみヒビが入ってる。
 ばちん、という破裂音に、顔を上げると。
 砕けた破片に指をさされ、
『痛くないし、血もでないけど……。驚くし、もーイヤ、これ』
 と、茶の間の縁側から。
 ひとさし指と中指の先を、親指とすり合わせながら、テレ笑いをしてきた弟を。きのう見てる。
「あー、洗濯ばさみ付け替えれない方の? わかった。買ってくる。……じゃ、いってきまーす」
 そう言い残して姉は、木製ビーズののれんを、またシャランと揺らしくぐって、出て行った。
「ぅんー」
 食事に没頭したまま、弟は、気安い調子で見送る。
「……いってらっしゃい」
 自分は視線だけやりながら、送り出した。
 把握した日常のリズムどおりの、いつもの朝だ。
 この家の唯一の自家用車は、たいてい姉が使用するもので、朝に町の方へ乗っていってしまう。
 その姉は、田舎駅にほど近い場所で、小さなレストラン……と言えるか言えないかの規模の店を、女一人でやっている。
 学校を卒業してから十年ほどは東京にいたらしく、そこでささやかな開店資金はためて、Uターンしてきたらしい。
 そして始めた、父親に特別に育ててもらっている『完全無農薬野菜』をメインにした、観光客相手の店。
 駅にほど近い立地の建物を借りたはいいが、駅自体さびれていて、そこからはあまり客が来ないらしいが。
 近所に、国道沿いの『道の駅』――『名産品市場』と『みやげもの屋』を、足して割ったような。自家用車やバスの観光客が、気軽に乗り入れ、おみやげの買い物、試食、物色を楽しむ――トイレや駐車場をそなえた、モール仕立てのあの施設があり。
 そこに来た、昼食自由な観光バスツアーの客などが、宣伝チラシやポスターなどを目にして、足をのばしてくれたりするそうだ。
 そして、その道の駅に、やはり完全無農薬野菜がウリの弁当も。微々たる数だが、卸していて。
 全て含めた利益で、どうにか、店の運転資金もやりくりできているらしい。
 弟は、まだ高校三年生。
 数箇月後に迎える卒業後は、このまま、農家の跡継ぎとして入るらしい。
 学校の成績は、
「よくないよーたいして」
 ――と、初日の歓迎会じみた夕食で。
 父親が、姉のUターン事情に引き続き、紹介してくれた。
 にかにかと意地悪に笑いながら、完全に酔っぱらいの真っ赤な顔面で、明らかにからかおうとしていた。
「赤点とったこともないのに、この評価……?」
 弟は、ぶすっと顔をひねくれさせたが。
 反応すれば長くなる、シラフ近くてはついていけない、堂々巡りなテンションにつきあわされることが、わかっているのか。
 地味に報復に、横合いの父親の皿から、マグロの刺身を一切れ、奪い食べていた。
「んふ〜、ホントはもう学校行かなくても、卒業できそうなくらいなんだけどねー。もう休んでもらって農作業、全部やってもらっちゃおっかな〜?」
 顔を弟へむけて。酔いがまわりきっている、悪ガキのような態度。
 どうやら、からみ酒の質だ。
 ソレにいかにも慣れているらしい、弟は微妙にうなずいて、聞き流しにあしらっている。
 猫じゃらしを眼前で振られても、冷静にそっぽを向いている、食いつかない猫のよう。
「まぁ、欠席とか、ほとんどしなかったし。ヨッパライの冗談ぬきで……たまにそうしたって平気なんだけど」
 そう言い足して。
 箸できゅうりの漬物をつまんで、その自家製漬物を、ポリポリと噛み砕く。
 ……無口なわけではなさそうだが、父親がしゃべりまくっているせいなのか、ひさびさに。
 自分のことだからこそ、か、口を開いた『弟』は。
 漬物を飲みくだすと、また元どおりに唇を閉ざし、自然に存在感を散らした。
 その、今は目の前で、スクランブルエッグを食べている弟は。
 このあたりで一番近所にあたる高校へ、そろそろ出発する時刻だ。
 ……ふと、尋ねておこうと思っていた、仕事の段取りを思いだして、顔を向けた。
「寒冷紗はずし、どうしますか?」
 寒冷紗とは。薄手で、織り目の大きな、ガーゼのような布のことだ。
 色が白いものでは、目の粗さにより二十〜三十%強くらいの幅で、日光の遮断効果がある。
 林檎栽培においては、主に、日照量のコントロールに使う。
 夏の強すぎる太陽に、果実が日焼けし、白い果肉が赤黒くなるのを、ふせぐため。
 完熟前に、皮が色づきすぎて、傷んできてしまうのを、ふせぐため。
 他にも、暑さよけや、寒さよけとしての用途もあるアイテム。
「えーっと。……さっき父さんとも相談して、そろそろ車道沿いのも、全部、寒冷紗はずすことに、しました。今日は夜の雨でびっしょりだし――明日の予報は晴れ、なんで……。おれも含めて三人でイッキに……」
 箸を握ったままの右手、人さし指で自分をさしながら、考え考え、言ってくる。
「明日の朝からでしょうか?」
 質問すると。
 箸で捕まえた白米を、口のなかに追加しつつ、コクコクと首肯する。
「では、ざっと回って寒冷紗から、ゴミをはたいて――」
 とまったまま死んでいる虫、風で落ちた葉、垢を落とすようにこぼれた木屑。
 数箇月間、木によりそうようにあった布に、まとわりついているそれを、ざっとハタキ落としておく作業。
 絶対に必要な作業でもないが。数年使えるタイプの寒冷紗のはずだし――保管の前に、膝の上にたぐっていって清掃する、手入れをしなければならないだろうから。
 ならば畳んでしまう前に、はたける分ははたいておいた方が楽なはずだ。
「――シルバーマルチも、明日踏む、道沿いのまだ寒冷紗がある場所中心に……めくれをチェックしておきます」
 手すきの時にやるであろう、自分の仕事予定を、報告していく。
 まぁ基本は、今日も父親と一緒に、同じ作業を分担してやっていくことになるだろうが。
 ……いたって普通にそうしていたのに、なぜか、弟は。
 耳をかたむけてきながらも、だんだん、いぶかしげに表情を曇らせている。
「――木杭を打って、整えるのでよろしいんですよね」
 その態度が、気にはなったが、かまわず話を続けた。
 シルバーマルチ――銀色の反射シートは、地表にかぶせてあるものだ。
 林檎が赤みを帯びはじめる頃、シルバーのポリエチレンシートを、地面にしきつめる。
 鏡効果の太陽光の照り返しで、林檎の尻がわにも日光があたり、底までしっかりと赤く色づく。
 そんな、すみずみまで真っ赤な林檎が、いかにも食欲をそそる林檎の条件だ。
 けれど、ここのシルバーマルチは今。
 風雨にさらされ、さらに林檎を手入れするために、そのシート上を、体重をかけて人が行き来したせいで。
 シートがのびたり、よれてズレたり、めくれかけている箇所が多い状態だった。
 林檎は土を柔らかくたがやす作物ではないから、土にはじを埋めこんで、という固定方法ではなく。木杭でだいたいを地面に止めてあるだけの状態で、どうしても端から浮きがちなのだ。
 破けてしまったり、歩きにくいほどたわんだりしてしまわないうちに、手を打っておくのが効率的だろう。
 実際、この家では、そうやって頻繁に補修を重ねて、収穫まぎわまでシルバーシートを保たせるのが、慣例らしかった。
「…………」
 だんだん息苦しそうな顔になっていた弟が、聞き終えて。
 ……そう見えていたのは気のせいじゃなかったらしく。
 やはり何かあるようで、ギュと、茶色い眉を寄せた。
「……えと」
 言いかけてから。
 ごく……り。
 口の中のものを全て、嚥下しきる。
 そして、微妙に緊張感をまといながら、
「なんで、おれにも敬語……。……なんですか?」
 ――寝食を同じ屋根の下でしているせいか。
 その人間のなかでは一番年齢の近い同性なせいか。
 弟からは、こちらへ、だんだん敬語、丁寧語を崩していってる。親しみにあふれた態度で。
 ……それがこの淋しそうな顔の理由だろう。
 ましてや十歳ほど、年齢はこちらが上なのだ。
「いえ」
 たしかに。
 そういう態度で接してきてくれている相手へ、ここまで敬語を崩さないのは、
「仕事を、おそわる立場なわけですし――」
 違和感を通りこして、少し、異様かもしれないが。
「クセみたいなものですので、気になさらないでいただけると」
 適当につじつまを合わせると。
 弟は、納得できていない表情で、首をひねって。
 さらに聞いてくる。
「……じゃあ、おれも敬語つかった方が、いい、ですか?」
 それには即答した。
「いえ、いいですよ」
 どうでも。
 年上として敬意を払われようが、軽んじられようが。
 おまえに、どう扱われようが、どうでもいいですよ。

 ◆

 急斜面の畑は、潤沢な日当たりに恵まれている。
 太陽がすばらしい資源なのは、きのこ類でもない限り、どの作物でも変わらない。
 特に、みかん、林檎、茶畑などの、根をしっかりと土にはるものが栽培しやすい。柔らかな畑土は、土砂崩れを呼ぶから。
 この家の林檎畑は、全てそんな、山の斜面にあった。
 けれどこのメリットは、反面、夏の直射日光のあまりな強烈さ、というデメリットを産む。
 だから――今、目の前にひろがる、一列ずつ整列して栽培されている、どれも四メートルほどの背丈の、林檎の木には。
 同じように列になった、白くうっすらと透けた『壁』に、寄り添われている。
 ほぼ等間隔に、地面に木製の柱を打っていき、その柱に寒冷紗をくくりつけていって、幕にしたもの。
 日光も風も多く通すし、なにより向こう側が透けて見えるが、一見したところの形容は――やはり壁だ。
 ふつうは夏だけにとられる措置だが、昨日、弟が言っていたように、この『車道沿いの』畑はとくに日当たりがよく。
 秋の今頃になるまで、警戒して、とりはらわれないでいた。
「本当、いい日当たりですね」
 ようやっと撤去することになった、薄い壁を眺めながら、つぶやく。
「うん、けど、もうだいじょうぶ。気温がこれくらいなら……」
 背後からそう返してきた、弟の、言葉のとおり。
 気温は秋をあらわし、低い。
 なのに。さんさんとした日光を受けて、首ににじんでいる、わずかな汗ばみ。
 ひなたぼっこという単語を彷彿とさせる、秋の春日――小春日和、が、今日もここでは発生している。
 とりあえず、折れかけたり腐りかけたりしている木柱がないかどうか、手分けしてチェックの仕事にかかった。
 寒冷紗は木柱をくっつけたままで、日干しして倉庫にしまうのだそうだ。
 シルバーマルチをかきわけて、根元を中心に点検していくと、湿気やカビにやられている杭が、合計三本ほどあった。
 その報告のしあいと、相談を終え、
「じゃああっちの二本、おれがはずして、きますね」
 まだ現役高校生のわりには。
 休日など父親とたいして変わらないほど、農作業に参加してくる弟が。
 こちらが何か言い出す前に、そう言って、ジーンズと白パーカーの身を、ひるがえした。
「…………」
 そばに放置してあった、自分の脚立のところへ、向かって。
 抱き上げて運搬する。
 設置して、タン、キシ、木柱の頂上へ届くよう、段をのぼり。
 ベルト代わりに腰に巻いているウエストバッグから、はさみを取り出す。
 柱に寒冷紗を結びつけている、細縄をカットし。指先をぐいぐい押しこんで解き。
 上、中、下、と三箇所にくくってあった全ての縄を。手中におさめ、地面におりた。
 おもむろにツルハシを取り上げ、根につきたてて、掘り起こす。グボッとひっこぬける木柱。
 穴のあいた地面は、靴先でならしておく。
 ……そんな一連の作業を。
 ふわふわ、遊ぶように照らしていた木漏れ日。
 ザワザワァッと、ひときわ大きな風の音といっしょに、自分に投げかけられているその影が、盛大にダンスした。
 ふい、と目を上げると。
 ゆさゆさと風に揺れている、大きな葉の群れ。
 そんな濃緑のあいまあいまに。
 たわわに覗く、赤。
 既に出荷してもいいのではないかと思えるほど、大きな玉になった実。
 尻までふくれあがり、毒々しいまでの紅へ、ほとんど完成している。
 けれど、ここからもう一段しんぼうし、ますます丸顔になるまで待てば。高級品と見違えるような味がみこめるのだ。
「おいしそ、でしょ」
 かけられた声に、ふりむくと。
 さくさく、銀色ポリエチレンの地面を踏みしめて、二本の木柱を左手に、ツルハシを右手に。弟が歩み寄ってきていた。
「……袋がけは、皆、していないんですね」
「うん、うちはぜんぶ、斜面の畑だから」
 この家で栽培している林檎は、『サンジョナゴールド』と、『サンふじ』だ。
 品種名はジョナゴールドとふじなのだが、冠する『サン』の意味は。
『袋がけ』しないで、太陽光を可能なかぎりいっぱいに浴びさせて育てたという――。
 甘く味良く、栄養価も高くした、という証明の。Sun。
 流通のスピード化や、購買者の嗜好への対応で、いつのまにかこのサンという区分けが、ポピュラーになっていた。
 ……自分が子どもの頃は、林檎は袋がけして育てるもの、という認識をあたりまえにしていたものなのに。
 立地条件もあっただろうが、目にしていた林檎は、春の終わりから総じて、紙袋につつまれて実を肥やしていっていた。
 自分も袋がけするんだと、脚立にのぼろうとして、止められ、そのまま肩車されたこともあったっけか。
 そんな体勢で実行した、つたない一個や二個のそれが、作業の足しになったはずはないのに。
 満足そうに頭をなぜてきた、あの肉厚な手は。
 何を考えていたんだろう。
「袋かけちゃった方が、いっそラクなのかなーとも思うんだけど……」
 太陽光をさえぎれば、緑色――クロロフィルが生成されないまま。白っぽい皮で、実がふくらんでいく。
 それはさながら、キャンバスを白紙で保存しておくようなものだ。
 袋をはずすなり、さぁっと。
 光の筆で駆け抜けるよう、紅色がつく。
「見た目、サンじゃない方がきれいだし。袋がけコストのない分って、値段引かれちゃうし」
 袋がけで育てれば、地色が白いために。シミや曇りのない、美肌の、贈答用にも適した林檎等ができあがる。
 赤くしたいと思ったタイミング――早めで色づけできるため、賞味期限も長い。
 袋がけに要するコストぶんだけ、サンよりも、流通価格すら高い。
 ただ袋がけ林檎は、どうしても完熟度は落ちるのだ。
 甘さが足りない、果汁も満ちていない、など、味の面で発生するデメリット。
 完熟していて、甘みも充分、いうことは……腐る手前でもあるということだから――輸送や流通で、紙一重を味わうことにもなるのだが。
 生活の中でこころよく味わう、という消費者の第一のニーズを考えるなら。
 やはり味は、最優先条件で。
「でもせっかくの日当たり、生かしたいから……」
 これ位か、あるいは次ぐ程度の日当たりでこそ、サン林檎は栽培可能だ。
 日当たり不足だと、あまり赤くなかったり、皮に黄緑部分を大きくのこしたりするサン林檎ができてしまう。
 また、日当たりがよくても、手入れをおこたってしまえば同様の現象が出る。
 袋がけしないという選択は、色々、難しさを生むのだ。
「やっぱり、日に散歩させると、おいしーし」
「ここの畑も、南向きですもんね」
 急斜面で南向きという、最高の太陽の恵み。
 この畑の様子から、リアルに想像できる。
 みっしりと濃縮された味。
 歯ごたえがシャッキリとあり、なのにしたたる果汁。
 蜜が入る品種であるふじには、きっとハチミツ色の蜜が、きゅうっと入って。
「そうそう、だから」
 そう言って、つい、と歩きだし。
 弟が、木に近づいていく。
「遠慮せず、日をいーっぱい浴びて、甘く、おなりー」
 くふふ、と。
 まどろむ猫みたいな、笑んだ口元になって。
 身長の二倍程度しかない木に、抱きつくよう、身をよせた。
 安らかに目を閉じて。
 みきに、おでこをくっつけている。
 ……祈りを捧げるように。
 目を離すことができず、その風景を見ていた。
 草花にまぎれこむ静かな気配。雪国うまれの白い肌。茶色くふわふわとした毛並み。幼さの残る容貌。
 ひっそりと林檎の木の影にかくれては、泣けもせずに落ちこんでいた。
 やっぱり。
 あの姿と、重なって。

 さくじゃくさくじゃく。薄いシートを踏みしめる、独特のきしんだ足音が、またしてきた。
「もう一本のツルハシもあったよー」
 今度は父親だった。
 今日の作業でメインに使う道具――ツルハシは、倉庫に二本しかなかったのだが。
 三本目があるかもしれない、もうちょっと探してみる、と、父親は倉庫に残っていたのだ。
「わッ、古……」
 父親がぶらさげているツルハシに目をやった弟が、小さく声を上げた。
「これ捨てたんじゃ……なかったっけ?」
「母さんに捨てられそうだったから、隠したんだよね、そう言えば」
 弟へ答えてから、父親はこちらに向いて、
「原本さんはそれ使っててね」
 一番新しそうなツルハシを、そのまま使え、と指示をし、
「じゃおれは、一番下からのぼって来るからね〜」
 調子っぱずれな鼻歌をならしながら、足取りも軽く、今来た道をひきかえしていく。
「ぁぁもー、あれ危ないのに、聞きやしねー」
 頭をかかえかねない調子でブツブツ言っていた、弟が。
 親子のやりとりを見つめる視線に気がついたのか、ふりかえってきた。
 恥ずかしそうな苦笑を浮かべて、
「古い道具とか、『慣れてて使いやすいから』って、捨てられないタイプなんだよね。じつはもったいないだけなのかもしれないけど……パジャマもべろーんて伸びきった、みっともないの……着てるでしょ? だから原本さんは、そっち使って」
 あれ使うのにコツがいるし、本気で危険だから。
 もう刃の固定部分、ぐらつき放題なのになー。
 母さんがいないと、変なポイントで、誰の言うことも聞かなくって……。
 ……ヤレヤレ、という風に、そんなことを続けて。
「じゃ、おれは一番上からくだってきますね」
 弟は、地面に杖ついていた、ツルハシを持ち上げて。
 尻ポケットに突っ込んでぶらさげていた、つば以外はメッシュでできた青いキャップを、ひっぱり出して、かぶりながら。
 この山の畑の、中腹にあたるここの位置から。
 頂上目指して、のぼっていった。

 それぞれに分担した範囲の、木柱つきの寒冷紗が。
 くるくると巻かれた状態で、一堂に集められている。
 三人がかりで数時間かかった成果を。
 今度は、せおって持って帰れるように、だいたい三分の一の分量ずつ、縄でくくっていると。
 どこからか結構大きなバッグを持ってきた父親が、にこにこしながら、呼んできた。
「香が、こびるにおモチ作っていってくれたよー」
 ……これ位なら、予想がつく単語だったが。
 弟がポソッと、ささやくようにフォローを入れてきた。
「こびるって、小さい昼で――休憩ね?」
 気をつかわれてしまったので。
 目線はやらずに、ゆっくり、うなずいて返した。
 地方には『今は標準語でしゃべろう』と心がけている場合にも、実態は、方言や独特のイントネーションを連発してる――となっている人が多い。
 自分の田舎もそうだったからわかる。
 土地をたった一人で長く離れたことがないと、通じなかったことがないから、指摘もされず、自覚できないままなのだ。
 そしてその傾向はやっぱり、高年になるほど強い。
 土ぼこりをかぶっているシルバーマルチの上に、三人とも尻をおろす。
 なだれこんだ休憩時間、父親がとぽとぽ魔法瓶からお茶を注ぎ、ふるまう。
「甘くないやつだよ〜」
 カパリとあけた、灰色の弁当箱には。
 残りごはんをつぶし、円に丸めて串ざしにして、さらに平らにおしつぶし。
 表面に甘いみそをつけて、フライパンであぶって焦がした、五平餅もどき。
 いただきます、と、おとなしく一本うけとる。
 素材そのままの、ぼくとつで古めかしい味。
 隣でもちもちもち、とさかんに口を動かしていた弟が。あっというまに食べ終えて。
 最後にごくごくと、お茶をあおり。
 ふぅー、と、充実したようなため息を吐きながら、頭のキャップに手をかけた。
 ……いつもは女性用みたいな、つばの広い、農作業用の麦わらぼうしをかぶっているが。
 今日は青い野球帽。首の方はいつもと同じく、タオルで覆っている。
 秋の気温で、汗ばめるほどの日当たりの畑。
 目立たないえりあしという箇所を、最もかもしれないほど、焦がしていく。
 今の林檎農家は、手入れの効率化のため、だいたい木を、大木には育てない。
『わい化』という方法、どの手入れでも脚立があれば足りる、その程度の背丈にまでしか育てないから。
 大きく葉をひろげた巨木の、日傘効果はない。
 だからの、やけど防止のための、キャップとタオルを。
 パァッと同時にとりはらった。
 爽快そうに、うーん、と、しばし首をのばして。
 こもったムレをふりはらおうと、頭をフルフル、動物のように振っている。
 軽い髪質の茶が、タンポポの綿毛のように球形に舞う。
 耳の後ろから首筋にかけて、色白な皮膚に浮かぶ、二つ縦に並んだほくろが見えた。
 ……さりげなく目に入れていたその光景を、巡らしはずして。
 それから。
 つくづく重なってしまうな、と思った。
 色白な喉――だからほくろが目立って。
 よく似ている。
 自分が折った、あの細首に。
「原本さん、このへん、だいぶ慣れたかな?」
 父親がやや心配そうな顔つきで、そう話をふってきた。
「ほんとに何にもないとこで〜びっくりしたんじゃない? 車も、あいてる日なら、使ってもらっていいからね?」
 ここでの生活に不自由はないか、毎日のように、この人は尋ねてくる。
「そういうのは、慣れてますから」
 田舎暮らしには慣れている、そのニュアンスで答えると。
「あぁ、農業やりたいと思ったから?」
 弟が、ぱち、とまばたきをしながら、こっちを見上げた。
 農家を『修業、経験』と称して渡り歩いていることは、父親を通し、家族全員が知っている。
「いえ……」
 かぶりをふりながら、返事する。
「生まれたのも、田舎なんですよ」
「いなか……」
 なぜかオウム返しに、父親があいづちを打った。
「でも、コンビニとか歩いて行けたりするような……田舎でしょ?」
 膝をかかえるような形に、姿勢を変えながら、弟が言った。
 コンプレックス――とは微妙に違うが。自分の土地が、並外れて田舎だという意識が、強くあるのだろう。
 それを削ぐように、
「中学の校則に『トラクターを運転してはいけません』って、ありましたよ」
 事実を伝えてやると、
「ぇーっ?」
 ほぼ呼気だけで、ひゅうと驚いたあと。
「……ご同類」
 感心したように呟く。
「あ」
 とうとつに弟が、小さく声をあげた。
 目の瞳孔を、濃く大きくして、視線を一点にあてている。
 何を見ているのかと思えば。
 さっき掘り返した、木柱がおさまっていた穴から。
 のたくたと、ミミズが一匹、這い出してきていた。
 ……ふつうの女子や、都会だったら男子でも、いやがりそうな風景だが。
 見つめている弟のまなざしに、嫌悪感はまるでない。
 ミミズは、地中を掘りすすみ、自分の体をとおすことで、土壌を植物に適した組成に変化させる。
 どんな機械もかなわない、天然の耕作機だ。
 弟が、腕をひょいと動かし。
 ミミズの進路の邪魔になりそうな魔法瓶を、自分のわきへと、どけた。
 ……敬意の払いようがおかしくて。
 思わず、口をゆるめてしまいそうになった。
 似たような外見なのに、ミミズと、白い芋虫では、ぜんぜん態度が違う。
 ――木の根元に、妙に均一な大きさの粒々した木屑が落ちているのを見つけて、
「げ……」
 と顔をしかめ。
 その木を必死に点検し、小さな穴があいている箇所を見つけて。
 すぐに斜面をくだっていって、倉庫から道具一式をもって、帰ってきた。
 穴に、先端のとがった太い針金をするすると入れていき、激しく動かして。
 その穴から逃げようと、にょろり、姿をあらわした白い芋虫を、はさみでバチッとまっぷたつにしていた。
 しばしニコニコしていたが、今度は痕跡すら消そうとするように、真剣に、穴を薬で手当てしだした。
 ……先日たまたま目にした一連の光景。
 ミミズを白く大きくしたような外見の芋虫は、カミキリムシの幼虫だった。
 木のみきに開けられた小さな穴に棲み、木を掘り食べて大きくなっていく。
 農薬で防虫していても、どうしても効果はそのうち弱まる。そのころを見はからっては現れる害虫。
 かたや、土をたがやし、肥沃にする虫。
 かたや、木をむしばみ、荒廃させていく虫。
 なんでそうなってるのかは理解できるが――どうしても、微笑ましい。
「そ〜いや、豊」
 こびるを出したバッグから、何かの書類を、がさがさと父親が取り出した。
「オーベルジュさんが、おさめた『おぜの紅』、果実の状態からね。キロあたりの買取単価……こっちに変更してくれって言うんだけど」
 オーベルジュは、フランス語で、食事を楽しむことをメインにおいた宿泊施設だ。
 ホテルだと一般的すぎ、名前から付加価値を感じとれないせいか、日本でもそうつける宿が増えてきている。
 ぱさ、と、数枚の書類を受けとった弟が、
「……。うわ、こんな……」
 ざっと目を通し、イヤそうに絶句した。
「だろうー?」
 息子にすこし背を追いぬかれている父親が、子犬のような、弱った目で弟を見上げて、
「そりゃ、おしりはキズがあっても、ちょっと青くてもいい、ってゆ〜のに、甘えはしたけどねぇ……。思いきって、文句言ってみようか?」
 頭を小刻みに揺らすようにしながら、意見をとりいれようとしている。
「……や、まずいんじゃないの? うち最大の直売ルートだし……」
 一昔前は。農協に一括でおさめて、青果市場から八百屋やスーパー、という手しかなかったものだが。
 通販、朝市などのイベント、契約栽培、と販売ルートも増えてきている。
「おまけにホラ、このメニューは最初っから、うちのおぜに合わせてさ……」
「あ〜、義理がなぁ〜」
 長考に入るよう、鼻をこすりだしてしまった父親を、いったん置き。
「あっちの……一番東の畑の区画ね? つぎきして『つがる』から『おぜの紅』に変えたんだ」
 弟が、こちらにわざわざ顔を向けて。
 また気をつかって、事情を説明してくる。
「それで、去年、結果だせるはずの樹齢になったんで、本腰入れて作ったんだけど」
 接木というのは、根のそばで切り落とした木に、新たな品種の枝をつぎあわせる、栽培手法だ。
 いわば種のまきなおしに近い作業。
 当然、数年は収穫できないことを見込まなければならない。
 だが、ずっと同じ品種を育てていくわけにも、なかなかいかない。
 どの農作物でも少しはあるが、フルーツは特に、流行のうつろいが速めだ。
 グレープフルーツなら、すっぱさが勝っている品種から、とろけるように甘い果肉の品種に。
 なしなら、固い実のしまった品種から、唇でもかみ切れそうな実の柔らかな品種に。
 ぶどうなら、大きな種がごろごろ内包された品種から、種なしにできて皮も食べられる品種に。
 人気の流行にのって、外来種、新開発品種に入れ替えていかなければ、市場価値がないものになっていく。
「色も味も、合格だったんだけど……」
「天候も、いまいちな年だったからねぇ」
 接木した木は、産まれ直したようなものだから、最初のうちの年は赤ん坊のようなもの。
 体調――性質が安定しない。
 すっぱい、甘くない、水気がない、味自体が薄い、大きくならない、そんな覚悟がいる。
「大きさが農協規格になんなくて」
 色むらがあるもの、表面的ではない傷があるもの、大きさが満たないもの、は農協規格に適わない。
 規格以下の品も、ジュース用などの需要があり、農協は引き取りはする。
 ただ『買い叩き』価格になる。
 個人ではさばききれないし、捨てるよりはよっぽど良いのだが。
「『つがる』のままにしとけばよかったかなぁって嘆いたけど……。でも、いつかはどーしても、九月収穫のは……新しい品種にしなきゃいけない、カンジで」
 弟は困ったように、茶色くふんわりした頭をかたむけた。
 林檎は、『ふじ』が、不動第一位の人気を得てから何年もたつため、あまり人気品種に流動がないフルーツではある。
 が、すべての畑をふじにして、収穫が一挙にくると、収穫しきれなくなる、台風にぶつかると全滅してしまう、そんな理由で。
 どの林檎農園でも、何品種かを育てて、収穫時期をいくつかにズラす。
 市場的にも、長い期間にコンスタントに林檎が出回るほうが、売り上げが見込めるのだ。
 しかし最近、温暖化の影響で。
 早生種――『つがる』『さんさ』など、夏の終わりまでに実が熟する種類の林檎に、着色が悪いという異常がではじめている。
 赤さが弱い、赤くなってない部分がある、などの着色の悪さは、購買者に「B級品」「病気?」という印象を与えてしまう。
 価格が下がる、もっと言えば売れない、という現象が、現実に出てきているのだ。
 そこで、今の地球環境でも、着色がよく味もよい、という早生種の開発が、研究所などで鋭意に行われてる。
『おぜの紅』は、その中でも、有望株と言われている新品種だった。
 薄めの真紅に綺麗に色づき、酸味、甘味のバランスがよく、本来は小玉の品種でもない。
「小玉になっちゃったってだけの問題だから〜。共済……保険の方も、ほぼアテにできなかったし。いっしょうけんめい育てたのに、あーまた赤字だよぅ、って」
 落胆が蘇ってきたのか、ややしょげて、父親がぶつぶつ言っている。
「でもね、その前の年から『ふじ』おさめてた……この、オーベルジュさんがさ」
 書類を広げながら、弟が経緯をつづける。
「たまたま、今年わせしゅで何かないですか、って」
 秋の訪れを、まっさきにお洒落にメニューに漂わせることができたなら、それは評判と人気に繋がる。
『京都に行こう』と誘うCMなら、一年前から映像を用意しておけばいいが。
 食事となれば、飾りでごまかすだけか、ハウス栽培の値がはるものを使うか、味を妥協して、収穫から時間のたった輸入物や、冷凍ものを使うか。
 ……どの策よりも、早生種を取り入れるのが一番には違いない。
「小さめの出来なんですけど、って言ったら、サイズはいいです、って」
「だいぶ助かったんだよね〜」
 復活した父親が、うん、うん、とうなずいている。
 おそらく高額で引き取られはしなかっただろうが、ジュース用にまわるよりは、だんぜん損が出なかったに違いない。
「で、実際にその林檎、試食してから、『くれないのジュレ』っていうね。林檎の実の、てっぺんを切り落として、中をくりぬいて、デザートたくさんつめて。帽子みたいにてっぺん部分、またかぶせたスイーツ、つくったんだって。内容はね……」
 果肉と果汁をたっぷり入れこんで作った、シャーベット、ゼリー、生クリーム、白玉団子。
 それが上から層となった、パフェのようなジュレ。
 アクセントとしてスティックでさしこまれてるのは、皮を砕いたものを混ぜこんだ、赤がラメのように散り、全体もピンクがかっている、ホワイトチョコレート。
 どれも林檎味だが、それでも虹のように、口でバリエーションの広がりを見せる。
 シャリシャリと凍ったシャーベット、その冷感がうつったゼリー、上からおりてくるエキスも吸いこんだ生クリーム。濃厚にミルク風味をまとい、噛みしめるたび林檎のフレッシュさと、もっちり弾けあう、白玉団子。
 ひんやり保たれたチョコレートも、齧るたび、凝縮された甘みを口に広げて。
 ……林檎をくりぬいた器につめた、それらを、のぞきこむような形に。
 もみじ色の明かりを灯したランプを添えられ、サーブされる特製メニュー。
 まさに秋のスイーツとして。
 テレビにも紹介されたのだそうだ。
「それで、『おしりはキズがあっても、ちょっと青くてもいい』っていう条件だったんですか」
「うん、でもねぇ。実際、ぱっと見てわかるほどそんな状態なの、渡しやしなかったのに〜」
 そんな会話をしていると。
「まぁ……。今年はこの価格で、がんばってみようよ」
 細目になって、再び、目線上にかざした書類を見つめていた弟が。
 渋い口調ながらも、しめくくるようなセリフを言った。
 そして一転、ふわっとした笑顔になり。
 こっちを振り返る。
「今年は、原本さん、いるじゃん。ふじも、とりそこねなしに、確実に、完熟に合わせて一気にとりきれると思うし」
 期待で、生き生きと光っている表情。
 ……応えて。
 ニコ、と。
 いつもの『見せるための笑顔』を。
 せいぜい優しげをよそおって、つくった。

「原本さん」
 林檎畑を全体的に見まわってくる、という父親を残して。
 弟と二人、坂道をくだっていると。
 じいっと視線を注いできながら、話しかけてきた。
 見ているのは、こちらの顔脇……耳たぶのあたりだ。
「耳たぶの裏、切ってるよ。乾いてるみたいだけど血が……」
「……ああ」
 再現フィルムのように、数十分前の自分を思い出した。
 服にひっかかった枝先を、うまく、はずしそこねて。
「枝を、うっかり強くしならせてしまったので……。先がかすめたかもしれません」
 そういえば少し、相手に見られてる箇所に、熱さが走った。
 けっこうスッパリいってたらしい。
「血、止まってる……?」
 心配そうな、やんわりとした動きで。
 白い、柔らかそうな指先が、伸びてきた。
「――いや、自分で。鏡みますから」
 反射的にパッと、耳もとを押さえた。
 嫌悪感を悟られるかもしれないほど、すばやく、おおって隠した、ふれられないように。
 けれど、見おろしたのは、怪訝そうな反応ではなく。
 冷やされたような驚きを従えて、さぁっとみひらかれた、茶色い目。
「あ、れ?」
 ――右手の小指を見られたことを悟って、さっと手を下げた。
 でも、もう、遅い。
「つめ?」
 しっかり目撃された。
 父親に、作業のしかたをチェックされる時などは、軍手を必ずはめるようにしていたし。
 爪は透明だから、こうやってアップで直視でもされない限りは、なかなかバレないが。
 丸ごと。根から。
「なんで……ないの?」
 すくんだようにボリュームを失った、問いかけが。
 それでも聞こえた。
 ジーンズの尻ポケットあたりに。
 拳をにぎりしめて、隠しながら。
 苦々しい口で最低限だけ説明する。
「そりゃ……やっぱり……」
 安全基準なんかありはしない。手作りの農具だった。
 金属片が剥きだしだった、一瞬の油断から逃げ切れなかった。
 きれあじ悪い刃物となった、可動部のにぶい銀の輝きが、脳裏にチラつく。
「やっかいな仕事とか……危険な仕事とか」
 数年前、その時いた農家で、作業中はさまれ、ねじり切るように切断されかけた。
 寸前に抜くことはできたものの、生爪はもげた。
 指先の形自体も、観察されてしまえば、ねじれるように変形している。
 当然、もうまともに器用には動かない。
 死にぞこないの指。
「おしつけたくなるでしょう……こんな」
 唾液がやたらとねばついて、喋りにくい。
 けど、こんなもの痛くない。悲しくない。不自由だってない。
「ごやっかいになるだけの、見ず知らずの他人」
 ――何も、言ってこなかった。
 けれど、眉をひそめ、唇を厳しく引き結び。
 痛みをこらえてるような顔で、立ちすくんでる。
 その顔が、雄弁で。……わずらわしい。
 自分の痛みなんかを、そんな、身近に、嗅ぎとらないでほしい。
 この家の、父親も姉も、そしてこの弟も。
 あきれるばかりにお人よしだ。
 むしろ『手伝いもやってくれる客人』として、下にも置かぬくらいの扱いをされる。
「こいつに、この機会に、やりたくない仕事を全部おしつけて片付けさせよう」なんて。考えもつかないのだろうが。
 でもね。
 あなたなんか大嫌いなんです。
 そして。
 あなたにも嫌われる予定です。

 ◆

 ガードレールもたまに途切れる、カーブをえんえんと繰り返す山道。
 コーナーをつくハンドリングを、一時間もしている、弟を。
 助手席からチラリとうかがうと、真剣な顔ながらも、平気そうで。
「……交代しなくて、平気ですか?」
 いちおう申し出るが。
「平気、この道、通ったのはもぅ何度もだから」
 丹念に道の中央をたどりながら、そう話す。
 十八歳になるなり免許を取得したそうだ。
 おそらくは、人気のない道などたくさんあるこの土地で、その前から練習し放題だったに違いない。
 土曜日の今日の、休日をいかして。
 弟は、車で往復二時間ほどかかる、ある場所へ、林檎の手入れをしに行く。
 そこでは主にフライヤー――高所作業機にのったまま、作業をするそうで。
 もう一人人手がいると効率がいいらしく、それなら、と同行することになった。
「フライヤー自体も、もって行くんですね」
 軽トラックの荷台につみこまれているのは、小型リフトのような機械。
「うん、あそこにも、あるにはあるんだけどさー。古くて……」
 危ないからいっそ持っていく、となっているらしい。
「おじいちゃんも、たまに入院したりしてるしね。機械も人も、そんな感じだから。いつもうちが」
 フライヤー機械ごと、作業の手も貸し出している、この慣例。
「お父さんの……無農薬野菜の先生の、お父様でしたっけ?」
 先生と言えば聞こえはいいが。
 要は、近所のおっさんのうち一番、無農薬野菜の栽培に関して経験と知識があって、だからアドバイスをあおげた人間、のことだ。
「うん、その、おくさんのね」
 うなずきながら、またゆるいカーブに合わせて、ハンドルをこねる。
「うち、無農薬野菜やりはじめたの三年前くらいだからさー。ほら、ねーちゃんのお店に必要で、急に。だから野菜のこと、ほとんど何もわかってなくって」
 そのお礼として行われている、セットでのレンタル。
「始めた頃は、失敗つづきで、頼みこんでわけてもらってたくらいで。ずいぶん迷惑かけたんだよね」
 将来、自分をおびやかす可能性が少しでもある存在に。
 教えを乞われ、教育をほどこし。
 いくらか安定するまで、気づかってもやる。
 ……都会での普通の商売だと、ありえない図式だろう。
 単純に、同じ無農薬野菜カテゴリーでの『商売ガタキ』。
 けれど農家は、そう杓子定規にはいかない。
 成育状態の相談をしあったり、苗木を分けたり。
 農薬散布のとき、隣の農地へ、風にのって薬がいってしまわないよう、配慮したり。
 作物のできを競い合うライバルであり、一体感をお互いへもつ仲間でもある。
 境界があいまいで、いっしょくたなのが。農業で。
「おじいちゃんちには、林檎、庭に一本あるだけなんだけどね。長生きで、うちみたいに『わい化』してないからすごく大きいの」
 ほのかに羨ましそうな顔をして、弟は、思い出し語る。
 大木は手入れがしにくいのだ。
 実を収穫する際においては、言うに及ばず。
 少数精鋭で、実を大きく育てるために、小さいうちに果実を間引きする『摘果』でも。
 葉をむしって整理する、農薬をくまなく木に実に散布する、ほとんど全てにおいて、フライヤーが必要になってくる。
 当然、自分の足で動くのより時間がかかって、効率が悪く、またやりづらい。
 枝を遠くまでのばしているせいで、果実の重みに負けて枝が折れる、等にも気をつけなければならない。
「でもねー、さすがに大きいから、木の生命力は強くって。手入れ、なかなか行き渡らないけど、わりと立派な実ができるんだよー。子どもとか孫に『食べなさい』って送るの、やっぱり毎年、楽しみなんだって」

 腰あたりまでのドラム缶のようなものに入って、それをリフトアップさせる、フライヤー。
 その下で、弟の指示にしたがって、ひたすら右往左往する作業を、現地で行う。
 必要な小道具を渡したり、落ちかけてる実を受け取ったり。進行方向にある障害物を、車輪がのりこえられないからどけたり。
 三時間がかりで、全ての手当てを終えて。
 玄関にまわり、では帰ります、と、家主にあいさつを済ませる。
 おそらくパジャマと兼用なのだろう、毛玉が山ほどできているスウェットを着た老人は、「どうもどうも」と盛んに言いながら。
 待ちかまえていたように、どさどさと玄関先に、礼をつむ。
 栗、いちじく、の大量の二袋は、やはり庭にある木からのもの。福引きで当たったという毛布、もらいものだという新品の土鍋、さらには何かの景品らしきティッシュまで。
 都会なら「廃品処理?」と悪態をつかれそうな心づかいを、弟は。
 気をつかわないでください、と言いながら、自分こそは気をつかって、すべて軽トラックの荷台につめこんでいく。
 日用品だから使うことは使うだろうが。
 ストレートに、もっといいモンくださいよ、と言いたくなるような品々を。
 いかにも田舎の一軒屋。瓦屋根の純和風。
 ここで子どもを育て上げ、そしてその子どもは全員でていった、その様子がまるわかりな。
 老人一人に広すぎる、二階建て。
 荷物を積み終え、ぼーっとそれを仰いでいたら。
「じゃ、また収穫の時期に」
 弟が荷台をはさんで反対側、そう伝えているのが聞こえた。
「原本さんー」
 うながされて、助手席のドアをあける。
 ごそごそと乗りこんでから、背後に視線を送ると。
 年にちぢんだ体を、さらに丸めて、おじぎしている老人が、バックミラーに居た。
 ひょい、と頭を下げると。
 弟もつられるように最後に、バックミラーごしでもう一度、頭を下げた。
 一般道に、がたん、とのりだすと、ふぅと区切りのように、運転席で息を吐く。
 まだ二車線ある道。
 左手で力強く、チェンジレバーを入れてから、
「ええと、で……」
 弟は、スケジュールを思い返す、そんな口ぶりのひとりごと。
「いったん帰って、父さん拾って」
 田舎の生活で、家族三人。
 乗用車が一台しかない場合、かなり自由がきかなくなる。
 まさに『足』、使う合意をちゃんと得て持ち出し。
 そのせいで出かけられなった家族の用事は、代わりに済ませ。
 夕方には公共交通機関を利用しにくい家族を迎えに行って、と、行動に制限がついてゆく。
「ねーちゃんを迎えにいく、夕飯くわせてもらう……、と」

 軽トラックの荷台から、フライヤーをおろし。
 入れ替わりに、姉と父親をのせるために、ホロを張って、荷台をおおって。
「助手席にお乗りください」「いやいや、原本さん乗ってて」という、今やお約束に近いやりとりを経て。
 結局、また助手席にのせられて。
 田舎駅に近い、風光明媚というわけでもない、街道から一本折れた場所の。
 木の香りに満たされたログハウス風な建物にやってきた。
 新築ではあるらしいが、一般民家用に建てたものを、壁をぶちぬいてフロアにしただけというのが、ハッキリわかってしまう店舗。
 テーブルは、イス四脚とセットになったものが、五つ。
 実際、それ以上、客がはいることもないのだろう。
 一番厨房に近い席に、男一同でつき、食事が出されるのを待つ。
 父親がなんとなくワクワクした顔で、内装を眺めている。
 室内ではまだ暑いだろうに、ブルゾンを脱ぐのも忘れているようだ。
 まさか、はじめて来店したわけではないだろうに。
 ……小さくて、借りている、しかもいつでも潰れそうな店、というのを差し引いても。
 娘の経営するレストランで食べさせてもらう食事、というのは。心躍るものなのかもしれなかった。
 用意は常に、ワンプレートの料理が一種類、の限定らしい。
 ウェイトレスの手間をなくすためだろう。人手が一人しかいないのだから、確かに、他に手はない。
 手紙ふうの『今日のメニュー』の紙を見ると、『無農薬ミニトマト、キュウリ、豆腐、こんにゃく、特製タルタルの初秋サラダ』『無農薬枝豆と里芋のグラタン』『無農薬ナスステーキ、バジルソースがけ』の三種類のおかず。そして、きのこの玄米おこわと、ほうじ茶。と、なっていて。
 ……なんとなく、共同生活のなかで知っているが。
 無農薬で仕入れられているのは、父親に育ててもらったミニトマト、枝豆、ナス、だけのはずだ。
 この書き方では『すべて無農薬の』これら野菜を使ったサラダ、などと読まれるんじゃないのだろうか。
 客に尋ねられれば、素直に、無農薬なのは野菜のうち三種類だけです、と言うのだろうか。
 無農薬をすぐ上に冠する野菜だけが、無農薬で……他の野菜は違うという、ある意味、グレーなメニュー表を置いたとき、
「おまたせー」
 厨房から、大きなお盆を二つ手にして。
 姉が、姿を現した。
 野菜の断面に、キラキラと光はじくような水分がのっている。
 繊維から一度も水分が失われず、少しもひからびなかった。その新鮮さの証。
 田舎なら誰もが肌になじんで知っていることだが、農家が畑のすみで作る自給自足用の野菜が、いちばん体には良いものだ。
 自分たちが食べるせいで、見た目は悪くてもよいから、農薬がおさえられる。
 鮮度もまさに、今とれたて、で栄養も豊富。
 自分にも、骨へと深くしみこんだ習慣だ。
 そして漁村でもそんな話を聞いたことがある。
『うまいものは漁師がみな、食べてしまう』と。
 味がいいものを、まさしくプロの目で見分け、最適な鮮度で口にする。
 時間が経過すれば食べられない肝などの、一般人の口には入らない部位も、どうせ流通させられないならと独り占めになる。
 ……こんなことを連想してしまうあたり。
 プロのコックとしての腕や、店のもてなしの行き届き、窓からのぞめる景色、その全てで及第点にいくのかあやしいと思うが。
 野菜の品質は、すべて無農薬ではないにしても、高い水準にあるようだった。
 今は温かいが、『弁当と共通メニューで作っている』せいで。
 さめても、そう味が落ちない味つけに限定されていた。
 グラタンはかなりチーズが入っていて、ナスのステーキも酸味をきかせてあり。
 さめると舌をさすようになる塩分に、頼っていない味つけ、になっている。
 肉類は一切ない。卵も、それをメインにしたものはないメニュー。
 たまに聞くマクロビ――新鮮な野菜を中心に、玄米、豆、などで構成されている、ダイエットや美容や体質改善によいとされる――ふうである、健康に良い路線を狙っているらしかった。
「あ、ナスにソースかけちゃった……原本さん食べれる?」
「ええ」
 なすのステーキには。
 バージンオリーブオイル、ガーリック、たまねぎと、バジルでできたソースが、からめられている。
「そっか、やっぱり若いもんね」
 なぜ若いから平気、になるのかわからないが、姉は勝手にうなずいている。
「ハーブは、味が引き立つし、プロっぽくなるし、いいんだけど。やっぱ匂いが強くて、好き嫌いがあって……年配には特にダメな人がいてね、かけちゃうと、『わたしバジル嫌いなのよね! こうやって全部にかけられてたら、食べられないんだけど!』って、たまにキレられるの」
 まだ着席しないで、給仕に専念したまま、しゃべっている。
「おばちゃんってイヤだなーと思っても。おばちゃんと、おばちゃんの定年退職あとな夫、ばっかりだもんなぁ、お客」
「安心しなってー。ねーちゃんもあとチョビッとで」
 まだまだ成長期の健啖ぶり。
 問題とされているナスステーキをおかずに、きのこの玄米おこわを、ぱくぱくと腹におさめつつ、弟が言う。
「そんなおばちゃんに、完全に溶けこむから」
「……最悪ななぐさめね……」
 姉弟ならではのすばやさで反応し、姉は、弟の頭頂部の髪を、グッとつかんだ。
 ウサギの耳みたいに、頭上でまとめられている。
 弟は「いだい、いだい。はげる」と変に高い声でもって、キシキシとうめく。
 少々、白目をむいたつり目になってもいるが。
 抗議は口だけで。
 おとなしく釣り上げられている。
 父親は我関せず、……と言うより、そもそも完全に風景のひとつとしている風で。
 丁寧に、味を楽しんでいる顔でもって、食事を続行している。
 ……姉はこうやって、よく弟にたいして、軽く手を出しているが。
 弟が行動で反撃しているのは、見たことがない。
 男女の兄弟だからこその線引き。
 第三者の視線として見るなら、ただひたすら好ましいコミュニケーション。
 それにしたって――多少シスコンな気もするが。
 ぱっと、あっさり。
 姉が、じゃれあいだったのが丸出しに、掌をひらいて、言う。
「本格フレンチの店とかなら『そう言われましても』で済むんだけどね。って言うか、そもそもクレームつかないか?」
 目を細め、温和をイメージした顔つきで。
 その風景のなかに居た。
 わきあいあい、に、はめこまれているおぞましさを、やりすごした。

「あ、プリンアイス!」
「クレームブリュレだってば……あんたのもあったわよ?」
 喉の渇きをおぼえ。水分補給に訪れた、深夜近い台所で。
 そんなやりとりが行われていた。
 風呂に入った直後らしい、タオルがはいった洗面器をかかえた、まだ濡れた髪の弟が。
 イスに腰かけ、ハーゲンダッツのカップアイスを食べている姉を見るなり、あげている声。
「ひとくち、ひとくち」
 これは自分のなんだけど、といさめられたのにめげず、弟は。
 アーンと姉に向けて、雛鳥もどきに口をあけている。
 姉がそれに、素直にスプーンをつっこんだ。
「ほろ苦とろりー」
 いかにも堪能しているコメントをしながら、台所から去る、弟。
 ……あのアイスは。
 帰りがけのコンビニで、父親がいそいそと買いこんだものだ。
 弟が雑誌を見に寄りたいと言うので入店し、ついでに各自、それぞれに物色していた。
 父親も、自分に必要なものを見ていたのだが。
 姉とすれ違いざま、会計に向かおうとして、いきなりパッと満面の笑みになり、
「あ、香、『ハーゲンダッツ』の『クレームブリュレ』も買うかっ」
 なんだか丸暗記のような言い方で、ほほえましい買い物案を、告げた。
 言われた姉のほうは。
 たじろいだように一瞬、指先まで動きを完全停止させてから。
「――、ぅ、ぁ、ありがと」
 視線を下にさげながら、口ごもる出だしでもって、ボソボソと礼を言った。
 同時に。
 そばに位置していたこちらに、微妙に背中を向けるように、腰をねじったせいで。わかった。
 自分という『他人』に、いい年して父親にかわいがられているのを目撃されて、恥ずかしいのだ。
 ふつうに嬉しいが、気まずいという。
 ……やっぱ、なかよし家族だな。
 無感慨にそう判断しながら、歯ブラシを、自分の持つカゴに入れたのだった。
「原本さん」
 その姉に。
 今現在、声をかけられ、そちらを見た。
「なんか、お菓子とか食べたかったら、なんでも自由に食べてね?」
 からになったカップを、ゴミ箱に入れながら、すすめてくる。
「ありがとうございます」
 食べるわけがない。
 ここの家族とこうやって、顔を合わせるハメになるから。
 水も飲みに来たくはないくらいなのに。
 姉が立ち去るのを見送り、流し台に立った。
 水を、紫がかった黒のマグカップに、一杯つぎ。
 シンクにもたれながら、ごくりごくり、体に流しこんでいく。
 ドライヤーをすばやくかけ終わったらしき弟が、木のビーズののれんをくぐって、また台所に飛びこんできた。
 と思ったら、冷蔵庫の前にしゃがみこみ、ガッと冷凍庫を引き出して。
 適当に物をかきわけながら、自分のカップアイスを探しだしている。
 首にタオルかけてる。やや生乾きの髪。
 か細いほどの髪質のせいで、毛先がパーマっぽくなっている。……やっぱり、思い出と重なる。
 弟もこのアイスを、よっぽど好物にしているらしい。
 発見したアイスのフタを、いそいそと開けはじめた。
 ……マグカップをざっと洗い、水切りに入れておく。
「おやすみなさい」
 目をやらずに声だけかけて、弟のわきを、すり抜けようとした。
「原本さーん」
 明るく、軽い調子のよびかけ。
 見ると、イスにおさまった弟が、見上げてきている。
「けっこうウマイよ?」
 はい、と。
 スプーンをこちらに、さしだしている。
 濃厚なカラメルソース、砕けたホワイトチョコ、バニラアイス、が、バランスよく、一口分にのった、大きなスプーンを。
 気軽な。
 垣根ないマネされて、顔がこわばった。
 同時に納得もした。これもいつもの『もっと食べろ』行動の、一環か。
「甘いもの平気でしょ?」
 ふだん食卓に一緒につくことから、把握されている嗜好。
 たしかに、昔から、甘いものはべつに苦手じゃなかった。
「食べてみなって、意外にハマんのこれ。ねーちゃんの好物でさ。横取り食いしてから、おれもハマっちゃって」
 ……なにを堂々と。
 その経緯は誇らしげに語るには、いやしすぎ、やしないか。
 これが三人兄弟のパワーだろうか。そう言えば中学の頃、三人兄弟の友人の家で、たのまれて冷凍庫をあけた時、すべてのアイスに『自分の!』と主張する名前が書き殴ってあり、ギョッとしたことがある。
「まだ歯ぁみがいてない、よね?」
 ……就寝時間も把握されているし、そういえば洗面所の歯ブラシを、帰宅後に捨ててしまった。
 ドライヤーは洗面所にあるから、髪をかわかしている間、その状況を、見たのかもしれない。
 コンビニで購入した、新品の歯ブラシは、まだ部屋にあっておろしていず。
 ……どうしてこんな、なんの重要さもない。
 生活シーンにおいて、追いこまれ。退路をすべてたたれているんだろう。
 なんの悪意もない、泡で洗いたての顔が。我が物顔にみえる。
 ひざまずくように腰をかがめて、その一口を、唇へいれた。
 ほろ苦いカラメル、パリパリと薄いホワイトチョコ、バニラビーンズたっぷりのアイス。
 そのメリハリのある三段になっていると。
 舌触りでは、判断できるが。
 冷たさだけが舌を刺した。
「このみ?」
「――はい」
 適当も適当な返事をする。
 日常からもう、舌がきかない、とはいえ。
 こうも味が消えうせた一口は、経験がない。
 靴をなめさせられるとか、砂をはむとか、そういう笑える部類にはいる。
 そんな屈辱。
 目的がなかったなら耐えられない。
 ほんとうに仕事中にも、生活の中でも、ずいぶんな『思いあう家族』を見せてくれる。
 その親しみのパワーに、こちらすら巻きこんでくださるわけだ。
 イラついて、怒りがわいて、恐怖すらいだく。
 せめてこんな事態を招いてしまう、台所には立ち入りたくないのだが。
 コンビニは徒歩圏内にないから、食料や水分の、継続的な調達ルートが、ここしかない。
 毒だとしか思えなくても、『ありふれた幸せ』を、食物と一緒に、のみこむしかない。
 もうしばらくは、死ねないから。

 ◆

 週末の今日、また、車が必要な用事が多く。
 まず姉を、店へ送り届けることから、朝が始まった。
 それから冬用の、トラクターなどに必要な燃料……凍らないようになっている軽油、などを買いこみに。何店か買い物にまわる。
 虫の音もまだしているが。準備は早いうちに、進めておくほうがいい。
 北国の冬は、来るとなれば雪と共に、一挙だ。
 まだ支度していませんでした、では済まされない。
 日曜日につき、いくつか店をまわるそのハンドルは、弟。
 運転の腕がどうのこうのというより、土地カンが自分にはない。
 カーナビは一応ついているが、旧式でかなり頼りないのだ。
 そして荷台に買い物をつんだまま、やや慌ただしく、姉の店舗にもどる。
 すると、客席のうちの二つを占領し、狭いテーブルに、ずらり、と。
 さすがに壮観な数の、使い捨て弁当箱がならべられ、待ちかまえていた。
 全てにまったく同じメニューがつめられているのが、透明のフタからのぞける。
 これが『道の駅』におろしているという、弁当らしい。
 ふだんなら、配達も自分でやるらしいのだが。
 帰りがてらに今日は、弟、……と自分がおこなう予定。
「お弁当の担当、佐々木さんのままでいーんだよね?」
 弟が声だけ飛ばして聞けば、
「そうよー、お願いね」
 タオルで両手をぬぐいつつ、キッチンから姉が、返事した。
 一般家庭で見る数ではないが、それでも、たいした数でもない。
 一つの運搬用ケースへ全てを入れ、できた隙間には、運送中に偏ってなだれを起こさないように、用意されていた布をつめて。荷台にのせる。
 配達先として着いたのは、満車になることはなさそうな程、広大な駐車場だった。
 なるべく道の駅の建物、そのものへ近いあきを探し、弟が停める。
 軽トラックから降りると、
「全日程でおこなった集合写真の集金が、このあとございますので、おつりのないように、この道の駅でお買い物などして、ぴったりの金額を揃えてくださいますようお願いいたしますー!」
 と叫んでいるどこかのツアー添乗員の声が、響き渡っていた。
「だからね、お昼はここで済ませるけど、三時は移動して、モンブランをお持ち帰りもするから、わかった?」
 と横を通っていく、妻が高い声でまくしたてている夫婦。
 夫はひたすら無言でうなずいているだけで、なんだか引きまわされるペットの雰囲気をかもしだしていた。
 駐車場に見える人影は、ほぼもれなく。
 両手に、あるいは両肩からも、その道の駅で買いこんだ、大量のみやげ物をぶらさげている。そんな風景。
 そばにあるベンチでは、ばさばさ、チラシやパンフレットを、膝上でそれぞれにめくりながら。
 四人組の『おばちゃん軍団』が熱烈に、この後の行動にかんしての議論をかましていた。
 今にも舞い散りそうなチラシの勢いは、資料とデスクで格闘しているサラリーマンもかくや、の真剣さ。
 そういう客に。
 今朝あたり、ゴミにされてしまったのか。
 地面に落ちている一枚のチラシが目に止まった。
 ……『ナスステーキ』という活字が、目にとびこんできて。
 思わず歩みよって、腰をかがめ、拾い上げる。
『無農薬ナスステーキのハーブソースがけ、無農薬枝豆と里芋のグラタン、無農薬ミニトマト、キュウリ、豆腐、こんにゃくの、特製タルタルでいただく初秋サラダ、きのこたっぷりの玄米おこわと、あったかいほうじ茶でお待ちしております』
 宣伝文の横にある地図を、確認するまでもない。
 姉の店が出してる広告だ。
 ……野菜の旬のうつろいは、わりと速いのに。
 特に無農薬にこだわりを持たないといけない店だ、メニューはかなりの頻度で変わるだろう、に。
 つい数日前食べたばかりのメニューが、ちゃんと載っている。
 秋の初めのふぜいを求めてやってきた観光客に「あらいいわね」と多少なりとも思ってもらえそうな。
 ずいぶん、速報性のあるチラシだ。
 原稿をしょっちゅう、新しいメニューへと、差し替えてもらうということは。
 それだけ提携先の観光バス会社……かどこかに。
 コストを払わなければいけないだろうに。
「原本さんー、行こ」
 声に、我にかえり、背後を見ると。
 クリーム色の、弁当がぎっしりつまった運搬用ケースを抱え、弟が立っていた。
「……すみません。持ちますよ」
 ぼさっとしていた分のフォローも含めて、申し出ると、
「ん、あの、搬入口あけるのとか、お願いします」
 やんわり拒否と、別の、軽い役割を与えられる。
 裏の搬入口から、IDの提示なんかもちろん無しに、おはようございますーと叫びながら入り。
 弟は、まずは事務所へと顔をつっこんだ。
「あ、……佐々木さんーっ」
 制服らしきオレンジのエプロンを身につけて立っている。
 地味な顔立ち、どうも大量の白髪を染めている、六十代前後という、かなりの『おばさん』が。
 警戒心のまるでない、嬉しげな笑顔を、こちらへ向けた。
「豊くんー。今日は豊くんなのね」
「はい、車の都合で。数はいつもどおり、です。お願いします」
 腹をつきだすようにして、両手で支えるケースを見せながら、弟が挨拶する。
「うん……あの、こちらは?」
 弟の話の途中から、チラチラとこちらを見てきていた『佐々木さん』が、尋ねてきた。
「原本です。豊くんのお家でしばらく、アルバイトをしていまして」
 自分で、名前だけの簡素な自己紹介をした。
「農業をね、将来、やりたいそうで。それで修業っていうカンジで、家に」
 でも給料まともに払えてないから、バイト扱いってちょっと……ナイショね、と。
 少年まるだしの、実の叔母にねだるような言い方でもって、追加説明した。
 近所の、幼い頃から、よく知ってる、という形容に、ピタリともぐりこむ。
 ふところに入りこむような甘えを、自然に見せている。
 実際いまも、ふふふ、と。佐々木さん、の心地よさそうな微笑をかった。
 それなりに現代の若者、をあわせ持った、だけどすごくいい子。
 ふりまかれるそんな印象。
 そう、さぞかし。
 ……朝と昼と夜の、それぞれのワイドショーを独占して。
 こぞって近所の人間、一人残らずに「どうしてあんないい子が」と言ってもらえるだろう。
 殺害されれば、きっと。

 夕焼けで木々も道も染まるころ、山並みに沈む夕日に目を刺されつつ、林檎畑から今日も、この家屋に戻ってきた。
 割り当てられた自室で。
 畳にあぐらで、頬杖をついて。育てている林檎、その、この先のスケジュールを思ってみる。
 今日もさんざん観察してた、あの実のようすなら。
 収穫作業――ジョナゴールドのそれが、あと二週間ほどで、赤く色づききったものから、順次はじまる。
 ならばたぶん、予定と、葉の状態から照らし合わせて。
 明日かあさってあたりに、ジョナゴールドへ最後の農薬散布をおこなうだろう。
 斑点落葉病などの防止のために、フリントフロアブルという薬剤をまくはずだ。
 ……農薬散布は、農家を渡り歩いてゆく間に、ずっと重点的に熟練しようとしてきた分野だ。
 何度かすでに、ここでもその作業をこなしたから。
 父親が好む、つまりは『よい』と判断される、散布のクセ……傾向もこころえた。
 この家が所有しているSS――スピードスプレーヤー、農薬散布用の、バイクより大きく車よりは小さいコンパクトな乗り物、の。操縦のコツも覚えている。
 経験がかなりあることを、父親へ口で伝え。
 せいぜい得意だとアピールし。
 いかにも、やる気がある若者みたいに。
 明日かあさって、は、ふるまって。
 作業の大部分をになうべきだろう。
 ……開け放った窓から、まだ紅葉のきていない林を眺めつつ。
 そんな風に、頭の中、スケジュールに合わせて、行動を組み立てていると。
 ぽすっぽす、という、まぬけなノック音が、廊下に面したふすまから響いた。
 弟の声が伝えてくる。
「原本さん、もうごはんだって」

 夕方前に、今日はバスと徒歩を組み合わせて、帰宅していた姉が。
 妙にさっさと夕食を用意したらしく、茶の間には、よそわれた白米と、おかずがのっていた。
 ナスと豚肉の味噌炒め。豆腐の味噌汁。
 水にさらしたスライスたまねぎに、かつおぶしと、刻み海苔がかけられて、醤油ベースのドレッシングがかかっているらしきサラダ。
 弟にうながされるまま、いつもの席に座った。
 ……なぜか対面にあたる、姉の席に、食器や箸がない。
 まだ食べないのか。あるいは、もう食べたのか。
 そう考えた時だった。
「父さんー」
 ガタ、ゴッ。
 歪んだ木枠が立てる、すべりの悪い個性的な音。建てつけが傷んでいる。
 さっき自分達がしめたばかりの、茶の間のふすまが、ガラと開いた。
 そこから姿を見せた姉は。
 ……女として興味をもてる対象に、自分にとって、この女がなるわけがないが。
 それでも『見違える』感覚があった。
 まとめ髪にされてることが多い茶髪が、ほどかれて肩へ、長くたれている。
 見つけた父親に視線を向ける首のしぐさで、それが揺れ。
 チャラリ、と、琥珀のような石でできた、ロングネックレスが首元で鳴る。
 耳にも、日常しているシンプルなものではなく、れっきとしたジュエリーなピアスが光っている。
 ゆったりとドレスのようなプリーツが寄った……黒地に、濃いピンクや薄い紫がチラチラと舞う、小花もようの、姉にはめずらしいワンピース。
 光沢のある脚は、ストッキングもおそらく身につけている。
 華やかな格好を、している。
 顔立ちが厳めしい部類な人だから、若く、は見えないが。
 化粧も一見して、しっかりしていると見てとれる。
 ふだんよりずっと『女』を『花』を感じさせる様子。
「観光バス会社の人たちとの、飲み会に、行ってくるねー。深夜には帰るから」
 少しよそいきに、もうシフトされた高い声で、そう告げた。
「帰り迎えに行くぞ?」
 いそいそと申し出た父親を、
「タクシーあいのりで帰ってくるパターンだから。ありがと」
 優しくつきはなすように、断っている。
「父さ〜ん、そういえばさぁ」
 そんな、愛犬が出勤前の主人にじゃれつくのにも似た。
 かまいすぎ、に、ぐずついた会話の途中。弟が割って入った。
「んー?」
 話かけられて、父親はあっさりそちらを向く。
「ジョナの収穫、もう段取りつけとかないとダメでしょ? 兄貴の都合、ついた?」
 林檎農園での収穫は、わかりやすい最大の、人手を必要とする時だ。
 親戚に来てもらったり、知り合いにアルバイトで来てもらったり。
 子どもの学校を休ませたり、家をでた一人暮らしの子どもを帰省させたりが、当たり前におこなわれる。
「それが作ねぇ〜、今年はジョナの収穫には帰れないって。取れないと思ってた仕事が、奇跡的に取れて、いま大忙しなんだって。それはよかった、んだけどね〜」
 長男の名前を、ひさしぶりに父親が口にする。
「ふじは手伝って、くれるの?」
 メインで育てている二品種の林檎のうち。
 収穫が遅いほうに、弟が、気をまわす。
「それは大丈夫そうだって、年末のぶんの休みを、返上で。ふじの最後、いつもどおり三日間ね、帰ってこられるって」
 そうか。
 ジョナゴールドには、来れないか。
 そう胸に落としながら、微妙にうなずきつつ、傍聴していた。
 そのあいだに玄関まで進んだらしく。
 玄関の引き戸をガラガラとあけ、さっさと出ていく。
 姉の物音が、遠く聞こえた。

 夕食後、部屋にこもっていると。
 ぼふぼふ、また、ふすまへのノック音。
 微妙に弟とは違う叩き方だ。
「はいどうぞ」
 と、うながすと。姿をあらわしたのは、父親だった。
「あのね〜こんな時間に悪いんだけど……ちょっとお届けもの、頼めるかな」
 部屋のなかばまで入ってきて。
 膝をかがめ、こちらと視線を合わせてきながら、
「今日、こおらない燃料、買ってきたでしょ〜。あれをね、分けてあげることになってた人がいて。家庭菜園くらいにやってる人なんだけどね? ほら、定年退職後の楽しみって感じで」
 つまり、自給自足を目標、ていどの小規模で、畑をやっている人間に、分与の予定があったらしい。
「背負い式の草刈り機とかで、使う程度なんで、ちょっとしかいらないし、じゃあついでなんで、他のものと一緒にお譲りしますよ、ってことになってたんだけど……。その、一緒に届けてあげることになってた、黒ポリエチレンシートの方が。明日、必要なそうで」
 日光遮断用や、保温用の、黒ポリエチレンシート。
 確かに今日、無農薬野菜のほうで必要だから、と、父親にリクエストされて、農協からかなりの量を買ってきた。
「急なんだけど、さっき電話でね……。両方まとめて、今日届けてあげることに、つい、なっちゃったんだ。わりと近くだし、大きな病院が近くにあって目印になるから、カーナビでちゃんと行けると思うんだけど……」
 基本的に押しが弱い父親は、そう眉尻をさげた。
「はい、まいりますよ」
 取りなすように告げると、
「悪いねぇ。ちょっとおれ、今晩中に書いてFAX入れなきゃいけないところがあって……。豊は、なんか宿題があるらしくて。めずらしく勉強してるみたいなもんでさ」
 口ぶりからするに。
 どうやら、弟へは『行ってくれないか』という声も、かけていないらしい。
 座ったままのこちらへ、かがめ気味にしている腰、そんな立ち姿勢のままで。
 背骨の延長上の、首のつけねに片手をあてる、思案しているポーズで父親は。
「残り少ない、学校生活だからなぁ。大事にしてあげないと」
 小首をかしげ、つぶやく。
 ……このあいだ。
 歓迎会でもって。
 もう学校は全部休ませて、もっと働かせよう、と提案していなかったか?
 本人のいないところなら、ストレートすぎるほどに素直に、表される愛情に。
 ふぅ、と出かかったため息を……寸前でこらえた。

 病院がたしかに目印になり。
 そうとうに使い勝手の悪いカーナビゲーション頼りでも、届け先の家には、辿り着けた。
 そこで。
 帰りはもう大丈夫だからと、カーナビの電源を切ったのが、悪かったのかもしれない。
 帰り道とちゅうで降ってきた、霧雨。
 視野の悪さに、事故を起こさないほうへ気を配るあまり、いつのまにか地理への注意がおろそかになっていた。
 気づけば、すっかり、現在地を見失った。
「…………」
 車も人も。通らない深夜の田舎道。
 路肩に車を寄せる必要もなく、ブレーキをふんで、しばし考えこんで。
 いまさらカーナビに指をのばし、操作をはじめる。
 自宅登録をあさろうとしたのに。
 そこに進むはずのボタンを押しても、反応がない。
 まさか自宅登録をしていない……ということはないと思うが。
 疑いもなく壊れかけ、な、古いカーナビだ。
 登録が消失しているのかもしれない。
「…………」
 しばし悩んで、検索のボタンを押す。
 こちらは反応があり、パッと、画面が呼び出された。
 最近検索した場所、というボタンが、一番上に。アドバイス的に大きく表示されている。
 気ままに、そのボタンを叩いてみると。
 表示された住所のうち一つが、今、住居していて、見知った町名。
 番地もなんとなく、行ったことがありそうな雰囲気だった。
 ……わざわざ家住所を、ピッピッと入力しなくても。
 そこまで行けば、たぶん、もう風景でわかる。
 気をとりなおして、ハンドル上部を。
 両手で、きゅっと、握りしめた。

 カーナビが、愛想が再現できていない、女の機械音声で、
「目的地です」
 と告げる。
『ホントかよ』と反射的に、腹のなかで、毒づきながら。
 車を入れるのもためらわれる……いかにもな建物の付属駐車場に。
 とりあえず車を侵入させた。
「…………」
 ゆっくりと、ブレーキをふみこんだ。
 ゆるくて適当な操縦をしたが、一台ぶんの白枠内で、停まりきる。
 そもそも半分ほど空いている駐車率だったが。
 白い壁、安っぽいとがった塔もくっついた。
 城ふうな外観。
 古くから古今東西スタンダードとされている。
 ラブホテルだ。
 ぎし、と、背もたれに背中を、重くあずけきった。
 ……アイツに彼女がいるってことか。
 と言うか、年上の彼女かもな、こーいうところを常に使ってるんだったら。
 どうでもいいことを知った。
 目をつむる。いったん駐車したせいで、集中力がとぎれた。肩こりに埋まるように、意識を沈める。

 浅く眠っていたのかもしれない。
「えっ……」
 女性の驚いた声に、目をあけると。
 ほのかに、闇へ、浮かんでいる顔。
 この土地では数少ない、知った顔。
 ――ああそうか、確率、三分の一だったな。
 たいした感慨もなく、そう悟った。
 じっくりと視線を交わす。
 緊張と、敵意と、説得が。
 姉からのライン上に、小さじ一杯分ずつ、のせられてきている。
 ……そんな閉塞感のなか。早足でサササッ、と。
 もう一つの人影が、地上で動いた。
 ひとまわり以上、年上そうな男が、小股で走っていくように、姉から離れ。暗がりへと姿を消す。
 単純に、そちらに自分の車があるせい、か。
 それとも。
「…………」
 姉が、少しの間だけ。
 その男が消えた方を。多分……うらめしそう、なほど長く、見やってから。
 あきらめたように、ふぅと、ため息。
 数歩近づいてきて。
 この軽トラック、運転席側の窓ガラスに。首折って、顔をよせてくる。
「もう、家に帰る?」
「……ええ」
 ボッ、と、栓の抜けるような音を立てて、助手席ドアのキーロックを、解除してやる。
 そっちに回りこんでいく、細い姿。
 その時。やっぱり首もとで鳴ったロングネックレス。
 普段はひるがえらないスカートを、揺らしていく姿。
 たれた髪は、美しく整えられた状態が、ちゃんと再現されていて。だから少しツヤが落ちているようにも見え。
 待ちながら、なんとなく。
 フロントガラス越しに、ぐいっと、夜空を眺めやった。
 秋のはじめの星座が、群青の夜空に、金粉のようにまぶされている。
 だけど、ふってきそうに、ほどは輝いていない。
 こんな田舎でも。
 石油燃料が日々燃やされて、空気を汚して。街の明かりも、光害となって。
 星はいくらか、かすんでるのだ。
『東京でも星は見えるんだな』そんなバカげたほどに純情っぽく、当たり前のことを、上京者はよく感想する。
 自分も最初はそうだった。
 同じ日本で、同じ上空で。
 見える等星にそれは違いがあったとしても。
 東京を、どれだけの異世界だと思っていたのか。
 自分がそれまで知っていた、田舎だって、……どうして。
 けっこう汚れていたのに。
 ここと、同じように。
 ……そんなことを思った。

 姉が、バタン、とドアを閉め、横にのりこみおわると。
 すぐにガク、とレバーを入れた。
 さっさと出発する。
 ラブホテルの駐車場でなきゃ、できない話でもないだろう。
 ……口封じのために誰とでも、という女ではなさそうなのだし。
 ごく。
 小さくつばを飲みこむ音が、奇妙にはっきり、密閉空間に、広がる。
「どうして、ここに、いたの?」
 迫害にそなえて。
 カラに閉じこもるカタツムリのような……耳にごろごろと硬い声。
「お父さんにちょっとお届け物を、頼まれまして」
 真剣に、無言で、聞き入られている様子。
「帰りに霧雨がふりまして、視界のせいで。ちょっと迷ってしまって……」
 ……いや、勝機をうかがうように、かもしれない。
 場合によっては大きく、反撃をこころみる気が、まんまん。
「最近検索した場所というので、とりあえず、町名が出たので」
「あー――」
 細く長く、なげく悲鳴。
「……ぼけカーナビ」
 ぼそっ。拗ねたように、シンプルに悪態をついた。
 そんな隣の人間へ。
 見せるためにだけ、ものわかりがよさそうな苦笑を、作ってやる。
「誰にも言わないで……黙っててね」
 女の弱々しさを漂わせながら。
 それでいて。ねじふせてくるような口調。
 濡れ髪を……顔面にまでたらした女、そんな幽霊イメージをいだかせる。
 怨念を嗅ぎとれる言いかた。
「隠す必要はないんじゃないですか」
「恋人なわけじゃないから」
 そして。
 気ままで自由な『独身のセフレ』なわけでもないのだろう。
 皮肉な気分で、そう結論した。
 バレバレだ。察しはついてた。
 目撃されるなり、一言もなく逃げ去っていった、あの様子は妻子もちだ。
 おもいっきり置き去りにされ、見捨てられていた。
 頭によぎるのは。
 今朝の弁当の配達、道の駅の駐車場で、アスファルトから拾ったチラシ。
 やたらとスピーディに現在のメニューが反映され、速報に載っていた。
 旬の食材がもりこまれたメニューたち。
 田舎へやってきた観光客が、自然や……歴史の残った、すばらしい景色の次に。
 温泉、より先につける順位で、求めてくれる、もの。
 ……有名コックが作ったのではなくとも、本格フレンチではなくても。
 地元でとれたてという季節感あふれる、こだわりの無農薬素材で作られた、食事。
 出かける前に言ってた、仕事先との飲み会、はウソじゃないわけだ。
 要は、飲み会と言っても、参加が二人だけで。
 酒だけではつきあいが終わらない、ということで。
 広告を出してもらっている、観光バス会社の、内部に男を飼っておけば。
 メール連絡ででも、情報を新しいものに入れ替え……くらいは、マメにしてもらえるだろう。
 周囲からの不審の目、も、だんだん買うだろうが。
 ……あのチラシ自体、大々的に募集をかけて広告主をあつめているような、規模でもなかったし。
 おおかた、親戚やら近所やらのコネが、からんでいるんだろう。
 とすれば、なおのこと料金形態は不透明で『いや〜お世話になった人のすじだから、断りきれなくて』というごまかしが通用し、発覚は遅らせることができる。
 その程度の、ささいなスリル、と引き換えにするほどには。
 あるいはそのスリルも楽しむ、くらいには。
 妻以外の、この女とのセックスを……好む相手らしい。
 ……見渡す、前景が。
 交差点にさしかかり、ギッとサイドブレーキを引くと。
 見計らったように姉が、追加で、釘を刺してきた。
「父さんにも、お願いね」
 また、女の。
 まるで……持っている権利を主張しているだけ、さながらの。
 こちらにとっては理不尽、とすら形容できる、物言い。
「豊くんにも……ですよね」
 イヤミったらしく。
 それでも、そうは聞こえないように、優しくゆっくり。
 そう念を押してやると、
「ああ、あの子は」
 街道を右へ左へ、流れる車をながめながら、
「知ってるから」
 意味のするどさに。
 反射的に、目だけ動かして視線をそそいだが、横顔は無反応だった。
 まるであたりまえの事実を語ったように。

 姉を後ろに従えて、ガラガラ、と引き扉をあけると。
 父親がもう寝静まっている時間帯、シンとした家屋内。
 ちょうど台所の、木製ビーズののれんを、チャラリくぐって。
 弟が出てくる姿が、目に入った。
 よく冷えた、汗をかいたペットボトルを、ごくごくとあおっている。
 喉仏がわかりにくい、白い首をのけぞらしている。
 折りたい、喉だ。
 ふぅ、と弟は、満足そうな息をはき。
 誰かが玄関に帰ってきていたのには、人影で気がついてたのか。
 キャップをくるくると閉めながら、ぼんやりと、こちらに首をもたげた。
 勉強していたせいなのか、めずらしく疲れをにじませている、皺のよせられた目元。
「……エ」
 瞳がみはられて、その皺が、なくなる。
「なんで、一緒に、帰ってくんの」
 人影が二つ、だと知って。
 急に狼狽しだす。
 少々色を失ってるようにも見える、顔。
「たまたま、会いまして」
 それだけ伝えて。
 スニーカーを、かかとで踏みつぶして、脱ぐ。
 木の廊下にぎし、ぎしっと乱暴に上がり。
 どかどかどか、と、遠慮なしの足音をたててしまいながら、速く階段をめざした。
『足音を静かに』という、居候の。身を小さくする基本な心がけを、つい忘れた。
 まぁ今日くらいは……いいだろう。
 わきを通り過ぎるとき、見上げてきた茶色い瞳に、気がついたが。
 反応は一切かえさずに。古い廊下から、階段へと進む。
 背後で、姉弟のやりとりが、くりひろげられだした。
「ねーちゃん……」
 たよりなく語尾が消えていく、弟の、訴えかけ。
「父さんは?」
 すでに落ち着ききった声で、姉が受けた。
「寝たけど……」
 父親の耳を気にしている、姉からの問い返しに。
 弟が力ないようすで答えてやっている。
 ピッ、と、唐突に電子音がした。
 おそらくは携帯で、待ち受けから、何か別画面を、呼び出した音。
「一応、後でメールに、するから」
 わざわざ携帯にメールかよ。たいそうな秘密だ。
「……ハイ」
 はい、だとよ。

 ◆

 明けての月曜日。
 放課後に、あいかわらず熱心に、畑にやってきて。
 脚立を……肩にかついでは移動し、手入れをしては移動し。
 と、かいがいしく木の面倒をみている。
 けれど微妙に、背後の人を意識している、という雰囲気がただよう、弟の背中を、観察していて。
 やがて、休憩するのか。
 女性用のぼうしみたいな、農作業用の麦わらぼうしを頭からとって。
 また移動するため、脚立を右肩にかかえあげた。
 そこを見はからって、
「ゆうべのことですけど」
 声をかけたら。
 ガシャ! っと、支える脚立のバランスを、崩壊させる音をたてながらピタッ! っと止まった。
 それから、おそるおそる、肩越しに、
「あー。はい?」
 愛想笑いのような……ひじょうに情けない微笑、を見せた。
 林檎の木の根元に、なりゆき的に、二人並んで、座った。
 夕日になりかかった太陽が、斜めにやってくる。
 木が小さなせいもあって、あまり避けられない。
 ちょうど目線の位置にある、弟の、頭。
 あたる日光に、いっそう茶色く。
 ふかふかと繊細な特質をうったえる髪を眺めていると、
「カーナビだったんだって?」
 頭をかかえるように、かなり前のめりの姿勢になっていた、弟が。
 ただの確認のように。
 返事を求めないニュアンスで、ぽそっと言ってから。
 首をもたげて。
 もう笑うしかない、という目で、みつめてくる。
「……買い替えるべき?」
 そこに注目すべきではないと思う。
 ……いや、そこにだって、注目すべきなのか。
「前から知っておられたんですね。理解、なさっているんですか?」
 すらすらと用意しておいたセリフで、尋ねると。
「理解って……いうか。おれだって、知りたかなかったんだけど、……。正直は」
 なぜ知ってしまったのか。
 原因は、聞かなかった。
 だいたい予想がつく。
 あの姉も、真剣に、周囲に隠そう、とは……しているんだろうが。
 生まれ育った実家だからだろう、家では油断が出ている。
 なにせ、家所有の車に痕跡が残っていて、こんな赤の他人にすら見つけられてしまうほどだ。
「最初は……そりゃショックだったんだ」
 弟は、眉をひそめて、そう喋りだす。
 まるで――いじわるをされた幼稚園児のような、シンプルな顔つき。
「だけど、ただ、やめろって……言ったって」
 見えているのかどうかというほど、グチャグチャに目をしかめ、細めて、
「何もしてやれない、から。うち金ないし……。畑もほっとんど借地なんだよ。こんな田舎だから……土地もってたって、高く売れやしないんだけど、それすらないの」
 いつのまにか。唇も、への字のように突き出されていた。
「コレはコレで、ねーちゃん、夢……かなえた……かもなんだよ。好きな仕事して、生活していけて、実家で父親のめんどうもみて……やれて」
 耳たぶも、かきむしるように、いじりだした。
「だから総合して……」
 白く柔らかい肉が、ピンピンと跳ねてる。
「なくもない?……感じ?」
 ……軽い。
 田舎であっても、やっぱり。
 現代を映しとっている軽さだ。
 だから……年齢的にはやや重いはずの、ショックや深刻に。
 ふわんと乗っかってしまえた、のかもしれない。
 この結論を受け入れるまでに、悩まなかった……わけでもないのだろうが。
 うらやましいような気がした。
「……こうなっちゃったからさ、いまさら『財布が落ちてなきゃ盗みません、でした』みたいな感じだけど」
 ハハ、と息がやたら空気に残響する、力ない笑いを、向けてくる。
 フフと、なかみのない笑いを返し、聞いてやる。
「最初は一生懸命……断ってたんだよ。家でもよく、頭かかえてるの見てたし」
 むこうがしつこくて、断りきれなかった。
 そんな事情を、必死にわからせようとしてくる。
「そこまでエロおやじってのも――……おれの方がだんぜん若いけど……。わかんないな」
 性欲的におさえがきかない時期なのは。
 比較すれば、昨日の男よりだんぜんに、この弟の方だろう。
「よくそんな危ない橋、わたれるよね。奥さんも子どももいるのに。ねーちゃん、いちおう、会社にだって影響する相手だし」
「そうですね……」
 ここまで田舎だと、一般的に娯楽といわれるものがパチンコくらいしかなく。
 都市と違い、スナックなどの店舗数は、少ないから競争もゆるく。
 人口も過疎化しているから、とうぜん女も高齢化などしやすい。
 体を提供してくれる風俗系ともなればなお『こういう女がいい』『ああいう女がいないか』という贅沢は、言えなくなる。
 だから女を、第一の娯楽と考える男なら。
 相手をしてくれる好みの女を。
 そんな橋だっていいと。
 喉から手を出して、ほしがったのだろう。
 高校生にはまだ……。
 大人が伝えたがらない、地域事情だが。
「だから、ぜんぜん好きでやってるわけじゃない事だし。もちろんずっと続けるわけじゃない……んだ」
 口には出さなかった内心は、もちろん聞こえなかった様子で。
 弟は、むしろ自分自身へ言い聞かせるように、話を、しめて。
 それからこちらを仰いできて。
 少し、怯えをふくんだ、やわらかな茶色の目で。
「言わないでいてくれる?」
「もちろん、です」
 そんな。
 些細な破壊で。
 ここから追い出されるようなきっかけは、与えない。
 最初のひとつだけを声にしながら。にこにこと、腰をあげると。
 同じように立ち上がり、パンパンとジーンズの尻をはたきながら、わらい返してくる。
 握手のかわりのように。穏やかに。
 笑みを交わしあった。
 赤さをおびてきた陽光に、彩られて。
 そのせいで鼻や唇の彫りがいつもより深くなった、目元がよりクッキリとした。
 すがすがしい顔立ちに……浮かんでいるのは、いかにも嬉しそうな。
 こちらを信頼しきった。
 若い笑顔だ。
 都会から脱サラして、実家に帰り、年をとってなお父親に可愛がられながら。
 スローライフじみて小さな店の経営を満喫している姉も、代償を切り売ってないわけではなかった。
 いい気味だ。
 ――なまぬるいが。

 ◆

 台所の、木ビーズののれんを持ち上げて。
 少しおどろいた。
「……おはようございます」
 いつも手早く、三十分足らずで、全員ぶんの朝食をつくる姉なら。いても驚きは少なかっただろうが。
 自分がまだ、顔を洗ったばかりなのに。
 レトロな、黒ずくめの学ランをもう着こんだ弟が、せまいテーブルについてホットケーキをむしゃむしゃと食べていた。
 パッと見て『すごい』と思うほど、分厚いホットケーキだ。
 すでに半分以上を制覇しているが、のっているのが大皿なことを見ても、おそらくフライパン全体で焼いた、直径も大きなものだっただろう。
 食べ盛りなのはいつもどおりにしても、ずいぶん大量に食べている。
「学校に早く、行かれるんですね」
 手の甲ですくいあげた、ビーズののれんを。
 ようやくしゃらんと戻しながら、確認のように問いかけると。
「ううん、時間が、すごいあまっちゃって……。ほらこの雨、で」
 ナイフとフォークを動かしつつ、窓の外を見やりながら。そう答えた。
「ああ……そうでした……ね」
 学ランを着て、しかも、こうやってのんびりと食べているので。
 つい、学校関係で早起きなのかと思ったが。
 そう言えば、ジョナゴールドへの最後の農薬散布は。
 自分が強くは申し出なかったため、今朝、弟がやる予定になっていたのだった。
 学校で何か話し合いがあり……帰りが遅くなるとかで。
 昨日、朝やると、四時起きを予告していた。
 だが実際に四時に起床して。
 着替えや、薬の用意、スピードスプレーヤーの準備、を済ませ。いざ、かかろうとしたら……。
 多分ふらない降水確率だった雨がふりだし、中止になってしまったわけだ。
 すぐに流れ落ちてしまうようでは薬の意味がない。
 つくづく、天候に左右される……空の機嫌しだいの仕事だ。
 それで、寝なおすにも、もう目が冴えてしまったから。
 ホットケーキを調理して食べてるのか。
 納得しながら、流し台へと歩く。
 ゆうべ、水を飲んだ際に置きっぱなしにしてしまった黒紫のマグカップを、水切りカゴから出す。
 右手の。もう歯磨き粉をつけてある、洗面所からもってきたハブラシを眺め。
 一瞬、洗面所にひきかえすかどうか……迷ったが。
 そろそろ姉も起きだしてくる時刻だ。ここはカチあって邪魔にならないように、居候として気をつかうべきところかもしれない。
 流しに立ったまま、軽く歯をみがく。
 ひととおり終わり、口をゆすいで……さぁ立ち去ろうとしたときに。
 カチャカチャ。
 空皿の上にのせた、ナイフとフォークの音を鳴らしながら、食器をさげに来た弟が。横にならんだ。
 そして口を開く。
「あ、原本さんもホットケーキ食べない?」
「いえ、私は……――」
 あわてて断ろうとするが、
「いーから、いーから……」
 鼻歌でもでそうな表情で、カパッと冷蔵庫を開け、卵をとりだしている。
「ねーちゃんも食べるかな。……焼いとこ」
 また、姉思いのいい子、なセリフを吐く。
「すぐできるから待ってて? そこで」
「……はぁ」
 逆らうのも得策じゃない。と。
 しかたなく。さっき弟が座っていた、その向かいの席に、着席した。
 それにしても。
 一応は『不倫』という事実を。
 弱みを握ったのに。
 食べ物を押しつけてくる、この行動を、弟はひかえる様子がない。
 十分いやがらせになっている……、という自覚が、全くないから。やめる気をおこしてくれないのだろう。
 しゅりしゅり。
 ……耳に入ってきた、ホットケーキとは関係のない音に。流しを見やれば。
 自分がデザートに食べ足すのか、慣れた手つきで、見事にとぐろを巻くヘビのようなかたちで。
 林檎の皮をむいていた。
 シンクの底に、コッ、スル、と。
 皮の末端があたったり、こすれたりする音が、かすかに部屋に響く。
 包丁の動きにつれ、わずかに左右にダンスしている、腰の、深緑なエプロンの結び目。
 とつぜんの天候変化で、つぶされた段取りに、めげずに。
 陽気ですらある後ろ姿。
 ぼんやりと、その光景を眺めていたら。
 ……唐突に。
 水にひたされたように、その背がゆらいだ。
『おてんとさん』
 まさに呼び水として。
 ぱしゃりと清水を打ちかけられたような、鮮明さを持って。
 蘇ったフレーズ。
 いつのまにか、眼球が裏返りそうなほど、目をみはっていた。
『おてんとさん次第さ』
 天候は。
 自分達の望みどおりになんか、はなっからなるものではない、と。
『今、別の仕事しへ。しゃんべっちゅう』
 予定をくるわされても、他にできることは、いくらでもあるよ、と。
 怒ることも嘆くこともなく。
 自分へも、息子へも、言い聞かせるように言いながら。
 じゃあおやつでも作ってあげようと、やっぱり台所へ立ち。
 やさしい背中を見せていた。
 心臓が氷づけになったような気持ちで、ただ膝の上に。
 そこにのっかっている、自分の手元に。
 目を落としていると。
 ごとん。
 妙に大きく、撃つように鼓膜に届いた。
 テーブルに皿がのせられた音。
 目を上げると、アップルパイのような甘ったるい香りが、鼻を、くすぐった。
 映るのは、なすりつけるようにホットケーキに塗られたバターのかたまり。
 その上から、メープルシロップではないありあわせのハチミツが、とろりとかかってる。
 ひっくりかえす時に失敗したのか、地割れのような裂け目が、ホットケーキ生地に大きく入っていた。
 キツネ色の表面を割る。その卵色な断面からのぞく。
 ごろごろと入っている、白い果肉。
 ――なんで。
 ――なんでこれもカブんだよ。
 ほとほと苦い気分になった。
 林檎のよう、くるくると心を皮むかれている気になった。
 こういう……ランダムに細かくカットされただけの……荒いものじゃなかった。
 もっと規則的にサイコロみたいにカットされてたが。
 林檎の果肉が、妙にたくさん入っているホットケーキ。
 それが子どもの頃からの。
 秋から冬にかけての、おやつの定番だった。
 鳥がついばんでいった実、虫に皮がかじられた実、風で落ちてしまった実。
 いつも余っていた。
 それはどこだって。林檎を育てていれば、同じで。
 じぶんのうちで。
 なんの料理にだって取り入れて。
 もったいないから、たべて、いた。
「……すみません、いま、お腹がすいてません、ので……」
 なんとか逃げようと、震える声で、ごまかしにかかった。
 聞かせた弟は。
 少し首をかしげて。
 いかにも了解できなさそうに、している。
 いっぺんは食べると承諾してしまった上に。
 奇妙な声になってしまったと、自分でも思ったのだ。
 まるで痛みでも耐えているような声になった。
「あの、さ」
 こぶしを片方、テーブルについて。
 弟が、顔をのぞきこんでくる。
 すぅと瞳の色が変わった。
 いきなり、赤の他人という垣根を、全部とりはらってしまったような。
 拒絶を少しも想定していない……こっちへ開かれきった、無防備な。
 融和の色調。
 ――鐘を鳴らすような頭痛が、頭蓋骨を叩く。
 対峙した目から、その親愛にとりこまれ。
 まるで、混ぜこまれていってしまうような。
 恐怖。
「もっと量、ちゃんと食べた方がいいって、多分。もともと小食なのか、も……しんないけど」
「……はぁ」
 ボケたような。
 わざと気の抜けた返事で。内側の激情をごまかしながら。
 ……あきらめて。
 フォークを手にし。
 一口ぶんを、切り分けて、口に運んだ。
 あたたかいケーキの舌ざわり。
 ……ぼやけた味覚のままなのに。
 卵のこんがりとした薫りと、林檎のとろけるような果肉の甘酸っぱさが、鼻へとぬけていった気がした。
 きっと記憶が、勝手にさかのぼって、訴えかけてきている。
 林檎の実入りのホットケーキなんて単純なもの。
 たぶん、同じような作り方をした。
「……ありがとうございます」
 懐かしく、ふんわりとした『ぬくもり』なんて。
 よりによって。
 おまえなんかに、与えてほしく、ないのに。

 ◆

 昼下がりの快晴のした、あぜ道で、
「台風が〜あんましで。米も林檎も、よかっただなぁ」
「なかなか気温が下がらんかったんで、それはこどだったけんどもな」
 初老にさしかかった男二人が、平和に立ち話している。
 そのあぜ道を囲むのは、黄金の稲穂がたれさがった、秋の田んぼ。
 本日、稲刈りを迎えている。
「たいした晴れで〜助かるだえん?」
「んだな。来週中には、丸刈りせねばなんねえんだべ」
 生粋の地元民ふたり、の会話なため。
 会話の一方である父親の、しゃべり方すら。かなり容赦なくナマっているが。
 これくらいならまだ解読可能だ。
 台風があまり強くなかったから、稲が倒伏したり、林檎が落果したりの、被害がなかったことや。
 今日、晴れの天候に恵まれたことを。祝福しあっている。
 この稲刈りの時期には、稲作農家にとって、雨は害になる。
 雨の中での収穫となると。
 まず、稲刈りの機械であるコンバインの、脱穀をする部分――空気の力で、もみとわらを分ける所に。水分のせいで、無理がかかってくる。
 コンバインの代車を探そうにも、どこも米の収穫を迎えているシーズンにつき、出払っているから。
 もしも故障してしまったとなれば、収穫が進まなくなり、そのあいだに米の品質が落ちていって……大ダメージだ。
 コンバインの故障がなく、雨の中での収穫を、終えても。
 今度は。
 農協が運営しているライスセンターに、運びこんだ段階で、「水分量が多すぎる」と断られてしまうこともある。
 ライスセンターは巨大な、乾燥機や、もみすり機を所有する施設だ。
 保存に適した水分にまで、米を乾燥してもらい――さらに食べられないもみを取った状態の玄米、にするまでを、やってもらう。
 だが、この時期にはやっぱり。そんな施設も機材も、いっせいにフル回転にはいっている。
 客をスピーディに、効率よく、処理していくことが。そちらでも最重要課題になっているから。
 びしょぬれの状態で出された米は……晴れの日に収穫できた、他の人の米よりも。
 乾燥に時間がかかるので。
 いわば『我儘』として、拒否されてしまうのだ。
 雨、ひとつに。
 それだけふりまわされる。
 どうしようもないほど地に生きている。
 あぜ道でまだ話しこむ、そんな二人を。
 コンバインを走らせることのできる状態になっている、とっくに水を抜かれ水田ではなくなった、乾ききっている田から……仰いでいると。
 視界には入っていない位置、だけど、あぜ道に立っているとわかる高さから、声が響き渡ってきた。
「そろそろ始めましょー」
 弟の声だった。
 近所の米農家の手伝いが、今日の仕事になる。
 収穫が大仕事であると言っても、大部分はコンバインで一挙に刈りあげられるのだが。
 その下準備に、必要な人手として。
 弟、父親とともに、この田に来た。
 台風にやられはしなかったものの――酷くななめになっている、コンバインで刈れない稲穂や。
 それから、地面がくぼみになっていて、水分が抜けずにぬかるんだままのため――重量ではまりこんでしまうコンバインは走らせることができない部分の稲穂も。人間が刈る。
 弟の声が、響き渡ったのを受けて。
 まとまる感じにだいたい集合していた、近所の農家からの手伝い、五名ほどの人間達が。昔ながらのカマを手に、散っていく。
 自分もどこかで農作業をはじめよう、と、足を踏み出したとき、
「原本さんー、こっち手伝ってくれます?」
 今日も、白系のパーカーにジーンズ、ぼうしは青いキャップな、弟が。そばにやってきた。
 例年、手伝っているらしく、なんの迷いもない歩みで、先導してゆく。
 ……どこの何から始めたらいいか、いまいち目星がついていなかっただけに。素直に、後についていった。
 機体前面で、稲を刈りとってゆくコンバインは。
 うずまきを外側から巻きとっていくような進行方向で。
 田んぼを埋めつくす稲穂――ふさふさとしたその部分の、直径を、小さくしていくように。ぐるぐると丸刈りにしていく。
 そんな主役であるコンバインでの作業前に。
 入口をふくめた四隅は、人が刈っておく必要がある。
 あぜ道との高低差などのため、準備なしでコンバインを乗り入れさせると、稲穂を潰したり刈り残したりで、かなり無駄にしてしまうことになるのだ。
 弟と二人、横一、七メートル、縦三、七メートルらしい、この家のコンバイン車体が、方向転換できるよう角を。
 腰をかがめて、ひたすらカマで刈っていく。
 一つの箇所の農作業を、共同で片づけるたびに、弟は。
「あっちが毎年ぬかるみのままだから」
 などと言いながら、いちいち次へと、誘導してくれる。
 そうして幾つかの場所を終えたころ。この田の持ち主が、コンバインで脇の車道を通りかかった。
「豊ぁ、ついてきて、手刈りのぶんの稲ごぎしてけれっ」
 と叫びを残して。
 ゴムのキャタピラについた泥土を、舗道にくっつけながら、のたのたと去っていく。
「……。じゃ、原本さん、すみません後おねがいします」
 さっと腰をまっすぐ伸ばし、身軽に反転して。
 弟は、コンバインを追いかけていく。
 一人で、そこの作業を続けた。
 その箇所の終了にさしかかったときに、
「休憩してくださーいー!」
 という、女……、おそらくは姉の声が。
 遠くから響いてきた。
 ……そういえば、後から来るとか来ないとか、朝、父親と会話していたっけ。
 もう少しで終わる作業を、腰を折って続けながら。そう思い出した。

 ナマりまくっている二人の会話をきいていた田の近くの、広場のようになっている草むらへ行くと。
 休憩するために人々が、もう全員、集まってきていた。
 色がばらばらのレジャーシートが、三枚しかれ、魔法瓶がのせられている。
 そのちょっとした広場の、片隅。
 コンバインがまだ。ぶるる、と駐車状態でもって稼動していた。
 弟がしゃがんでいて、地面に集められた稲穂、人が手で刈ったそれを集め揃えては。立っている、田んぼの持ち主に渡す。
 コンバインを降りている、この田の主人が。受けとった稲穂をコンバインに手で送りこんでいき、もみに覆われた米部分だけにする脱穀、をすませている。
 ちょうど区切りがいいところまできたらしく、自分が到着したのに少し遅れ、コンバインは停止した。
 レジャーシートの敷かれた『休憩場所』のほうに、連れ立って歩いてくる。
 この田んぼの主人が、ふと、こちらを仰いで。
 麦わらぼうしをかぶったままの頭を、下げてきた。
 続いて手先で、レジャーシートを示し、
「そこさ、ねまってけれ」
 と言ってきた。
 ……とりあえず、おじぎをし返していると、
「あ、原本さん、こっち」
 すでにレジャーシートでくつろぎ始めていた、弟が。
 手まねきをしてきて。
 もう片手で、レジャーシートの、自分の隣のスペースを。
 ここに座れと、タンタン叩いている。
 ……通訳をかねたアクションに誘われるまま、そこへ向かい、腰をおろす。
 座ってほどなく、
「おつかれさま〜」
 紙コップと弁当箱を手にした、姉がやってきた。
 今日はもう店のしこみも終えて、やっぱり手伝いにきたらしい。
 こびるのおにぎりなどが入った、弁当箱を、レジャーシートに置き。
 休憩には加わらず、キビキビと、どこかへ去っていった。
「はい、原本さん」
「ありがとうございます」
 弟が、魔法瓶から紙コップへそそいだ冷茶をさしだしてくるのを、受けとる。
 いっきに一杯、飲みほして。
 ふぅーと息をつくと。
 ……風がまた。
 さっきから気になっていた、ある匂いを運んできて。
 鼻をヒクとうごめかせ、嗅ぎながら。
 つい尋ねてみた。
 あって当然の、盛大に刈られたわらの、稲刈りの匂いとは別に、
「なんだか、青臭い香りがしますね」
 稲刈りを始める前から、この匂いはしていた。
 どこかの農作業の匂いに、間違いないとは思うが。
 いったい何の匂いだろう。
「ああ」
 思わぬ方向から、声をかけられて。
 背後をふりかえると、別のレジャーシートにあぐらをかいている――同じく応援にきている近隣農家の男性が。
 暗い表情で、それでも割合に淡々と、説明してくれた。
「苦いかんじがする香りだろ? このそばの畑で、うちのピーマンを今朝、大量に轢きつぶしたから。その匂いだ」
「……そうでしたか」
 そう答えてから。
 ふと、自分の傍らからの、視線に気づく。
 弟が……解説はいらないかな、という。
 感情を反映し、やたら水分をたたえた――つやつやと輝いてしまっている瞳でもって、見上げてきていた。
『いらない』という意図をこめて、小さく首をふった。
 異常気象などで、ある作物が成育不良に見舞われると。
 結果、市場でその作物の値段が高騰する。
 ……そしてその後に。
 気候が回復し、みごと豊作となりはじめる。
 たとえばそんな状態を『豊作貧乏』と言う。
 成育不良だったぶんが、遅れてやってきた収穫と。
 予定通りの収穫が、ダブルブッキングになって。
 需要の量が変わらないのに――供給が過剰という図式になり、その作物は暴落を始めるのだ。
 収穫した野菜をつめて出荷するための、ダンボール代も出ない、という事態になる。
 そうなると、
「畑で、そのまま潰してしまって、収穫をあるていど廃棄してください」
 という要請が。
 農作物の流通の大部分を、完全に管理している、農協サイドから入る。
 予定外にいきなり野菜があまり始めても、工場や倉庫にだって、受け入れ限界がある。
 レトルトなどの加工用へ販売、出荷の後送り、貯蔵などの。
 どれかに活用できる、ふりわけることが可能なぶんは、限られているのだ。
 だからどうしようもなく、追いこまれてとることになる最終的な手段。
 大根、白菜、キャベツ、たまねぎ、レタス、にんじん、などの――国民の食生活に重要な影響をあたえる、と指定されている種類の野菜であれば。
 まだ廃棄になった分にも、少しは国から、交付金という支払いがあるが。
 指定外のピーマンともなれば、自主的な廃棄というあつかいなので、完全に零だ。
「『轢き』だけは嫌だったのになぁ」
 うつむいて、パタパタとまばたきをしながら。
 まばらで濃い無精ひげをはやした、サラリーマンではありえない、むさくるしさ全開の中年男性が。
 それでも、あまりに清い響きで、言う。
 かけた手間。つかった神経。そそいだ愛情ごと。轢き殺す作業だ。
 好んでやる人間がいるわけもない。
「肥料もどうすっかなぁ……潰したピーマンのぶん……畑の土、また栄養バランスが崩れる」
 がっくりと、ツナギの作業服の肩を丸めて。
 しみじみ味わうように、しゃべる。
「でな、給食で食べてるものの取材、に来た小学生が。あまったら潰さなきゃならないんだよって教えたら、『飢えてるところに寄付すればいいのに、北朝鮮とかあるでしょー』ってバカにすんだよ」
「ああ、おれも孫に、このあいだ言われた」
 ピーマン農家の男性の横にいる、今日一番、年配の男性が、黄ばんだ歯を見せた。
 素朴な印象がただよう、苦笑。
「こばがたれた事、言っててもなぁ……。目がなぁ。『なんでそうしないの?』ってキラキラしててなぁ……。子どもの善意でそー言われんのは。痛い、よ」
 泣きたいのか、怒りたいのか、ハッキリしていない顔つき。
「運送費、どれだけかかるかわかってないんだよね。船便じゃあ腐るだけだし……。輸送するだけでもう、現地で直接購入する代金。追いこすっつーアホらしさなのに」
 弟が、コクコクうなずきながら、まぎれもない真相をつく。
 テレポーテーションというのは、科学の力で、いつかできるもんなんだろうか。本当に? と、自分が。
 この横にいる弟よりも幼かった頃に、疑った……ことを思い出す。
『東京が――大消費地が近ければ、もう少しは運送費、かからなくなるのに』
 それは心当たりがある悔しさ。
 肉へと、すりこまれた記憶。
 長野あたりの農家ならば、まだ格段にマシなんだと聞いて、本気で歯噛みした。
 少年マンガや映画で、いとも簡単に人や物を……転送する場面で、冷めるようになった。
 あれは中学も終わりの頃。
 今、思えば。周囲の友人より早かった、少年時代の終了。
 じぶんたちは。
 地を這ういきもの。
 そう自覚して、悪くはなかった成績を、努力してさらに上げて。
 通学圏内では一番の進学校に入学した。
 そんな頃の思い……だ。
「なんでこんなに農家の仕事って……理解されないのかなぁ。サラリーマンってそんなことなさそう。なのに」
 それでも、その道を選んだ少年が。
 長い先行きを憂いて。
 けれども絶望を味わいきっていない、まだまだ軽い、ため息をついた。
「値段が安くなっちゃっても売ればいいじゃん! って。強気な意見もいわれちゃった、こーんな小さい女の子から」
 ツナギの男性が、座ったまま腕を上にのばし。
 そこで手先をとがらせて、位置を示す。
「そんなこと言っちゃってー。『ピーマン毎日、いまの四倍食べろって、ママに言われるんだよ?』って、泣かせちゃえば、よかったのにー」
 ……簡単に。
 嫌がってピィピィわめく、ちいさな女の子の風景が、想像できて。
 アハハと、自然に笑いが発生した。
 ……すんなり『それは言ってやればよかったかもな』と思えるような。
 爽快な意見だった。
 運送代、ダンボール代、もさることながら。
 生産をそのまま市場に並べても。
 それがどれだけ安くなっていても。
 需要は突然、二倍や四倍にはならない、というところにも、真実はあるのだから。
 ……笑いがおさまる頃には。
 場の空気が、かなり明るくなっていた。
 これはやっぱり、若者の力だろう。
 水気をはらんだ植物のよう。
 しなやかで、再生力がある強靭さ。

 なんとなく和んでいたその場に。
 どこからか、姉が、戻ってきた。
 大股で足音もひびくよう歩き、いかにも機嫌が悪そうに近づいてきて、
「豊! そのこびる、全部、食べちゃっていいよ!」
 一喝するように叫んだ。その語気も荒い。
 あわあわと、空気をすばやく読んだ弟が。
 尻をずらし、レジャーシートのスペースをあけると。
 間髪をいれずにドサリと腰をおろした。
 ぶすっ、とした態度のまま。膝をかかえて小さく座る。
 拗ねたような、すこし子どもっぽい顔になり、
「……また来ないって」
 いきなり小声で。
 どこか甘えるみたいに、弟に告げた。
「ヤス兄ちゃん? 手伝いに、来ないの?」
 いかにも親しげな呼び名が、弟の口から出る。
 さっぱり状況がわからず。
「その方も、農業されているんですか?」
 思わず質問していた。
「ええと」
 弟が、少し困ったようにワンテンポはさんで、
「本人がよく、ふざけて言うんだけど……年金暮らし?」
 答えをよこした。
「年金? ですか?」
 ……ヤス兄ちゃんと呼ぶような……年代なのにか?
 そういう呼び方をする以上、よく一緒に遊んだとか、学校が一緒だったとか、そういう関係じゃないのだろうか。
 そんな風に思っていると、弟が、重ねて答えた。
「うん。ヤス兄のおばあちゃんの、年金」
 ……なんだ。
 つまり、ニートじゃないか。
 そう判断して。
 少し口に出しにくそうだった弟のようすに、納得した。
 しかし……自分の年金じゃないのに、年金暮らしというあたり。
 絶対に先に逝かれるだろうという状況をふまえて。そう言ってみるあたり。
 よっぽど皮肉な人間なんだろうと、あきれる。
 ……ふと、父親がぼーっと、遠くの景色を眺めているのが、目に止まった。
 こちらで交わされる会話が、耳に入ってるはずだが。
 あえて聞こえないような……そぶり。
 おしゃべりの部類に入る父親にしては、めずらしいスタンスだ。
 弟の態度も、なんだかちょっと。
 幼なじみで、兄にも似た位置にいる男が、今ニート暮らしである、という事情を説明した……。
 だけにしては。
 気を使いすぎなように、おかしいし。
 なんだかレジャーシート一つを占領している、この家族内に漂う空気が、妙で。
 ……どころか、よく考えれば、まるで口をはさんでこない。
 他の全員をふくめたところの空気までが、珍妙だった。
 何か。
 軽い秘密を、共有しているかのような。
 ……さっき弟に、来ないんだから全部あんたが食べて、と命令をくだしていたのに。
 姉が、みずから『こびる』のおにぎりを、わしづかみにして、
「もう、もう、男って、男ほどたよりになんないもんはないんだから」
 両手で捧げもったおにぎり、その海苔の部分を、どうしてか寄り目ぎみに凝視しながら言う。
 ストレートに、怒っています、とぷりぷり発散させている。
 ……ここに今、ほかには百%男しかいないっつーのに、何てことを言い出すんだ。
 そう、引いたのは。
 自分一人のようだった。
 周囲は『しょーがねぇなぁ香ちゃんは』という雰囲気に、苦笑したり、見守ったり、という反応だった。
 立ち返れば、それもそうだった。
 身内か、小さい頃からよく知っているか、の二択なのだ。
 気心が知れている、の、どまんなかをいく……家族にも近い人間関係。
 見守る、のほうの反応をしていた、弟と。
 空中で視線がからんだ。
 弟が。
 合図するように、姉をいったん、あごで示すようにして。
 あらためて笑いかけてくる。
 浮かべていた姉への親愛が、さらに一段、深まった微笑。
 薄桃の口のかたちや、茶色い瞳のかがやき。
『怒ってるとこ結構かわいー』
 と思っているような。
 なかなか大人の男っぽい、余裕ぶった笑み。
 それが滑稽で。
 表情をつくる意図もなく、笑い返してしまった。
 かわいいと思ってるおまえの方が、おそらくは、よっぽど。
 反射的にそこまで思ってから。
 ギシリ、体を固める。
 ――よっぽど、何、だって?

 次に手刈り作業をしなければならない田んぼまで、誘導しおえて、
「先にここ、刈り始めちゃってて、ください」
 あわただしく言いながら、弟はその場を離れた。
 田んぼの主人の手伝いで。
 車幅ぎりぎりの狭いカーブで、オーライオーライと運転補助をしてあげなくちゃいけない、らしい。
 急いでいるのか、ぎこちなく頷くしかないこっちへ、違和感を覚えた様子もなく。
 軽いフットワークで、コンバインの運転音のする方角へ、駆けていく。
 黄金色の稲の、草色の根へ。
 腰をさげ、ざくり、カマの刃をいれていった。
 だけど。
 まるで気分を、切り替えられない。
 ……たしかに。
 あれは、いい子だろう。
 いい息子で、いい弟で、いい若者。
 ――そんな。
 ――ただの一般的な評価、なんの関係がある?
 自分までそう思ってやる必要はない。
 ほんのわずかにだって情けをかけてやる必要はないのだ。
 あれは絶対に。
 壊していいものなんだから。
 自分の前の稲穂に、影ができて。
 背後のあぜ道に、人が立ったのがわかった。
 ふり仰ぐと。
 痩せ型の、暗い顔つきをした三十歳ほどの男が。
 白いスウェットに両手をつっこんだ、威張るような姿勢で。つまらなそうに見おろしてきていた。
「あんたが最近きた、アルバイト?」
 夜行性の爬虫類のような。
 光を嫌う、陰気な目。
 ……誰だろう、と、考え始めたタイミングで。相手が答えをよこした。
「聞いてねぇ? 典型的なニートの噂」
 自虐的な断定が、耳にとびこんでくる。
 ……特に『納得』を顔には出さなかったが。
 その静かすぎる反応によって。
 かえって、噂が伝わっていることを、察知されたらしい。
 相手は、ますます危なく暗い雰囲気を、黒く身にまとってしまった。
 なんとなく、うつ病の初期まで行ってしまっているかもしれない、と感じた。
 見たことがないケース、なわけでもない。
 とくに、大都市にはよくいる。
 社会に使いつぶされてしまった、ぺしゃんこになる寸前にある人間。
 ここ十年、いつもいつも、農家にもぐりこめていたわけではない。
 経験した短期アルバイトの数なら、多分そうとうなものになる。
 角から子どもが弾丸のように飛び出し、高齢者がよろりと出てくる住宅密集地を、過密スケジュールで走りぬけなければいけない配送ドライバー。
 拡大鏡をもちいた精密作業を、連日二十時間近く強いられて、食堂で腰がぬけたような崩れかけに座り、脈絡なく静かに泣き笑っていた工員。
 前日に介護でいためた腰がどうしても痛く、今日は入浴介助できないと訴えて『自分の配慮ミスよ!』『役に立たないわね!』と、年配の女上司にののしられていた、介護職員。
 退職に追いこまれる、は、まだ基本的な方だ。
 ギャンブルにはまりこむ、持病を悪化させる、精神病になる。
 坂をころがりおちる方の道ならば、いくらでもある。
「香さんが、さっき心配されていたのを、聞いただけですよ」
 一応、フォローをいれておく。
「いらっしゃる予定だったのに、来られないことになったって……」
「あいつの顔なんか見たくねぇし」
 バッサリと、切って捨ててくる。
「同じように地元に帰ってきた、同い年の女が。『お店までやってるって言うのに』……耳が腐るくらい引き合いにされる」
 無言のまま、耳を傾けて、相手を読みとろうとした。
「なんでそれが偉いんだよ。あいつがどれだけ自分を切り売、……」
 速いペースの愚痴が、唐突にとぎれる。
 失言だったかのように。
 口をつぐんだ。
 ……切り売る、なんて。
 そこまで過剰反応する悪口でもないはずだ。
 なにせ主語がない。
『体を切り売る』と言ったわけではないのだ。愛想を切り売る、プライドを切り売る、健康を切り売る、なんだってハマる。
 なのに。
 自分の口から出たことに、警戒したように口を結んだ。
 ……だから、察した。
 どうやら。
 不倫のことを知っている。
 しかも、かばうように口を結んだから――。
 こんな言い方をしてても。
 姉、に、あるていどの好意があるのだろう。
 幼なじみとしてか。
 女としてか、は不明だが。
 十年、渡り歩いてきた、人手をもとめる農家。
 どこの過疎地でも。
 田舎で、娯楽が限られるからこそ。
 身近な話題として『誰と誰が不倫している』と耳にすることも多かった。
 ただ。よくあること、だからといって。
 そういった噂は、十分にまずい事態だ。
 顔見知りばかりの閉鎖社会だからこそ、あっというまに火がつき、隅々まで駆けめぐって、知らぬ者はいなくなる。
 都会に比べて、古い価値観がはびこる田舎だから。
 男は結局、女を作ったのね、ていどで済まされることが多い。
 妻はもちろん被害者だから、責められることはない。
『独身の女』へ叩かれる陰口が。
 一番、被害としては容赦がないものになる。
 姉に。
 そういったバッシングが、始まっている様子は……まだ、まるでない。
 ぼんやり人間関係に、思いをめぐらせている間に、
「なぁ」
 耳のごく近くから。
 声が響いて。意識を戻された。
 ……相手が、いつのまにか田んぼの中へと、おりてきていた。
「このへん、ホントに最ッ低に田舎だろ」
 いかにも田舎を嫌っています、という調子で、同意を求めてくる。
『都会の方がいい』というのは……若いし、めずらしくもない好みだが。
 こっちはあいにく、育ちもこういった田舎だったし。都会にもさしていい思い出を持っていない。
「なんでこんなトコ、帰ってこなきゃなんねーんだか」
 すい、と。
 左手の指を、手に取られた。
「キャバどころか風俗もかなり行かないとないし、な」
 指と指のあいま、股のようになっている部分に。
 相手の人さし指が。
 その爪先が、たどり入ってきて。
「…………」
 不自然な接触をいぶかしんでいると。
 スルリ、と身を、擦りつけるように寄せられた。
 相手の服からの、洗剤のにおいが、鼻先をかすめてくる。体温が移りあう接触。
 人なつっこいとか、じゃれあう、ような態度には。
 さっきまで全く見えなかったのに。
 急に。
 あきらかに正常じゃない距離感へ。
 ……どう反応すべきか、と、考えはじめた時だった。
「原本さん!」
 はじけるような、弟の声がした。
 どこか切羽つまった『叫び』を含んだ、呼び声。
 見やると、あぜ道から両足でポーンと飛び降りて。
 そのままスニーカーで土を蹴りつけ、速く走ってくる。
「あの、ちょっと、手伝ってくれませんか! こっち、急いで!」
 目の前までやってきて。
 ヤス兄、と呼んでいたほど、近しいはずの男を。
 まるっきり無視して、こちらだけに訴えかけてくる。
 ……そしてヤス兄、との体の影に、かくれていた腕を。
 手さぐりにつかんできた。
 奥まっていて、視認できなくて、掴みにくかったはずの方の、腕を……わざわざ。
 ぐい、と、引かれて。
 おかげさまで『ヤス兄』の指は、ほどかれ。
 太陽のあたる場所へと、左手が引き出された。
 ……なんだか。
 絡まされていた指を、わかっていたかのような弟の行動。
 そのまま、弟に、ゆるまない力で、強引にひっぱられて。あぜ道へと、草を踏みつけザクザクと登る。
 無視されたあげく残される、ヤス兄、の視線を。後ろから感じたが。
 弟だって……感じているはずだが。
 なのに、まるで緩まない歩調。
 そのせいで、田んぼはぐんぐんと、遠くなっていった。

 ヤス兄、が視認もできなくなってからも。
 いまだ離されない、手首近くを輪ににぎってきてる、弟の手。
 感情が波立つのがわかる。
 今、もっともそばにいてほしくない人物。話しかけられたくすらない人物に。
 自分より高い体温も、細くはない指も、短く切り揃えられた爪の長さも、わかるほどに。無遠慮に、握りしめられている。
 さっき『こびる』を食べた、広場のようになっている場所まで来ると。
 はぁ、と息をつきながら、ようやく弟が、腕を離した。
 だらり、元のように垂れ下がる、自分の左腕を眺めながら、
「本当に、手伝うこと、あるんですか」
 平坦なトーンで尋ねると、
「……や、……いえ」
 弟は、もごもごと口にして。
 そんな、ためらうような様子を、数秒みせたあと。
 いきなりパッと。
 顔をこっちへ、まっすぐに向けた。
「さわられたんでしょ」
 問いただすような目が、太陽光にいつもより茶色に透けて。
 強く激しく、光る。
 しかも、やたらと確信している言い方。
「……ええ」
 ふせてやる義理もないので、事実を伝えると。
 弟は、ますます感情を高ぶらせたように、目尻をつり上げた。
 なんとなく感心する。
 ……こうして、あらためて。
 こんな表情で見ると、わかる。
 顔立ち自体は。
 きついイメージばかりが先行する姉に、似ているのだ、この弟は。
 にこにこしてたり、ぼぅっとしていたり、人の良さそうな愛嬌をふりまくから……ふだん、父親似のような気がしているだけで。
「よくわかりましたね」
 淡々と告げると、
「おれも、たまにやられるから。最近」
 複雑な思いを、ふんだんに顔に滲ませたまま返事してくる。
 情けなさと、もどかしさを、怒りで溶いたような、それ。
「男がそういう対象の……人なんですかね」
 冷めた視線を、ヤス兄、がまだいるはずの方向に、流しながら。
 どうでもよさそうに言ってみたら、
「違う」
 また断定的に、ピシャリと話を切られた。
「ねーちゃんの元カレだから、あれ」
 ……その情報で。
 ヤス兄、が見せていた、どこか陰湿な姉への好意に、なんとなく納得がいった。
 おそらく学生時代、は、自分の彼女だったのに。
 現在は仕事相手としぶしぶ不倫という、割り切った大人の穢れかたをしていて。
 一方では、小さいながらも店をやっていて。
 ひきかえ男なのに自分は、という。
 全ての感情が……どうしようもなく、ごちゃまぜになったモノだったのだろう。
 同時にもうひとつ、頷けることがあった。
 どうりで。
 こびるで、ニートと話題になりかけたとき、周囲の、すべての人の空気がおかしかったわけだ。
 こんな田舎のことで、つきあっていたのなんか。
 誰もが知っている『過去』で、だけど『よそものには話すこともない』、つまり『軽い秘密』なはずだ。
 ――地元の若い者どうし、結婚してくれれば、そりゃあそれがいいんだけど、どうも上手くいかねぇなぁ。
 そういう空気だったわけだ。
「アイッツ……。いいかげんにしろ、っつーの。おれにだけじゃなくアンタにまで……」
 変わってしまった兄貴分にたいする、いらだちを隠さない、口ぶり。
 この弟、に。
 危機感を抱かせるような――さわり方。
 手の出し方をしたのは、うなずける話だ。
 そもそも生まれつきが、清潔感にあふれる、端麗なつくりをしたハンサムで。
 女性的、というのではないが。
 まだまだ男くさくなる……までは程遠い、未分化さをそなえた年頃。
 男同士、というハードルが、非常に低い。
 歴然とした、性器の違いさえ無視できるなら。
 性欲対象にじゅうぶんなるだろう。
 けれど、いざそうしてみたら。
 当然だが……相手から、拒否されているところに。
 新たな男があらわれて、もうコレでもいけるんじゃないか、と、大胆な見切り発車をしたわけだ。
 しかし、こんなにデカイ、丸坊主に近い男にすりよってみるとは。
 ずいぶん追いつめられてる……『寂しさ』だ。
「原本さん?」
 ……ああそうか、姉がさっき『また来ないって』と拗ねていた。
 未練があるのは。
 ヤス兄、だけではなく。
 姉の方だって……、らしい。
 そんな姉からの、積極的な感情に、巻きこまれそうで。
 だけど不倫を割り切れる、もう見知らぬふうになってしまった相手が怖くて、という揺れがあり。
 そこに……他に若者がいないという悪環境下も、加わって、あの。
 よりによって同性、への暴走になってるのだろう。
 声をかけられてから数十秒もたってから。
 弟に、視線をあわせると。
 不思議そうな、問いかけてくる光りかたの茶色の目で、見上げてきていた。
 もう、すでに、けわしさが抜けきった。
 凪いだ瞳。
 やっぱり父親に、性格は似ている。
 お人よしな。田舎の親しさ。のんびりとした、この温厚さ。
 ……なんなら今度、ヤス兄をこっちから『さわって』みるのもいいか、と考える。
 おぞましいような気もするが。
 この家族への。
 細かなイヤガラセになるならば、願ってもない。
 男の性器をさわったり、舐めすすったり、挿入されるくらいは。
 そんなことを企みながら、
「お姉さんのために、私を守ったんですねえ」
 放てば。
 ビクッと、驚いたように、肩幅をせばめた。
 言い方が、すこし冷たかったか。
 ふだんは敬語の上から、穏やかさ、を塗りたくって……演技してるから、無理もない。
 アレも疲れるんだが。
「お姉さんのこと、ずいぶん大切にしてるんですね」
 そんなに大事にしてるなら、今度、家族が寝静まる深夜に。
 強姦でもしてみるか、とも思う。
『不倫のことをバラされたくなければ』とでも言えば、案外。
 被害をだまっている可能性はある。
 実行しようとは思えないが。
 力であきらかに劣る女を……暴力で……と。
 ――自分の手だけを、そんな種類に穢されてしまうのも、不公平な気がするから。
「だって、それは……」
 予想外な質問を受けた、と、たじろいでいる。
 低く見おろすしかない体格。
 青いメッシュのキャップからのぞく、太陽に金に透ける、痛みやすい髪。
「女、だし」
 そうでしょう? とすがってくる。
 薄茶の目。
 その土台は、白い首だ。
 中は、折ることのできる一本の骨なはず。
「守ってあげなきゃなんないでしょ。できるかぎりでは、さ……」
 ……ずいぶん旧い考え方だ。
 悪気も差別もない、どちらかと言えば、圧倒的に愛情からきているのは、わかるが。
「お姉さん、十分しっかりなさってるじゃないですか?……不倫もしてるし」
 わらえる。
 そんな内心を匂わせて、こぼせば。
 相手はムッと、目を細くした。
 しかめられた眉。半眼以上にたれ下がっている、まぶた。こっちを切りつけてくる輝き。
「なにそれ」
 男の子の怒り、よりは、もう少しズシリとした質量を持って。
 ぶつけられてくる敵意。
 そのみなもとは愛情で。
 ……女の姉妹を、女だからと。
 無条件に守ってやらなければ、と、自然に思っている姿。
 笑える。
 それは、いつかの。
 あのとき手が届かなくなった昔の。
 自分のようで。
 ざく、と草を踏みつけ、一歩ふみだすと。
 弟が、反射的にのけぞった。
 後方へのめった体重をささえるために、かかとで後じさった。
 追いつめるよう、ますます足を踏み出してやる。
 押されるままに後ろ歩きしてゆき。
 木の根に、カカトでつまずきかけて、ようやく。
 がくり、膝を落としかけながら、弟は停止した。
「おれも」
 顔をぎりぎりまで寄せて、囁く。
「常に旅行してるような生活ですからね。ずっとヤッてないんですよ。ヌける店にも、行ってないし」
 みはった目でこっちを見っぱなしの。
 優しい色素をもった眼球。
 つい、愛しくなるような。
「かわりに相手でもしてくれますか」
 かするような至近距離で、パサパサ、まつげが速く上下している。
「手でしごかされて、喉こすられて、胃にぶちまけられて」
 ジーンズの上から、性器に。手先をあてて。
 親指のもととで、挟み。
 痛みを与えないように、やわやわ揉みしだいてやる。
「股に、ぶっとく勃起したモン、つっこまれてみます?」
 白い皮膚に。淡い色でも、華やかな唇。
 ふれあう、その瞬間に。
「……ッ!」
 相手の鼻に、むちゃくちゃにシワが寄るのがわかった。
 おさえつけた肩も、震えだしそうなほど緊迫しきっている。
 そんな態度と比例して。
 まるまり、歯奥へと縮こまっているベロ。
 すばやく舌先を潜りこませたのに、まるで捕まえられなくて。
 わずかに唇を離し。警告した。
「舌、しまうな」
 ……そう口にしたとき。
 急に。
 自分のすがたが映りこんでいるその茶の瞳に。
 反抗心が、再燃するのがわかった。
「っと……」
 察知して一歩。続けて一歩、退く。
 ……ブン、と風を切る音が。
 さっきまで自分がいた空間を、走った。
 ダメージが逆流する、蹴り上げられたら一番、ぶざまに跳ねまわるしかない箇所を。
 膝で狙われた。
 ――さすが男同士だな、と。
 妙な評価を与えながら。
 よいせ、と、腰をのばして立ち。
 弟をまっすぐに見下ろした。
「戻ります」
 宣言するように、そう告げると。
「……っ?」
 狂人を見るような目をするので。
「手刈りが、終わってないんで。……もうあの人はいないんじゃないですか?」
 男を誘うために戻るんじゃねぇよ、と。
 補足に、口を動かしてやれば。
 弟は。
 ほっと、安堵の色で。瞳を柔らかくしたが。
 次の瞬間。
 戦慄したように。
 また目も、今度は体も、ガチガチに硬直させた。
 まるで、腐乱しきったあげく立ち枯れる。
 林檎の死病にとりつかれた木を、手遅れに見たように。

 ◆

 ざくっ。じゃくっ。
 日暮れ寸前の、斜陽につつまれた空間に。
 林檎畑の地面を埋めつくす、銀色のマルチシートと。その下の草をふみつける、足音が響いてきて。
 林檎の玉回し――太陽が当たり赤くなる面を、入れ替えるため、クキをひねる作業の手を止め、
「……おかえりなさい」
 ゆったり口にしながら、振り返ると。
 赤い夕日を背負って、立っている、
「あ、はい……。……」
 学校から帰ってきた弟が。
 なんとか、という感じで、返事をしてきて。
 ふらふらと、上の空な足どりで。遠くの林檎の木を、目指して進んでいく。
 あきらかに。
 こちらを避けている。
 昨日あんなことをしてしまえば……当たり前だが。
 さすがに調子にのりすぎた。
 いくら、一番親しげにしてくる、馴染ませようとしてくる、ムカつく人間で。
 しかもガキとはいえ。
 だからこそ、めそめそ怖かったよぅ、と。
 父親に泣きつかれたら、元も子もないのに。
 ……まだ、殴ったり、姉の不倫を言いふらすと脅したり、をやってしまう方が……よかったかもしれない。
 今、この家からほうりだされることになったら――泣くのはこっちなのに。
 どうなだめて、いいわけして。言いくるめるか。
 それこそ靴くらいならナメてだってやるんだが。
 実際、そんなことされても喜ぶ変態、いやしないし。
「あの」
「はい?」
 没頭を中止して。
 せいぜい目尻をゆるめた、無害な顔つきで、くるり身を反転させる。
 あんなマネをした以上。ガキ相手とはいえ、どこまで通用するかはわからないが。
「ジョナゴールドの畑の、フラン病の感染予防なんですけど」
「あぁ、はい」
 数日前、収穫を終えたジョナゴールド――メイン二品種のうちの一方、だが『ふじ』よりかなり少量しか育てていない品種の、畑は。
 今は、ひとつの実も残さず。
 来年の収穫へとそなえて、本格的に花芽をたくわえる季節に入っている。
「土曜日に、みんなで、まとめて木の手当てしようと……思うんで。明るい朝とか昼とかに、ざっと見回って。フラン病にやられだしてる箇所がないか、チェックしてみてくれますか」
「わかりました」
 フラン病は、空気でうつっていく病気だ。
 剪定された場所や、樹皮の傷から、菌に感染する。
 茶色がかる変色からはじまり、ついにはまっ黒に。
 枝から幹まで、腐乱しきり、枯れてしまう。
 林檎の木が死ぬ。代表的な病。
 やたらと、うつむき加減で話してくる弟へ。
 今度はこちらから質問する。
「穴も掘っておきますか?」
「あ、いえ、それは……。いいです」
 じっと、まつげのあたりを見下ろしていれば。
 合わない目線が、右へ左へ、ちろちろと泳いでいるのも、わかった。
「燃やします?」
 菌がまわりはじめた部分を、切るか削るかして、さらに薬を塗っておくのが主な手当ての方法。
 そして、切った枝や、削った木くずを。
 地面につみあげて放置しておこうものなら、そこからまた、菌が蔓延してくるので。
 深く地中に埋めるか、燃やすか、が、フラン病のセオリーだ。
 あえて平和の上をすべっていこうとする……会話を続ける。
「いえ、うち今、紙おむつを濡らして、テープで巻きつけるやつで対処してる、んで……」
「あぁ、そうでしたか」
 わりと新しい、フラン病への対処法だ。
 水の力で患部を、ばんそうこうのように密閉して、菌の活動を弱めていく、らしい。
「…………」
 指示が尽きたのか、黙りはじめた弟に。
「……豊くん、言いたいこと」
 墓穴かもしれないが、
「あるでしょう?」
 こっちから切り出してみると。
 ピクッと、二つのほくろがある、首筋が、波打った。
 今朝、顔を合わせた姉も、さっきまで一緒に仕事をしていた父親も。
 ふだん通りに接してきた。
 ……何か、この弟に、相談されたそぶりはなかった。
 なんで家族に打ち明けない、のだろう。
『あの人、なんだか、オカシイよ』と。
 へたに攻撃して、不倫のことをバラされたら、という心配があるにせよ――。
 そんな噂、しょせんはよそ者の言うことだ。
 でたらめだと否定して回れば、表面上は……鎮火もするだろうに。
「なんか、あの人にああいうことされて、混乱してしまっていて。よく覚えてないんですが……ひどいことを」
 どうして、……こっちには有利なことなんだが、口をつぐんでいるのか。
「いや、……――た」
「はい?」
 えふん、はふ。
 咳こみがちに、弟は、息を吐いて。
 そして吐ききってしまった後、また吸ってる。
 ものすごく言いにくそうに。している。
「タマってた……のかな、って」
 ギロ、と。
 速く眼球だけ動かし、白目をむいて、視線をぶつけた。
 網膜の中央に映るのは。
 少し赤面した、若々しい、少年の面。
 ――ぶはは、と。
 大口をあけて吹き出してしまった。
「……なんで笑うー?」
 不服そうな拗ね顔で、ひょいと見上げてくる。
 だって。
 あまりに見当違いで。
 たかだかたまっているだけで、あんな脅しを吐く、キレてみせる、という可能性があるんじゃないか、と――。
 思い当たってみるところがすごい。
 年相応にガキだ。
 この年齢にもなれば、それだけで不安定になったりしないものだ。
 たったそれだけで、あんな足元が危うくなるようなマネ。
 ようやく、この場所に。
 このスタンスに、潜りこんだのに。
 ……まだククククッと笑いの余波にひたっているこちらに。
 えい、えい、とパンチを入れてくる。
 いかにもテレ隠しな、まるで鋭さのない、単なるじゃれあい。
 もう。すっかりと、無用心なようす。
 キスを無理矢理されたくせに。
 同性どうしの気安さで、『まぁ酒に酔ってたようなもんだろう?』と、すでに忘れていっている。
「っすいま、……痛、ってか、くすぐったい、やめてくださ……」
 ――あの敵意をといちゃ、いけなかったのに。
 警戒されていれば困るのは自分のくせに。
 優しい紅色の太陽光のなか、憐れむように、そう思った。

 ◆

「大根に混植してる、この、オレンジの花のやつとか」
 解説を加えながら、父親が。
 野菜の株にまぎれて育っている、花のついた草をしめす。
「はい、これはマリーゴールド……ですね」
 半球形に花がほころびていて、ポップな印象を与えてくる。
「なんせ、農薬が使えないからねぇ」
 コンパニオンプランツと言って。作物と共に植えられるものだ。
 防除――防虫効果がある、匂いの強いハーブなどを、一緒に育てることにより。
 本命の、野菜のほうの、虫や病気を、抑えるねらいがある。
「マリーゴールドも、ハーブでしたよね、確か」
 畑の手伝いをするときに、万が一、雑草なのかと思って始末してしまわないように、と。いちいち教えを受けている。
「うん。これは、匂いの他にも、根から、土をちょっと殺菌してくれる成分が出るんだよ」
 咲き誇っているものも、しなびきった花も。観賞目的ではないから、平等に放置されている。
 目が醒めるような色の花びらがフリフリと重なって咲く、ハーブの一種。
「で、こっちのナスに交ざって育ってるのは〜オクラだから」
 さく、さっ、と畑の土をふみしめながら。なおも作物のあいだを、父親は進んでいく。
「はい。……あ、オクラの方にも、実ができてますね」
 すじばった筒状で、黄緑色な、オクラの実。
 中指サイズのものが確認できる。
 傷なども、ぱっと見は発見できず、よい状態だ。
「うん、オクラは夏のもんだから、さすがにそろそろ終わりだけどねぇ。これも無農薬野菜でお店に出せたから〜助かってるんだ。マリーゴールドとかだとさ、野菜じゃないから……お店で料理には、使えないもんね」
 どうやらクセらしい、父親は、首の後ろに片手をあてて、
「けっきょく、このナスとオクラの組み合わせが、一番いいかもなぁ。ナスのために植えてるんだけど。ちゃんと、オクラも収穫できてる」
「そうなんですか……」
 ぶなんに頷きながら、あいづちを打った。
「ナスにつく虫へ、オクラにつく虫を、ぶつける……。ええと、天敵を利用するタイプの、コンパニオンプランツ組み合わせでね。オクラには油虫がどうしても出て、それを狙って『ヒメハナカメムシ』がつくんだけど。それはナスにつく『ミナミキイロアザミウマ』の天敵でもあるんで、食べてくれる」
「そうなんですか……ありがとうございます。勉強になります」
 いかにも真面目な農業青年ふうに、礼をのべる。
「で、すまないけど明日、このあたりの雑草、手作業でむしってもらえるかな。機械じゃね、野菜ごと丸刈りになっちゃうから……」
「わかりました」
 無農薬野菜のほうは、病気や虫にやられだしても、薬は使えないため。
 油断も隙もない、ということで……毎日、父親が、熱心にめんどうをみているのだが。
 さすがに手のかかりようは尋常ではないようだ。
 そこまでやっても結果は。かじられた傷や、ちょっとの病気での変色まみれで、虫に汁を吸われて変形もしていたり、な野菜になるのだが。
 実は、お嬢様育ちもいいところで栽培された……野菜たち。
 そんなに育てにくい無農薬野菜だが。
 最近、いよいよ本腰をいれて、父親は増産準備をしているようすだ。
 林檎のほうは、弟に任せられるだけまかせてる状態。
 多分。あの、姉の店の。
 無農薬野菜じゃない方が多い、グレーなメニュー表を、改善してやりたいのだろう。

 無農薬野菜の栽培指導をあおいでいる、近所の人の家へ、寄るという父親と。
 別れて一人、帰路につく。
 山間部の日没は、せまってきたと思ったら、山の背後へと終了している。
 その寸前の、もう闇に落ちかかっている景色の中、ゆっくり歩をすすめていく。
 だんだんに深まっていく秋。
 虫の音も、少しずつ減ってきたような気がする。
 林檎も、ジョナゴールドの収穫は終わった。
 最高の代表格である、ふじの最盛期が、まもなく訪れるだろう。
 苦労をその時ばかりは忘れて。
 どうしても笑顔にさせられる、あの。
 紅い玉の幸福が、乱れ咲くような世界が、やってくる。
 シャーっと坂道をおりる、自転車の車輪の、空気を爽やかに裂く音が、近づいてきた。
「原本さーん」
 見えてきていた門から、視界を、後方にうつすと。
 外灯がほとんどない田舎道、視界がきかない逢う魔時にふさわしく。チャリにライトを灯して、弟が帰ってきていた。
 ブレーキをかけ、サドルからおりて。
 あたりまえのように、隣に添ってきて、歩きだした。
「父さんは?」
「無農薬野菜の指導を、受けにいかれましたよ?」
「あー。種類ふやすもんなぁ」
 会話をしながら、くぐる。開きっぱなしな黒柵の門扉。
 自転車をとめに弟が、庭のはじに向かうのを、待っていてやる。
「部活……忙しくなってきたんですか?」
 無言でいるのも、無愛想だから。
 たわいもない会話をふってみた。
 素朴に、疑問なことでもあった。
 なんの部なのかも知らないが、昨日も、わりと帰りが遅かったのだ。
「え?」
 ギッコ、と足で、チャリを停めながら。
 きょとんとした横顔をよこしてきて。
 すぐに納得の表情になり、
「ああ、部活で遅くなってるんじゃない、よ。放送部だったけどー幽霊だったし、とっくに引退状態だもん」
 説明しながら、さっさと歩み寄ってくる。
 鍵など、かけない。
『こんなところまで自転車一台、わざわざ狙って盗りにくるわけない』
 そういう全く研がれていない、ユルユルの防犯意識だ。どこでも、田舎なら変わらない。
「これは、クリスマスに……。学校行事って言うか、ほとんど近所の子どもに見せるための、近隣行事なんだけどさー。ミニ学園祭みたいなのがあって。お芝居も一本、やることになってる、んだ」
 また、かたわらにやってきた弟と、一緒に進みはじめる。
「それに出なきゃいけなくて。今回は、『銀河鉄道の夜』やるんだけどさ」
「銀河鉄道ですか。……ここは作者の、地元ですもんね」
 うん、となぜか沈んだ声で、弟はうなずいて。
「じょばんに、やれって言われて」
「大役ですねぇ」
 ジョバンニといえば、当然、主役だ。
 だから、おだて気味にそう言ったが。
 ほわほわと髪を揺らしながら、弟は、困ったように首を左右する。
「裏方の方がよかったんだー。どーしても放課後に練習ってことになるでしょ、そうすると、早朝中心の仕事になって、眠いから……。それに。おととしも去年も、役やらされたんだけど。セリフとか、全然おぼえられないの、おれ」
 そして手にさげた自分のリュックを、少し持ち上げて、
「『台本読みこんできてくれれば大丈夫』って、監督役の女子に言われてんだけどさ。読みこむって、どーすりゃいいんだか? 台本ぶつぶつ音読してりゃーいいのかなぁ、一人で? そんで覚えられたり、うまく演技できるよーになる気、ちっともしてこねーんだけど」
 やや、うんざりとした態度で、愚痴る。
「中学の頃、私も、役やらされたことがありますね」
 仇敵の家の娘に惚れたくせに、刺殺事件を起こしたあげく、慌てすぎて心中という結末を迎えさせることになった。若い男の役。
 食卓で、そう報告したら。
 あの子は『すごいね』と言ったが。
 アホの役じゃねぇか、と内心で思っていた。
 そんな気分だったから。
『家で練習するなら、相手役のセリフ、読んであげるよ』
 と続けて言われても。
『ジュリエットって顔な?』
 と、悪気なく、笑ってけなした。
 本当は、顔だちの問題じゃなかったのだ。
 おとなしすぎるほど大人しくて、内気で、人見知りのはげしい。
 日本の古い農村、そのまんまみたいな性格だと、熟知していたから。
 どうやったって、外人の貴族少女には見えなくて……ギャップが、おもしろかったのだ。
 幼稚園からずっと変えていない、セミロングのボブの髪型だって。
 もともとの髪質のせいで、とても茶色いのに。
 どうしても、自分の目には、おかっぱみたいに映っていた。
 ……過去のシーンを、じくじく思い出しながら、
「誰かに相手役をやってもらって、かけあい……読み合わせるのが、いいんじゃないですか。そうすれば、呼吸とかもつかみやすいし、熱も入るでしょうし」
 伝えてしまってから。
『ぁ』と。
 小さく小さく、喉でうめくほど、後悔した。
 しまった、こんな事を、言ったら。
 こいつのことだから。
「あーそうかぁ……」
 ぱっ、と、振り仰いできて。
 合わせられる、素直な目。
「つきあってくれる?」
「いいですよ」

 ◆

 古新聞紙を、一枚、畳いっぱいに広げて。
 あぐらをかいたまま。その上に頭をさしだす。
 スイッチオンと同時、手のなかでジーッと鳴り出した、電動バリカン。
 それを適当に走らせて、五ミリ残しの丸刈り。
 まんべんなく頭に、すべらせれば終わる作業。
 一番。散髪代も、時間もかからない。
 もう十年近くやっている週一の習慣だ。
 スイッチを切って、バタバタと髪くずを払い。
 しあげに、濡らしたティッシュでごしごしと、頭をぬぐっている時、
「原本さーん」
 ぽすぽす。
 しまらない、ちゃちな音。ふすまへのノックがあった。
「はい、どうぞ」
 ティッシュを新聞紙の上に、投げ捨てながら返答する。
「……あ、散髪中?」
 ガラッ、とふすまをスライドさせた弟が。気づかうように言ってきた。
「いえ、もう終わりましたよ」
 切った髪ごと、新聞をガサガサと丸めながら答えた。
 用件の察しはついているので、腰をあげる準備する。
「えと、これ」
 予想どおり。
 いかにも手作りらしい、紙の四隅がそろっていないガタついた輪郭の、コピー用紙で作られた台本を。
 弟は、さしだすように見せてきた。
「練習しますか? いいですよ」
 壁にたてかけてあった座布団を、手に取りながら、了承し、
「そこに座ってください」
 一枚だけの座布団を。
 自分が座っていた位置の、対面に、ぼふんと置いて勧めると、
「うん、あの……」
 弟は、座ろうとはせず、
「まだそんなに寒くないから……外で。林檎畑で、やらない?」
 そんな提案をしてきて。
 ほんのり嬉しそうに、唇で笑み、窓のほうに視線を投げる。
「ちょうど星、きれいなんだ」
 つられて、人工の明かりがほとんど存在しない、窓の外に目をやる。
 田舎だからこその恩恵。
 白点に、赤点に、空にきらめいている星座。
 昔。その童話の作者自身も、この土地から。
 首を背後へそらして、眺めやって。
 そうして星空を駆ける列車の物語を。書き上げたはずの。
「そうですね……」

 自分を中心として、ゆるり、円描きに巡っているような。
 まさに天いっぱいをキャンバスにした、満点の星。
 光の涙のように潤む星々。
「きれいですね」
 林檎畑の入口、雑草をスニーカーで踏みつけ。
 真上に顔を向けたまま。そう同意してやる。
 田舎の夜空なんて、昔から見慣れているはずだが。
 もう何年もまともに……眺めてなんていないから。
 たったこれっぽっちの感慨でも、ひどく、贅沢に思える。
「うん、なんか……リアルに走ってそうだよね、鉄道」
 アイボリーの、ふかふかしたフリースパーカーをはおった弟が。
 なんでもない物言いで、夢のあることを口走った。
「作者が見てた星空、そのまんまなんだからなぁ。少しはセリフ、覚えやすくならないかなー」
 よっぽど記憶力が不安なのか、ちょっと元気なく。
 願かけのように、夜空へ呟いている。
 懐中電灯をたよりに、二人まとまって座れる、たいらなスペースを探し出した。
 弟がのびのびと足を伸ばしているうちに、ポケットから、黒革のめがねケースを取り出す。
 両端から畳まれた、めがねのつるを。指先で、丁寧にほどく。
 フレームからだんだん、さびが出てきてしまっている……古びためがねだが。
 慎重に扱っているせいで、十年もっている。
 視力はとっくに合わなくなってるのかもしれないが。
 十分見えるし、金もないし、なにより手放す気にならないものだった。
 街に出て、ショッピングセンターでそれぞれの用事を済ませた日曜日。
 少し本屋によっただけでヒマになってしまったらしかった。
 人ごみが苦手だから、木影に隠れるように、そばに寄ってきた。
『四角いのだと、こわいよ、丸めのフレームのほうがいいよ』
 めがねを試しにかけて、顔を映していた鏡を。横からのぞきこんできて、言った。
 かなり丸みを帯びた銀色の、このシンプルなフレームを選んだのは、あの子だった。
「あ。出た、めがね」
「はい?」
 首をひねって、視線をぶつけ、問うと、
「新聞、居間で読むとき、こぅ、スチャ! ってかけてるでしょー」
 はしゃぐように弟は、モノマネで再現してきた。中指で、めがねの中央を押さえるしぐさ。
 ……新聞を自室にもちこむと。誰かが読みたいとき、当然『誰が持っていった?』ということになる。
 それは捜索という不便さを生み、つまりそのぶん、わずかながら不興をかってしまう。
 居候としてそれはまずい、という予防線で、居間で読んでいる。
 家族団欒にまきこまれることがままある……あんな場所で、目を通したくなどないのに。
「……『う、かしこそ、なんかトク』と思ってたんだ。おれがかけても、なんかーそんな風に見えなさそうで」
 それは仕方ないだろう。
 実際、あんまり勉強が好きではないわけだし。
 なぜか、見た目でも、そうとわかる子なのだ。
 顔が……黙っている時、や……怒っている時はともかく――。
 ほのぼのとした、父親そっくりな。おひとよしそのものの、ホケッとした表情をするからだろう。
 台本を、片膝にのせて。
 半分こちらに分け与えるように、いっぱいに開きながら、
「でもさぁ、なんか、人がジョバンニなのって、違和感あるよね」
 弟が妙なことを言うので。
「え?」
 おもわず裏返った声が、出た。
「ジョバンニとカンパネルラって、おれにとっては猫なんだけど」
 首を斜めにかたむけながら、理由を説明してくる。
「だから、最初に台本で見たときは……不思議だった。なんで人間なんですか? って。けどー、もともと、原作は人間なんだってね?」
 そういうふうに映画化されたことを、知っていたので。
 わざと断定的に、予測をぶつけてみた。
「学校でアニメみたんでしょう」
「……うん」
「映画鑑賞会で、小学校のときに」
「…………うん」
「単純ですね」
 うう〜、と。
 反論がないらしく、隣で、頭を抱えて、悶えだす。
「ってさ、学校の国語とかでも、やらなかったんだもん」
 そのうち、拗ねぎみに、文句をつけた。
「そうですね。学校教材にでもならなければ……あまり、原作そのものは、読まれない話かもしれませんね。私も、高校の頃は、あらすじ位しか覚えてませんでした」
 全編を通して、しっかりと読んだことは。
 実は、大学生になるまでなかったかもしれない。
「原本さんでもそうなんだ」
 なぜか。
 頭がいい、あるいは、勉強をしそうだ、と思われているようで。
 弟が、意外そうにこちらへ、瞳を上げてきた。
「だって試験とかには出ないでしょう……銀河鉄道のような、易しい、小説。だからどちらかと言うと。趣味として読まれる作品だと思いますよ」
 そうまとめると、
「うーん、そっか」
 ぱらぱら、風の音を立てて。
 納得の返事と共に、弟は、膝の上で台本をめくりつつ。
「じゃ、最初から。ナレーションも含めて、お願いします」

 ◆

 姉が作っていった弁当を食べ終えて、レジャーシートの上、魔法瓶の茶をすすっていた父親が、
「原本さん、今朝の、新聞よんだ?」
 と、ぽつり言い出した。
「はい。……ああ、温暖化の記事、ですか?」
 隣で同じように休息しながら、言葉を返す。
「うん、北海道のお米の記事ね」
『穀物検定協会』という機関が、発表したデータについての記事。
 大粒で、虫にかじられた傷がなく、病気や虫の影響で黒がかったりしてない――つまり、できがよいとされる『一等米』などを、検査して認証する機関だ。
 その一等米を、高いパーセンテージで耕作できる産地として。
 北海道が、全国ランキングの中で、どんどん上位にあがってきていて。
 品種はコシヒカリではないが、値段が安いため、スーパーなどでも人気である、という記事だった。
 昔は。北海道産の米といえば、味であきらかに劣る……まずいものだった。
 いくら価格が安めでも、味で勝負にならなかったのに。
 春でも雪が残り、夏にも暑くならない、という。
 米作りに適した気温を、本来なら、かなり下回るはずの産地。
 今、北海道で実るのは、もちろん……じゅうぶんに品種改良された米だが。
 温暖化も基礎にあるからこその現状なのは、まちがいのない事だ。
 だから、かわりに裏側で。昔の名産地が、高温による、病害や虫害に悩まされているという状態がある。
「北海道のお米が『どこのより美味しいかも』って、言われかねない、この頃なんだもんなぁ。『岩手の林檎はマズイ』なんてことにも……いつかはなっちゃうの、かなぁ……」
 人間でも活動できなくなるほどの猛暑に、木陰や屋内に避難できない植物も、毎年おそわれている。
「だけど、政治家がさぁ。温暖化は困るだろう、もっとエコな生活しろ、ガソリンは使うな〜。とか……よく言うけど。そんなこと言われても」
「無理ですものね」
 意見を交わすまでもない事実なので、さっさとケリをつけた。
 エコな生活、といっても。
 この父親なんかは……ほぼ極限までエコな、野菜の自給自足もする生活をしているし。
 ガソリン等はまた話が別になる。
 農作業のための機械や資材、肥料を運んだり。作物を出荷したりするための、軽トラック。
 草刈り機や、病気の木を切りたおすチェーンソーや、野菜畑をたがやすトラクターの、燃料。
 そういったものまでエコのためだと使わないようにすれば、商売ができなくなり、必然的に生きてはいけなくなる。
「どうも今の首相……って言うか、内閣。すごく嫌だな〜。まぁ、政治なんか、いつも酷いなとか、嫌いだとか、感じさせられてばっかなんだけどさ」
 実年齢より明らかに若い、丸く陽気な顔立ちを、
「とくに今の、血がかよってない……みたいな、感じが、するよ」
 愁嘆で曇らせる。
「運輸業……漁業……小売業……。石油高騰でどこも悲鳴あげてるのに、おかまいなしでしょ。手だって打たないし〜」
 ふう、と、片膝に、頬づえをつき。
 抱いていて当たり前の不服を、父親は、ならべ続ける。
「おまけに……。『ガソリン税なくすなんて、とんでもない。ガソリンが上がって、ガソリンを買えないようになるなら、温暖化がストップして、とにかくいいことなんだから』とか……言うんだもの」
 語っている内容のわりには。
 声の、空気への広がりかたが、どこか無邪気だった。
「ひどいよなぁ……。ずっとお役所でエライ人やってて、商売やったことないと、ああいうこと言えるようになるのかな?」
 切実に怒っているはずなのに、困っているはずなのに。
『誰かを憎んでいる』という……毒気がない。
 弟――豊にも共通している。
 人柄、か。
「オーベルジュさんに直売する林檎をね……たのんでる、運送会社の人も。今年の『ふじ』の収穫分についてですが、毎年やってた割引サービス、今年からはできませんって。今朝、電話で言ってきてさ」
 一緒に畑に出てくる前、型の古いFAXつきの電話で、応対していたのを思い出す。
「納得するしかないものねぇ。事情なんか想像つきすぎるもんね、お互いさまだから」
 要するに、順番が逆なのだ。
 今の経済活動すべてに、ガソリン――石油は、関わっている。
 これまで世界が、経済が、なにより政治が。
 そんなふうに石油を基本とすることを……よしとして、活動していたのに。
 突然、それを使った生活はやめていけ、と宣言されても。
 まだ代用となるものが、開発されていない、ありはしないのに。どうしろと言うのか。
 おまけに。
 CO2排出への、批判や時流を厳しくすることで、車や機械の『使い手側』が、新たな機械をせっぱつまって望み。
 それにより『メーカー側』が本腰をいれて開発を急ぐという、波及の効果を狙っている……だけなら、まだしも、
「ただでさえ、農家って、痛めつけられっぱなしだもんね。だから国を信用なんてできてないし。で……あんな税の噂が、出るんだろうなぁ……」
 農家は――育て守ってきた畑も、栽培技術へのプライドもあるだろうし。
 サラリーマンとは違って、いままでの技能を生かした転職口はないはずで。
 だから追いつめるだけ追いつめても平気だ、なかなかやめやしないだろ――。
 ……という計算が、みえみえの政策を。
 昔から、この国はとる。
 そんな前科があるから、今、農業関係者のあいだで。
 まことしやかに囁かれている。
 新たな、税の噂。
「うちは、林檎は、外だし……。雪のあいだの野菜用に、ハウスがひとつあるだけだけど」
 CO2排出権取引――この生産量ならばこの量のCO2を排出してよい、と許可された権利を。
 ビジネスとして金で売買するようになった現代だ。
 すでに大規模な工場では実施されているソレの理論が。
 いずれ一般農家にまで、その手を伸ばしてくるだろう、という噂。
「その税もいつ始まるかわかんないし……。近所の、切花農家の人がねぇ。今年いっぱいでやめることにしちゃったんだよ。どっちみち、石油の値上がりが激しくて、もう暖房費が出せないんだって……」
『ビニールハウス暖房』に使った、A重油――石油燃料量を。
 届け出させて、そこに課税してくるかもしれない、という噂。
 ……どのみち燃料の購入費は、経費として報告するものだ。
 その分を利益から引いて、そのうえで税計算をしてもらわなければ、立ちゆかなくなるので。
 だから『買ってない』とごまかすことはできないし。
 A重油は非課税なので『別の用途で使った』と言い逃れるのも……それが違法扱いとされてしまうので無理だ。
 だから悪いことに。
 課税のシステム自体は、たやすく組み上げてしまえるのだ。
 国にとっては、CO2排出の削減努力を、より厳しく促せる上に。
 ついでとばかりに税金まで取れる、良いことずくめの策だ。
 その増税をいつ、押しつけてくるか知れない。
 実際。ちょうど買い替え時期に、最新の電気自動車を購入できたため、国や地方自治体からの補助金をもらえた農家に比べ。
 まだまだ古い車に乗り続けていかなければならない農家は、すこし重税……と言える状態になっている。
「国内で一年中、暖房かけて育てるより。SF映画のコールドスリープみたいに、低い温度で保管しながら、空輸してくるほうが、CO2排出量は少ない、っていうのは、わかるけどさ。だからおまえらは泣け、黙って失職しろ、ってことなんだよね……」
 魔法瓶のフタをまわし閉めながら、父親は遠くを眺めつつ、しゃべる。
「この間、お手伝いに行った米農家だってねぇ。春先に……苗をビニールハウスで作らなきゃ、田植えができないのになぁ。外じゃとても育たないし。なんかどんどん、農業って、追いこまれていくよ」
 そして、父親はよっこいしょ、と、低くうなりながら。
 膝頭に手を当てて、立ち上がる。
「国は、輸入物のほうが安いんなら、まぁそれでいいや、って態度だし。消費者は……少しは国産とか安全に、こだわるようになってくれたのはい〜けど、なったらなったで……『で、無農薬?』とか平気で言うしさー。農協にだって売れるような普通のもの、無農薬でなんて、できるわけないのにねぇ?」
 もう笑うしかない、という調子の。やけくそに明るい響きとともに歩みだす。
 それでも少しイライラと、左右に小刻みに、揺れている背中。
 汗を吸った部分が、点々と灰色な、長袖Tシャツ。
 日本の農作物は、戦後しばらくから、農協がすべてを管理していた。
 農協が全生産を買い上げて、農協が市場に出す。今現在でさえ、ほとんどそうだ。
 その農協が、
『ジュース加工などをしない、このままで、売り物になると認めます』
 と許可する、平均的な基準が。
 サイズは中以上、傷は最小限、色はまだら部分もなく良いこと、病気はもちろん少しもなし、形のゆがみも許さない、と。歴然となっている。
 つまり、それが。
 今の日本人が、慣れきっている。
 ディスプレイに耐えられる高品質商品だ。
 ……安全ではあっても、通常ていどの世話量で、無農薬で作られた、穴や変色や虫だらけの野菜を。
 実際にそれら『普通の』商品と比べてみせれば。
 たいがいの人間は「え、こっちって食べられるの?」という反応を見せるくせに。
 土から離れきった、地に這ってこなかった。
 そういう普通……の人間が思う、農業は、どこか極端だ。
 客の要望に合わせ、商品はできるものだと考えている。
 自然をねじ曲げられると信じてる。
 次に作業する、畑をめざし、近道をつっきっている。
 背を高くしたススキの一群の中に、分け進んでいく……後ろ姿に。
 どうしてか、抑えきれず、ぶつけてしまった。
「悲しいでしょう」
 ふと、父親が地面にのばしている影の、動きが、止まった。
 体の裏側を。
 長く、斬り裂かれたみたいに。
 おそるおそる、そんな動きで、ふりかえってくる。
 相手の心が、今、目の前にかたちで見えているような。
 そんな気持ちに襲われたが。
 なのに、言葉を。
 止めることはできなかった。
「豊くんが、跡を、継いでくれて」
 絶句し、息さえ止めたまま。
 何か言いたげに、ぶ厚めの口を、開いたが。
 数秒後、ただ、息を吸うだけに終わって。
 ……ざざざ、と秋風が、ススキをそよがせて、通っていった。
 黄金色に日に透ける、穂をくすぐって吹きあげる、その乾いた風をうけながら。
 泣いているのか、と思うほど。
 歪みきった。
 眉と目の距離が、近づいた顔で。
「……そうだね」

 ◆

「――ザネリは昼間も、学校の授業で、天の川やミルキーウェイを『銀河』だと答えられなかったジョバンニを、くすっと馬鹿にするように笑ったのです。そうして今も」
 というナレーションに続いて、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ」
 そうザネリ役のセリフを、意地悪そうに読み上げると。
「何だい。ザネリ」
 と、かんしゃくを起こした子どもの声で、返ってきた。

 ふぅ、と、区切りのように、息をつきながら。
 弟は、懐中電灯を当て。
 夜に沈んでいる台本をぺらぺら、さかのぼって、めくりながら、
「えーと……ジョバンニのお父さんは、今、どっか遠くにいて。監獄に入ってるっていう噂があって」
「ええ」
 横から台本をのぞきこみ、会話を繋ぐ。
「だからクラスで、ちょっといじめが発生してる感じ……なんだよね? らっこの上着っていうのは、ジョバンニが、『お父さんは監獄になんかいない、らっこの上着をもって帰ってくるんだ』ってずっと言い張ってるから……ザネリが、からかってんだ」
「天の川やミルキーウェイは、銀河だと知っていたのに、答えられなかったのも……この父親が不在という事情の、ためらしいですね。ジョバンニはまだ子どもですから、朝は新聞配達、昼は学校、夜は活字印刷の文字を探してくるバイト、という……この生活は、体力的に無理がある。眠くて、体がつらくて、ぼうっとしてしまっている、と」
 うん、うん、とテンポを置いて、弟はうなずきながら、
「誰にもツライって言えてないけど、やっぱ、泣きかけてるもんね。この後の……ザネリから逃げこんだ……丘でのシーンで。銀河鉄道にのりこむ前に」
「ええ。でもツラくとも、一生懸命いない父親をまねて、生きてるんですね」
『子どもは親の背中を見て育つ』とは、よく言ったものだと思う。
 こんなふうに……わざわざ子どもが、父親をまねて、生きてはいなくとも。
 放っておいても。
 親がなぞってほしくはないと、たとえ願っていたとしても。
 感染するように似てしまうのだ。
 父親には似ていない、似るもんか、と思っていた。
 この自分でさえ。
 気づけば、生き写しのような面を持っている。
 無言でひたすらに目標をめざす、執念とも言えそうな意志とか。
 ……似ないでいられるわけもないのだ。
 ときに遠目に、ときに後ろから、ときに隣から手助けしながら。
 雨の日、風の日、夏の日、雪の日。
 その背骨を、息づかいを、水のような汗を、凍る鼻水を、眺めて成長した。
 どこに悲しんで、どれに悔やみ、いつを楽しみとしているか。
 その原因のすべてを理解していた。
 木が休眠から目覚め、水をぐんぐんと飲みだし、樹液がさかんに流動するようになる雪どけ。そのストローのような動きで増大していってしまう、腐乱病の患部に、悩み。
 林檎が重くなってゆく時期。みのらせる実を適正な数、位置に絞るため、花や、小さな実をつみとる、摘花や摘果でミスをしていたことを……苦々しく悟り。
 やっともぎとれる収穫を目前にして、あきらかに軽い足どりで、畑に向かう。
 そんな人に共感して。
 そんな季節が四度――ぬりかえられる一年を、一年ずつ迎えて、背をのばしていったのだ。
 だから、いつしか。
 守りたいものなんて、ほとんど一緒になってしまっていた。
 あの子や、その誇りや。林檎が実り咲いていた風景。
 まるで。
 継いだように。

 ◆

「だけど、いくら土地についてきた……もう根ざしてた木だから、って。『まだ実がつくようになったばっかの木』だって、言ってたんでしょう? これ以上の収穫量は、無理だと思うよ」
 なだめるように喋る父親に、返事するのは。
「いや、けど前にご相談してからもね、さらに。肥料をたくさん入れたんですよ。だから」
 眉だけが妙に大きく、芝居がかって動く。スポーツフレームのめがねをかけた、四十代なかばくらいに見える男。
 農業を始めたばかりらしく、栽培の相談で、この野菜畑を訪れてきたらしい、……が。
「いや肥料で無理させてもね。あんまりいい結果になんないもんだよ。腰をすえて、待ってやらないと。木になる実なんだから。桃栗三年、柿八年って言うでしょう」
 その割には、ほとんど揉め事のテンポの速さで続く。両者のやりとり。
「はぁ……。で、ですね。斜面に新しい畑を、広げ終わったんですけど。なにかよさそうな作物の心当たり、ないですか? 効率よく育てられそうだから、遺伝子組み換えのとか……育ててみたいんですよね。野菜でもなんでもいいんですけど。種の心当たりが、ありませんか?」
「……遺伝子組み換えの、種なんて、日本で見たことないよ」
 珍しく、あきれたような表情で。父親がつきはなしてる。
 そんなもの、この近辺で育てられはじめたらどうしよう、という心配も。
 表情の底に、あきらかに見え隠れしている。
 無理もない、逃げ場のない、近い、一つの生息地域のなか。
 遺伝子組み換えの種の花粉と、日本の在来種が、交配を始めて。
 混ざっていってしまう。
 そうなれば覆水は盆に返らない、元の環境にはもうリセットできない。
 それだけに留まらない十分な、他の理由もあるのだ。
 遺伝子組み換え作物が、日本やEU諸国から忌避されているのは。
 病害や害虫に有効な、人間につごうのいい遺伝子を、直接に組みこんだ。
 生命の設計図をいじった作物。
 けれどその組みこみの実現は、偶然にたよっておこなわれている。
 たとえば、雨よけの防水、を設計図に組み込むことは可能でも。
 最上階の上に入るか、一階の部分に入るか、あるいは庭、地下、に入るかが、わかっていないようなものだ。
 単に『ある遺伝要素を入れることが可能』という技術レベル。
 コントロールはできてない。
 だから現実に、遺伝子組み換えが原因で、できるはずのなかった予期せぬタンパク質が生成され。
 そのまま食品として販売され。
 それを食べたせいでの……人の死亡事件が。すでに起こっている。
 現在販売されている遺伝子組み換え作物は、短期間におこなわれた調査によって、『急性な毒』は生成されないとわかっている、という、それだけの人体への安全保障だけはあるが――。
 たとえば、狂牛病は。
 誰にも発生の予想は、できていなかった病気だった。
 正確には、今でも、何をどこまでやってしまうと感染するのか、わかっていないのだ。
 ただ発生した実例を分析して、こうすれば避けられる……と対処法が確立できただけで。
 細菌でもウイルスでもなかった、病原体。
 火も通った、見た目には異常箇所などまるでわからない、たんぱく質を摂取しただけで。
 人体は、脳をスポンジ状に変異させられ、痴呆と寝たきりをも引き起こされた。
 人間の科学力は、まだその程度なのだ。
 その科学力で――研究、分析して。
「長期的、将来的にも健康被害などの心配はいらないと、思われます。動物にも、これまでの生態系にも、さして影響を与えません、安全です」
 とされている、遺伝子組み換え作物。
 多分たよりない礎の上にのっかっている。
 一方で。
 遺伝子組み換え作物が、これだけ爆発的なスピードでアメリカから支持されたのにも、また、あきらかな理由がある。
 たとえば、『ラウンドアップ』という除草剤では、死なない遺伝子を組み込んだ、種をつくりだし。
 その除草剤を大量にぶっかけつつ育てていく、ので雑草は常にとりのぞける、という。
 荒い育て方を……可能にするのが。
 遺伝子組み換えの種子だ。
『その種子を知ったら、もう農家は過去のやりかたには戻れなくなる』
 とは、よく言わしめたものだった。
 そしてさすが米国企業と言うかなんと言うか。
 各国に輸出していき、ライセンスで暴利をむさぼれるように、いくらでもえげつない手を、考え出して、いる。
 もともと。わが社の除草剤が売れるはずだ、その除草剤では死なない遺伝子を組み込んだ種を売れば――と始まった商売なのだ。
 抱き合わせなセット販売、二重にがんじがらめにする経済戦略が、最初っから仕組まれていた。
 将来的には、『自殺遺伝子』を組み込んでの種子の販売すら、くわだてられている。
 すでに技術的には完成していて、商品化の機会は、虎視眈々とねらわれているのだ。
 原爆よりよっぽどおどろおどろしい、滅びの終末が幻視できるような危険性に……さすがに各国が猛反発しているだけで。
 一粒たりとてオマケで渡しはしない、と。つちかった遺伝子組み換えの、技を駆使した。
 コピーガードのためだけの。
 遺伝子設計図の、おおいなる書き換え。
 発展途上国の農家が、特によくやるのだが。
 買った種から、植物を最後まで育てきって、できた種子をまいて、また収穫しようとする――種の調達法。
 それをやると、売られている種を使用するのとは違って。
 野生種のように大きさにばらつきが出たり。成育スピードの個体差が大きくて、一括的な収穫作業ができなかったり、などの……。
 品質や作業面での。
 大規模な商業栽培では問題となりすぎるような。
 不利益が出る、のだが。
 それはもういっそかまわない、だって種が去年より値上げされてしまって、買えないから――。
 と覚悟して、自分で作った種を、土に植えても。
 その自殺プログラムが含まれた種子は。
 販売前におこなわれる特殊なしかけで……自殺遺伝子をスイッチオフ、と処理されていない限り。
『芽が出ないうちに死ぬ』こと、と、設計図を重大に書き換えられている。
 種が自分の内部に毒を発生させてしまい、その毒で自分を死なせる、のだ。
『コピーガード遺伝子組み換え』腐って終わる、発芽せぬ種子。
 自殺遺伝子も組み込むことにより。さらに人体への悪影響、への可能性が上がっても。
 そんなこと関係ないとばかりに、千%の利益。
『花ひらき、実をつけても、子孫を残せない――ではなんのために努力し花咲かせて実太らせるのか?』
 生命としてあきらかに異常なスイッチをも、なんの躊躇もためらいもなく、組み込まれた。
 ……未知の病気にかかるんじゃないか、子どもに悪影響を与えはしないか、という日本やEU諸国の怯えなど。
『何をちっぽけな』と鼻で笑うような。
 絶対利益のロジックだ。
 その自殺プログラムを持った作物と、日本の在来種の植物が、共存するようになり。
 そして、ひとたび遺伝子異常などが起これば。
 交配した他の植物も、自殺していくようになり。
 待っているのは。
 何も実らない不毛の風景だということは予測がつくのに。
「だって、アメリカではもう普及してるじゃないですか。日本でもやっていくべきなんですよ、絶対」
 ――それでも。
 繁殖しきってしまった人口を支えていかなければ。
 そして、穀物を大量にエサとして浪費し、牛を育てて、肉の需要に応えていかなければ。
 もう、世界はまわらない。
「じゃあ、このフリントF、いただいていきますね」
 男がまた、眉をヒクヒクッと上下にうごめかせながら、そう言って。
 分けてもらいにきた、本題の農薬がつまった、容器をひきとって。
 ようやく去っていった。
「はいはい〜」
 さすがに作り笑いと相手にもわかってしまいそうな笑顔で、手をふりながら、父親が見送っている。
 しゃがみこんで、ひたすら草むしりをやっていたこちらへ。
 くるり、向き直った父親が、すぐやって来て。
 同じようにかがみこみ、作業に復帰する。
「ごめんね〜、長くなっちゃって」
「いえ。……かなり、合理的な考えかたをする方ですね」
 合理的すぎて。
 迷走している、とも言うが。
 語っていたことは、間違ってはいない……反面。
 気が早すぎて、現実とは乖離している。
 とりあえず、現在。
 低品質に大量生産されてることが前提なため安く買い叩かれて、全く信用や信頼をもらえない、遺伝子組み換えの作物を。
 日本の小さな一農家が生産しはじめて、それでどうする気なのだろう。
 おまけに現段階では、遺伝子組み換え作物の商業栽培自体、国内では許可されてないわけだし。
 むしろ、仕事が細かい日本人として世界的評価があるのを生かし、どこの国にもいる富裕層――金持ちが、自分だけは! と欲しがる『安全な食』を提供していく方が。
 まだ、生き残っていけると思うのだが。
「どっかと『今年の収穫をこれだけの量は売ります、約束します』って、もう契約しちゃってるみたいでね。だからどーしても、今年から生産量だしたいんだろうなぁ。来年からの契約も取りたいだろうし……。契約履行できなかったら……違約金もね……あるかもしれないし……」
 けれど、いまいち同情しきれない、という顔で。父親がよわく語る。
 気持ちはわかる。
 あの押しの強さ、一方的さ、わがままさだ。
「脱サラで最近、始められた方なんですよね?」
「そ〜だよ、プログラマーやってたんだって。数字しか見つめない生活、もう嫌で嫌で、精神病になっちゃったんだって。で、いろんな精神科いったけど、どうしようもなくて、もー狂っちゃいそうだったから……。今の暮らし、本当、幸せです、とか……。言うんだけどねぇ? ああいう性格だから……農家が向いてるかどうかは。ねえ……」
 根を深くはった雑草を、ぅしっ、と小さく叫びながら、引き抜いて。
 それをずるりと背後に重ね置きながら、さっきの男を評している。
「……今までの生き方の、根本がさぁ。やっぱねぇ。身から離れないんだろうねぇ……」
「ほとんど真逆の職業ですものね」
 自分の脳から指先まで。
 毎朝、数字に置き換えて、仮想空間にダイブしていくような。
 すべての出来事を、数値として分解しきって表現しきって。
 その横書きが、延々と縦に進数として……流れていく仕事に、身を置いていたのに。
 うん、と父親は同意してきて。
「どっかで、割り切れない、数字したらほとんどムダでしかない、そ〜いう効率の悪いことなんか許せない! って……あると思うよ」
 それは、やっぱり。
 生まれ育ちとか、向き不向き、という、どうしようもない問題かもしれない。
 地に這って、土地にうずめられながら。
 生きてきたか、生きてゆけるか……どうかかもしれない。
 抜いても抜いても生えてくる雑草を、効率的な農薬ではなく、こうやって手作業で駆除していって。
 音もなくふりつもる雪に、枝が折れる悪夢を見させられ、眠りを浅くして。
 虫の大量発生に、なんとか葉をかじられないようにできないかと、四六時中悩むようになる。
 そんな、わかりやすく時間給なんかつかない、割に合わない、寝起きを。
 色あせるほど……くりかえして、初めて。
 それらを頭が、不合理として、不幸としてとらえないようになる。
「すっかり数字で動く世の中になっちゃった、ものね。いくら契約しちゃったから、その量は生産しなくちゃいけないって時だって……。日照だって雨量だって、望んだとおりには動かないのにさ」
 ……草むしりを着々と進める、手元を見たまま、父親がなおも重ねる。
「それに、プログラマーで一流のお給料もらってた、一流の企業から……。わざわざ脱サラして、始めた人だからねぇ。今年もこれっぽっちなのっ? って、あせりもあるんだろうなぁ、やっぱり」
 土地も農機も持っていない状態で、脱サラで一から始めるなら。
 まずもって収入という問題がきて、最後も収入という問題になるだろう。
 こころざすにも、どのていどの収入なのかという不安があり。
 土地もなく借地という形になれば……その土地の場所や、貯金の額にもよるが。
 廃業するかどうかの最終局面では、本当に自転車操業のような、ギリギリの資金のやりくりの戦いになってくる。
 そして、経験やノウハウ……おいしく綺麗に育てるコツを自分なりにつかみ、軌道にのせても。
 天候不順や、台風などの災害に、見舞われるという状況がきたならば受け入れなければならない。
 雨が降らなかったら。気温が低かったら。暖かくなるのが早すぎたら。洪水がやってきたら。
 問題が起こる可能性だけは山のようにあり、農協の共済――保険、で全て補償してもらえるなんて夢物語だ。
 国の補助があっても。基本的には、かけ金に応じた分しか、支払われはしないのだから。
 だから女性の農民が、随分前から、微妙に増えてきている。
 いわゆる『農家の嫁』というサポートな立場ではなく。
 兼業農家において、夫は別の仕事を主体としていて、代わりにメインな働き手になっている、というものや。
 両親が引退したのをきっかけに、『熟年離婚』を叩きつけ、田舎に帰って跡を継ぐ、というケースさえある。
 あとは、定年退職後の夫婦が、田舎にひっこむと同時、始めることがあるくらいだ。
 高齢だと、体力仕事なことに加え、慣れていないということもあり。
 自給自足がせいいっぱい、という程度に、落ち着いてしまう人も……、結局、多いのだが。
 それくらいの……農業人口増加、だった。
 結婚し、子どもも何人もつくる気でいるような……若い男、が。
 選びとるには、展望が苦しい商売だからだ。
 そう、そんな経済的な見通しが……わかって。
 自分はやめよう、と。
 この人たちに、似るのは。やめようと。
 息子として、家業の手助けとして、以上に。
 農業に『手を染める』のはやめようと。
 ずっと昔。

 ◆

「たとえばですけど、二人と話す乗客の一人、灯台守のセリフに、こんなのがあるでしょう?」
 懐中電灯をかざしながら、膝をかかえる体勢で聞き入る弟に。
 解説してから、該当するページをひらき、読み聞かせる。
「この辺では……大ていひとりでに、いいものが作れるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けば、ひとりでに、どんどん豊にできます。米だって……十倍も大きくて香もいいのです」
 これは農民の夢だ。
『遺伝子組み換え種子』に手を出してでも、酔いしれたい。
 もう何の心配もなくなる極上の。
「不作も、病気も……。虫害もねぇんだ。……いいなぁ」
 前のめり、片手を頬に当てて。そのほおづえを膝で支えながら。
 届かない、物語の楽園を、弟は恋するような声でうらやむ。
「宮沢賢治が描く楽園は、一般的なエデンではなく、イーハトーブ、ですね。イーハトーブという名は、いま私達が座ってる、この土地を……外国語ふうに読み替えたものらしいですし。はっきりと神がでてくるわけでもない、服もふつうに着ている……。現実と何が違うかと言えば。行きたいところへ飛んでゆけるとか、神聖で綺麗なものばかりだとか――。あと、そう。実りは望むままに素晴らしい、とか。そういうところだけが違う楽園」
「なんか優しーんだね、賢治さん。農業、好きなんだ?」
 高校生でも、すでに根本的に農民である弟は。
 友好を覚えたらしく、はずむように言う。
 まるで知り合いのおじさんか何かのごとく、気安い……よび名で。
「ええ、時代も時代ですからね。仕事といえば大部分が農民です。特に賢治の故郷は、ここ、なわけですから……」
 豪雪地帯、長い冬、クソ田舎の。
 自分がよく慣れ親しんだ、どっかと、同じ環境。
 おいしい林檎のふるさとだ。
「そうですね、だから……銀河鉄道の夜にも。林檎の記述が、よく出てきますよ」
 指先で、中央の綴じ目をギュッとおさえ。台本を少し痛ませるほど、ページを固定してやる。
「さっきの灯台守が、ジョバンニとカンパネルラに渡す、『黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな林檎』とか。『カムパネルラの頬は、まるで熟した林檎のあかしのように、うつくしくかがやいて見えました。』という……この箇所での表現も、そうです。宮沢賢治はこの産地の生まれで、いきおい、林檎との密接度は深い。賢治は農業指導家でもありましたけど……そんな指導で関わった、農家のかなりも、林檎を育てている。そういった人々の顔が、その年の気候や雨量が、林檎に適したものだったかどうかで、まるで違ってきます。……幼少のころでさえ、それに類似したことはあったでしょうね。豊作ならば頬をほてらせ、町で多少はおいしい物を、正月にそなえて買い込む人を見かけることになり、不作ならば青白い顔で、とぼしい家財道具からどうにか何かみつくろって……、賢治の実家である質屋に持ってくるのを、目にすることになる。……ですからつまり林檎とは。もっとも輝くようにかんじられる実り。豊作、人の喜びの。たとえです」
「なるほどねぇー」
 そう返してきたきり。
 無言に沈んで。
 どうやら、文章を。目で追いはじめた弟を。
 没頭するのはいいことだからと、ほうっておく。
 もう何度も、読み合わせにつきあっているのに。
 かなり暗記が遅い。
 要領よくこなす普段の……林檎の仕事では、覚えの悪さも、理解の遅さもないのに。
 たぶん。
 演劇じたいに、興味がないのだろう。
 選ばれてしまったから、義務だから、やっているだけで。
 こうやって真面目に練習はしているものの……さっぱり気迫に、欠けている。
 ヒマになってしまっている間、夜空を見上げる。
 町に近い中心部より、排気ガスの大気汚染も、ネオンの光害も、知らない。
 単なる田舎から更に奥へと、分け入った地域。
 林檎の栽培に適した山から。
 眺め上げる、またたく星々。
 くっきりと淡黄のエッジを描き出す、秋の名月。
 いたるところから、虫の音。
 ひとつとして、同じ声量、同じペースでは鳴いていない。
 さっきから右手あたりで、ひときわ大きな音にハネをふるわす鈴虫。左手そばで、休む間もなく存在を主張しつづけるコオロギ。
 二個体が、郡をぬいて、耳にせまってきている。
 そいつらはリーダーで盛りの年齢なのか。
 あるいは逆で。もう明日には死をむかえる個体なのだろうか。
 ひょいと、爪先をかすめるように、極小の、硬く乾いた感触がくすぐってきた。おそらく昆虫の、足か殻。
「……よし、じゃこの『銀河鉄道にいつのまにか乗りこんでる』シーンの、初めから。も一回、おねがいします」
 口の中でぶつぶつ言いながら、必死に台本の内容を、頭におさめていた弟が。
 ぱたん、と台本を閉じながら。
 そう頼んできた。

「ザネリは……。……ぁ、と。……ネズミ。いじわるな……?」
「ザネリはどうして、ぼくにあんなことを言うんだろう。走るときはちょこまかせかせか、まるでネズミみたいなくせに。ぼくがザネリに嫌なことなんにもしないのに、あんなこと言ってくるのは、きっとザネリがばかだからだ。……ここのセリフ、ちょっと長いですよ」
 こっちがかえって覚えてしまったセリフを、伝えると。
「うん……」
 弱ったように頭をかきながら、台本に顔を落とし、ふたたび読み返している。
『裏方がいい』と言っていただけあって、どうも向いていないみたいだ本当に。
 そう呆れながら、アドバイスを与える。
「セリフを覚えないと、と、あせっていては……かえって難しいと思いますよ。役になりきってみる、という形で、頭に入れていった方が。きっと早いです。……今日、自分が実際に、さわったもの、見たもの、しゃべったことは。そうそう忘れないでしょう。『物語のなかに居る自分』を、ちゃんとリアルに想像するんです。ジョバンニがすわっている黒いビロウドの座席の感触、正面に座るカンパネルラの顔の近さ、考えましたか? 窓から見える……秋の身近な自然と、銀河の神秘が、混ざりあった景色がわかりますか? 音は?」
 たたみかけていくと、
「うわぁ……国語の授業――?」
 弟は、盛大に、顔をしかめた。
「演劇なんて、国語の授業以外のなにものでもないと思いますけど……。現国、きらいなんですか?」
「や、勉強がさ、そもそも、あんまりー」
 具体的な成績こそわからないが、それは知ってる。
 と、つい、同意したくなる返答のあと。
「って言うか、だって、さぁ」
 もじもじ、弟は。腰のすわりを悪くして、
「あんまりこの話ね」
 落ち着きなく。
 スニーカーの裏をぱたぱた、草に覆われた地面へ、踏み鳴らす。
「好きじゃない、って――か、嫌い、って言うか」
 そりゃ、ふたつとも、同じ意味だ。
 そう思いながら……さだまりなく揺れる、茶色い頭を、観察する。
「綺麗だとは思うんだよ。なんか、純粋だなぁとか。言葉づかいも水晶みたいだなぁとか」
 言いにくそうに、なんとか幾つか、好きな点を挙げていくが。
 けれども完全に、好感が低い位置で、決まってしまっている態度。
「でもなんか、いっつも悲しいし。結局、さいご、もさぁ」
 なんとなく、わかった。
 銀河鉄道の夜は。
 死者と共に行く、夢想世界。
 泉水も森も宝石でしるされた黒曜石の地図。
 水素よりもガラスよりもすきとおった天の川の水。
 ムーンストーンを刻んでできたような紫りんどう。
 青や橙やあらゆる光がちりばめられた後光さす巨大な十字架。
 そして最後には。死者を送る。そのための旅路。
「カンパネルラ戻ってこないし、さぁ――」
 心底、不服そうに。
 遠い宮沢賢治へ、文句をつけるよう、続けた。
「……そうですね」
 こちらも心から。
 同意した。
 ジョバンニと一緒に、夜を鉄道で縫っていた。
 幼いころから隣にいた。
 互いをかばいあい、守りあっていた、存在。
「戻ってこないのは」
 そういう大切な人から。
 結局、似てしまっていた人たち、から。
 置いて行かれてしまうのは。
「一人残されるのは、いやですね」

 ◆

「原本さん、こびるにしよう〜」
「はい!」
 まだ遠い位置からの、わざわざ呼びにきたらしい父親の声に。
 騒音に負けないよう、大声でどなり返しながら。手元をさぐった。
「そっちに持っていこうか〜?」
「いえ、そちらの畑に下ります!」
 スイッチをオフに入れると、ブゥルルン、という止まるプロペラのような音を立てて、停止していく。
 スティック掃除機と似た姿勢でかけていた、手持ち式の草刈り機。
 回転していた……刃ではなくヒモ、が、視認できるようになってくる。
 こういう小さな草刈り機には、金属刃タイプだけではなく、こうしてヒモをセットするタイプもある。
 刃ならば、切れ味はバツグンだが。
 小石に当たった場合、石さえも砕こうとして、欠けていってしまう。
 けずられた石のかけらが、目に入る可能性もあるので、安全性の面でも少し危険だ。
 ヒモならば、石に対抗しようとは元からせずに、しなる。
 金属刃とは違って、といだり、買い直したり、の手間やコストはなく。
 最初から消耗品として扱うし、それができる安価さだ。
 ただ草を、切るのではなく……遠心力でなぎ倒す、ちぎる、という作用になるため。
 かわりに衣服が、草のしるで、豪快に汚れてゆくのだが。
 このヒモを三百六十度で高速回転させる、小型の草刈り機で。
 雑草を刈ると言うよりは、払う。
 車輪のある大型の草刈り機が、乗り入れられるスペースがある場所は、きちんとそれで刈る。
 ……休憩後は、そちらの作業がメインになりそうだ。
 そう段取りを考えながら。
 もう収穫が済み、他が忙しいせいで雑草をためこんでいた、早生種の『おぜの紅』の畑から。
 これからが収穫な『ふじ』の畑へ、移動する。
 地べたに尻をおろし、魔法瓶を手にしている父親、のとなりに、腰をおろす。
 あー服がまだら草色で芸術的だねぇ、ご苦労さまでしたどうぞどうぞ、と勧めてくるのに。
 丁寧に礼をかえしながら、コップを手にする。
 今日は父親も、『ふじ』の林檎畑での作業。
「ずいぶん草、やっつけられたんじゃないですか?」
「ええ。かなり」
 野菜畑と違って。林檎畑は守るべき作物が木なので、さすがに手作業で慎重に……雑草ぬきをしなくてもいい。
 あちらに比べれば、段違いのスピードで、雑草が片づけられる。
「だいたい、機械が入らないスペースでの雑草駆除は、終わりましたので。この後は、車のほうで刈りますね」
「は〜い、ご苦労さまです」
 報告すると。温厚に、ふよふよ、といった感じで、頭を縦にゆらめかせる。
 それから父親は。
 ホットの緑茶を、ずずっと、音を立てて、すすって。
 真横で、ほぅっ、と無邪気な、一息をひびかせた。
 ……やっぱり弟、豊と、色濃く共通してるものがある。こういう、はしばしで。
 小さな楽しみを、陽気に堪能して、反応も素直にあらわして。
 緑茶を味わいつつ、父親が見つめるのは。
 眼前に広がる収穫間近の『ふじ』の畑。
 見た目では、もう完熟してるのではないかと、人に思われそうなほど。
 収穫まで、あとほんのわずかな姿となった、緑の木にぶらさがる林檎たち。
「嬉しいなぁ」
 脈絡なく、父親が口にしたが。
 ……見ている先がわかれば、主語はいらないのだ。
「ええ、本当に。……喜びって、この風景のことかなぁって、思いますよね……」
 林檎は赤色なため、本当に目にもあざやかで。
 匂いも、口を反射的にあけそうになるほど、みずみずしいフレッシュさに溢れている。
「収穫作業に追われて、たいへんになるんだけどねぇ」
 すぐにやってきた、完全な同意が、嬉しかったのだろう。
 歯をこぼした、てれ笑いで。父親はうつむいてしまった。
「でも、収穫もこんなに……大仕事でいいのかなぁ」
 けれど珍しく。
 その後につづいた口調は、かなり暗く。
「まぁ〜別にいいんだよ、おれたちはそれでも。だって収穫だし。一番やっぱり、好きな作業だもの。花が咲くより、実がふくらみ始めるより、これが嬉しいもんねぇ」
 ようやくで、もぎとれる。
 まさに一年かけた努力の結実。
「腰が痛くても、腕がつっても、我慢するんだけど。こんなに手間も時間もかけた……大仕事のままじゃ、だめなのかなぁ〜、って。どうにかして、もっと効率化していかないと。殺されちゃうのかなーって。思っちゃうんだよねぇ」
「殺される……?」
 あまりに不穏な表現で、聞き返した。
「うん、あのねぇ、クランベリーって食べたことある?」
「……どうでしょう。たぶん」
 パンに入ってるものなら、食べたことがある気がする。
 レーズンのような味だった。赤く酸っぱい、干した果実。
「昔、小学五年生だったかなぁ。香が、バレンタインチョコレート手作りしてくれてさ。それに入ってたんだよね、干しブドウみたいなのが。けど、干しブドウじゃなくてさ、もうちょっと甘くない……まっ赤なので。『これは何?』って聞いたら、クランベリーっていう実だよって。足首くらいの高さで茂った、ツル草に、一粒ずつコロコロ、この赤い実がつくんだよ、って。それ聞いたときね。思ったんだ、これは手で摘むのかなぁ、収穫たいへんだなぁ〜って。ほらブドウなら……一房もぎとれば何十粒も取れるけど、一粒ずつだとねぇ?」
 そこで突然。
 フンッ、という感じに、鼻息をはいた。
 そんな過去の自分を。ばかにするような雰囲気。
「で気になって調べてみて……アメリカでの収穫方法、知ったんだけど。小粒だからたいへんだろうって予想……。とーんでもない。地平線がみえるー? ってくらい広い湿地で、育てていて、ねぇ。収穫の時には、へこんでるその……湿地な畑の全体に。水をざばーっと入れていくの。見渡す限り、『にわか湖』になっちゃうんだよ。その状態にしてね、機械でかきまわして水流を作ってやると、クランベリーの実がツルから離れて、水面にびっしり浮く。クランベリーって実の中に、空洞があって……空気かかえてるから。うきわな効果があるんだって。で、かき集めて一網打尽にできちゃう。……たったそれだけで収穫完了なんだってさ」
 その収穫方法なら知ってる。
 ウェットハーベスティングと言って、とくに北米では、ほとんどを占める収穫方法だ。
 ……水を利用しない摘みとりでも、ツルにブラシをかけて、実だけすくい上げて採取する機械をつかうので……父親が想像したような一粒ずつの手作業ではないのだが。
 そちらと比べても、そう見劣りはしないほど、果実の痛みも少なく取れる方法。
 作業効率のよさと、品質と、低価格まで実現できる。
 広い湿地と、不足することのない水量、があって初めて、可能なやりかた。
 日本でクランベリーを栽培している農家が、探したってほとんどいない、主な理由だ。
 マネして同じように収穫しようにも、狭い土地では、いたるところが再現不可能、で。
 とても太刀打ちできない。
 競争相手になんか、なれようもないのだ。
「とってもラクそうですね」
 だが、そのあたりの知識は。
 べつに必要はないから出さずに。
 あたりさわりのない同感を、表明しておく。
「うん。ずいぶん短く、全面積の収穫がすむんだなぁって、びっくりしちゃってさ。体がどっか痛くなってくることもなさそうだなーって。まぁでも……林檎ではそんな方法とれないんだから……。気にすることないんだけど、ちょっとショックで。……今、思えば、ばかなんだけどさ? なんだか落ち込んじゃってねぇ」
 父親は、まるっこい鼻先でもって、地面を指し示すような姿勢に。
 しばし、しょげていたが。
 だけど。
 次の瞬間、ふと。
 鼻先でいい匂いを嗅いだような。
 おもしろがるみたいな、明るい表情へ、ふうっと変化した。
「香は『私のチョコでお腹こわしたの?』って気にするし」
 頭の中に、当時の。
 悲しそうにまとわりついてくる、小さい女の子が再現されたのだろう。
 デレデレとすら言えそうなほど、温かに緩んだ表情で……そう伝えてくる。
「で、そのクランベリーだけど……。収穫コストがほとんど売値に、上乗せされないわけでしょう。日本じゃ勝てないよねぇ。クランベリーだと、そもそも果実が……林檎とは、違う種類だけどさ〜。でも収穫コストかかんない、人件費の安い中国で、林檎、どんどん作ってるし」
 父親はそこで、思い出したように魔法瓶を手にとって。
 コポコポとコップにそそいで、一口すすってから。また話を続けた。
「中国じゃあね、日給三百円で、収穫の人手が雇えるらしいんだよ」
 いっそ呆れたように、そう教えてきた。
 少々、魂がぬけてしまったような、まぬけた顔。
 けど……別に。
 今更おどろくほどのこともない。
 その世界市場の圧巻ぶりは、まさに巨人中国。
 日本だって大量に、あらゆるものを中国から輸入しているが。
 たとえば、韓国なんか。
 主な名産品である『キムチ』を。
 韓国から、他国へ輸出する量より。すでに中国から韓国へと、輸入し消費してる量の方が、多いのだ。
「日本は物価、高いもんねぇ。だからどうしたって人件費が下がらなくって、どうしても負けちゃう。殺されちゃう。……ほんと、不安だらけだよ」
 困ったように首をひねりながら。
 父親が、そばでフワフワと風にそよいでいる、ススキに手をのばした。
「じっさいジュース用なんかは、もう、どんどん。中国産の林檎に押されてきちゃってるし。……あの安さにどこまで対抗できるか……」
 ぐーっと一本、引っこ抜いて。
 手元で、くるくると回転させはじめる。秋のススキ。
「こういう心配するのねぇ、ホントはもう……疲れたよ」
 黄金色に、はかなく。
 太陽にホウキみたいな綿毛を透けさせている。
「こんなかんじに世の中の動きに、気を配って。そういう安いのとは違うんだ、高品質で差があるんだー、ってアピールするために。『国産』はもちろん、『完熟』とか『低農薬栽培』とか。そういう人気が出てきた規格をキャッチして、ちゃんと自分の作る林檎を、当てはめていかなきゃいけない、って……。殺されないために。……そういう状況になって、も〜何年も、たつのに。未だに……なじめやしないの。そういうラベル、しっかりつけないと、いくらでも安く買い叩かれるって、わかってるんだけど。……どーしようもなく違和感あるんだ。水と油みたいに」
 そうして、いかにも、くたびれたなあ、という顔つきで。さらに語る。
「おれが若い頃はさー。なんて言うか、もっとのんびりしてたんだよ。台風が直撃だとか、雪が明日は多そうだとか。そういうことにだけハラハラ飛び起きてればよかったんだ。……普通に、農薬は体によくないから、できるだけ控えて。袋がけしないと真っ赤っ赤でおいしそうな姿にはナカナカならないから、袋がけはして。収穫は、腐った果物を食べてもらうわけにはいかないから、完熟なんか待たないで、早めで」
 もう死亡した時代を、弔う。
 むしろ追いかけてゆきそうにすらなってる、じっとりと重く濡れた瞳。
「そうやって毎年さ。赤い丸い林檎を、木箱みっちりに。たくさん……」
 父親がこうやって懐かしむ。
 昭和の時代と、違い。
 今では。
 袋がけしないで育てた『サンふじ』が、市場を占めているし。
 早めの収穫ではなく、なるべく完熟を待たないとダメで。
 農薬はひかえめに、というような、あいまいな……『心がけ』基準は許されない。
 残留農薬検査でひっかかって処分されるのを、待つまでもない。
 ポジティブリスト制度が導入されたからだ。
 どの農薬を、どの時期までに、どの程度を上限リミットに散布するかが。国に、法律で決められてしまった。
 ポジティブリスト制度においては、作物の種類ごとに、使ってよい農薬は決められていて。
 もしも、『その作物に使われる前提ではない農薬』がかけられれば……日本が農薬として許可しているものであっても、違反農薬とされ。
 かけたことが発覚すれば、個人農家でも三百万の罰金が課される。
 その波紋で。
 農薬散布は、昭和からは考えられない、厳格作業になった。
 たとえば近隣の畑の、『他の作物』に、散布農薬が飛散しようものなら。
 ヘタすれば裁判沙汰なのだ。
 そんな。
 一昔前、には、誰も……想像すらしていなかった。
 人間の基準で、自然を、こまかく切り刻み。
 決められたその区分に、作物を、神経質に当てはめていかなきゃ殺されてしまう。
 イーハトーブにますます届かず。
 はるか遠くに眺めやるだけの現実世界。
「ぎゅるぎゅる世の中が変わっていってて、なんでもかんでも、決められた数字でしか、評価されなくなってる。……去年まで使ってた農薬も、今年は無理だって言われちゃうんだからさ……普通に。そんな風に……、うちだって。この林檎畑だって。十年あとに、もう一個十円でしか売れないって言われても、泣いたって、驚けないような。そんなビクビクした気持ちが……溜まってるんだよ。こんな田舎で、植物相手に暮らしているのに、せかされて走り続けてるみたいで……。……ぜんぜん落ち着けない」
 田舎でも、東京でも。
 たくさん見えても、数えるほどでも。星空は星空なように。
 天と地ほどの差はない。
「IT社会とか、投資信託とかさ……、そういう情報がホントくるくる変わるのに、つきあう職業の人から見れば、こんな神経のささくれ、甘いんだろうねー」
 遠い東京での、めまぐるしいやりとりに思いを馳せるような目で、父親はそう言い。
「でも、じゅーぶん苦しいんだ。とことん鍛えられてないんだよ。そういう部分。草刈りして、病気の手当てして、効果がありそうな農薬まいて。鳥よけのテープどう張ったらいいか考えて。春の気温が低けりゃ、マメコバチがいまいち働いてくれないから、いそいで人工授粉の準備して。そうやって毎日。林檎のことだけ考えてればよかったから……これだけ、がんばってこれたんだ。そういう生き方だったんだ。なのに今さら……。今みたいに。世の中の情報を早くキャッチして、ニーズつかんで、それに当てはまるように新しく新しく栽培しろ、って言われても。なんだか、これまでと使う部分が……違いすぎて。『空飛べ』って言われてるみたいで、苦痛なんだよ」
 だんだん、尻すぼみに。
 口のなかに、モグモグとこもった発音になりながら、聞かせてくる。
「こんだけ畑ひろげて世話してもさ……。現金収入的には、フリーターの方がだんぜんいいわけだし。自給自足もあって、いまのところ、食べてはいけるけど〜。……うん、この。『いまのところ』って形容詞がイヤなんだよね……」
 とりなすように、口を挟んだ。
「でも、ここのへんでは、一番おおきな規模で、やっていらっしゃるわけですし」
 そのわりには。
 どうも、弟から洩れ聞くに。
 自分の土地はほとんど持っていない、ほぼ完璧な借地農家らしい、のだが。
「それもソレでねー、また問題なんですよ。大凶作とかこられたら、農協さんに金くれって土下座しないと生きていけなくなるし」
 日は、必要な時、必要な量ではそそがないもの。
 雨は、望む時、望む量ではふらないもの。
 地道とはつまり、地を這うことだ。
 落胆に頻繁にくもり。
 それでも実りの喜びにはれる、瞳を持って。
「やっぱり、今の世の中じゃね……。もう専業農家は、やらせるべきじゃないのかもなぁーって。思う」
 しつこくススキ一本、ハタくように、もてあそびながら。
「どうなっていくのかね。これからの未来って」
 のんき一辺倒なキャラクターを、脱ぎ捨てて。
 めずらしく年齢にそぐう疲弊を、表している父親。
 背後へ、しのびよってきている、切実を。
「おれなんか農業しかやったことないから。やめる気も、ほかのことやれる気も、しないんだけどー」
 言葉を切って。ぐるりと。
 やや妖怪じみて、こちらに、首をまわしてきた。
 これだけ年齢差があるのに……えらそう、とか、威圧、とは縁のない。
 じっと真摯なまなざし、でもって見つめてくる。
「このあいだ、原本さんさぁ」
 いま、年相応にちゃんと見える。
 初老の涙をためた瞳。
「『さぞ悲しいでしょ、豊くんが跡継ぎになってくれて』って言ったでしょ〜?」
「……。ああ、あれは……」
 かなり心証を悪くする、言動だったな、と。
 いまさら後悔してみるが。
 軽く流して、忘れてもらえなかったものは……仕方ない。
「本当に、すみ、ませんでした。生意気なことを……」
「ううん、いーんだよ」
 首をぶんぶんと振りながら、即座に気をつかってくる。
「よくわかっちゃってるなぁ、って。ねぇ、ひょっとしたら。原本さんって、ご両親が農業やってたり……するの?」
「……ええ。もうとっくに、やっていないんですけどね」
 声量をおさえきり。
 波打たない一定のトーンに、そう答えると。
「そっかぁ〜」
 もっともだ、こんな商売やめるに限る、とでもいう風に。
 肯定の気配があふれた返事をしてきた。
「この畑……あいつに育ててほしいなあって、そりゃあ思うんだよ。もちろんそう思う。進路相談の前に、『やっぱり継ぎたいんだけど』って言われた時なんか、泣いちゃいそうだったし。……口に出したり、たのんだりなんか、恥ずかしいからさ〜。しないけど」
 身内にじゃないからこそ、素直に相談してくる。
 打ち明けてくる、本音。
「でも、このまま継がせちゃってもいいのかなぁ。……いいもんかなぁ?」
 どこも。同じ。
 ……同じなんだと……すんなり思えた。
 今、この父親の口から。
 語られていることが……きっと、その、まま。
 けっきょく一度も聞けないままだった。
 あの人たちの、本音だっただろう。
 子どもにはもっと、上手に世の中を、わたらせたいなと。
 もっとお給料をもらえて、もっと体が疲れない、できるだけ楽な仕事につかせたいなと。
 だから、口に出して。
 農業を継がないか、なんて、言わなかったのだ。あの人たちも。
 まして自分は、農業を嫌がってしまっていた。
 軽蔑すらしてたのだ。
 土地にしがみついて、地道に明け暮れる、両親の姿。
 ……その姿を、朝に昼に夜にみつめて、成長することで。
 どれだけ贅沢で立派な、教育を。
 ほどこされていたのか……自覚してなかった。
 綺麗な家に住んで、いい食事を食べて、服もたくさん持って、家庭教師だってつけてもらって。
 高校だって本当は私立のほうが偏差値を上げれるはずだった。
 学費さえあれば、他学部より格段に金がかかる医学部だって、進路候補にできるのにと思っていた。
 そんなことばっかりが。
 教育だって思ってたんだ。
『もうからないじゃん』
 とか。
『親の仕事そのままもらっただけじゃん』
 とか。
『他の仕事できねーんだろ』
 とか。
 そんな、反抗期独特の容赦ない言い方を、無言で受け止めて。
 言葉でも、たいして何も叱ってこず。ましてや殴ったりもほとんどなく。
 もくもくと仕事する背中だけで、全てを語っていた。
 大人になってしまってから。
 完全に手遅れで、わかった。
 バカなんじゃないか愚かなんじゃないかと、少年にはイラ立ちを感じさせたほどの。
 融通のきかないその背中が。
 口先だけで何かを示すより。よっぽど偉大な、子どもへのいしずえ、教えだったんだと。
 だって、たとえば努力したくないとか、思ったことなかったんだよ。
 努力してる姿ばっかり、見てきたんだから。
「豊くんが」
 言葉をすべらせだすと。
 ふたたび、こちらへ顔をめぐらせてきた。豊の父親。
 親しみ深く……人なつっこく光る。
 息子とよく似た温度を、はなつ瞳を。
 真正面から見据えながら。
『心配なんかすることないよ、きっと』
 と……まごころを、一杯に、こめて伝える。
「豊くんが自分で。迷ったり悩んだりして、決めていくしかないですよ。……どれだけ心配でも、どれだけ最良の道を選択してあげたくても……。親でも。決めてあげたり……できない。です。だって……豊くんの時代の、豊くんの生き方、じゃないですか?」
 それに。
 たとえば一年後。
 継ぐかどうか以前に。
 生きているかどうかも、わからないだろう?

 ◆

「ラッコの毛皮ってあったかいのかなぁ」
 台本の最初のほうを、おさらいしていた弟が。
 ひよこのような色で、ひよこの羽毛にも似たふうにモコモコと起毛した、淡い黄のフリースの。
 自分の上着をなぞって、呟いた。
「欲しそうですね」
 斜めに、その手つきを見おろしながら、言葉を投げる。
「うん、こーやって外で、星空眺めてるの、好きだけどさぁ。そろそろ寒くなってくるし。なんかこんな。夢みたいな。あったかい上着、あったらいいよね」
「この地域も、寒そうですものね……」
 まさに雪に閉ざされる、豪雪地帯。
 その名を冠する地帯は、どこも。同じような冬を迎えるものだろう。
 溶けるひまもなく新しく間も置かず、ふりそそいでくるパウダースノー。
 観光客なら、その上でのスキーがお目当てだったりするが。
 地元民にとっては、もはや。
 天からくるゴミ。
 砂のように、溶けてくれることもなく、ひたすら、ふりつもっていく。
 ……雪かきをしなければ、いくらでも生活を阻害しつづける。
 あの邪魔でしかないものを。
 なつかしさを伴って思い出すなんて、一生ないと思ってた。
 白く冷えた。空をねずみ色にしてどんどんおりてくる、しんしんと夜の音を吸う、登校の足を埋める、太陽を吸収してキラキラ輝く。
 ……なつかしくなんて一生思わないから、今年は量を減らしてくれ神様。
 そう誓えるほど思っていたのに。
「そうですね。白クマの毛皮には、一本一本の毛の中に、空洞があって。その空気の層に、温まった空気を逃がさずに……溜めこむことで。羽毛布団のような効果を、最大限に高めているそうですから……。ソレには、さすがに負けるでしょうが。ラッコだって、体を快適にたもつためだけの柔らかな下毛と、水をはじくための硬いトゲっぽい毛で、毛皮ができていますから。じゅうぶん暖かな空気層を作り出せるでしょうし。おまけにラッコの毛の密集度は、メジャーな高級毛皮ミンクよりも高いらしいですからね。白クマに次ぐくらいには……暖かい毛皮じゃないですか」
「ほんと、頭いいよねぇ」
 ぽかーんとした表情で、弟が。
 口をやや丸く開きぎみで、しゃべってきた。
 ……頭に浮かんだからと言って、つい、余計なことに口を動かした。
 別段。知識ひけらかしで、イヤミだ、と感じるような性格を。この弟はしていないが。
「ちょうど思い出しまして。……私も、あったかい上着とか、昔、よく欲しがってましたから」
 冬の登校はもちろん、冬の雪おろし、冬の農作業の手伝い。
 無敵の上着がほしかった。
 映画で女優がはおってるような、モコモコしていても動けばすぐ落ちてしまうような毛皮じゃなく。
 体をくるんでくれて、動きやすくて、とにかく生活に役立つ。
「ラッコの上着って。宮沢賢治も……あこがれて書いたのかなー?」
「ええ、きっと。だってここの生まれですからね……。『雨ニモマケズ風ニモマケズ』だって。他人に読ませることを前提にしてなければ、『雪ニモマケズ』を三番目に入れていたはずですよ」
 タイトルとしては長くなりすぎ、だろうが。
 やろうとしなければ何もできない冬。
 やろうとしても限られたことしかできない冬。
 終了の喜びに、すぐには飛びつけないくらいの、長い長い。
 待たされすぎで、寒さがゆるんでからも気づけず。
 ずいぶん経ってから、ぼうっと顔を上げ。
 ああやっと来たかと目に涙をうかべるような。
「おれ、宮沢賢治ゼンゼン知らないけどさぁ。中学のとき、『雨ニモマケズ風ニモマケズ』、現国の授業でやったくらいで」
 いかにも納得できる自白に。
 口のはじに、つい、笑みを刻まれる。
「そんなことだろうと思いました」
「あ、ヒデ」
 まるで本気ではなさそうに、短く言ってきたあとに。
 ペラペラ、台本を数枚めくっていく。
「でも、いー人だよね。なんかこの……、『この辺ではたいてい、ひとりでにいいものが』っていうのさ。農業のこと思ってくれて、書いたんだなって。原本さんに説明されてわかって……好きになっちゃったよ。まぁー。そんな夢みてみたって、そーもいかないッスよ、もぉ、しょーがねぇな賢治さんはぁー? ともさ。思うんだけど?」
 ……どうしよう。
 偉大な文学者が。
 なにげに、近所のオッサンみたいな扱いだ。
 田舎で農業をいとなむ、頭がM型にハゲて、加齢臭のするタオルを首につけ、でっぱった腹に色あせたハラマキをしている、まで、つけられてしまった感じ。
 親しくひきずりおろしすぎだ。
 でも。悪気はまるっきり、ないんだろうな。
 思わず、声を出して笑いそうになって。口元を押さえる。それでも含み笑いがもれた。
 弟が宮沢賢治に好感をいだいたように、銀河鉄道の夜をはじめとする作品達からは。
 嵐のない、干上がりのない、夢の農地を。
 豊かな実りを。少しでもラクな生活を。
 そして人々に笑顔を。
 そういう、こめられている誠実な祈りを、感じとれる。
 宮沢賢治が、聖人と称えられる理由だ。
 ……自分も、賢治作品を、好んで読むことはなかったが。
 そりゃあ『農業に価値などない』と書かれている本よりは、だんぜん好意で、宮沢賢治の本を見れる。
 変な話だ。
 農業以外のことはできないのかと、何度も父親をなじったのは、自分なのに。
 あれは……あの爆発のようなイラ立ちは。なんだったのだろう。
 もっと上手く世の中を渡ってほしかった。
 稼いだ金で望むままの学校に行かせてほしかった。
 だけど、それと同量に。
 こんな『哀れむ』ような気持ち、息子に持たせないでほしいと。
 多分、感じていた。
 朝も夜もなにかと働いて、体のあちこちを痛めて、趣味なんてものは持ってなくて。
 それで普通のサラリーマンより儲かってないって。どれだけ不器用なんだと。
 ずるい人間も、わるい人間も、いくらでもいる世の中なのに。
 なんでこんな生き方。しているんだろうって。
 そう、ちょうど。
 成績を思うように上げられないとき、自分自身へイラ立つのと。
 まるっきり一緒な、煙立ちかた……だった。
 当時は反抗期ではなかったつもりの、反抗期そのものな。
 あの自分の心境を、噛みくだいていると。
「そんな『こっち側』に立って、一生懸命いっしょに頭ひねってくれる教授サンって。昭和の時代だと、なおさら、めずらしかったんじゃないかなー、ってさ」
 弟が、評価を述べた。
「……ええと、前から思っていたんですが」
 遠慮がちにポソッと、口にしてみた。
 どうも弟は。
 宮沢賢治をこうやってハッキリ『教授』と表現するほど、思い込みを持っているようなのだが。
「宮沢賢治は、大学教授ってわけじゃないですよ?」
 あきれが声に出ないように。
 なるべく淡々と聞こえるよう、喉と舌を使いつつ……間違いを指摘すると。
「えっ?」
 モロに驚いた反応をして、ふり仰いでくる。
「学者、とは言えそうですけどね。大学の研究生までは終えたので。それに死ぬ前の時期には、農民への、農業指導にあたってる人でしたし。でも大学で教鞭をとるようなことはなかったはずですから……。先生、と言った方が正しいです。農業高校の教師ならば、していましたので」
「……。ねー、原本さん、宮沢賢治のファンなのっ? 前から思ってたけど!」
「いえ、別に。単に、大学で……」
「大学行ってたんだ」
 はじめて聞いた、と。
 その単純な感想だけがにじんだ声で、くりくりと、茶の瞳を丸くした。
 履歴書こそ出していないが、父親には。
 高校まで出ていると、あたりさわりのない職歴を含めて、報告してあるから。伝え聞いているのだろう。
「……。途中で退学したんですけどね……そこで」
 誰もが一流と認める大学でもなかったし、医学部でもなかったし、もちろん浪人する余裕もなかったが。
 気分的には『やっと』で受かった大学だった。
 それくらい。できるだけよい所に、できるだけ金をかけず、そして絶対に現役で、というプレッシャーが……強かったのだ。
 世間で大学全入時代、志望者全員が入れると言われているこんな時代に。こっけいなのかもしれないが。
 やっとで叶った。
 大事な、大学進学という……夢だった。
「たまたま受けてみたことがあるんです。銀河鉄道の夜の、解説の授業……」
 特別講義を、つきあいで受講した。
 銀河鉄道の夜のマニアで、将来はその研究をしたいとか言っていた。
 思えば、あの彼女との。
 デートらしいデートなんて、あれが最初で最後だった。
 学部も違った上に、こちらがバイトばっかりしていたから……まさに名ばかりの彼女。
 セックスざんまいに過ごした。
 自然消滅前、の期間、だけを除いては。
「大学でも銀河鉄道、勉強したりするんだ?」
「ええ、文学部で、文学研究目的ならば、しますね。私は文学部ではなかったですけれど。教養目的ということで、希望すれば受講できるシステムになっていました」
 弟は、いまだセリフが完全に入っていない膝の上の台本を、指さしながら。
「……やっぱけっこう、難しい話なんじゃないのかなぁ。ぎんがてつどう?」
 同意してほしそうな視線をそそいでくる。
「読むだけならぜんぜん、難しいものではないですよ? 大学の文学部っていうのは……、こめられている意味を……いろいろ解釈するのが、好きですからね。そこまでくると、難しいと言うか、学問になってくるというだけで」
「そっかなー。童話ってわりにはちょっと長い気もするしさー。童話って、絵本にできるような文章の量じゃない、フツー?」
 ブツブツと、そんな文句をこぼしながら、あてもなく台本をめくっている。
「去年まではそういう、短い話ばっかで。こんなに長い台本じゃなかったのになァ……もー。なんかいきなり銀河鉄道の夜になって……。セリフ五倍くらいあるよ」
 セリフ覚えが悪いのに、毎年、主役級をやらされる理由は。
 眺めているだけでも、よくわかる。
 筋肉も骨格も、たしかに男子のものなのに。
 粗暴とは縁のない。
 そばに寄り添いたくなるような……気性の穏やかな動物じみた雰囲気を、身からただよわせている。
 なにより、高校生の男子なのに、清潔感が尋常ではない。
 ニキビの気配ひとつすら見せずに。
 ただ気温と、感情に。紅潮する時にだけ。
 色彩に乱れを見せる……白い白い肌。
 女子にしてみたら、それだけでも「秘訣おしえて!」とつめよりたくなるようなものだろう。
 そう、こんな綺麗な。
『美しい』とすら……うっかり表現できそうな。
 白い肌をしてるから。
 ……美人ではないにしても、ブスではないんじゃないだろうか、とか……。
 思っていた。
 肝心な『顔立ち』は、見慣れすぎてて……しかも、幼い頃から、だ。
 自分には判断できない、よくわからなかったのだ。
 それでも。内面が出たような、優しい……あやふやとすら言えそうな、柔らかな目元や口元だったし。
 身内に対してだって、たまにしか、思いっきりの笑顔、なんて、見せないせいで。
 白い頬を、色づきだした林檎みたいにさせて、たまたま微笑んでいるところなんか。
 ホラかなり、かわいいじゃないか、とか。
 兄バカ気分。
 全開で思っていた。
「監督と脚本やってる女子がね。たまたま『銀河鉄道の夜』、夢に見たんだって。別に、とくに好きでも……最近読んだわけでもないのに、さ。で、『なんだコレ運命?』とか思って、ちょっと台本にしよーとしてみたら……。クラスの人間に、いちいちキャラクターが、ピッタリ合っちゃって……。んで、台本書きが、はかどるはかどる、奇跡っ? って感じで。だから……『もう、コレでいく!』んだってさー。まー任せっきりだったから、しょうがないけど。けど、ちょっと長すぎ。こーいうの得意なわけじゃないのにさぁ……」
 ぶつくさ言う弟が、吐きだしていく言葉。
 その中の一つを、なんの意図もなく、ボンヤリと。反復してしまった。
「奇跡、ですか……」
 奇跡のような、皮肉、なら。
 自分だって日々、感じている。
 あの土地と同じような、林檎の風景のなか。
 あの子と同じような、白肌と茶髪をこうして見つめながら、今をすごしていること。

 ◆

 今日は定休日で、店には掃除と下ごしらえに行けばいいだけの姉が。
 昼下がり、大きなカゴに重箱を入れて、畑にやって来た。
 午前で授業が終わりな曜日につき、農作業に参加していた弟、も含めて。
 いわゆるピクニック風に、遅い昼食がはじまる。
「……で昨日……大家さんが『なかなか調子がいいようですね』って家賃の値上げ交渉にきて。もぉ、ほんっとーッにケチなんだから! お金持ちなんだから毎月のように交渉しにこないでほしいのよねぇ! 時間の無駄……ぜーったいハイなんて言わないのに。……だいたいあんな駅から遠い、景色だってはんぱな場所の、ロッジ! 今の家賃以上で、どこの誰が借りるのよ? 短期宿泊コテージにしようとして経営コケた跡地なくせに!」
 姉は愚痴を、ぷりぷり吐き出す。
 あまり焼き色がない、軽くあぶられた程度の、野沢菜入り焼きおにぎりを手に取りながら。父親がにこにこと笑った。
「たいへんだなぁ」
 頬をぴかぴかと光らせた、若々しく見えるいつもの顔。
 女の子だから、やっぱりひときわ可愛いのかもしれない。弟に対するより、態度が、格段に甘い。
 その弟が……自分の脇から、
「なんで人事みたいなんだよー?」
 と口をはさむ。
「畑の借地料だって、微妙に上げられてってんじゃんか。微妙でもキツい、よな」
 不服そうに、瞬間的に、あぐらへと目線を落としたが。
 父親の、のんきな明るさに巻きこまれてか……眉尻が、すぐに、たれっと下がってしまった。
 つくづく弟も父親も。
 怒る、ということが苦手な、気のいい人種だ。
 自分がセクハラまがいなことをした時も。あまりに遠慮のない言い当てをした時も。
 まともに怒りをぶつけられもしなかった。
「ところでソレ、もっと焼き色つけたほうがいい?」
 どうやら新メニュー候補であるらしい。
 姉が、さっくりと話を切り替えて。
 野沢菜おにぎりを咀嚼しだした弟に、顔を向ける。
「いーんじゃない? パリッとしてるとこだけ、野沢菜の味が濃縮されてて……いい感じ」
 後味を確かめるように、舌なめずりをしながら弟が答える。
「焦がすよりこっちの方がいいわよね?」
 おにぎり表面に、ヘロッとはりついている野沢菜の葉っぱが、チリチリと乾いてるだけの。
 表面の水分を少し飛ばし……味にメリハリをつけ、舌を刺激するつもりだけらしい。やたらひかえめな焼き具合についての相談。
「うん。焦げてると、野沢菜の歯ごたえと……ケンカすると……思う」
 仲がよい弟と姉は、こんなメニュー開発というシーンでも、よく頼りあっている。
 なんでも『おいしいよ〜』と言ってしまう父親と、舌がバカになっているため同じく『おいしいです』だけしか返さない自分は、いつもボーっと見ているだけの、傍観者だ。

 掃除と下ごしらえに、姉が軽トラックで、店へと去って。
 弟は、林檎畑にて作業再開しだして。
 自分はまた父親に、無農薬野菜畑につれていかれた。
 旬の終わった作物を処分して、畑を丸裸にする仕事だという。
 近づいてくる冬に、枯れ始めているミニトマトの畑で。解説のような教えを受ける。
「ミニトマトはね、ほんと毎年。安定した量とれて……すごく助かってる。ミニトマトって、ふつうのトマトより野生に近いんだって」
 言いながらしゃがんで、枯れだしている茎を、指でなでた。
「野菜栽培はじめた最初の年から、育ててるんだけどね。その年の秋に……越冬はもちろんできないから、いっぺん畑から整理したんだけど。そういえばちょっと地面に放っておいたんだよね、自然落下しちゃった実とか、つんでから痛んでるなって捨てた実とかを。そしたら春、それから自然発芽してきたんだよ。で、ほとんど手入れしなくっても、ジャングルみたいに茂った。あれは……すごい生命力だと思ったなー。おまけに葉っぱには虫でるけど、実にはつかないし。まぁ……ミニトマトっていう名前のとおり、小さいし、皮が邪魔だから。なかなか『お皿の彩り、添えもの』以上には使えないらしいんだけどね?」
 一度だけ姉の店で食べた、メニューを思い返す。
 そのままサラダに入れられているだけだった。他に生かせるメニューは、あまりないのだろう。
「葉物……葉っぱを食べる野菜なんか、特に毎年、危なくって。春菊とかニラは……。匂いが強いから、虫に好かれなくて、大丈夫なんだけどさ、いつも。それ以外の葉物はね、全滅することも多い。……そりゃあ〜虫だって。人間が喜んでたくさん食べるような、柔らかくて甘い葉っぱのほうが、おいしいんだよねぇ……」
『地元産、しかも無農薬な野菜を、使用しています』レストランと弁当に、その唯一の目玉をあげるために。
 父親は、犠牲的とすら言えそうな努力をしている。
 虫の駆除、病気の予防で。
 毎日、畑を舐めている。
 農薬を使えばすぐ安心できるはずの、まだ浅い症状でも……無農薬栽培なら押し返せないからだ。
「お嬢さんのためとはいえ、ほんとう……頭がさがります」
 実際に頭をさげつつ、そう告げると。
 父親は、いやいやと首を振って。
 はっきりと悲しげ、に笑った。
「できるだけの事はしてやりたいんだよ。家事とか、助けてももらってるし……。あんまり、長男も希望してたからね、大学進学とか――やりたいこと、やらせてやれなかったから」
「…………」
 大学進学を、奨学金を受けて、親戚に借金をたのみこんで、できるだけの手をつくして。
 本人にも学業がおろそかになるほどアルバイトをさせる前提で。
 そこまでしても、一人進学しただけで、無理が出てくる経済事情。
 そういうのは知っている。思い知ってる。
 ――なるべく偏差値が高い大学めざして、東京に出てしまったのも一因だった。
「甘やかしかなぁ?」
「いえ、とんでもない……」
『あぁ、思いっきり』腹立ちまぎれに、内心で力のかぎり肯定した。
 ただのやつあたりだ。
 他人の家庭事情なんか、甘やかしてようが虐待してようが、もう、まるっきり関心はないのに。本来なら、この家庭以外なら。
「高校卒業してからは、東京のほうでずっと就職してたんだけどさ……。あんまりいい会社じゃなかったみたいで……あんまり、言わないんだけど。夜に、携帯に電話しても、残業で……メッセージを残せってアナウンス、聞くことばっかりで……。休日も返上とか、ほんと多そうだったし。給料も、サービス残業とか、つきあいっていう感じで……ほとんど済まされてたみたい、で」
 後悔や懺悔のにじむ、また老境を匂わせる、父親の横顔。
 髪も若々しいほうなのに。いつもより、まばらな毛量に見える錯覚。
 娘が、代償を払ってもらいながら不倫してること、……も、知らないだろうに。
 それですら、なんだろう、この自らの力不足をなげく。
 切実な哀愁は。
「セクハラ、とかも。やだけど、少しあったみたいなんだ。わかんないんだけど……。言ってくれないもんだから。我慢強い子なんだよ、親ばか意見だけど」
 とつとつと語られる愛情が、自然で強い絆が。
 ひたすらに不快で。
 ――それでも、
「……つらい、ですよね……」
 共鳴するどこかがあるのを否定できない。
 とっくに最後の一滴まで出しつくした涙が、どこかでつたっている。
 細くて切れやすい、茶色い髪と。
 重ねて慟哭している。

 自分が知らない間に、手を伸ばせなかった間に、傷ついていたなら。
 もしも傷つけられていたなら。
 いたなら、つらいだろう。
 その苦しさを忘れることはできないだろう。
 慰めにささげる、花束ひとつ、ないでは。
 自分の全てをかけて探さなくては、耐えられないだろう。

 ◆

「ここはすごく、有名なセリフですね」
 台本をまた一枚めくりながら、その一文に注目する。
「賢治はもともと、農業とはいっさい関わりあいがない、金持ちの生まれでした。むしろ、質屋と金貸しを、手広くいとなみ。困った農民の財産を……弱みにつけこんで買い叩いて、そうして財をなしたのが、彼の父親なんです。すでに子どもの頃から、その罪を背負ってしまっていた。おかげで、大人になった頃には、もう、レコード収集や絵画収集を趣味としている、父親の援助なしにはけっして生活できない、お坊ちゃんとしか言いようがない人になっていた」
 一度だけ聞いた大学講義を、思い出し思い出し、解説をならべてゆく。
「そして結核によって、三十七歳で夭折したことからも明らかですが……。生まれつき、体が弱い。雨ニモマケズ、風ニモマケズ、って……その内容、まだ覚えていますか?」
 こちらの長台詞を黙って聞ききった、あげく。
 こくん。
 茶色く、か細い髪を、光らせながら。
 弟は、おとなしく、一回だけ、うなずく。
 ……チリリッと。
 また、甘いような……忌々しいような。
 鼻先をこがしていく感情。
 こりもせず、誰かと重なったデジャウ。
 しゃべるのが苦手というわけでは、全然、ないくせに。
 ふいに無口になることがある。
 そんなところも。
 気がついてしまえば似ていた。
 身内に対してなら……あの子だって、口下手というわけではなかったのに。
 やっぱりよく、そんな風になっていた。
 本質的には静の生き物。
 あの子に、似た。
 ……視線をはずせなくなったまま、また、話を開始する。
「あれは賢治の理想像です。『雨にも負けず、風にも負けずに、畑をたがやせる強い体をもち。東に病気の子どもがいれば行って看病してやり……西に疲れた老人がいれば手伝いに行ってやる心をもつ。そういうものに、わたしはなりたい』……ところが賢治は体が弱く、看病もどちらかといえばされていた側ですから。あの詩にえがかれた理想は、あくまで、願望どまりにならざるをえない」
「えー。……じゃ、ウソなの……雨ニモマケズ」
「ウソ、と言いますか。……まぁでも……。どうしたって実現が不可能な、箇所については……ウソです、よね」
 やんわりと告げると。
 ショックをさらして、まばたきを繰り返す。
 あらわれては隠れる、茶色い瞳。
「雨ニモマケズで謳うような『理想の自分』に追いつくだけの身体的資源もなく。父親にたよらないでは、生きてもいけず。よって。罪悪感のみなもとである、悪い財産を、貧困にあえぐ農民へ放出することも叶わない。そんな賢治だから、『生きている』『悪いことをしたおかげで』というふたつの罪悪感を、抱えています。ですから、『農業指導家』としての活動は……。その罪悪感こそを発端として、始まったわけですね。『では、せめて、農業指導をして、農民の助けになろう』と」
 お坊ちゃまが、道楽紙一重にはじめた事。
 それでも、感謝されたこと。
 ……なんとなく、当時の人の気持ちは。わかると思う。
 自分達のために何かしてくれる金持ちと、踏みつけてくるだけの金持ちなら。ずっとずっと、善意に酔いしれてようがなんだろうが、前者の金持ちのほうを……なんだったら、愛す、ことだってできる。
「この農業指導家というイメージがあるおかげで……。宮沢賢治といえば、優しい、ぼくとつ、穏やか、聖人、という、そんなイメージを、現代の私たちは。いつのまにか持っている、わけですね」
 ……なんだって、よりにもよって。
 この物語の事、なりゆきでつきあっている台本に、対する知識を。
 気づけばこんなに持っているのか。
 会話をつまらせることも、この本よみの時間を短縮できることもなく。
 いくらでも一緒にいる時間が、延長されてゆく。
 これこそなんの偶然で。……奇跡なんだろう。
 悪趣味な。
「また、農業指導のずうっと前からしていた……執筆のほうの活動。作品にも。うなだれて祈りをささげる罪人のような精神が、よく見られる、そうです」
 タイトルは確か「永訣の朝」、そう思い浮かべながら。
 直接は関係ないから、必要な内容だけを抜粋し、話していく。
「賢治と、特に仲がよかった家族に、妹の『トシ』がいます。トシは……賢治よりはるか前、二十四歳に、賢治と同じく体が弱かったために病気で、『こんど生まれてくるときは、こんなに自分のことだけで苦しんで終わらないように生まれてくる』そう言い残して、息をひきとっています。……この遺言は、賢治のそれからに、大きく影響を与えたと、言われます。自己犠牲の精神。『自分を犠牲にすることで、みんなが幸せになれるのなら、それこそがさいわい』賢治のなかで、どんどん崇められていった」
 そして、やっと。
 こんなに長く語るハメになった……そのきっかけの一文を、指さした。
「銀河鉄道の夜においては。それが、もっともあらわれているのは、ここのセリフと言えます」
 口でもなぞるように、示してやる。
「僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの、さいわいの為ならば。僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない」
 求道者のような芸術家のような修行僧のような。
『僕の母親を悲しませたって、命を捨てることでザネリを助けられるのなら、それがみんなの幸となるのならば、僕はもう、喜んで死のう』
 そんな、カンパネルラの決意。
 後を追うように、弟が反復してくる。
「僕はもう……あのさそりのように。ほんとうに、みんなの、幸いのためならば……。僕のからだなんか、百ぺん、焼いても、かまわない」
 聞きながら。
 さやさやり。
 夜風に揺れる、ススキのような。
 そんな音が……。内面に。
 静かに大きく……響きわたる。
 自分の中の、あの決意が。
 まざまざと直に……呼び醒まされていた。
 命そのもののように激しく、赤い結晶じみて、心臓で輝いている。
 痛いとか寒いとか言わないよ。
 もう二度と口にしないよ。

 さそりの星座は、自分のさいわい、を一切望まないらしい。
 我が身は灰になるまで燃やす星座となって、皆のさいわいを探し、祈る、のだと。
 自分だって。
 きっとそうするから。
 そうしてみせるから、だから、だから、どうか。
 どうか見つけさせてくれ。

 謝罪も贖罪もなかった。
 ほどなく誰もに忘れ去られた。
 それは結局、ほんの一家族にふりかかった、小さな小さな事件だった。
 せめて探そうと決めた。
 すでに足跡は途絶えていた。
 手がかりなんて、真実かどうかわからない、話の断片だけだった。

 何十年かかってもかまわない。
 喜びは感じないから、苦痛だって薄い。
 なぁ、冷遇されたって、使いつぶされたって、爪がもげたって。
 小指だってほんとうに痛くないんだよ。不自由はないよ。
 失いたくないものなんてこの身にはない。
 何もかも耐えてみせるよ、みんなの。
 本当のさいわいを、見つけだして達成する、その日まで。

「けれどもほんとうのさいわいは。一体何だろう」
 続くジョバンニのセリフを、読みあげただけの。
 そうっと耳たぶを撫であがり。
 するり、入りこんできてしまった言葉。
「…………」
 キリキリと、ねじ回転の速度で、首をまわす。
 見開いた目に、映る。
「――? どしたの」
 唐突に、食い入るほど見つめられて、フワリとまばたきしてる、淡くほのかな色の瞳。
 優しくてつたない言い回しの。
 トゲひとつない、柔和なセリフに。
 耳孔からナイフを入れられ、縦横無尽にかきまわされた気がした。
 衝撃で青ざめている。
 心が凍りついている。
 ほんとうのさいわいなんて。
 そんなもの、もう。
 しんだひとには。

 ぴゅうと吹きつける東北からの風。
 ふわふわ、軽々と揺らされてる、弱い髪質、茶の前髪。
 その下から、不思議そうな瞳が、見返してきてる。
 セリフを返してくれないからだろう。
 次のカンパネルラのセリフは? 言ってくれないの? という仕草で。
 まつげを、伏せた。
 同時に、台本を次のページへ、めくり、示した。
 うながされたのにつられ。
 白紙にされた表情のまま、肩をひねって、のぞきこむ。
 次のセリフは。
「……ぼく、わからない」
 まるで、今の自分と。
 心の居場所と。
 ぴったりと重なった。
 ばた、バタバタ、バタッ。
 夏の夕立、はじめの音。せきを切る。
 ひらかれた台本のページが、唐突に、薄墨色の斑点で、次々に汚れていく。
 紙の吸水速度が追いつけずに、洪水みたく、ページ表面を流れていく。
「え……。え」
 知らなかったわけじゃない。
 知らなかったわけじゃない、ことに、気がつかされた。
 たった今。
 自分の口から出した、このセリフで。
「なんで――泣くの?」
 死んだひとへ捧げるほんとうの幸福なんてわからない。
 こんなの望んでいるのかどうかなんて。
 尋ねることも許されないからわからない。
 もう。
 もう聞けない。
 これを望んでいるはずだと決めたのは。
 決めつけたのは。
 命燃やしつづけなきゃと思うことできる、救いなんて他になんにもなくて。
 自分も追っかけて。
 夜の色へと消えてしまいそうだったからで。
「どし、どしたの」
 ヒッ、ヒゥ、あえぎ詰まる呼吸。
 ぼやけて映像を結ばない視界。
 涙も唾液も、栓のしめようもなく、落下していく。
 あらがいようのない翻弄。
『けれどもほんとうのさいわいは。一体何だろう』
 なにも理解していない。
 悪趣味な奇跡みたいな、偶然なだけの問いが。
 瓦解の嵐をふるってる。
 ついに手に入れかけた捧げる花束。
 さそりになんか負けないほどに。
 喜びも不満も体もぜんぶ、削れるだけけずってきた。
 だからようやく。
 ようやく花束を。
 やっと見つけられた。
 捧げられると思ったのに。

 あなたが、あなたが、おまえが。
 似ている場所を。
 似ている果樹を。
 似ている人達を。
 ここを滅ぼしつくすのを。
 本当に望むのか。
 望まれてると信じきっていたのか。

 それって。
 死んだひとたちの望みじゃなくて。
 自分の望みこそじゃなかったか。

 でも。
 でも見ないようにしてた。
 そんなの考えないようにしてた。
 だってもう。
 もぅ本当に、他にはなんにもないんだよ。
 花束にささげられる花、一本だって、なんにも残ってない。
 あんな家族ひとつ、どうなったってかまわないんだって。
 林檎畑ごと。
 根から燃え上がるじぶんたちに。
 他人も世間も仲間ですら背を向けた。

 めがねフレームが、ふっと軽くなった。
 一方向から。くいくいと、引かれてる。
 涙で汚れきった、このめがねを……そうっと取り去ろうとされている。
 おまけに、いかにもおずおずと。
 濡れた顔面を、白い指でぬぐってきた感触。
 ……その。
 ゆるやかに曲げられた指先を。
 すぐに、腕でふり払った。
 ――おまえがさわっていいものじゃない。
 あの子が選んだ、ものなんだ。
 力まかせにふり払われた反動で、弟がよろめく。
 草むらのなかに。膝を一歩前に進める形で、体勢を崩した。
 その這いつくばった首元に。
 右腕をもぐりこませて。胸ぐらをつかんで、締めあげた。
 ぐい、とムリヤリ上向かせれば、苦しげに歪んだ、相手の顔が現れる。
「おまえのせいで」
 パタタ、と、相手のまつげが、速く上下した。
「おまえが」
「――?」
 服に強く締められる、その痛みに、目を細め。
 それでも臆さず、視線を返してきている。
 まるきり理解不能な、理不尽にあっている。
 ……そうとしか認識できないはずなのに。
 とりあえずは、怒りも悲しみもしていない。
 まるで見極めようとしてきてるような、態度。
「わからなく、したんだ」
 あとからあとから。
 限界までみひらいた眼球から。
 セキを失ってしまってる。
 視界に透明で、盛り上がっては。
 雫で、落ちていく。
 ……眼球そのものが、涙に変化していくように。
 熱く、苦しい、――止まらない。

 じーリンリン。
 さわさわ。
 鈴虫やコオロギの。とぎれることもない、曲。
 風が、すすきや草を揺らす、乾いた音。
 大粒の涙を、おとすだけ落としてしまって。
 そしたら突然……耳に入ってくるようになった。
 生まれ故郷でも、秋に自分をくるんでた……自然の息吹。
 それが肩を叩いてきて。
 やっと我に返った。
 ――まだだ。
 まだ、壊しちゃいけないんだ。
 だって。
 ぜんぶ。
 壊すためだから。
「……すいま、せん」
 手遅れながらも、できるかぎり急いで、ぱっと掌を開いた。
 解放されて、がくりと。弟の体が、つきとばされたように、あおむけに崩れる。
 一方的に乱暴な扱いをされた。
 その跡を残す、一部分が伸びきってしまった、黄のフリース。
 放射状のシワがくっきりと残る布地が、ただよう懐中電灯の明かりのなか、鮮烈に映った。
 ……いいわけを。
 取り繕いかたを。
 考え、めぐらせだした一瞬。
 鎖骨に爪先をかけ、どさりと体重を投げてきた。
 膝立ちに体勢を整えた弟が。
 ふところに飛びこんできていて。
 茶色い瞳が。
 すがってきてるポーズのくせに、あばきたてる強引さで、きらめいた。
「それで?」
 いっそ殴りつけてくるような。強すぎる目つきと。
 まるっきり、ひるんではいない声。
 ――唐突に。
 姉を侮蔑したこと、あの男にすりよりかねない態度を示したこと、林檎の木に押しつけてキスしたこと。
 不審に思われてなかったわけでも。
 警戒されてなかったわけでも、なかったんだ。と。
 嗅いだ。
 今は真実を見せている。
 そう、こちらを判断してきている。
 だから追及の手をゆるめず、追いつめてきてる。
 なぐられる代償を払ってでも。
 丁寧語の壁もなくなった、発露を、怒りを。
 持続させようとしている。
 そこから真実をたぐろうとしている。
「……なん、で、……」
 自分を真正面にとらえてきている、畏れもない茶の瞳。
 なんの罪悪感も持ってやしない。
 後ろめたさもない。
 清くて純粋な光で、対峙されてる。
 ……目的のため、むりやり飲みこんだ感情が。
 どうしようもなく喉下から盛り返す。
 ――どうしてそんな。
 ――おびえなきゃならない罪なんか、一つだって背負ってないような。
 ――そんな態度でいれるんだ?
 生きてていいはずがない。
 おまえはそんな物なんだ。
 似てる白い、白い肌の、首なら。
 折ってしまいたい。
 与えるべき死を、あたえてやりたい。
 ……さっきと同じように、釣り上げられ。引き回された首に。
 ぐぅる、苦しそうに唸った。豊の口。
 さっきより更に力がこもった。窒息の数ミリ手前の、きつい圧迫で。
「おまえの父親が、どれだけ親切でも」
 ――憎悪を持つことがむずかしい、あまりな好人物でも。
「おまえの姉が、どれだけ迷って生きてても」
 ――汚れながらなんとか立とうとしてる姿が、圧倒してくるような女でも。
「おまえがいなければ」
 どれだけタイミングが最悪だって。
 どれだけ、奇跡のように、重なってしまうセリフだったと、したって。
 こんな衝撃を。
 手をくだせなくなりかねない崩壊を、涙を。
 あたえられることはなかったはずなのに。

 雪粒にまぎれそうな白い肌で、繊細でかぼそい自然の茶髪で、柔らかい茶色の目の輝きで。
 植物みたいな気配で。
 林檎の赤と、葉の緑に、まぎれこみながら。
 身近なひとたちを大切に、大人しく生きていて。
 ひっそり優しく。
 いつも傍らに、存在して、た。

 ……自分の下、弱く荒い息をはいている、少年。そんな息と比例して、じょじょに紅潮してきてる、白い頬。
 そう広がる光景に、なすすべもなく。また混同してしまうしかないイメージ。
 ままならない呼吸のせいで、茶色がかったまつげが、ふるふると、わなないてる。
 ――ほんとうにそっくりだ。
 こんな。
 似たのが、いなくったって。
 片時も忘れることなんかないのに。
 少しも忘れることなんてできないのに。
 幼いころから隣にいた。守ってやりたい。もう手が届かない。
 ――こんな。
 思い出から血がでるだけの、奇跡な存在、いらないのに。
 地面に、相手ごと倒れ伏し。
 反撃してくるかもしれない手足を、体格差でつぶしながら。
 指の長さをいっぱいに使って……ぎりぎりと白い首を絞め。
 息を、血を、せき止める。
「ぅ……ぐ」
 たまらずに、こちらへ。
 無理な体勢からねじられ、伸ばされてきた右手。
 小刻みに震えるそれが、むなしく。
 めがねフレームにだけ、かすめていった。
 カチャンと、銀色の光をふりまきながら、めがねが地に落ちる。
 さわられるのが嫌なほど、大切にしているめがねだ。
 けど今は、拾いたいとも思えない。
 掌の力をゆるめなかった。
 ふたたび出てきた涙で、ぼやけた眼球に。しっかりと、豊の苦悶を、焼きつけつづけた。
 これは望みつくした情景。
 壊されたように。
 きっと、きっと。
 壊していいもの。
 ……錯覚かもしれないが、妙にすばやい速度で。
 豊の顔面は、膨らんでいくような気がした。
 指でしめつけられている箇所が、くぼんで、目に映ってくる。
 耳まわりが、紫がかっていくようにも、見えた。
 フラッシュのように脳裏が光る。
 これはまるで。
 なかの骨が折れるほど。
 首を圧迫されつくした。
 少女の死体。
 ……まだ、一分もたってない。
 力いっぱいにだって……絞めちゃいない。
 だから。
 ただの、気のせい、かも。
「……ヴゥ!」
 でも。両手は、引き上げて。離してしまった。
 ごほっごほっと。草むらに、体を丸め、咳きこんでいる。
 ひー、しゅーと。肺炎にかかったような音で、呼吸をむさぼっている。
 ……ばたばた、音を立てて。
 また熱く、自分の涙が。
 溶けて、落下していく。
 今度は、紙へ灰色に……吸収されるのではなく。
 豊の頬を、透明にぬらしただけの、涙。
 追いかけるよう、首を折り曲げて。
 落ちたばかりの雫を。
 口をつけ、吸いとった。
 ――どうしても憎い。
 紅潮しきっている頬を、唇でたどる。
 透明感すらある白いひたいへと、たどっていく。
 ――どうして憎める。
 倒れこむよう、最後に、口に、ふかく重ねた。
「むぅ」
 まだまだ空気を求めているせいで、奥歯まで開いている。豊の口。
 唇を重ねられたせいで。舌までヌロリ出して、酸素を、かき入れようと、し始める。
 ……口を侵していくには、好都合。
 その舌を絡めとる。
 密な深度で、粘質に擦れあう。
 軟体の肉と、肉。
 交わった唾液は、相手の口中にだけ。消えていく。
 ますます呼吸がしにくいのだろう。
 抵抗と言うよりは……もうとにかく単にやめてほしいという、訴えのように。
 首に、爪の冷たさが生ずる。
 キリリと肌に、食いこんできはじめて。
 この数分でぐちゃぐちゃに痛んだ。豊の黄色のフリース。
 ウエストの裾に、指をかけた。
 子どもをバンザイで着替えさせるよう、上方向へ引き上げていく。
 ビクリ、と。
 とっさに豊が、手を握ってきて、その動きを止めてくる。
 ……ろくなことをされないだろう事は、とっくに理解しているんだろう。
 左右に身を振れさせ、暴れだした豊にかまわず、剥いでいく。
 胴体で、豊の腹を押さえつけながら。
 まず右腕を抜く、そして左腕。
 肘を追って脱がせにくいようにする抵抗も、数十秒あれば……ムダで、終わっていった。
 茶色い髪を、くぐらせて。
 頭から、強引にフリースを抜こうとした。
 するとフリースの金具に、髪が、盛大にひっかかった。
 ……動物の毛並みみたいな。
 かぼそすぎる髪質を、しているから、こういうことになる。
 ……とにかく加害者の体の下から、逃げようと。
 状況を理解せずに。
 豊はあいかわらず……。もがいているから。
 さらに引き攣れて、からみが悪化していく。
 きっと、すでに数本、毛が抜けているくらいに。
 ……コシのない茶色い髪を。
 指先でつまんで、丁寧にほぐし。ファスナーの刻みから、引き出していく。
 そうして豊の耳横へと、なでつける。
 もう、からまない、ように。
 だって。
 ――……髪質が、かぼそいんだから。
 とにかく乱暴にしちゃ、いけないんだって。
 小学二年生のセミが鳴く縁側に。

 留守番できたな、って、褒めながら。
 チャイロい頭、ナデてやったら、そしたら、三本も。
 爪にひっかかって、『ぷちぷち』って切れて。
 ……あの子が。
 すこし、鼻をしわくちゃにして。
 責めるように見上げてきた、茶色い目で。
 だけど。
 謝らなかった。
 ごめんって、謝ろうとすること、を考えられなかった。
 なんだか。
 不思議な気分で、手一杯だった。
 あかちゃん、じゃ、もう。
 とっくに……なくなったくせに。
 妹ってものは……やっぱり、それでも。
 大きくなったくせに、いろんなとこが。
 自分よりも弱いんだなって。
 じゃあ。
 ……そう思っててやらなきゃいけないんだ、いつも。
 めんどくさいけど。
 いつだって、手加減してやって。
 守って。
 やらなきゃ、いけないんだ。

 そんな回想にふけっていると。
「……――」
 なぜか、豊の。
 なんとか下からぬけだそうとする、体のゆらぎが、止まった。
 怪訝に思いながら、また口を重ね、舌を侵入させる。
 すると、相手の唇は、ゆるく閉まっていった。
 外気がさえぎられ。
 吐く息を、吸気を、共有することになる。
 高くなる、一つになった口腔内の温度。
 ……まるで。
 同意のあるキスだ。
 抵抗を、本当に止めてしまったかのような。
 理解できないまま、服をさらに脱がせていく。
 冷たく強い、野外の風。一瞬ごとに、吹きつけてくる角度がかわって。
 そのたび、すくんで緊張する箇所を変える、豊の素肌。ただでさえ全体にもう鳥肌が、ピリピリと立っている。
「……ハ」
 抵抗は、やはり、止まったままだった。
 消極的な協力、とも言えそうなほど。脱がせるために関節を曲げてやれば、マネキンのように曲げられたままでいる。
 ジーンズをぐしゃぐしゃに、膝下へ丸めて、足首から奪う。
 膝を持ち上げて、両脚を割らせると。
 丸みを帯びた部位は、さらに白く。夜に、光って。
 まるで傷つけられるのを待ってるようで。
 ……だけど目的の箇所に、ふれてみれば。
 さすがに、女とはまるで違った。
 そもそもそんな機能はないのだと訴えるように。指の腹が、すべるだけで終わる。
 少し苛立ち、指先をつきたててみる。
「……て」
 短く、ささやかな悲鳴が、下にしている体から、あがって。
 ……ついで『がさっ』という音が波立った。
 不自然な音に、発生源へと目を走らせると。
 群生している、すすきの根を。
 束にして、ひっつかんでいる、豊の……右手のてのひらがあった。
 こらえる、耐えるために、そうしているのだろう。
 ――あきらめたのか何なのか、知らないが。
 抵抗姿勢じゃないのはありがたい。
 自分の利き手を、口に含んだ。今度はすべるだけでは終わらないよう。唾液を絡ませるべく。
 ついてた土の、舌ざわりがする。
 早くしめらせるため、がじがじと皮膚を噛みながらしゃぶる、自分の指。
 ガチガチな豊の体の、緊張をゆるめるため。
 もう片方の手で、まだまだ少年の色をした、すくんだ棒に、マッサージのような刺激をくわえてやった。
「っぅ――……」
 種類のちがう刺激に。
 泣いてるような響きでもって。
 窮屈に丸められた脚で、押しつぶされた豊の腹が、震えた。
 とにかく熱くさせられれば、と。
 卑猥な手つきを、やみくもに速めていると。
 豊の左腕が。まるで舞いのように、草むらを弧に、ささぁっと這っていった。
 ……その腕は、地面をさぐり。
 やがて皺くちゃになった自分の服を、ひとつ、掴みだす。
 土や草で汚れた……ひよこ色のパーカー。
 それを、自らの口に……噛ませる、と言うよりは。詰めこみだした。
 ――声が響かないように?
 ふいに、頭に浮かんだ仮説。
 たぶん……それで正しい。
 直感なんかあまり信じないのに。
 それで、疑問の余地もない気がした。
 田舎の畑ではじまった、この犯罪行為。
 人通りは、ほぼありえないが。
 それだけに、虫の音にまぎれこめないような悲鳴ならば……響きがちだ。
 しかもここは、豊の家から、一番近い位置の畑――風にのって、妙な声が聞こえてくれば、豊の家から誰かが様子を、見にやって来る可能性だってある。
 それを、予防するために。
 つまりは……。
 加害者を、かばう、ために。
 なんで。
 どうして……そんなこと、するんだろう。
 そんなことしたって。
 いくら親身になって……気づかってきたって。
 そうだ、へつらって、きたって。
 媚びてきたって。
 殺すんだから、殺すのに。
 これらは演技で、やっぱり逃げる気かもしれないから……油断はせずに、体で豊をつぶしたまま。
 右手に、唾液を吐きつける。
 左手は、快感を与える目的で動かすまま、唾液でしめったその手を。
 さらされた部分へ、まわした。
 水分をなすりつけ、奥まった箇所へ、じくじくと雫をまとわせる。
 まさぐって、つつき、強引に入りこんでいく。
 半回転させるように。指をぐるりと、ひねれば。
『ヒクリ』と少しは反応が、かえってきた。
 ……豊の体が緊張しきっていたさっきは、まるでなかったひきつけだ。
 固く閉ざしてはいるが、もはや、乾いてはいない。
 ぶつけられれば、受けとめてしまいそうな。
 穴としての様相をしめしている。
 ……それなら十分だった。
 快感なんかいりはしない。
 相手にはもちろん、自分にも。
 ジーンズを下げ、つきつける。
 まるで硬度が違う。
 肉と、肉片が、ぶつかり、
「――!」
 戦いのような拮抗、のあと。
 ……ばたばたッ、と豊の両腕が。
 なりふりかまわずに、縦横無尽に暴れ、顔を打ってきた。
 反撃のように、押す腰をゆるめずに。
 メリ、と、一ミリずつ押しこんでいく。
 ……こうなることはわかっていた。
 あんな、穴ですらなかった。
 不自然なところに……おさめるのだ。
 破くのだと、自分で決めた、ついさっきだった。
 こうしてしまうことは、わかっていたのに。
 ――だのに。
 紙を破いているような。
 あんまり一方的に、加えることができる、危害に。
 心臓が宙吊りにされ、びゅうびゅうと風に吹きつけられているような……深い不安で。
 冷や汗に、ドッと背中が、濡れた。
 なるべく……。
 傷を与えないように。
 そうだ、殺しはしない、ように。
 そんなつもりで犯してるのに。
 如実に裂けていく、目にすることはない部分の、ヒトの皮。
「――ャ!」
 苦しんで、狂ったように左右される、豊の頭。
 脆い、茶色の毛並みが、視界を支配して。
 しばらくで、力なく、静まった。
 ……どこか、無視できないほど、苦しいのは。
 またもや泣き出しそうなのは。
 心配だからなんだろうか。
 ――うん、そう。
 そうだ、まだ。
 殺して事件にしてしまうわけに、いかないから、だ。
 あきらかに出血によって。
 鉄っぽいぬめった液をまとってくれた、ソコへ。
 体重ごと上から、打ちつける。
「ぐ、ぁ」
 苦しんで攣れる、首筋を。
 ハァハァとのぼりつまっていく、鼻息で汚しながら。
 逃げすべる、躯を。
 指跡がつくほど、つかまえて。
 前後して、速くして、それで。
 女にするのと、同じように、した。

 ◆

 よく日光を浴び、そのせいであせた色になっている、一階、木の廊下。
 そのちょうど中間地点にある、柱。
 姉、兄、弟それぞれの、成長過程での身長の跡が、ほほえましく刻みこまれている。
 朝日をほこらしく浴びている、家族の歴史そのもののような、その大黒柱をつい睨んでいると。
 洗面所から。
 まだ少し水滴をつけた顔で、豊が、ふらりと出てきた。
 不自然に腰あたりを固めた、かばっている歩き方で、台所へと向かっていく。
 それを見つめるこちらの視線に、気づいた様子はない。
 離れた背後から、まだ見やっていると。
 台所の方からは、姉が飛び出し、豊のほうへと歩いてきた。……あいかわらずキビキビとした、女らしくはないスピード感のある動き。
 そうしてすれ違いざま。
 豊の学ラン、肩あたりに目をとめた。
「あ、ゴミ」
 パッと、学ランに付着していた糸クズを、つまみとる。
 そうされるなり『びく!』と。
 大きく波打った、豊の両肩。
「――? なに?」
 糸をつまんだまま、不思議そうに、姉が目をみはった。
「――や」
 くだんの大黒柱に、豊は、背中をペタとつけた。
「背中にきびが一個できてて、かゆくってさ〜」
 背骨をごりごりと押し当てて、そんな事を答えている。
 妙にあわただしい、ピエロぶった態度。
「にきび? めずらしーわね」
 だけど、そんな、日常にあるべき風景に、いちいち不審そうな様子は見せず。
 またたきする反応だけを示して、豊を追いこし、姉は退場する。
 豊は、ほっとした顔つきを、して。
 去ったのを確認するため、姉を見送るよう、背後をちらりと振り返った。
「ぁ」
 ……ようやく、見られていることに気づいたらしい。
 軽く体を硬直させ、じーっとこちらへ目を向けている。
「おはよう……ございます」
 挨拶をしつつ、歩み寄りながら。
 ぼんやりと。
 手を、なんとなく。
 妙に高くこわばってる、しゃちほこばっている。豊の肩に、かけようとした。
「ス、ストップ!」
 直前、大急ぎ、という風で、豊が叫ぶ。
 感情の隠しようがないという点では。
 不利な、白透明の肌。
 さっきまでは顔色が悪いくらいだったのに、いきなり真っ赤になっている。
「あんただけは、気ぃ使え、肩とかにも、さわるな」
 そう言われて。
 未だぼんやりと、尋ねる意図で、瞳を見つめると。
 ぁ〜ぅ〜、と唸りながら、豊は。
 目を思いっきり、泳がせて。
 やがて茶色いまつげを伏せ、両肩をしょげさせて。
 がっかりしたよう、弱く、吐き出した。
「痛い、から」
「……はぁ」
 まるっきり罪悪感も責任感もない口調で、ぼへぇっと返せば。
 はぁ、じゃねーだろ、むりやり入り口じゃないところへ入れた当人が、という表情で、顔をしかめた。

 ◆

「化学の『炎色反応』は、花火という形でよく目にしますね。銅を燃やすと、青緑。カリウムを燃やせば、紫。ストロンチウムを燃やすなら、紅。どれも宝石のように。非常に綺麗な、冴えた、濁りのない色をしている。……賢治は……鉱物の採集家でもありましたから。これらの化学現象がつくりだす宝石じみた美しさも、きっと好きだったんでしょうね。銀河鉄道の夜には。頻繁に、そんな形容が出てきます」
「うん……。うん、そーだね。化学の元素、いっぱい出てきてる。宝石の名前なんかは、もっといっぱい出てきてるし」
 豊は、こちらから完全に、目を離して。
 つまりはハッキリ言って無警戒に。
 台本をぱらぱら、大雑把にふりかえっている。
 つい、白い眼でもって。視線をそそいでしまう。
 あれだけ、……泥棒のような忍び足で、歩かなきゃならなくなるような。
 深刻でいて、なさけない。そんなダメージを受けていたくせに。
 数日置けば。
 またこんな風に、台本の読み合わせにつきあわせてくる。
 この大胆さ、何だろう。
 たしかにまだ、セリフを覚えきれてはいないのだろうけど。
 怖くはないのだろうか。
 それとも……。
 怖がってるわけには、いかない、のだろうか。
 ――さぐりを入れたい、のかもしれない。
 理由は十分だ。
 あれだけ、怪しさを。
 悪意を。
 殺意までも、露呈してしまった。
 はっきりとした強姦という被害までも、豊は、こうむっている。
 ……それでも豊の立場からすれば、『姉の不倫』という、そこそこ有効なカードを握られている――がゆえに。
 うかつな反撃には出れないはずで。
 父親の、自分へ対する態度が、いまだに変わらないことをみるに。
 キスの時と同じように。豊は、父親へ泣きついてすらいないのだろう。
 姉をかばい、父親をかばって、一人なんとかしようとしてる。
 そのせいでやめられない。
 この、星空の時間、なのだろうか。
 ……それなら、ずいぶん……。
 体を張って……守っている。
 できるものなら誉めてやりたいくらいだ。
 もしも、ずいぶん年下の少年、好感をもてる人間、豊が、ただそれだけの存在だったのならば。
 もしも敵じゃ、なかったならば。
「青いマグネシヤの花火。億万のホタルイカの火。ルビーよりも赤くすきとおり……リチウムよりもうつくしく、酔ったようになって燃えている火」
 豊の、茶髪がフンワリした側頭部をみおろしながら。
 口ずさむよう。浮かぶまま、内容を抜き出していくと、
「んじゃ、線路わきで咲いてる、りんどうの花も……。真紫の花火みたいに、一花ずつ、目が痛いくらいキラキラーッと、輝いてるんだ?」
 ちょうどそのページを開いていたのだろう。
 指で、その記述をなぞりながら、豊も一つ、上げる。
「『月長石ででも刻まれたような……すばらしい紫のりんどうの花』……月長石っていうのは、ムーンストーンのことですから……。むしろお月様みたいな。クリームがかって淡い、優しい紫という表現だと思いますよ」
「……えー」
 なんで例外あんの、とでもいった調子で。豊が、不服を表明する。
 怪しいから探っているだけ、というわりには……けっこう本気で。
 しかも楽しげで。
 今日も夜風に、溶けこんでゆく会話。
 ……どこまでお人好しなんだか。

「……だから、カンパネルラは、トシで。ジョバンニは、賢治なんでしょう」
 脱線のあげく行きついたのは。
 銀河鉄道の夜の、ごく一般的な解釈。
「そーだね……。なんだっけ、朝、ってやつ……」
「『永訣の朝』ですね。トシの死後すぐに書かれた、詩のタイトルです。こんど生まれてくるときは――こんなに自分のことだけで苦しんで終わらないように生まれてくる――というトシの遺言は、ここに書き留められているんです」
 あまりにも身近な者がいなくなった、その衝撃を、苦しみを。
 紙に写し取ったかのような一編の詩。
「そのトシが、原稿の清書とかも、してくれてたんだもんねぇ。トシは、ファン一号だったの……かな?」
「そうですね。賢治が、宗教を変えた際、トシまで一緒に改宗したそうですし。そこからも密な関係がうかがえます。二歳差で、もっとも年齢の近い兄妹でもあります。二人とも秀才だったそうですから、話だって合ったでしょう。それに……単に」
 トシは賢治にとって、妹というだけではなく。
 思想的に盟友であった存在、家族内で一番の味方、ということで、少し特殊かもしれないが。
 そんな条件、まるでなかったとしたって。
「妹はふつう……かわいい、もんです。兄にとっては」
 擬似恋愛とかじゃなく。どこがどう長所だからとかじゃなく。
 それは無条件に。
 全体が、大事だったよ。
 ずっと自分より低い身長、息をひそめているのかと思うほどのおとなしさ、他人の気分に敏感すぎるところが心配で。
 たまに見せるから、どうにも眩しい、はにかんだ笑顔。
 愛してるなんて言葉は、思い浮かべもしなかったほど、自然に。
 夢に、迷いこんで行くように。
 赤と緑と枝の、あの林檎畑で笑う。白い肌と、脆い茶髪の、女の子を。ふわり追っていると、
「なんか、しみじみ言うね?」
 そこに割り込んできた豊の声。
「秋実が……」
 懐かしい色彩に、すごく邪魔で。
 払いのけるように滑り出していた。
「アキミ?」
「…………」
 ありえない油断に。
 落としてしまった――名前に。
 しばらく呆然と……沈黙だけを差し出した。
 内心で、この上なく焦る。
 なんでこんな重大な名前を。
 すんなり口に出せたのか、わからない。
 まるで秋実のイメージが、罠になってしまったみたいだ。
「例の、元カノ?」
「――違い。ます」
 つい教えてしまった名前を。
 豊は、流してはくれず。
 悪気はなさそうに、つっこんで尋ねてくる。
「――? じゃ、別の彼女?」
 ……今、それを暴露してしまうのは。
 かなりなリスクの高さで、迷ったが。
 ――ここで暮らして得た情報から、総合的に判断して。
 言ってしまうのも良いのかもしれない、と、意志を固めた。
 その方が。
 のちのち得られるであろうリターンは……きっと、大きいはずだから。
「妹の名前なんですよ」
「妹いたんだ」
『大学行ってたんだ』そうアッサリ言ってきたときと、まるで同じ。
 能天気な響き。
 初めて知りえた新情報への、驚きのみで、表情が光ってる。
 まだ、なにも、何も知りえないからこその。
 真っ白な罪悪。
「ええ。一人」
「アキミっていうんだ。季節の秋に、美しい?」
 それが一般的だろう。
 少し迷ってから――きっと、そこまでも、推察されてしまうから――でもやっぱり、伝えることにする。
「秋はそうですが、ミ、は」
 吐く声が、どうか、震えないよう。
 息を小さく、のみこんだ。
 淡々とやりすごせるように。備える。
 口に出せば……思い出が、よりぽっかり切り口を開くに決まってる。
 豊の前だというのに。
 また、泣き出しかねないから。
「実り、と書きます」
「秋実?」
 こく、と、首だけ折って、肯定すると。
「……わぁ」
 感嘆と共に、ただでさえつぶらで茶色い目を、豊はさらに薄茶に光らせる。
「秋実、に、冬樹、だ」
 やっぱり推察された。
 誰でも思うだろう。
 ――秋に実る果実と、冬を耐える樹木に。
 深い親しみを持つ人間が、つけた名前達、だと。
「うちの父親……昔ですけど、農家やってましたから。単に、景色からつけたんですよ……多分。秋はたくさん野菜が実るし――冬は木しか、まともに生きてませんからね」
 ……ホントは、野菜なんて。自家用にしか作っていなかったのだが。
 あの人は結局。
 秋に華やかに実る、冬を何年だって越す……。
 その木ばかり、を、相手にしていた。
 結婚した頃も、長男が生まれたときはおろか、あの子が生まれたときだって。
 その死まで。
 生涯ずぅっと。
「そっか。林檎とか……梨とか葡萄とか。そういうのに、ちなんだ名前みたいだから……なんか驚いた」
 そう言う豊に。
 林檎で合ってるよ、と、声にはせずに呟いた。
「でもやっぱ……。いーよね、なんか。『実り』に、ちなんだ名前って」
 農民やってるだけあって。心から、という口ぶりで、豊は語る。
「うちもさ……。そうなんだ。……あ、銀河鉄道の夜でも。林檎の実の皮、むいちゃってるシーンでさ。もったいないなー! って反射的に思っちゃう。ソコじつはアレ一番、濃縮されてんのにー! って。おれ、生で食べるなら。皮は剥かない方がだんぜん美味しいって、思ってる」
「『剥いたそのきれいな皮も……くるくる、コルク抜き、のような形になって』という……?」
 条件反射のように。また、銀河鉄道の夜を抜粋して、口ずさむ。
 うんうん、と頷いてから。
 豊は、パッと立ち上がった。
 林檎の木のそばに行き、手をのばす。
 完熟を待っているだけで、もう存分に甘くなっている、赤い果実を。茎をねじって、白い手中に落とした。
 表面を、袖口でかるく磨き、土ぼこりをふき取って。
 カシリッ! と、響かせた。
 白い前歯が、ホンの一口、実をかじりとる音を。
 最高の人気品種『ふじ』であることの証明のように。
 最良の歯ざわりを体言して、小気味のいい切れ味で、響き渡る。
 ……それから豊は、赤い皮に、ほほをくっつけるようにして。
 スン、と。嗅ぎあげた。
「林檎は、この赤い皮から、ほんと抜群にいい匂いがするの」
 そのことは。
 この家に辿り着いた日から、気がついていた。
 まるで、そう。
 鏡合わせ――みたいだよ。
 男の子どもにつけられた名前達は、土壌や木を象徴するような、豊、作。
 女の子どもにおくられた名前達は、その結実を象徴する、
「なんか鼻歌みたいな、幸せな、香」

 ◆

「原本さん、ここに来てから、いっぺんもどっかに遊びに行ったりしないけど〜、大丈夫なの?」
 しゃがんで草むしりをしているこちらを、背後に。
 無農薬野菜のチェックをしながら、父親が、唐突に言い出した。
「無趣味な人間ですので。パチンコすら、しませんし」
 この家に来た初日にも、言った。変わらない定型句でもって、しりぞけた。
「そーぉ……? でも、そもそも、遊ぶ場所がないものなぁ、このあたり。若い人が集まって、遊んでるとこって言っても……」
 父親は、気が済まないらしく、なおもブツブツ言っていたが、
「あ、そうだ。市報に、自治体主催の地域……密着型、お見合いパーティ? とかいうのが、載ってたよ」
 ようやく一つ思いついた、という風に、提案してきた。
 ……どうでもいいが、住民票だってこの土地に移してないような人間に、出席をすすめていいものなのだろうか、それは。
「原本さん行ってみるー?」
「いいえ、私は……」
 自分が行っても迷惑なだけだ。完全に、時間の無駄遣いをさせることになるし。
「そっか、原本さんは、ここで農業はじめるとは限らないもんねぇ……。ご実家の方ではじめる可能性が高い、かな?」
 うんうん、と、一人納得しながら。
 父親は、大きな葉を、一枚をめくり。
 ……そこで少し、ギクリと肘のあたりを不自然に固めた。おおかた、なにか病気でも発生していたのだろう。
「ええ」
 そう言えば、よそおっている『農家志望の青年』ですら、そんな問題がある。
 ますますもって邪魔なだけの存在だ、完璧に。
「原本さんのご実家のほうでも、そういうお見合いってあるのかなぁー? このへんもねぇ、田舎の農家のお嫁さんって。……そりゃー人気はないんだよねぇ。泥まみれの仕事だしねぇ。現金には、あんまりならないし。自然が好きとか、田舎暮らしが苦にならないとか、新鮮な野菜が大好物とか。そういう人じゃないとやっぱ、来たがらないよなぁ」
 つらつらと喋りながら、少し離れた地面に置いてあったバケツまで、歩いていき。
 腰をかがめてバケツをとって、また引き返してくる。
「こう、顔がキリっとしてて、話題が豊富で、女の人を誉めるのが上手で……。そんな男なら、やっぱ、ふん捕まえやすいのかなー?」
 ふん捕まえる、って。
 おもしろい言い方するな、と思う。
 血なのか、見て育ったからなのか。
 豊もたまに。こういうユニークな言い回しをする。
「しっかし……今の若い人の結婚って、いったい、どうなってるのかなぁ? おれみたいな『じいちゃん』には、もう正直、理解不能だよ。香はもう、結婚しないかもしれないし」
 ……そりゃあ結婚しないかもしれませんね。
 不倫中だわ、ニートの元カレとぐちゃぐちゃしてるやら、で。
 お嬢さん、ずいぶん泥色の男女関係ですから、只今も?
 あなたにひた隠しにしてるだけでね、と。腹のなかで思った。
「豊はマイペースだから、やっぱりしないかもしれないしー。長男の作なんか……。実はいっぺん、離婚してるんだよなぁ。まぁ〜もしも姉弟全員、結婚しなくっても、それはそれで、もういいかなぁとも思うんだけど。……心配だけど」
「ご長男、離婚なさったんですか」
 またどうして、そんなことになったんですか、と続けたいところを、こらえる。
「うん。えっと……デキ婚ってやつだったんでさ? おれ、孫も一人、いるんだよ。……元奥さんが育ててるから、おれは……会わせてはもらえないけど」
 いかにも淋しそうに。
 もう二度と会えないかもしれない、と、思い詰めている気配で、父親は説明した。
「作を大学にやってなかったら、離婚もなかったはずだから……。だからよけい、香のほうを大学進学させてたら、どうなってただろうって、今さら思う……。孫には、ほんとに……。申し訳ない。可哀想なことになっちゃって……」
 大学進学という要素が、離婚の事情にかかわってくるらしく。鬱々と、父親は語った。
「当時はまったく……悩まなかったんだ。作はさ、やっぱり男の子だし、豊とちがって長男だし。大学行きたいって言ったし……。一人ならなんとか進学させられるなら……『そりゃ作だろう』って。香には我慢してもらうのって。ほんと、当たり前な感じで。……でもさ、今思うと。香のほうが成績って、だんぜんよかったんだよね……うん」
 しょんぼりと微妙に、頭を垂れて。父親は過去をふりかえっている。
「昔は、女の子はお嫁さんに行って終わりだろう、って思ってたから。長女を大学にやって、長男を大学にいかせないのなんか……ヘンだって。迷うこと、迷って……あげること……自体が、なかったんだよねぇ」
 その懺悔をこめて。
 今、多大なる労力をつかって。
 娘のために、この、無農薬野菜を育てているのだろう。
 今だって、地面に置いておいたバケツから、がさがさと一枚、つっこんでおいた新聞紙を取り出し、広げて。
 同じくバケツから、歯ブラシをぬきとり。
 アブラムシの集団を、新聞紙めがけて、歯ブラシで。茎からこすり落としている。
 それが済むと、新聞紙をガサガサと丸めつぶし、バケツに押しこんで。
 また。虫や病気の、チェックのため。
 野菜の葉をめくりだす。
 終わりない作業を、再開する。
 無農薬ゆえに余計にかかる手間を、おしみなく払っていく。
 それでも、罪悪感ゆえにという暗さは。
 その軽快な手つきには……漂っていない。
 ただ、娘への愛情だけが満ちているように見えるのは――なんなんだろう。
 ……当の娘が。怒ってはいないから、かもしれない。
 良好な関係は、日々、目の当たりにさせられている。
 その頃の田舎の、標準の世間常識も。
 古い時代を生きたゆえに古かった父親の考えも。
 当時なら飲み下しきれてはいなくとも、姉のあの年齢になれば……受け入れられていて当然だ。
 しかも、感情のぶつけ先となる相手を、家族として――よく、知り尽くしてしまっているんだから。
 そう、ちょうど自分が、高校生の時にだって。
 教育にろくに金をかけられない父親を、ふがいなく思いはしても、憎むという感情とは、無縁だったように。
「今なら、きっと迷う。迷ってあげられるかもしれないんだ。もう……どっちにしたって、手遅れなんだけどね?」
 むなしそうに、ため息を添えて、そう言ってから。
 父親は、こちらにやってきて。正面へと、しゃがみこんだ。
 手伝いはじめるつもりらしく、雑草を引きぬきだして、
「このへんの大学にね、長男、受かれなかったんだ。香なら、受かったんだろうけど……」
 かなりハッキリと、断定した。
 それだけ二人の偏差値の差は、激しかったのだろう。
「でも、なんとかね。滑り止めで受けてた、県外の大学に、受かってて。一人暮らしでそこへ進学させることにしたんだよ。その大学は、親戚にそこが母校の人がいて、すすめられたんで受けただけ、みたいなもんだったんだけど……。受けといて良かったなぁって。その時は、ホントにそう思ったもんだよ。だけど。……結果からすると、良かったのか、悪かったのか……。一人暮らしさせるお金なんて、元からなかったんだし……、浪人させるとか、他にだって道はあったのに。そこしかないからって、バタバタ、深く考えずに、行かせるべきじゃなかったかもしれない……」
 後悔が強く存在するらしく、ひんぱんに、言いよどむ。
「その大学の頃にね、大学で先輩だった女の人と、赤ちゃん作っちゃって……」
 その結婚が。
 離婚という結末を迎えた、わけで。
 ……で、姉の香のほうを進学させるとか。浪人させるとか、そんな道を選んだほうが、よかったのではないかと。
 父親は、今となっては、悩んでいるわけだ。
「まぁ幸い、もう三年生になってたから。就職活動は向こうでして、ね。無事に、そっちの農協に就職できたんだ。その先輩……お嫁さんのお父さんが、婚約者ってことで、コネを使ってくれてねぇ……」
 公務員に似た職業とはいえ、農協職員は、公務員ではない。
 だから、さすがに公務員なら農村部でもそろそろ問題になってくる、コネのみでの入社も、あいかわらず農協では高い率だ。
「そりゃ妊娠させたなんて、バカ息子って言われても仕方ないことだけど。結果的に、お嬢さんへの責任もとれたし。安定したサラリーマンな職業にまでつけたし。よかったよかった、丸くおさまって、アイツすっごく幸せになれたなぁ、……って思ったんだけど。なんだか大変なこともありそうだなぁって、後から、わかってきた。婿養子みたいな形で、お嫁さんの実家に、同居だったし……」
 妊娠させたあげくの、妻の両親との同居。
「仕事もね……けっこうストレスとか、不満とか、ありそうだった。『不作だったのに保険が出なかった!』って、お客さんに殴られかけたりとか。売り上げノルマこなそうってがんばって営業するほど、『押し売りするな! だいたいなんで農協が家具、売るんだ!』って、怒られたりとかさ」
「ああ……農協って。何でも売りますものね……」
 農協が、農業とはまるで関係のない、家具や雑貨、はては宝飾品まで。顧客である農家に売るのは、一見異常なことのようだが。
 商売として、順当な発展ではあるのだ。
 農協というのは、農家を仕入れ先――組合員とする、その全体のネットワークこそを示す。
 そのネットワークの上、国産作物は、トップである『農協』経由として、安定してさばかれているわけだ。はやりの農家直売など、占めるパーセンテージとしては、微々たるものだ。
 おまけに肥料や、日光を反射させるための銀色シートなどの資材も、農協から販売されているし。
 不作にそなえての保険である共済、なども、「もっと加入を」と、すすめてくるのは農協だ。
 そういう密接すぎるほど、蜜な関係にあるから。
 最初っから農家は、『農協さんなら』という信頼を、農協へと、与えている。
 いわば、『農協が親分なら、農家は子分』とすら、要約してしまえそうなほどだ。
 ゆえにその信頼にのっかって……農業とは関連のない商品も、デパート状態で、ついでに子分へと売りわたす。という形での、売り上げ伸ばしが、農協には可能なのだ。
「で、そのノルマこなせなくて、自腹で買った分さ、よく送ってきた。うちの家具もずいぶん入れ替わったもん……。父さん使ってって、座椅子かかえて帰省したこともあったし。ニンニクとかも消費しきれないって、ダンボールぎっしりで送って、くれて。メロンなんて高いものも、何箱もくれたんだよ?……あの頃、一生分食べたんじゃないかなぁ、おれ」
 情けなく、自嘲に近い表情に。
 震えるように。父親は、皺だらけに笑った。
 ――そんな、親孝行として送りつけるしかない、不相応に高いものを買いまくってまで。
 ――おれは知ってる、おまえはちゃんと頑張っていたんだ。と。
 ここには存在しない息子を、いたわって、慰めて。
 こらえきれずに自分の方が、泣き出してしまっているような。
「それでも、まぁ幸せそうにやってるなぁ、って思ってたんだけど。がんばっても、自腹で買わされるぶんが、減らなかったみたいで……。理不尽って言うか。我慢できなくなっちゃったのかなぁ、やっぱり」
 苦く苦く、思い出している。
 そんな厳しさを、醸し出している、父親の口元。
 頻繁に、一本線に強く引きしめられる、下唇。
「『どうしても辞めたい』って、退職しちゃったんだよね……。もとから、農協に就職したくて就職したわけじゃない……赤ちゃんができたから慌てて、相手の地元に、っていうのも、悪かったのかも。でも……。相手方にしたらさ、もう子どもも生まれたのにとか、コネを使ってやったのに顔をつぶす気か、とか。そりゃあ……すごく腹が立ったんだよね、向こうの親御さんだって。だけどあいつにもさ、事情が……もちろんあったんだろうからー。それで……。揉めに揉めて。結婚も、結局ね……」
 壊れてしまった。
 という単語は、省略して、父親は、話を区切った。
「ちょうど、うちの奥さんが病気になった頃のことでね――『おおごとになってるじゃないか、行こうか?』って言ったんだけども。『いいから母さんの看病しててくれ』って言われて。ほとんど、電話で事情きいただけでさ……。だから詳しくって、おれは知らないんだけど……」
「それは。大変なことが、重なりましたね」
 白々しくは聞こえないように、応えて。
 だけどどうしても、白々しく、自分の耳にこそ届いた。
 父親は。
 それに気づいたようすはなく、続ける。
「ほんと、かわいそうだよね」
 ひたすら我が子を、慈しむ。
 黒く深く、優しく……濡れた。
 父なる瞳。
「おれの子なんか、みんな、真面目に生きてるのになぁ。うまく立ち回れなくって……貧乏くじ引かされて……。そんな生き方しかできない、不器用な子達なのに」

 ◆

「姉弟は、乗っている船が氷山にぶつかって沈んだので、この銀河鉄道にいるのだそうでした。救命ボートに乗ることはできたのです。けれども、ボートの周りには、姉弟よりも幼い子ども達がたくさんいて、押しのけて乗ってしまえば、その子ども達が死んでしまう――」
 読み上げながら、ぺらり、と台本ページを切り替えると。
 豊が思い出したように、口をはさんだ。
「これって、あれ、……あれ……だよね。昔の映画である……」
「『タイタニック』の沈没ですね」
 氷山とぶつかって沈んだ豪華客船。
 乗客のほぼ三分の二が死亡した、当時最悪の海難事故。
「うん、それ」
 スッキリした、テスト問題でも解けたような顔をして。豊はゆらゆらと、うなずく。
「ボートに乗れなくて……銀河鉄道にくるはめになっちゃったんだ」
「豊君なら、乗れますか?」
 自分の保身に走ることで。
 確実に誰かが、消えてしまうとわかっていて。
「……。むり、だと思う」
「ですよね」
 そう、いい子だ、やっぱり。
 それでも関係ない、むくいを受けなきゃならない子なのだが。
「押しのけて、代わりに、乗ったら……。殺す、ってことに……なるのかな、やっぱり」
 そう問いかけてくる豊が、こちらに見せているのは、横顔。
 頬の丸みに、月光が宿っていた。
 いつもの農作業で見るよりは、不健康そうな……青白い頬。
 銀河鉄道の夜にまとわりつく雰囲気に似て、どこか、死後――。
「なる、と思ったでしょうね」
 ほんとに事故にまきこまれただけの、責任はどこにもない子どもだって。
 できなくて自分が死んでしまうほどに。
 それが絶対に罪という行動なのだと、潜在的に知っている。
 ……ましてや――おまえは。
「だいたい殺されるほうだって、声をあげて反抗した、あがいたでしょう……。そんな『生きたい』って訴え、そのものを、踏みつけて……進んだんです……。罪だ、いいや、罪じゃない、なんて。あとから――ようやく、考えられることなんじゃあないですか……。誤魔化すためにね。誤魔化さないと、生きてはいけないでしょうから。だから、ホントは。相手が死んだ、あぁ殺したって思った――その氷った瞬間だけが真実なんでしょう……」
 だから、そう。
 そんな誤魔化し、もう与えておきたくない。
 目をそらさせておきたくない。
 ほかには何にもいらないからさ。
 さそりみたいに、赤く、燃えるからさぁ。
 人ごとなら。
 罪を憎んでナントカとか、死刑ヨクナイとか、言えるけど。
 かぼそい茶色の髪、白い肌、いつしか女って形に近づいていって、昔は赤ちゃんだったのに、あいかわらず気が弱すぎ、ふだんからもっと明るく笑えるような性格だったなら。
 ほんと時給とか計算せずによく働く、農民の鑑みてぇだよな、男として尊敬ってできているんだろうか、別の意味じゃ正直すげぇとは思っているよ。
 エプロン結んだ小さな背中、年々、いびつになっていっちゃってる、腰痛は職業病ってなんで諦めんだよ、お婆ちゃんになるにはまだ早すぎだ……。
 ああいう存在。
 三つ、消滅させといて。
 肺に、息、吸いこめるように。ひそめた細い息、どうにか吐いていけるように。
 なんか言い訳して。
 なんか目線。ねじ曲げて。
 のうのうと生きてやがるんだろう?
 思ったくせに、その瞬間は、絶対。
 自分が殺したんだって。

 ◆

 無農薬野菜の指南をあおいだ人の身内、という、豊にとっては完璧に他人な『おじいちゃん』のために。
 また林檎の巨木の手入れをしに……そして、そのお礼として、あまってる毛布だの、ティッシュだのを押しつけられるために。
 やってきた、老人一人暮らしには大きすぎる、木造の一軒屋。
 庭でひとり黙々と、準備を進めておく。
 ……ほどなく家のほうから。
 サクサク、と草を踏みしめる音が近づいてきて。顔を上げた。
『おじいちゃん』への挨拶と、断れない世間話を、こなしていた豊が。
 準備がととのった庭に、ようやくやって来た。
 ……やっと作業を始められる、というのに。
 豊は、なんだか憂鬱そうで……どうも体すら重そうに、歩いてきてた。
 おまけに、あまりに落ち着かない様子で、左右を不自然に見まわしている。
「どうしたんですか?」
 声をかけると、
「うん……さっきね」
 泣いた後のような、まつげを下げた目つきで。
 弱い声量、豊が、説明をはじめる。
「おじいちゃんに話されたんだけど」
 言いながら豊は、これから手当てしてやる、林檎の木を。まっすぐに見つめだす。
「この冬で、最後でいいんだって、林檎の手入れ」
「そうなんですか」
 ――新しく世話してくれる人間でも、見つかったのか?
 そう思いながら、無意識に。
 よりかかっている林檎の樹の……木肌を、指で撫でた。
 次の人間にも……。
 豊にそうされていたように、大切に、世話してもらえると良い。
 引きしまった幹は、じゅうぶんに世話が行き届いている、すこやかさを、指に伝えてきた。
 子にあたる品種『ふじ』にも共通する。つるつるとした、木肌の手ざわり。
 今はもう植えられることもない。
 古い品種、『雪の下』の樹木だ。
「今年の雪は、この家で、迎えるけど」
 豊の、なぜか今は湿っているような、茶色の目にも。
 誇らしく映っているはずだ。
 青空に高々と枝を張る、もうじき来る収穫へむけて、赤い実もたわわな。
「来年から、おじいちゃん、高齢者用のマンションに入居するんだって……。ほら、駅からちょっと行ったあたりに、ある……同じデザインで三つあるマンション、知ってる?」
 言われれば、すぐ得心が行った。
 豊の言う場所で、目にした心当たりがあったし。
 豪雪地帯には、そんなマンションが……最近は必ずあるものなのだ。
 老人の独居世帯の増加。そんな状況にあわせ、雪国独自のニーズとして、急速に増えていっている。
「雪かき、今は、ご近所とか……親戚とか、ボランティアの人とかにたのんで、なんとかしてるけど。だんだん難しいから」
 一軒屋ならば、雪かきは、休めない生活の一部だ。
 だが高齢になればいずれ、近隣への義務である――家まわりが雪かきされた状態を、保持できなくなる。
 だから最近の雪国の高齢者は、家を捨てて……雪かきの費用が――管理費に含まれている、専用のマンションに、移り住むケースばかり、だった。
「家は、つぶして……たぶん、土地だけ、売りに出すことになりそうだって」
 これだけ昭和を残す、あちらこちらにガタがきた、古い木造建築なのだ。
 買い手どころか、借り手だってつかないだろう。
 家をつぶして、更地にして、土地だけ売りに出すしかない。
 庭も当然。なにもない状態へと、整理しなければならないことになる。
「だから林檎の木も、切って処分するから……。今までほんとに、ありがとう、って……言われた」
 説明しきった豊は。
 ゆっくりと、林檎の木に、正面からしがみついた。
 全体重をあずけて。
 大きな木に、抱きついている。
「そう、ですか……」
 木に寄り添いきった、見上げにくい姿勢のまま。豊は真剣に、樹を仰いでいる。
 かつて、明治から大正、昭和にかけて。
 今の『ふじ』にも劣らぬほどの人気を誇っていた、日本において林檎の代名詞をになっていた、品種。
 そして現在は、消えゆくばかりの品種、その老木。
 ……きっと悲しいんだろう。
 豊からあふれだす、『惜しんでいる』その感情が……。強くこの場を、満たしている。
 まるっきり。この樹と共に生きてきた老人のように、切実さ、まで伴って。
 高校生のうちに、農民になることを完全に選び取ったような。
 故郷や農業を、愛することに……照れも、迷いもない、そんな少年なのだ。
 ――『若いくせに恥ずかしい』そんなふうに。
 豊の年齢では。自分は、思っていた。
 過疎化で……昔かよってた小学校がつぶされるんだって……高校で話題に出たとき。
 泣きそうな気分に襲われてた、くせに。
 嫌がるなんて恥ずかしい、アレはいらないって言われたもん、価値のないもん、なんだからって。
 そんなもんに愛着もってたり、なんか……。しないぞって。
 あわてて打ち消したんだ、口で、悲しいわけないじゃん『ジジババかよ』って、叩きながら。
「……古いものを、淘汰していかなきゃ、いけない時代なんだって――わかりますが」
 豊のコシのない髪が。林檎の木のみきに、からみついている。
 離れがたい、みたいに……木の茶色と、交ざりあっている。
 豊も。自分も。
 きっとこういう――古くからある林檎の木が、不必要だから切られる……。
 そんな出来事には、人並みより、弱い。
 こんな当然ですらある、一つの出来事。
 泣き所が、どこに、何ミリあるんだ? そう言われてしまったって、きっと、おかしくはない。
 ――木を育てることなんか一度もなく……移り変わりの激しい都会の淘汰をあたりまえに、育ってきた人になら。
 だから、やっぱり――、一緒、なのだろう。
 気質、を育ててもらった。故郷の空気が。
 核廃棄物の埋立地になってくれって話が、きたこともあったけど。
 受け入れてくれれば、こんなにお礼をあげますよ、こんな最新鋭の施設だって建ててあげます、こんなにも得になりますよって、さんざん吹きこまれたけど。
 冗談じゃない、ここは農業の土地だ、水も土も汚れてしまうじゃないか、握らせられる現金でゆずれる話じゃあないんだって、だから……。
 必死んなって団結して……そんな話、追い出してたな。
 皆、そんな。
 分け合ったかのような柔らかいカタマリを。
 農地を大事にする魂を、心に抱えていたような。
「残念……――」
 口では『今は、時代の流れが速いんだから。田舎だってそれに合わせないと』と言いながら。
 目では、淘汰されていく沢山を、あきらめて見つめながら。でも心底では。
 古いものが殺されてくのに慣れてない。
 守護してきたものが壊されてしまうのは、痛い。
「さみしい、ですね」
 ――農家なんかゴメンだって、はなっから選択肢からはずして。
 妹の初潮でいまだに、本人が恥ずかしがって泣いたって、赤飯たかずにおかないような。
 同級生とつきあいだしたら、翌日には近所中が知っていたような。
 プライバシーなんかないほど、過干渉にあばかれて育ってきた、小さくて古くって……大事だけど嫌なとこだってある、自分の根である土地から。
 いったん望んで、離れた。
 こんな自分でさえも。
「うん」
 ――本質では、結局。
 変わることなんか、できやしなかった。
 それは林檎を。
 育てる、土地の。

 ◆

「――すきとおった硝子の笛のようなものが……鳴って。汽車はしずかに動き出し」
「原本さん」
「はい?」
 ナレーションの読み上げを、中断して。
 呼びかけに応えて、豊に顔を向けると、
「なんでジョバンニ、こんな……不機嫌になってるの、ここのシーン? のりあわせた女の子と、カンパネルラが仲良くしゃべってる……から、やきもちなのかなぁ、と思ったら……。必死に引きとめる……でしょ? いざ、女の子が下車しようとしたら?……わけ、わかんないんだけど」
 と、疑問をぶつけてくる。
「そうですね……うん。たしかに……。のりあわせた女の子と、カンパネルラが、おもしろそうに喋っているせいで、ジョバンニは不機嫌になっているので。やきもち、でいいんですよ。『あんな女の子』と話してばっかりで、僕を放っておくなんてあんまりひどいじゃないかカンパネルラ、そう、かなしい気になっている」
「んーじゃ、そのあと……汽車から降りようとする女の子、あわてて引き止めてるのは?」
「ここでの下車は――つまり、天国に召されるってことですからね。ぼんやり、その事を……別れは死だって……わかっているようですから、ジョバンニは。だから……『そんな、降りろなんて、これっぽっちも望んでなかった!』って。このときは、必死になっているんでしょう」
 思いっきりそっぽを向いてしまってから、失いかけて……。
 あわてて後悔する、この幼さ。
 このバカさ加減。
 ――自分みたいだ、ちょうどあの頃の。
 大学、入った、ばっかりの頃の。
 もう……。いいわけ以外の……。何物にもならないけど。
 そういう時期だったんだ。
 まるで違う、騒がしく多様な、東京に、でてみて。
 ひょっとしたら『価値のないもん』なのかもって、考え始めてた。
 生徒の少なすぎる小学校のように。
 必要とされていない古い木のように。
 大切に思っていては、いけない、もんなのかも、って。
 はやらない農業にしがみつく、冬は豪雪の雪かきに追いたてられてばかり、田舎も田舎な。
 自分の故郷は。
「もっと、大切にすればよかった、って……?」
「ええ。やりたい放題に、無視したり黙りこんだり、冷たく。するんじゃなかったって……」
 そう、ないがしろにしてたんだよ。否定できるわけもない。
 一番、そんな。時期だった。
 故郷から出たことなかった、高校生までと。
 故郷以外を、人の百倍も……疲れきるほどに見せられてきた、今と。
『あの頃』の前後、どっちにも。
 あんなに、たった一つしかない故郷から、心が離れてたこと、ない。
 東京の大学にいって、とにかく忙しくこなして、そうこうするうち、なまりのない自分に作り替わってて、きっとこのまま大人になって、帰省なんて年一回くらいの、まるでパッと見には、故郷は忘れ捨ててしまったような人生に、つながるんだろうって、漠然と、それで全然いいやって、思ってた。
 だけど本当は。
 捨てたつもりなんか、なくって。
 つまりは。
『故郷が自分を捨てる』ことなんか、ありえないだろうって。タカをくくってたんだ、だって。
 おむつの世話だってしてやったんだぞって、いっつまでも隣のおやじはバカの一つ覚え言ってくるんだから。
 雪で傷んだとこの修理がうっとうしいほど、ボロ家はいつだってそこにあるんだから。
 林檎の収穫だけは毎年、手伝いに帰ってやんなきゃどーしようもないんだから。
「そんなに嫌いじゃなかったんだ?」
「ちょうど……、カンパネルラを独り占めできなくなったっていう、癇癪もおさまって。女の子とだって、楽しく喋りだしてる、そんな刻でしたから。どうしてこんなことになったんだろう、こんなつもりじゃなかったのにって、『泣き出したいのをこらえ』るはめになったんでしょうね」
 そうだよ、気づけば、素直になれば。
 大好きだったんだよ、あの土地が。
 古くさいすべて、うっとうしい何もかもが。
 今だって。
「素直じゃない、んだ。お子様ー」
「バカですよねー」
 むこうから。
 捨てられて、ようやくわかるんだなって。

 ◆

 早退したのか? と思うほどの時間に、急いで帰ってきた豊に連れられて。
 予定通りに、『果樹研究所』という独立行政法人の施設へ赴く、昼下がり。
「今日は、練習なかったんですか?」
「あったんだけど。許してもらってきたー。……さっさとセリフ、完璧に覚えられたら、練習サボるくらい。主役だってぜんぜん平気なのになぁ」
 それでも、だいたいは覚えられてきただろう。覚えが悪いなりに。
 なにせ強姦されたその相手と、毎晩、自主練習してるんだ、……と思いつつ。
「今日はその果樹研究所へ、なんの用があるんでしょうか」
「ええと、『おぜの紅』。うちの畑で、いちばん早い時期にできる林檎の、ね。あれがまだ、新しい品種なんで。……果樹研究所では品種改良の研究をしてるんで……。『おぜの紅』の今年の様子とか、育て方とか、感想を、参考に聞きたいんだって。で写真とかの資料も、一緒にくださいって。それで行かなきゃならなくて……」
 そこで豊は、ハンドルから右手を離した。
 白い頬を、カリカリ、と爪を立ててひっかく。
「……原本さんについてきてもらえ、っていうのは、父さんの指示なんです」
 それはわかっている。
 予定表のようなメモを、書いてよこしてるのは、父親だし。
『もーすぐ豊が帰ってくるから、用事についていってやってね〜』
 と、さっき、昼下がりの畑から自分を追い出したのも、その父親当人だ。
「道順を、なんとなくでいいので……覚えておいてくれますか。あの、カーナビをね……まだ、買い替えないので。でもいつ壊れるか、わかんないから。いっぺん道順を見ておいてもらったほうが、いいだろうって……言うんです」
 説明に必要不可欠でも、できればもう二度と、話題に出したくない品。
 姉の不倫の発覚につながった不調のカーナビを。
 もたもたと豊は、いかにも地雷をあつかう調子で、やっと話に組み込んだ。
「わかりました」
「あー、それから、資料のコピーがあるので。あと五分くらいのとこにある、コンビニに寄りますね」

 栽培スケジュールや、気がついたこと、問題点など、を日誌風にメモしたノート。
 そのノートの必要箇所を、せっせと豊はコピーしはじめる。ゴー、またゴー、と機械音を響かせながら。
 やることもないので、横で、豊の作業を見やりながら。
 素朴な疑問に口を開く。
「この観察記録の提出……その研究所から依頼をされてるんですか?」
「依頼……?……うん、頼まれて、届けるんだけど……?……ああ、報酬かぁ! ううん、今のところは、まだ」
 でも、こういうことやっとくと……困ったことがあったら堂々と、相談にのってもらえるし。と。
 豊はいつものように、人の良いことを言う。
「研究するならデータが必要だけどさ、『おぜの紅』は、まだ、そのデータもあんまり無い状態らしいから。うちみたいな農家の、ぜんぜん学問的じゃない感想でも、必要なんだって。ひょっとして『おぜの紅』が、ものすごく温暖化に適してるようなら、メジャーな品種に改良していかなきゃいけない、らしくてー」
「品種改良、そんなに活発ですか、今」
 林檎のことだから、つい尋ねていた。
「長野とかもさ、林檎の名産地でしょ? 今までは……長野みたいなあったかい所と、ここみたいなさむい所では、メイン品種の『ふじ』の出荷時期がちょっとズレてて。住み分けができてたんだけど。すこしずつ収穫が早くなってきてるんだよね、このあたりでも。だから長野の『ふじ』の収穫の……かなり前か、かなり後に、おいしい林檎が収穫できる、そんな品種があったらなぁって……ことみたい」
「出荷が重なって、供給が過剰になって。値が下がりがちになってるんですね」
 新品種を開発して、収穫時期をどうにかずらして。
 林檎価格の崩壊を防ごう、という案なのだろう。
「うん。まぁ『ふじ』よりおいしい品種なんて、そうそう出来っこないからさ? すごく試行錯誤してるみたいだよ」
 そうか、長野と、そんなことになってるのか。
 長野にはずいぶん長く居た。
 ぼんやりと。かつて何年も旅しつづけた、長野の景色を思い描く。
 そのうちの一箇所でもって、小指は……こんなふうになったのだが。
 だけど。
 あの地でも、誇らしげに広がっていた。
 春に、枝にふんわりと白い花が。夏にどんどん膨らんでいく実が。秋にはもうたまらない芳香を漂わせる果実が。
 どんなどす黒いシミがあったとしても。
 どうしたって愛おしくなる、なじんだ風景が。

 なんとなくお役所感が漂う建物を入って、エレベーターで二階へ。
 訪ねたのは、本や書類がごちゃごちゃと、整理整頓ではどうにもならないほど詰めこまれている部屋だった。
 なんとなく大学の研究室を思い出した。
 過去の資料をためこんで何かを研究している部屋。しかも常に新しい情報をも仕入れていかなきゃいけない部屋。
 そういう所はどこも、こういう類似した散らかり方になるのだろう。
「どうもー柴田さん」
 豊が呼びかけながら、室内へ踏みこむ。
「あ、豊くん、ご苦労さん! ごめん、ちょっと待っててくれる?」
 めがねが非常に似合ってる、学者っぽい雰囲気の、柴田という男が。
 ふりかえって豊に礼を言って、それからあわただしく、また前を向く。
 同僚らしい相手と、話しこんでいる最中らしい。
 書き殴りのメモを。顔を寄せ合って、眺めている。
「どうしたんですか?」
 豊が、そのメモを覗きこもうとしながら、聞いていた。
「うん、電話の相手の言ってることが……チョットわかんないんだよ」
 保留状態のデスクの電話を、ちらりと見やりながら、柴田が説明する。
「うわー。英語ですか?」
「ちがうちがう、方言のきつい、おじいさんでねぇ」
「このへんの方言じゃない……んですか?」
「他県の人だよ。新品種の栽培方法の、資料を分けてあげてくれって、紹介された人で。今日ここに、その資料を取りに来るはずなんだけど……」
「来れなくなったってことなのかなぁ」
 豊と、柴田と、その同僚とで。
 仲良くメモを見ながら、頭をひねりだす。
「どんな訛りですか?」
 豊の背後から、口をはさんだ。
「いちばん聞き取れるのは、この『くまがってまった!』って。『でっただもん! でっただもん!』とも、繰り返しているようなんですけどね? あ、正しい発音では……聞き取れていないかもしれないですけど」
 解読できないメモをこちらに示しながら、柴田が言う。
 なつかしい気分に襲われながら、口を開いた。
「『こんがらがった』『大きなもの、大きなもの』って、言ってるんじゃないですか」
「え?」
 柴田がめがねごしの目を、まっすぐにこちらに向ける。
「たぶん、道に迷ってる……んだと。もう現地到着してるんです、きっと。大きな目印が欲しい、ってことなんじゃないでしょうか?」
「そうなんですか」
「まちがいないと思いますよ」
 方言に関しては。ここ十年で、人より妙に豊富な知識を、得たけれど。
 その中のどれとも比較にはならない、一番まちがえようのない方言だ。
 保留ボタンがようやく解除され、柴田の同僚のほうが、電話をとる。
「もしもし、大変おまたせいたしました。ええと、目印はないのか、ってことでしょうか?……あぁ、やっぱりそうなんですか! そこから何か、見えますか?……はい、そこですとねぇ」
 そう口を動かしながら、ありがとう、と目線だけで挨拶してきた。
 どういたしまして、と軽く一礼する。
 そして豊達の方に向き直ると。二人とも、なんだかぽかんとして見上げてきていた。
「あの方言の農家にも、豊君の家みたいに、お世話になっていたことがあって。聞きかじったことがあるんですよ」
 予防線として、説明しておく。
 まるっきり嘘ではない。生まれた時から二十年ほど居たという部分を、省いただけだ。
「……あーそうなの。けどほんと、物知りだねぇ、原本さん」
「ずいぶんと長くお世話になった、ところでしたから」
 そうやって、豊だけを警戒している背後で。
 柴田という男のほうが、バタバタと、机の上を片づけだしていた。
「いや、どうもありがとうございました。今、お茶を……」

「あ、原本さん、先に車もどっててください」
 エレベーターで一階まで戻るなり、豊がそう言い、足を止めた。
「前に持ってきて、そのまま貸しちゃったノート、コピーが済んで返してくれるそうなんですけど……。事務の方にあるそうなんで、ちょっと行ってきます」
「ここでお待ちしてますよ」
 ロビーに視線をやりながら、そう返した。
「あ、じゃ、すぐ戻りますから」
 豊はそう言って、タタタッと受付の方へ行く。
 事務員と、二言三言かわして。なぜか、室内の奥のほうに導かれている。
 楽しげな笑顔を、両者ともしていた。
 ……なんだか、思ったよりかかりそうだ。
 そう予測して。トイレにでも行っておくか、と思いながら。肩の力をぬき、ふぅと息をはく。
 正面玄関から、自動ドアのガーっという音がした。
 閑散としたロビーに、新たに客がやってきたらしい。
 目を伏せたまま、その靴のあたりに、ぼんやりと目線を当てた。
 ずいぶん古びた靴だった。二十年前に買ったんだと言われても納得できてしまうような、型のデザイン自体に、存在する古さ。
 それが歩いていく、エレベーターの方へと……。
 突然。
 バタバタと足音を跳ねさせて、急に進路を変え、こちらへと駆け寄ってきた。
「――冬樹っ?」
 顔を上げると。
 走り寄ってくる、その人から。
 襲ってきた、なつかしさは、さっきの方言より、ずっと激しい――。
 見事にハゲあがった頭、自分より頭二つ分も小さな背、なにより、ひょっとこのような赤ら顔が特徴的。
 ……ずいぶん、年を取っていた。
 隣接する畑で、やっぱり林檎を育てていた、おじさん、は。
「冬樹……、な、なしたんず、すった、痩せて」
 気にかけていた人間を。
 遠い土地で見かけた驚きと。
 その人物があまりに変化した容貌になっていることへの、狼狽で。いっぱいでいる。
 表情を浮かべないように心がけて、見つめ返しながら。
 無感情に聞こえるように抑えながら、口を開いた。
「どちら様でしょうか」
 激しくゆらいだ相手の目を。
 かわいがってくれた人の、心裂かれる。傷つけられた様子を。
 もはやそれを見てもまるで動じない、自分の心を。
 形として、胸の中におさめながら、
「人違いではありませんか」
 迷えないままに続けた。
 拒絶を伝えるだけの。
 別離するためだけの、セリフ。
「……んだ。んだ……」
 自分自身をムチ打つように。
 二度くりかえし、なんとか納得していっていた。
 そして、涙をこらえるように、うつむいて。
「体さ……気つけへ。……気つけへ」
 こちらを見上げないまま、そう絞りだしている。
 体重が四分の一ほどなくなった、顔つきは別人のように暗くなった、小指はねじ曲がっている、そんな、すさんだ風貌の。
 かつての隣の子どもに。
 おまえのおむつを替えてやったんだぞって、いつだってからかっていた。幼かった隣人に。
 いたわりだけは、どうにか残したかったのだろう。
 できることなら慰めたいほどに。
 打ちひしがれた様子で……自動ドアのほうへと歩いてゆき。
 建物の外へと、よろめくよう、出て行ってしまう。
 ふと気がつく。さっきの電話で、とっさのトラブルに興奮して、方言のまま、まくし立ててしまってたのは。
 あの人だったのか。
 なら、まだ。ここの用事が。済んでいないだろうに。
 ……どこかで。
 泣く、んだろうか。
「原本さん」
 切っていくように速くめぐらせた視野に。
 非常口からの日光を、逆光にせおっている全身があった。
 厳しい、豊の顔つき。
 一部始終を見ていたらしい。
 ……もし、名前を呼ばれるところから、聞こえていたのなら。
 バレバレだろう。
 本当は深く知り合っているはずの人物を、追い払ったこと、邪魔にしたこと。
 ――越えようがない確執があることまでも。
 豊と二人して、湖にでも、落とされたみたいに。
 妙に静かだ。
 階上からの音はこず、あるはずの近くの事務室からの物音すら、空調の作動音だって聞こえない。
 対流しているのは視線だけ。
 ぶつけられてくる目に、怒りという熱はない。
 分析してこようとする、冷たさもない。
 それでも密度も、そのゆるぎなさも。
 苦しくなるほどだった。
 まるで澄んだ水の流れ。
「もう帰れますか」
 ばしゃりと、むりに水を破った。
 何かを言い出される前に。
「……はい」
 素直に応じた豊に、とにかく背を向けて。
 先導して、駐車場へといざなっていく。
 自動ドアを開いたが、隣のおじさん、は既にどこにもいなかった。
 やっぱりどこかで、泣いてるんだろう。
 ……あんな傷ついた顔をされなくったって。
 知っている。後悔されてないとも、懺悔されてないとも、思っていない。
 あれに関わった誰も彼も、それぞれの罪の深さぶん、それぞれが出来るだけ。
 多分。悔いてはいるはずなんだ。
 ただ足りないだけだ。
 圧倒的に少なすぎるだけだ。
 しんだひとが、むくわれないだけだ。
 運転席側のドアをあけた自分を、めずらしく、豊は制止しなかった。
 豊自身が助手席に座ってしまってから、ようやく、ハッとした顔になって……それでもさすがに今日は、代わります、とは言い出さず。席にもぞもぞと納まり直す。
 ハンドルに右手をのせながら、キーに手をかけると。
 一言も尋ねてこなかった豊が。
 ようやく。
 固まりきった顔で、短く発した。
「『くまがってまった』『でっただもん』って、方言なんだよね」
 横目を合わすと、緊張ではりつめた瞳で見てきていた。
 つららの先端でも。どうにか握りしめて、掴もうとしているような。
 切なさをいっぱいに蒸発させて、
「どこで覚えたの」
 慎重な発声での問いかけは。
 やはり短く。
 やっぱり。熱くも冷たくもなかった。癒し手じみて。
 ……だけど。
 どうしたって、心をすべっていった。
 豊を見つめたままに、キーを回す。
 駆動しだすエンジン。
 まるで人体のように、ブルルルル、微細に車体が震えだす。
 こんなにも対立したふたつの人間を。
 そしらぬ顔で一まとめに、くるみこんでしまっている車内。
「……昔」
 生まれ育った故郷で。
 もう戻れない場所で。
「聞きかじったことが、ありまして」
 そこらじゅうの人間が、みんな話していた単語なもので。

 ◆

 わずかな光源しかない夜でも、沢山の球形シルエットが、目に華やかな。収穫間近の林檎畑。
 もぞもぞと自分の隣、豊は、落ち着かない。
 いまにも立ち上がってしまいそうな様子を、さっきから見せている。
 そろそろ本格的な冬を迎える、寒風ふく、林檎畑に。
 いつもどおり自分から誘い出したくせに。
 台本すら開かないありさまだ。
 ……昼に目撃したシーンが影響しているのだろう。
 さすがに、あきらかに。何か問いたげで。
 遠慮がちにぶつけられてくる視線を、時折、感じている。
 教えてやる気なんかないので、横目でそれを知りながらも、無視しっぱなしなのだが。
 だけど、また、首を巡らせた気配のあとに。
 ふと。
 一転、まぶしく、輝いた。豊の表情。
 ざっ、と。
 音まで立てて、座りなおして……大きく発声した。
「林檎は好き?」
 救いを見つけたように、勢いよく尋ねてくる。
 歯までこぼした笑顔で。
 予想外で、目が回った。
 ……そんな質問でいいのか。
 不審に思っていることは。
 ほんとうは……殴ってでも問いただしたいことは。そんな内容じゃないはずだ。
 必死さを浮かべて、ひたすら、見上げてくる茶の瞳。
 哀れにすら思えるほど、ミエミエに……。
 たった一つの返事だけを求めていた。
 ――望む回答とは逆の……いいえ、を言う必要もないし。
 好きかって、そんなの。
 その答えなら、しらばっくれる必要もなく。
 おまけに。
 考えるまでもない、事だった。
「大好き、です」
 他のものとは。
 比べることすらできない。
 ――切り離すことはできないよ。
 あの紅、薫り、歓びさえなければ。
 故郷も両親も妹も。
 なんにも失わずに、済んだんだとしても。
「うん」
 頬を、薔薇色ってほどに染めながら。
 両手をそれぞれに握りしめて、肩をはずませて。
 豊はなにか、非常に喜んでいる。
「うん。よかった」
 心から安堵したように。
 温かな息を、ふんわり漂わせて。
 そう、味わうように口に含んだ。
 ……なにがよかったんだろう。
 林檎が好きなら、生きていける。
 林檎が好きなら、すべて、だいじょうぶ。
 まるでそんな風な。
 ニュアンスで。
 そうして……尋問は終わってしまったらしい。
 豊は、すっかり緊張もとれたようすで。台本を膝にのせて、ぱらぱらと広げている。
 気楽にすら見えるほどの、リラックスした笑みが口に浮かんでる。
 ……こっちがあきれてしまう。
 今日の見てしまった、昼間のやりとりも。ものすごく怪しかっただろうに。
 あの『人違い』だというやりとりで、少なくとも……。
 故郷を追われた。故郷を憎んでいる――。
 そんな人間であるという雰囲気は、伝わってしまったはずなのに。
 豊の膝の上で、開かれた台本の上まで。
 ぐいと長く首をのばして。
 豊の目を、のぞきこんだ。
 驚きをたたえて合わされてくるのは、純粋な日本人のわりには、淡い色の瞳。
 反射的に胸に広がるのは――優しい気持ちだけ。
 どうしたって似ている。
 はずみではねた毛先の、そのか細さも。
 まだ、さっきの喜びの紅潮を残してる、頬の白ささえ。
 初日に……。
 敵であることも、殺すのだ、ということも忘れて。
 すんなり、よろしく、と。
 優しい気持ちで、思わせられてしまったように。
 確実に、強姦されたことを、思い出している。
 緊張している豊の態度、に馴染むように……そうっと。
 鼻先どうしを、擦れあわせる。
 暖め合おうとしてる動物同士をよそおう、懐柔じみた始め。
 そのまま口で、唇を。一瞬かすめると。
 キスされるにしても……もっと、首を絞められるのとセットだ……くらいに。身構えていたはずの豊は。
 明白に、全身から力を、スウッと抜いた。
 それでもまだまだ、乱暴なものを予想してるはずの、豊へ。
 柔らかく、友好的に。
 まるで愛情みたいに。
 唇で、唇を、幾度も撫でていく。
 しつこくそうしていると、息継ぎにちいさく開いた、相手の口元。
 舌先をくぐらせ、唾液もわずかに交わらせる。
 ……ハムスターかなんかみたいに。
 こまかく震えだした、豊に、
「さわっていい、ですか」
 ――ダメと言われりゃあ、今回は引くかな、と。
 無責任に、引き際を考えながら。
 豊のあごに、手をあてて。首との境目のくぼみに指を這わせながら、たずねた。
 どんな手でも使って、できるだけ傷つけたい。
 最後に致命傷を与えるだけでは足りやしない――そう、望んでるわりには。
 どうも……このあいだみたいな。
 不公平な暴虐、としか形容できないものでは。
 自分は満たされない。
 逆に、自分も傷ついてしまう、ようだと。
 豊を強姦してみて、知ってしまった。
 だから強姦する気は、今日はない。
 ただ、できるようなら、やっぱり。
 嫌がらせ自体は……どんな些細なことでも、したいから。
 強姦にする気が、こっちになければ。
 前のように、圧倒的に裂いてしまう、ことは、ないはずなのだ。
 つっこんでも怪我しないところまで、準備してやることは可能なはずで。
 なんだか前回、豊は、最終的には……。
 抵抗をあきらめて『かばってくださる』ような。態度にもなっていたんだし。
 豊が協力的ならば。
 こっちの良心が痛まない程度に、いたぶれるはずだった。
 親指を、下唇に移動させて。キスの代わりのように、緩く、さすってるうち。
 豊は震えを止めていく。
 ぐい、と腕で引き寄せたら、そのままもたれかかってきた。
 絡みあう形で、密着する。
 すこしは安心できてきたのか。
 ホゥ、という豊のため息が、大きく出ていって。
 それが首筋に、くすぐったくて……温かかった。
 ふたたび顔を重ねようとすると。
 唇にあたる寸前に、豊の方からも、伸び上がってきた。
 そのせいで、カチャ、と。ズリ落ちかかってたこちらのめがねに、豊の顔が当たり、鳴る音がして。
 腕の中で二秒とたたないうち。
 豊は、すとん、と伸び上がる体勢を、やめた。
 自分からキスをしたせいか、紅潮がさっきよりも酷くなってきてる頬。
 ふ、と鼻息まじりの、強い息を吐いた。
 そして、やや短気を起こしたような、少年らしい荒さで。右手をのばしてきた。
 ……目的、がわからなかったので。
 観察したままだった、その動作。
 めがねに。ふれられた瞬間。
 両肩がビクリと上下するほど、動揺した。
 相手にもその衝撃は、広がっていったようで。
 軽く打たれたように、豊は、動きを止める。
 それでも……あきらめきれない、らしかった。
 豊は腕をおろさないまま。焦れて、歯噛みしてる発音で、
「……――さわって……いい?」
 尋ねてくる。
 このあいだ、この畑で。
 胸ぐらを、締め上げられるきっかけになったこと。
 めがね、さわるなって……奪い返したこと。
 豊は、ちゃんと覚えていた。
 なんか大切なものなんだと。
 根拠はなくとも。
 豊はきっと……知っている。
 ……女の思い出だとでも、ピント外れに、思ってそうだが。
 じぃと見上げてくる豊の目と、じっくり見合う。
 たかが、めがねだが。
 あの頃からかけていて。
 あの子が選んで。
 だから。
 ――こいつが、ふれていいものじゃない。
 わずかにでも神聖なものだから、罪人がさわろうとしてくるなら、それだけで。
 その罪人の、ほんのり白い指も、首骨も、折ってしまいたくなるようだ。
 ――だけど。
 白い肌と、弱々しい髪質と、茶色い瞳と。
 そういう者の手に。
 拾い上げられて。
 置きっぱなしになってるよって、たとえばコタツの上から。
 扱われて……運ばれて……渡されて。
 このめがね、って。
 そういうものだった。
「……――はずして、ください」
 依頼すると。
 まるで救われたような表情で、眉間を明るくする。
 やっぱり背伸びに、のびあがりながら。めがねの中央に指をかけてきて、丁寧に、上へ、浮かせていく。
 懐かしい感触だった。
 うたたねの早朝、『また徹夜したんだ……わー、この問題集、すごく字、細かい……』そんな、小声を、かすむように聞きながら。
 近づいてくる、小さな指の気配。
 起こさないように気づかいながら引っぱられるめがね。
 なかなか取ることができなくって遠慮がなくなってくる力。
 耳の後ろを乱暴にめがねフレームにひっかかれて、半分眠ったまま、した、苦笑。
 ――そこまでも。
 一緒な、順を追って、重なってしまう。
 どうしても愛しい――。
 ようやくめがねをはずし終えて、両手で、捧げ持つようにしてる豊。
 その、うつわの形にした手から、めがねを受け取った。
 いじればすぐに変色してしまう白い林檎の花を、痛めないように撫でる。
 そんな加減で。
 豊の頬を、礼のように、なぞる。
 なぞったはしから、豊の頬は、また少し赤みを増したように見えた。
 頬からおりて、そのまま鎖骨に、掌を押し当てた。
 少しずつ豊へと、体重をかける。
「ぁ」
 一瞬はあわてた豊も、逆らいはしなかった。
 ほどなく草の上に、茶色い弱い毛先が散って。
 倒された豊の、目線が、うろうろと泳ぐ。
 当然。本心では、怖いのだろう。
 この間はイイ目なんか、全然、させてやらなかった。
 もこもこと厚手の、黄色いパーカーから、脱がせていく。
 季節を追って、順調に気温は下がっていっているから。
 今日ははだけさせる程度にして、まぁ下は全部ぬがすけど――、と算段していると。
 抵抗とも言えない……不確かな、仕草で。
 豊が、左腕につかまってきた。
 先へと辿って、左手を、縋るように握ってくる。
 小指の。
 無い爪の、ねじけた皮膚の部分は、どうしても鋭敏で。
 ビクッと反射的に身じろいでしまう。
「っ、ごめ、ん」
 自分はさらに痛い、謝られるべきことを。これからされるんだろうに。
 大きくあやまって、豊はすぐさま指をほどいた。
 離されたばかりのその手を、こっちから、握り返してやった。
 小指の爪があった部分に、もう触れないように。跳ねる魚みたいに逃げようとする豊の手に。
 強引に、むしろ小指を中心に、与えておいた。
 ためらった風ながらも、豊は、
「うわ……」
 ジーンズのファスナーを開けられ、下着ごしにどんどん加えられだした、卑猥に、流されて。
 やっぱり縋るポイントが欲しいのだろう。素直に頼ってくる。
 ……この小指を、与えておけば、油断するはずだ。
『ほんとうに痛いと思ったときは、このねじれた指を攻撃すれば、中断させられる』
 そんな風に。油断するだろう。
 指なんか何本だって潰されてやる、という決意を、豊は知らないのだから。
 ジーンズを腰履きにずらしてやり、はざまに手をさしこむと。
 痛みに反射的にすくんで、面積を小さくしていく、筋肉を緊張させていく。
 内へとちぢこまっていってしまう。
 まるで違う、肉の硬さを覚えてる。
 逃げたい。逃げれないならせめて、閉ざすのをやめなければ、余計ケガをする。
 叩きこまれた肉体的恐怖によって……そういう微妙な反応を示してる。
 それを、さぐった指でもって、知って。
 ……処女じゃなくされてるもんなァ。
 加害者は自分のくせに、納得しつつ。
 草に、手の甲をガサガサとくすぐられながら。
 指からなら逃げきれるか、と縮こまる反応を、しそうになってる谷間を。しつこくなぶった。
 もどかしい刺激になるよう、小指でカリカリとひっかいて。
 たまに、指の腹でポンポンと押して、なだめて。
 緩和へと、みちびいていく。
 そんな工程を、せっせと踏んでいると。
 ふと視線を流した先、豊の、脆い茶色の前髪が。
 ひたいにペッタリと、貼り付いていた。
 みょうに不規則な息も、あげている。
 欲望が……おさえきれなくなった。
 こいつに、心から、優しくすることは――。
 絶対にしちゃあいけないこと、のはずなのに。
 前髪を口で、左右にかきわけ、おでこを露出させた。
 おでこを露出させると、ますます……キューピー人形かなんかのように、幼くなる印象。
 白いひたいに、唇を落として。
 髪の表面を、唇でたどって。髪をつるり撫で下ろす。
「んん……」
 あきらかに、気持ちよさそうな。
 油断した――柔らかさに酔っているみたいな、豊の声がした。
 また頭の……てっぺんに口をつけて、スルスルと、毛先へすべらせると。
 ふぅ、はぁ、と、そのすべらせる動きに、同調させようとするように。息をくりかえしているので。
 何度も何度も、続けてみた。
 豊が、ふぅ、と。充たされたように、ついに、深く大きい息をつくまで。
 なんでこんなに、……しっくり、くるんだろう。
 あの子にしてたみたいに。
 優しく、できると。
 どうして、何かが、溶けていくみたいな。
 ラクな気持ちが、するんだろう。
 自分のファスナーを開けようと、左手を豊の手から抜くと、
「っあ」
 すがっていた小指をほどかれて、約束違反だ、って言うように、豊が短くこぼした。
 小指を『弱みとして与えた』の、忘れてたこと。
 いまさら、思い出したが。
 もう一回与えなおそうとは、思えなかった。後悔もできず。
 豊の腰を、片足からジーンズを抜きながら、宙に、両手で抱え上げ。
 がっしりと固定したまま……自分のつばを、片手に吐きつけて。
 それで繋げる箇所を、にちにちと濡らしながら。
 挿入しきれていないまま、どうにかなりそうな角度を探す。
 経験した怖さがあいまって、豊の、淡い肉の部分が、柔らかく、不安定に、さざめくようにわずかに揺れる。
 尻の、立ち上がればくぼみになるような箇所を。
 ざわざわと、丸めた五指で刺激して、弛緩をうながしながら、
「ァッ、ァ……」
 痛みが優先されないよう、小刻みで、わずかずつ詰め、繋げていく。
 半ばまでは収めて、豊を地におろし、体重をかけてかぶさると。
 ――そのとき、血の匂いがプンと漂ってきた。
 ……可能な限り、ゆっくり進めたのに。
 そんなに手順に、致命的な問題はなかったように思う。
 おそらくは。
 前回の傷が……まるで治ってなかっただけ。
 不機嫌に。目前で、瞳を固く閉じて苦悶する、豊の左耳をクイと引いた。
 ただの愛撫に感じたらしく、はく、と、豊は。口をまるく、開けるだけだった。
 なんで断らなかった。
 今日は、無理にいたぶる、つもりはなかったのに。
 なんでそんな。
 無謀なこと、する。
 なんでそこまでして気づかってくるんだろう。
 もしかして――不倫バラされまくるより、ヤバいことになってきてるって――いい加減、いくらガキだって、わかるだろう?
 なんで、まるっきり、あの古い林檎の木でも、心配するみたいな。
 せいいっぱいでの思いやり、かけてくるんだろう。
 つつくだけのように、腰を前後にごく軽くゆする。
 豊の、若く引きしまったウエストを。
 両手でいやらしく、痴漢のように、べたべたと。手形をのこすように、強めにさわりまくった。
「な、……っんか」
 はくはく、と、金魚みたいに、豊が何度か、口を開閉させてから。
 何か言わずにはいれないように。
 大声で口走った。
「ヘン……っ!」
 ――そりゃ少なからず、『痛いだけ』じゃなくなってきてんだよ。
 言葉にはせずに。
 頭で、調子にのりながら。
 妙にはしゃぐように……嬉しかった。
 ――そりゃそうだ、こんな変化球な形であれ、危害を加えることに成功して。
 しかもアブノーマルな開発を、豊が、されていっているんなら。
 それは、この家の被害が拡大してるってもので。
 嬉しくて当然で。
 ――でも。
 なんか、それだけでは、ない、ような。
 妙に明るい……喜びだった。
 眩しいみたいに、糸目に、愉快そうに笑っている自分が。鏡の必要なく、わかる。
 視界が狭いその目に、困ったように見上げてきた豊が、映ってて。
 それをしっかり見ようとしても、理由もなくにじみだした涙が、眼表面に染みて、きて、沁みるように痛くて。
 茶色い毛玉を、首元に抱きこむ。
 両肩をかかえこんで、奥へ、奥へと蠢かすと。ひくひくと、いっぱしに女みたいに搾ってくる。
 めがける、熱い、果て、
「うぁ――……」
 おそれているような響きで。
 注がれた、豊の悲鳴が。
 些細に、長く、響いた。
「っ、っ……んッ……」
 やりきれなさを逃がすように、首を左右しはじめた、豊。
 ふわふわとくすぐってくる、その毛先へ、汗ばんだ首筋をすりつけて。
 豊の性器を揉みしごいてやりながら。唇をとがらし、頬に口づけると。
 こわばりきっていた両肩が下がり、じょじょに脱力していく、豊の躯。
 腰元から這い上ってくる余韻に合わせて、うめいてしまいたいくらい。そんな満足感。
 ……憎い存在だから、これ敵だから。
 じわじわ、いたぶれてさぁ。
 んだから嬉しんだよ。
 お兄ちゃんは。
 ――いいわけじゃねぇ、ごまかしてるよな、と。
 空耳がした。
 自分の、声で。

 ◆

 絵画のよう、という形容が、あてはまるようで。
 見慣れすぎた、という印象が、あてはまる気もした。
 茶色の髪を、深緑の葉っぱに埋もれさせて。
 たくさんの赤珠がさがる林のなか、白い素肌が浮いている。
 木に、抱きついてる。
「――ゆ」
 豊くん、と、発声しようとして。
 おかしいほど、喉を、息が、通らない。
 誰かに、いじめられたのかな。
 なんか失敗、したのかな。
 気の強い友達、なんかには。一言だって言い返せないような子だから。
 むかしから林檎畑の、まんなかあたりで。
 ぜったいに安全なかくれんぼの場所にしてるみたいに。
 木によりそって、悩んでんのが、クセ。
 ……どうしてこんなに、あちこち重なってしまうんだろう。
 濃い赤と、葉の深緑、木のこげ茶色。
 林檎畑のあざやかな色彩にまぎれて。
 どうにも白くて、自分よりいつだって小さく、幼くあるもの。
「……原本、さん?」
 むこうから声をかけられて。
 やっと、声が、溶ける。
「どうし……ました?」
「いや、この木が、ね……。どーもヤバイ感じで」
 豊は木を仰ぎながら、話しはじめる。
 そういえば『おじいちゃん』の家でも。
 一本きりの巨木に、よりそって……抱きついていたっけか。
 切られる木を、いたわって。
「ん〜」
 豊が手をのばし、葉を一枚、ちぎりとった。
 そのまま唇に運んで。
 カシ、と歯で小さく、口内へかじりとる。
 もぐもぐ……と、渋そうな葉っぱを、よく味わいながら、
「うーん?」
 首をひねるような発音で、またうなった。
「やっぱ窒素系、足りないかなぁ……この木」
 言いながら、ふたたび木の幹に、両手をまわして。
「いま肥料やると、実がむちゃくちゃになるから、収穫おわるまで我慢してくれー」
 ムギューという風で、しがみつく。
「……葉っぱ」
 ぽつりと、言い出していた。
「食べる、んですね」
 洗いもしないままで。
 それほど木を、自分と同じものとして。
 身近に置いている姿。
 葉も。木の枝すら。
 口に含んで、手当てを悩む。
 味覚まで、五感すべてを駆使して……木の体調を、感じ取ろうとする。
 原始的で、経験にもとづこうとしていて、誠実。
 それは誰かの背中と一緒だった。
 真剣に農業に向き合う。生育者の。
「あ、あぁ、農薬とか?」
 豊が、うろたえた様子になり。
 どうやら機嫌をそこねたふうで……責めるように見上げてきた。
 一般人から見れば、妙な反応、に……なるんだろう。『体を心配されたのに、なんで怒るんだ?』と。
 農家の人間は『農薬は体に悪い』という一般人の認識を、とにかく恐れる。
『農薬を大量に使った商品だ』という認識を嫌悪するのの……延長だ。
 昔、居候していた農園に。テレビ取材がきたことがあったけれど。
 農薬散布の風景も撮らせてくれと切り出されるなり、撮影スタッフを叩き出す勢いで、拒否していた。
 農家は、農薬知識を、実用的には持っているし。
 おまけに散布の時に、風向きで大量に吸ってしまって、具合が悪くなった、などの現象で――。
 経験的、にすら知っているくせに。
 そうなのだ。
 自分達の作物が、消費者に忌避されるのを、それだけ警戒している。
 自分自身が警戒することで、ますます世間の目が厳しくなってしまう、と信じているのか。
 強がり、のようなプライドをもって。マスクをせずに農薬散布している老人すら、よくいる。
「いえ……」
 もし、農薬散布したて、だったとしても。
 その葉っぱ一枚食べて、すぐに健康に悪い、となるような。
「そんな濃い農薬……散布してたら問題でしょうに」
 洗わないといけないんじゃ、と思うとしたら。土ぼこりを大量にかぶっているとか、そういう時だろう。
 食卓でサラダを楽しむんじゃあるまいし。
 あの人だって。袖でぬぐう程度で、ぱくりと口にしてしまってること、ばっかりだった。
「だよね〜」
 偏見ないんだ、と、あきらかに表情をはじけさせた豊が、
「無農薬って、なんだろ、高級感なのかなぁ?
『無農薬の林檎ないの』とか……最近よく言われて、困る。しかも、も、すっげー気楽に言うからさぁ……」
 さらさらと、不満をこぼしはじめる。
「ねーちゃんも、『父さんにたよりっぱなしじゃいけない、他に無農薬野菜を売ってくれるところ、見つけるとか、改善していかなきゃ。私の料理の腕で、私のお店、やっていけてるんじゃないんだもんなー』って……よく言ってるし……」
 豊はまた、林檎の木を仰ぐ。
 その仕草につられてか、両肩の落ちた姿勢。
「無農薬って、それだけ人気はスゴイんだろうなぁ。林檎でも……そりゃあ。できれば。いいのに」
 のんびりとした、スローな口調なのに。
 のんきに、言ってるようには……見えなかった。
 ――井戸の底から、青空を見上げるような、はかない目をして。
「林檎は……おいしいですからね」
 ぱっとこちらを振りかえった豊。
 茶色い瞳が、もやを払って、クリアに輝いている。
『林檎は薬でとる』
 そう言われるほど、林檎は、農薬と切って離せない作物だ。
 赤く、大きく、甘く。
 香りさえも良く。
 アダムとイヴの、聖書の古代から、特別とされてきた果実。
 それだけ際だった美味さは。
 鳥や虫や菌を、いかにも引き寄せてしまう。
 おまけに、結実に、それだけの情熱をそそぐせいなのか。
 代償――木自体はさして強くもなく、病気にだって虫にだって負けてしまう。
 剪定しなければ木の新陳代謝を、適正に、保てないくせに。
 剪定でたやすく末端の傷口から、病気に感染してしまう。
 畑一帯の林檎の木が、全滅する事態にも、すぐに陥る。
 だから薬は、欠かせないのだ。
「ほんとに……」
 動きにくい小指を、こぶしの内側へ、握りこむ。
 悔しさを――固く閉じこめる。
「林檎が、好きなんですね……ほんと、に」
 羨ましくて。
 目が、かすむ。
 もし、豊の年のとき、わかっていれば。
 自分だって、実は、林檎が好きなんだと。
 畑が大切なんだと。
 故郷を愛してるんだと。
 そんな自覚さえあれば。
 世界を広げて、なにか夢見てみようとすることは――必然的にできなくなっていたかもしれないが。
 それがなんだって言うんだ。
 世界が狭くったって、夢見たこととかなくったって。
 こんなことにだけは、ならなかったはずだ。
 ――羨ましいよ、心底から。
 這ってるってことと同じだっていい、地に足をつけて、あの頃を、過ごしていれたなら。
 何にも、手にいれること。できなかったとしたって。
 持ってたものすら、ぜんぶ、失うなんてことだけは、なかったのに。
「うん……。なんか普通に……一生、ここで林檎育てていきたいって。思うタイプみたい。おれ」
 その返事、聞く前から。感覚で理解してしまっていた気がする。
 自然と一部が同化してしまってるみたいな。
 どこかハッキリと、静けさをもった人間。
 植物に似た。
 植物を育てるのに向いている。
 ……そういうとこも、似てるなって。
 やっぱり思い知るよ。
『都会って合わないと思うから、ずっとここにいたい』
 って。
 どうせ些細なことで。でも、いつもみたいに、本気で落ちこんでいたんだろう。不安そうに。
 林檎の木にうもれながら、零した。
『ああ、ずっとここにいればいいじゃないか。おれは継がないんだし、ちょうどいい――』
 口には出さずに思いながら、木に守られてるみたいなその姿を、見つめていた。
 生きていた、最後、中学生のあの子。
「……あ、原本さん、ひょっとして迎えに来てくれたの?」
 林檎の木から、身を離しながら。
 豊が、ハッとしたように言った。
「……ええ」
 二人がかりで、町外まで出かけなければいけない時間が迫っていて。
 その為にここに来たのだった。
「ごめんね、そーいや、もう時間か」
 張られた、鳥よけのギラつくテープをくぐって、こちらに出てくる。
 しかし、やって来る途中で。
 ピタ、と、唐突に、豊は両足を止めてしまった。
「ね、原本さん、運転、うまい……?」
「豊君のほうが、うまいですね」
 免許とりたての高校生だが。
 豊の運転は、なかなか堂に入っている。
 なにより地元で、いつも運転中、使う道は知り尽くしている雰囲気があった。
「や、……でも、そうだよね。原本さんは、今日はじめて行くんだから、やっぱおれがする方が……」
 ごにょごにょと、要領を得ずに言ったあとに。説明してきた。
「ガードレールのない断崖絶壁、通らないとダメなんだ。もう、東京とか、町だったらね。きっと。とっくに『殺人峠!』とかニュースで批判されてるよーな、難所なの。……ハンドルきりそこねたら、すぐ、ガケ下おちる、って感じで。サイドミラー釘づけで、全力でハンドル操作しないと、無理なんだよ。大げさじゃなく、ここで死ぬかも……! って、毎回思う」
「……いいかもしれませんね」
 まだ死ぬわけにはいかない、こんなところで死ぬわけにはいかない。
 誰よりそう考えてきたのは。
 今こそ、最高にそう考えているのは。
 自分こそのはずなのに。
 かなり本気で、思った。
「なに?」
 小声すぎて。
 聞こえなかったらしい豊が、聞き返してくるが。
「おまかせしますよ」
 まったく異なる、無難な言葉にすげ替えて。
 数歩先にいる豊を、ようやく追う。
 豊と一緒に、ころげおちて、事故で突発的に終わるなら。
 それならもうどうしようもない。
 そんな気分が、一瞬、したのだ。
 一瞬だけだったけど。
『壊していい』と。
 一点の曇りなく、信じながら、壊すことは。
 自分には――もう、できないんだろうと。
 感づいていても。
 自分のことだから、わかっている。
 ぜんぶ失って、やっと残った。
 たった一つの夢だから……。
 ――生きてる限りは、あきらめないのだから。

 ◆

 隣で、いつもどおりに座っている豊が、左右に揺らしているものに。つい、目がゆく。
 藍色の、つぼみのような花。
 松葉色の、筋の強そうな草。
 ……夏の花のはず、だが。
 生きいきと、豊の手のなかで、弄ばれている。造花にしては不自然さが見受けられなかった。
「この、りんどうね。今日もらった……おみやげの中にあったんだよ」
 視線に気づいた豊が、勝手に説明してくれた。
「なんか、ドライフラワー? の、新種なんだって」
「……プリザーブドフラワーですね」
「そう言うの?」
「ええ……水分の代わりに、保存料を吸わせて……着色もして。そんな感じに作るものですから。そう、ドライフラワーの新種、に……近いかもしれませんね」
 昔の、バイト先の小さな工場のひとつで。
『今度、作ってみようか』と悩んでいる社長がいた。
 潜りこめる農家が見つかったので……一箇月たらずで、そこも辞めたから。そのあと本当に作り出したかどうか、は、不明だが。
「今日行った、安代町ねぇ。りんどうが名産だから。取引先に、おすそわけでもらったから、そのおすそわけ、だって」
 今日、断崖の道をこえて行った先で。
 豊は、また色々、お礼にと持たされていた。
 その中にあったのだろう。
「……もともと、自生でパーッと咲いてて、それがきっかけで、産地化したんだってさ……」
 さやさやと。
 たくさんの花をつけた、りんどうの茎をゆらす。
 鮮やかで深い、和を強く感じさせる、青と緑。
「賢治も、その、野生のころの花畑、何回も見たことあったのかなぁー。銀河鉄道の夜にも、いっぱい。りんどう出てくるよね」
 膝の上、開かれっぱなしだった台本を。パラパラとめくる、豊の指。
 そのため、左手にサッと持ち替えられたりんどうが。
 豊の、そっと握られた手の中。くるり、不安定に一回転した。
 目も離せなくなるような、強い色のはずなのに……袋状態になっている花の、輪郭のせいか。
 不思議なほど印象がつつましい、りんどうの花。
「……しおりにするんですか?」
 なんで、ここに持ってきたのだろう。と不思議に思い。
 一つだけ、思い当たった。
 はさんで潰してしまえば、しおりの代わりにはなる。
 りんどうの出てくるページにでも、記憶の目印にと、はさみこんでおくのかもしれない。
「え、しないよ? 台本に、りんどうが出てくるから……」
「はぁ」
「え、だって、原本さんが……言ったじゃん」
「……。ああ……」
 もうだいぶ前だが。
『今日、自分が実際に、さわったもの、見たもの、しゃべったことは。そうそう忘れないでしょう? そういう風に、物語のなかに居る自分を、ちゃんとリアルに想像して、覚えるんです』と。
 そう、アドバイス、したっけか。
 さわさわ、あいかわらず、豊に小さく、揺らされている。
 青紫のベル。
「りんどうも、そうだけど。綺麗なものばっかり……出てくるんだよね、銀河鉄道の夜。鳥の『がん』まで、光るお菓子になっちゃったりするしー」
「ええ」
 やたらと綺麗なものばかり。
 ありえないほどの宝石ばっかり。
 集めて、みたんだろうな。
 妹に。
 ……死者へ捧げるに、ふさわしいもの、ばかり。
「死んだ賢治の枕元には、この『銀河鉄道の夜』の原稿が……遺稿となって、残されていたそうです」
 そう口火を切ると。
 豊が、しずかに見上げてきた。
 なんか、まるで、生徒みたいな。
 一言も聞き漏らすまい。そんな感じの。
「推敲の跡が、読みにくいほど、書き重ねられていて。一番大切に、一番磨きをかけていた、物語だったんでしょうね。賢治、生涯の最高傑作、と。言われるゆえんです」
 聞かせるというよりは、吐露のように。まるで涙のように、するすると。自分の声があふれていく。
「主人公は、ジョバンニで。当然、カンパネルラよりも、ジョバンニに、賢治自身が、より深く投影されていると。研究では推測されています。……そのジョバンニが、カンパネルラと別離し、列車のなか一人、とりのこされてしまったシーンで、『力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。』となったのは。妹のトシと、死に別れた心境を。そのまま筆によって叫んだもの、という推測がなりたつんです。げんに初版の、銀河鉄道の夜では、その叫びのシーンののちに、『ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐ行かうと云ったんです。』と言いつのるジョバンニに、『みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。』と博士なる人物がたしなめるシーンが続きます。……追いかけたい、一緒にゆきたい、一人とりのこさないでほしい。その欲求をおさえこみ、妹の意志をついでいきながら、自分の寿命を生きようと決めた賢治が――常に胸にとどめておこうとした聖書であり決意。それがすなわち、死の床にまで持ちこんでいた遺作」
 アゴを上げただけで目にできる。
 今日も、視界のすべてを受け止めるほど、大きく広がる。またたく銀河。
「銀河鉄道の夜です」
 想像するしかない、銀河の世界に広がるのは。
 車窓から一面になびく、白銀に輝いたススキ。
 揺れて月のような光をはなつ、りんどう。
 虹色の小さな波をたてる、ガラスよりも透明な天の川。
 銀杏の木すら、繊細な水晶細工。
 ……純粋で透きとおったものばかり。
 化学反応で得られる、青い青い炎のような、混ざりもののない――光たちばかり。
 いっぱいに、その旅路を、手向けている。
 あまねく全て、いっさいが、一つ残らず美しい。
 だからこそ。
 地上からは絶対に。
 手が届かないこと、残酷に知らしめる。
 見上げる銀河の夜。
 その中心。
 死にのぼってゆく鉄道を、あまりにも引き戻すことができない。

 つれていかないで。
 かわりにいってもいい、だから。
 なら、せめて。いっしょに、つれていって。

 今日も澄みわたった。
 シンと晴れわたった。
 星降りの天。
 レトロな黒い列車が、その真ん中を、走り縫っていく錯覚。
 死者をおくる鉄道。
 一緒に、分け合って生きていた人たちを、その列車が乗せてしまい。
 もう間に合わず、地上から手錠をかけられながら。
 はるかに見送った、見送った嘆きを持った、持ってきた。
 ぼんやりと遠い銀河に吸いこまれたまま――。
 なんだか意識が、定まらない。
 それでも条件反射で。
 意志だけが、ごぅ、と、燃える。
 ああそうなんだよ、赤いさそり座のよう、強く強く燃えたぎる道しるべ。
 捨てられるわけはない。
 諦められるわけがない、だって、それ、ひとつばかし、なかったら。
 いったいどうして、この闇へ、今まで、
「生き、さらし、て……」
 生きさらしてこれたのか。
 全身が、固まってしまって。
 まるで生きうめになったよう、揺らがない一つの角度。
 ひたすらに夜を仰いでいると。
 水気を、唐突に感じた。
 何もかも、一定程度には乾燥した。ここ最近、雨の降っていない、草むらで。
 人の掌の。
 生体の水分。
 骨ばったところへ接すれば、僅かにへこんでしまう。植物にはほど遠い、柔らかさ。
 首筋に……掌をくっつけて、こられたまま。視線を当てると。
 無言で、心配そうに見上げてくる、薄茶の瞳とかちあった。
 ……あいかわらずのデジャヴから。
 だいじょうぶだよ、と。
 反射の命ずる通り。優しい声で、返してやりたくなるような。
 ……あやふやに、とりなすよう、わずかに頷いてみせるだけにする、と。
 すぅ、と、まぶたで、透きとおった茶色を隠して。
 首を丸めて、もたれかかってきた。
 鎖骨のあたりに、体温を、伝えてくる。
 あごや、ほほをかすめる。脆い毛先。
 伝えあう言葉なんか、持たない……木の葉どうしが。
 隣り合い、重なりあい。
 風から身を守りあうような、接触。
 わずかずつ、豊から、移ってくる体温で。
 空を見上げてつづけることで、こわばっていた首の、筋肉が。ゆるゆるとほぐれていく。ほどけていく。
「…………」
 切なく、嬉しく、て。
 せばまっていく視界。
 赤い炎は、右へ左へ。
 不安定に、闇に、ゆらめく。
 さそりの赤さ――。
 ……消えるわけもないのに。
 なぜ。
 似てるとか、同じだとか、わかりあえるとか。
 生まれてくるんだろう。
 どうして。
 好きだとか。
 現れてきて、しまうんだろう。
 呼吸につられて動く、豊の髪先。
 自分の皮膚を、いちいち、撫でてきて。
 それが。
 愛しく、哀しく、苦しい。
 くすぐったい毛先に、共鳴して、心臓のかたちが、右へ左へ、振られているのがわかる。
 なすすべもない。
 いま炎上へと、また消炎へと。
 赤い炎が、ふるえつづける、その、むき出しの心のわななきを、受け止めつづけるしかない。
 ……ねぇなんで。
 あなたもあなたもおまえも。
 なんで呼んでくれなかったの。
 叫んでは、よりかかっては、くれなかったの。
 ――自分で。
 自分でその理由を、知っている、知っているんだ。
 だから。
 さそりの赤さ、あきらめたり、しない。
 指が全部もがれようと、心臓を抜かれようと。
 この畑、この家族。地を這ってならばイーハトーブとできる地道の楽園を。
 壊しぬくまでは、止まらない。
 ――……それなのに、なんで。
 こうやって。
 生まれてきて、しまう?
 視線を、再び豊へ、そそぐと。
 豊からも……覗きこんできた。
 お互いから、縮める距離。
 ひたいを近づけると。豊の茶色い前髪は、一瞬、まとわりついてくるような摩擦を起こし。
 あまりの軽さにすぐに、ふわん、と離れていった。独特の髪質。
 豊の顔を、鼻の頭だけでさぐっていく。
 円を描くように動かし、まつげをかすめていけば。
 ピク、と、豊の耳元が震えるのが、わかる。
 日に日に冷たくなってゆく風に、とても冷たくされていた。相手の頬。
 気温と歩みをそろえて。もう、どこからも虫の音はしない。二人で閉じこめられたような静けさ。
「――?」
 わずかな違和感を覚えて、薄目を開くと。
 相手は、ちっとも目を、閉じてはいなかった。
 ぼぅとした色合いに、ほたる、茶色がある。
 対象の中に。
 何かを探そうと、見極めようと、してきている瞳だ。
 ――こんなにも、あからさまに。
 観察されているというのに。
 その観測の目から、逃げなければ、逃げたい、と、なぜか思えないんだった。
 いつからか。
 警戒を、拒絶を、自分のなかから、掘り起こすことができない。
 だって。
 あんまりにも、『身近に置かれすぎて』いる。
 最初は――怪しんできてたのもあっただろう、反撃するためでもあっただろう。
 だけど、結局、豊の人格に根ざすものに、戻ってしまっている。
 この観測のまなざしの、根底は。
 自分が育てる、林檎の木を、気づかっているような。
 あたりまえの一部として、心配している。
『何が重い? 何が足りない?』
 そう、問いかけてきている。
 まるっきり成育者の。
 味方の――まなざし。
 爪のない小指に。
 ふわ、と。豊が、指をすべらせてきた。
 赤ん坊の指にふれてみるより、更に、繊細な力かげん。
 ……なんだか。それも、傷んでいる箇所を、確認、されている、みたいに感じた。
 痛そうにしないかどうか、反応を心配してきている顔つきなので。痛くはないよ、と、マバタキして、示してみせると。
 安心したように。
 茶の瞳の形をふにゃりとやわらげて、微笑んで。
 ……目を、つむった。
 それを見つめて、数秒後。
 自分も、目を閉じ、少しだけ……豊に体重をあずけてみる。
 寄り添った箇所から。
 豊独特のオーラ、のようなものが。
 やわやわと、侵食して、きた。
 みずみずしさに溢れた――くるみこんでくる気配。
 目を閉じているぶん。加速度的に、体を渦巻いてゆく。
 ぽたん、と、その清水みたいな雰囲気に。
 自分が水滴に変化していって、溶け出していってしまって。
 そのまま豊へと、ぐるぐる、溶けこまされていくような。
 ……胃が、浮いては沈む、ひっきりなしに。
 ひたいに脂汗が。
 気づけば。次から次へ、にじんでいた。
 こっから、こんな気持ちから。
 抜け出さなきゃいけないのに、って。
 宙吊りの心臓が、もがいてる――。
 ここまで、来たのに。
 もうすぐ実りを、手にできるのに。
 どうして。

 ◆

「原本さーん」
 あいかわらず曇りない、陽気な父親の声に。農作業の手を止めて、顔を上げた。
「はい?」
「ごめんねー、倉庫の方に、一緒にきてくれるかな? 片付けなきゃいけないとこが、だいぶあってね〜」
「はい」
 答えながら、父親の方へと足を踏み出す。
 人懐っこく笑いながら、こちらに背を向け、父親が先に行く。
 斜面に広がった林檎畑を、おりていくと。一番下のふもとにあたる所に、一般道があり。
 道路に面してプレハブがある、そこが倉庫だ。
「このへんに立ててある寒冷紗をね、奥にやっとこうと思うんだけど。ふじの収穫、このあたりに積まなきゃいけないし、それがいいよね〜?」
「そうですね」
 ガーゼのような寒冷紗が巻かれた、木の棒を、なんとなく握りながら返事をした。
 だけど、移動させる先の、奥のスペースにほこりが溜まっているのに気がついたため、まぁ掃除が先になるかと、棒から手をはなす。
 父親も、横で「ちりとり、どこ置いたかな〜」と呟いている。
「あと、おれね。この後、農協に行ってくるから。そこのスピードスプレーヤー、修理場に出してくるからね」
 伝えられて。真っ赤なスピードスプレーヤー――農薬散布機に、反射的に目を向けてしまう。
 農薬を撒いています、と、周囲の人間に警告するために。かならず赤と、決められている車体。
「修理に……出しちゃうんですか?」
「うん。ちょっと調子悪いから、修理に出すなら、今の時期がチャンスかなって」
 確かに、スピードスプレーヤーは。
 林檎がこうも実りきってきた今となっては、すでに出番はないものなのだ。
 収穫の直前期には、もう農薬をかけてはいけない、と。法律で決まっている、ためだ。
 だが――。
「……でも、収穫の少し前に……木酢液を散布するって、言ってませんでしたか?」
 農薬の散布回数を減らす、『減農薬』の努力は。農協の指導もあって、わりとどこでもやっている。
 だがそれは、病気になるかならないか、ギリギリの綱渡りをしている、ということでもある。
 木酢液というものは、殺菌作用がある液だが、農薬ではない。
 法律的には。そういった、農薬というほどの効果もない、毒にも薬にもならない、ただの天然の消毒液くらいは。収穫がかなり近づいた時期でも、散布することが許されている。
 この家でも、その効果のあまり期待できない、予防的な天然の消毒液かけを、実行しているのだった。
 先に収穫を迎えた、ジョナゴールドの品種でも。
 木酢液を、直前期に一回、散布した。
 ……ふじでも、そうするって。言っていたのだが。
「ああ、うん、ふじにもやるよ? 収穫の前にね〜、仕上げて、返してくれるって。向こうも今、忙しいはずだから。ちゃんとお互いのスケジュール照らし合わせて、相談したんだ。大丈夫」
「そうですよね……スピードスプレーヤーの修理、今、けっこう混んでるはずですよね。収穫後の消毒は、どこも丁寧にやりますもんね」
 フラン病などの蔓延を、防ぐための。収穫あとの、畑全体への農薬散布は。
 最も不可欠な、農薬散布タイミングの一つだ。
「そーそれも含めて、いよいよ、今年一番の働きどころが来ちゃったからね〜。農機具の手入れも、バッチリにしとかないと」
 感慨深げに、父親が言う。
 早生種や、新種は。たいがいの林檎農家にとって、しょせん遊びに過ぎない。
 目新しさのない、日本になじみきった、食べなれすぎている味、けれども、絶大な人気を誇る。
 万人に好かれる、最高の品種『ふじ』が、もうすぐ採れる。
 大げさでもなんでもなく、この一年の――いいや、これまでの農家としての『腕と信用』がかかっていることを考えれば、一生すら、含まれてくる。
 最盛の収穫期。
 寒冷紗などの、しばらく使わない道具の、奥への移動作業。倉庫の後片付け、までを終えて。
 父親はスピードスプレーヤーに乗りこむ。
 ナンバープレートもついているため、そのまま農協の修理場まで、公道を運転していけるのだ。
 あまりに赤い塗装の印象から、農機具だと知らない人間から見れば、変わった一人乗りオープンカーにも見えるかもしれない。
「いってらっしゃいませ」
 遠ざかる、危険色を見送って。
 さやさやと葉影を風に揺らしている、頭上を仰いだ。
 ペンキの赤とは違う。
 縦にうっすらと入った縞模様、自然の色むら、浮き出た茶色いつぶ。
 林檎の紅が。
 自分が予想でたった今、思い描いたより。もう少し、膨らんでいるのに。
 背中を叩かれるような感じがした。
 ……まだ、そんなに。
 丸くならなくったって、いいのに。
 内心で責めながら、そう思ってうつむいた顔をかすめていく風が。もう、さすがに寒くって。
 ならば。
 どうか今日や明日が。
 ゆっくり……流れていってほしい、なんて。
 今さらで、思った。

 ◆

「『ぼくには、おととい大へん元気な便りが、君のお父さんからあったんだが』って、カンパネルラのお父さんが言い出したら。それ以降は、もう、豊君にはセリフありませんから。そこまで来たら、あとは退場だけですよ」
 台本の最終ページまで、終わった直後。
 なぐさめるように言ってみる。
「うん……はい」
「ここのジョバンニは、カンパネルラの死が悲しい上。カンパネルラの父親に、さっきまで一緒に旅をしてたんです、と、言い出すこともできない、たまらない悲しさがあって。その上、自分の父親がもうすぐ帰るなんていう知らせが、そのカンパネルラの父親に届いていたことを知って。もうどうしていいのかわからないので、言葉に詰まっている……んですね。だから胸でも……押さえて、舞台袖に走っていけばいいんじゃないですか?」
 ガラでもないが、演技指導、のようなものも。成りゆき上、適当に交えて。
 記憶の足しにでもなるように、とりとめもなくしゃべっていると。
「……ジョバンニのお父さん、このあと、帰ってきたんだよね、多分」
 ふいに、みょうに真面目な様子で。
 うつむいている豊が、言い出した。
「ええ……はっきり書かれてはいませんけどね。間違いないでしょう」
「なら、ジョバンニ、これからは楽になるよね。いじめもなくなるだろうし。そこだけは唯一、よかったなぁって思えるかも? よい子だもんね〜ジョバンニ」
 ほっとしたように、そんな風に話して。
 台本をぽんぽんと叩く。
 好きになれない銀河鉄道の旅、その道筋が詰めこまれた本を。
「昔の……」
 つくづく苦手なんだな、この話。そう、考えながら、
「村の子ども、って……たいがい、よい子、の方が。多いでしょう……」
 そんなふうに零していた。
 ――たとえば、東京の大学いいなぁ、って苦笑いしながら。兼業農家におさまって。
 地元と両親のそばにとどまった、同級生の面々とか。
「子どもは、親を悲しませたくないし……。愛して、るでしょうし……」
 よい子、思いやりのある子、古風な子。
 そんなのの……代表選手みたいだったんだよ。
 典型的って言えるくらい、そうだった。昔っから。
 日本の農村、そのまま、みたいな性格の。
 たった中学生の女の子。
 ただの――かけがえのない、可愛らしい子ども。
 なんであんな、ことに、なった、んだろうな。
 重く折った、丈夫なはずの首骨の手ごたえ。つまんで大きく伸ばしてやったスカート、プリーツの折り目の冷たさ。死んでるってもう信じられていたくせに、べたべた触った、色白、通り越して死者になった頬。
「おとなしい子どもとか……よい子ども、であるほど。自分自身のことは、考えてもくれない、で。どれだけでも我慢しちゃったり……して。ジョバンニみたいに……身を粉にして、周囲を思いやってしまう」
 そうだよ逃げてしまえばよかったんだ。まだ、よかったんだ。
 おれが逃げてしまったように。

 豊と共に、帰宅して。玄関をガラガラと開くと。
 玄関先にたまたま居たらしい父親が「おかえり〜」と声をかけてきて、
「あ、原本さん、明日ね、スピードスプレーヤーの修理、終わるって。だから午後一番に、おれ、取りにいくからね。すみませんけど、畑の方、一人でよろしくお願いします」
 ついでに、段取りを連絡してくる。
「もう終わったんですか……ほんと、急いでくれたんですね。わかりました。……あと、最後の……木酢液を使った消毒は。いつになるんでしたっけ?」
 スケジュールを尋ねると。
 父親は、ふむぅ、と鼻息を一つ、吐き出して。
「う〜ん、天気にらみながらだけどね〜。今週中にはやるよ」
「一度……もうその時しか、ありませんけども。スピードスプレーヤーの操作、ぜひ、やらせていただけませんか?」
 第二のメイン品種である『ジョナゴールド』の時には、結局、申し出なかった。
 積極的な、農家をめざす青年、としての態度。
 ――役に立とうと、張り切っています。
 そんな雰囲気でもって、いつもより声も大きく、主張する。
「経験もありますし。ここでも今まで見ていましたので、できると思うんです。ああいうのは、長くやらないとカンを忘れてしまいますので……。早朝の散布になりますしね? ここのところ、お出掛けも多くて……お忙しそうですから……おれは睡眠、たっぷり取れていることですし」
 畳みかけると、父親は、
「いや、お出掛けっていっても、県内ばっかだけどね〜?……じゃあ、原本さん、頼める?」
 誉めてくるような、柔和な皺を。口元に添えて、答えた。

 ◆

「さむ、寒い〜」
 家を出たときから、肩をすくめっぱなしだった豊が。
 地面に腰をおろすなり、……チョコレート色のコート越しにも、土の冷たさが来たせいか、たまらず叫んだ。
「もー外、無理だねぇ」
「……そうですね……」
 茶の間、あるいは。豊か、こちらの部屋で、練習することになるだろう。
 嫌だと……思っても。
 もう、仕方がなかった。
 そろそろ雪がチラついたっておかしくない時期なのだ。
「って言うか。劇まで、いよいよ間がなくなってきたんだけど〜」
 クリスマスの一環としての行事、その中での芝居。
 クリスマス当日より前におこなわれるようで、もうすぐあと一月になるらしい。
「も、これ以上は、完璧に覚えようとするより、ごまかし方、磨いたほうがいいの……かもね?」
 上手なごまかし方を教えてくれ、とでも言うように。
 豊から送られてきた、視線に。
「練習、終わるの……惜しい、です」
 微妙にズレた。
 返答を、した。
 感想だけが勝手に、こぼれ落ちていた。
 嫌悪している――弟の、そばにいる時間が嫌だったのも。
『けれどもほんとうのさいわいは。一体何だろう』
 あの、あんまりぴったり、状況に合ってしまったセリフに。盛大にいっぺん壊されたのも。
 否定してた、豊への素直な、好意が……現れてしまって、苦しかったのも、本当なのに。
 ……なんだったんだろう。
 この銀河鉄道の夜という、めぐりあわせは。
 ほんとに、まるでありえないほど。
 悪趣味な奇跡――だった。
 すぐそばで、ふわんとしている、茶色い髪に。指をのばすと。
 目を丸くした豊が、見上げてきた。……こんなふうにちょっかいをかけるのは、いつもは練習後だったから、意外だったのだろう。
 けれど素直に。頭をさし出すようなポーズをしてくる。
 ……家の外で、練習しなくなる、ということは。
 こんな風にさわれることも、なくなる、という事とイコールでもある。
 同じ家屋内で、夜中にでもなく。こんな事している、怪しい気配が伝わってきたら。姉はもちろん……鈍い父親だって、気づくだろう。
 それに、もうすぐ――。
 全く抵抗も、ためらいもなさそうに、豊は。
 飼い猫みたいな、満足げ、ですらある表情をして。
 脆い茶髪を、頭頂部から毛先へと、すきおろされていく。
 かすかに流れてくる、髪の匂いが、優しい。髪のてざわりも、あやふやなほど細いために、優しくって。
 まだどっか柔軟すぎる、うっかり敵をも、ふところに抱えてしまう。
 その未完成さを、フォルムにも反映させている人物。
「原本さん……」
 自分でも何かしたくなったのか……伸ばされてきた、豊の手。
 こちらの顔へと届いた。短い爪の、まるい指。
 捕まえて、口元へと運んでしまう。
 爪先をちいさく、噛むと。
 ケラチンのカチリという質感と、硬めの皮膚の、歯ごたえがあるだけで……なんの味もせず。
 ただ、その。
 今ここに在るっていう確かさが。
 胸に風を巻かせるような。
 息苦しくなり、涙がこぼれるような。そんな切なさを、送ってくる。
「……さん……」
 くすぐったさを含んだ、ふるえた呟きが、贈られてきて。
 胸にますます風を起こす。
 暴力でも、敵対心でもないものを。
 お互い、送りこみあえている。
 ほんとは普通なはずの。今日なんかになって、やっと……。まともな形での……。
 こんな。
 寒さを気にしながら、半端に服を、脱がせはじめると。
 白い尻のふくらみを、いかにも乾燥しきって硬そうな枯れ草が、ガサガサとこすっているのが、目を打ってくる。
 そういえば、こんな場所でしか。
 抱しめたこと、ない。
 ――被害を訴えにくいやりかたで、嫌がらせをする、最初はただ、それだけのつもりだったんだから。
 そうに決まって……いるんだけど。
 すんなりいくように協力されながら。準備を施して、なお。
 元から、そのためにある性器より、比べようもなく固い。
 完全に体内へと、すぼまっている輪。
 顔色を見るため、上体を大きく振り上げて、豊の顔、覗きこむと。
 じい、と、豊も。丸い茶の瞳で、こっちを見つめてきていた。
 ……それで目が、かち合った直後に。
 ほ、と息を吐いて。
 ひくり、と。少しくつろいだ豊のコンディションが。密着させた下半身で、わかった。
 そんな相手の反応に、また、胸が……震えてしまう。
 ……どんな、目を……。
 してるっていうんだろう。
『心配しなくても大丈夫』だって、豊が、体に信じさせられるような。
 そんな……気持ち、こぼしてしまっている。
 もう。
 痛めつけるためのセックスなんか、できないんだって。
 そう鏡にしてしまっている、目の表情。おれは晒している……んだろうか。
 わずかに押しはいれた腰を、前後させないように、止めながら。
 両腕を、豊の首の裏へと交差させた。放熱して、この外気のなかでも、汗ばんでいるえりあし。
 そして豊の背中を、草むらから、わずかに浮かせる。
 豊の体のほうを、揺すりはじめる。
 震度を激しくはしないよう、心がけて。
 ……こっちが勝手にガンガン突き入れるよりは、このほうが、痛さは、ゆるやかなはずだ。
 そう思ってやったけれど、
「く……」
 杭はそのままなのに。
 少し深くなっては、また引き揚げられる感覚が。
 自分で動いているかのようで……それはそれで、苦悶だったのかもしれない。
 悲鳴ではないものの、明らかな呻きをもらしている。
 食い締められては、逃げていかれる。まるで主体が移ってしまったみたいな、そんな擬似感覚が、こっちにもあった。
 豊にとっては、多分なおさらに。
 ただ強烈な痛みと共に、翻弄されるよりは、かえって生々しい……らしい。
「ひぁ」
 引き寄せられたせいで、ざわりと上げられて、怯えた高い声を洩らし、
「……――」
 次の一瞬には、はなされることで、同じだけ落とされて。気すら飛ばしかねないほど、スッと顔色を失う。
 ついこの間までは、想像もしていなかったような。
 体内を、他人に抉られる未知。
 それに、ぽぉんと放り上げられては、不安定に墜落させられている。
 ――ここまで、理不尽なことを。
 なんで豊は、許容してしまって、るんだろう――……?
「ぅ、ぁ、……ッ」
 豊の、唇のはじから、つつっ、と。
 垂れてきだした唾液。
 親指にすくいあげる。
 もったいなくて、豊の、下唇に塗りつけると。
 わななき開かれている前歯が、その親指を、かじってきた。
 無我夢中で、混乱してるのだろう。
 親指を根元までも、迎え入れて。震える体と、同じテンポ、カタ、カタと、連動して、歯をぐいっぐいっと立ててくる。
「……んァ」
 しばらくすると。我を取り戻したような声、と、同時に。
 豊は、親指を吐き出した。
 ……噛んでしまった『詫び』のように。
 こちらの坊主頭に、両手をまわしてくる。
 頭部全体、さかんに、磨くように、こすってくる。
 まるっきり愛撫のようで。
 ……頭皮を摩られているまま、首を曲げる。
 おおうように口づけた。
 口を合わせたまま、ぬちゃぬちゃに。
 限界まで、逆流で交じり合わせる。さいごに。

「……日本では、南十字座は見えないんですよ」
 死者の列が、吸いこまれていった、南十字座――サウザンクロス。
 沖縄ならまだ、見える場所もあるらしいが。
 岩手や青森などの、林檎の園からでは、見えるはずもない、南半球ならではの星座なのだ。
「だから見たこと、ないんですけど」
 ……そう言えば、長野まで旅したけど。
 それ以上は、南へ行くことはなかったな。
 無駄だと思ったから。手がかりから考えて、そんなところ、探してもいないから、絶対に。
「名前のとおり、東西南北の四つの星でできた、小さな星座で。大きさがまるで不揃いで……下のものだけまばゆくて。一番上の星だけ、色が違う。あとの三つは、白く澄んでて」
 その聖なる星座に向かう、人々のなかには。
 銀河鉄道の夜では、神をいちずに信奉する青年が、ひたすら無邪気な少年が、心の綺麗な少女が。
 ならば。
 堅実に農業をいとなんでいた夫が、ひかえめな態度でそれを支えていた妻が、おとなしくて内気な女の子が。
「きっと、すごく、綺麗、な」
 光という喜びが、みなぎっている場所。
 醜いものも悪いものも……ひとかけらも存在できなくて。
 清浄を形にしたような、十字型の結晶のもと。
 そこの空気を体にとりいれることで、まるで天使や神にも近い、なにかへと、成っていけるような。
 どうか。
 選ばれた人だけがゆけるような。
 そんな場所で。
 カサリと、草を鳴らす気配がして。
 豊が、あいかわらず、慎重すぎるような。
 新芽をさわるときだって、もっと適当にさわるだろうに。細心の注意を払った、いためぬ手つきで、動かないほうの小指を握ってきた。
 よりそってきた豊の髪から。
 熟す手前の、葉や草に近いような、食べれない果実じみた匂いがして。
 さっき、不自然に強いられた負担のせいで。けだるげに疲労し、弛緩してる、豊の体。
 自分より少し下の位置にある、肩に、こちらからも、もたれかかって。
 小指に遠慮がちにふれてるだけの、豊の親指以外の四本の指を。手のなかのくぼみに導いて、ギュッと握った。
 二人でいるって。
 ほどけきった意識でも、常に確認できてる、なんにも不安にならない。そんな重みと、手で握りしめている繋がり。
 空からは、したたり落ちてくるような、満天の星。
 光の雫、まるでここだけをめがけて、そそがれてきている様な――……。
「ねぇ」
 豊の囁きが。くっついてる肩口から、達してくる。
「……なにを、探して、旅してるの」
 どっか決定的に。
 淋しげな、響きだった。
 どうせ答えてくれないだろうけど、と、悟りきってしまっている。
 なのに、もらえない答えを、責めてはいない。
 慈しみにあふれた。
 年に似つかわしくないくらいの……なんか完成された流麗さを、この一瞬、持ってしまった音調。
 失礼なことに。
 うわの空に、林檎を見上げていた。
 薄闇のなか、それでも木にぶらさがっている、珠の数々がわかる。
 赤の、紅の、血の色みたいな。生命の主張。
 これ以上は膨らめないって、丸々と、破裂寸前で。
 ――ああ時期がやってきたんだ。
 その認識が。
 流星のように流れ落ちてきて、隕石みたくひたいにぶつかり、悟りはじける。
 誰もに、この自分にも。
 待たれていた、望まれていた、目指していた。
 収穫の刻限が。
 首を、スジが引き攣れるほどねじって。
 舌が根までかわくほど、ぽっかりと口をあけたまま。
 あまり唇を動かさずに。
 まっすぐに、阿呆のように、林檎を仰ぎながら。
 ――伝えた。
「林檎が、実るよ」

 ◆

 まだ、家屋内の誰も起きだしていない、朝日もさしこんでいない早朝。
 任された木酢液の散布をしに、布団から身を起こす。
 ジーンズと黒いフリースという、今の気温に合った作業着に着替え。シンと静けさに包まれた階段を、ギシギシ鳴らしながら、階下へおりる。
 家人を起こさないように気を配り、玄関の開け閉めをする。それでもやっぱりガラガラと、ある程度は賑やかな音をたててしまう、昭和そのものの曇りガラスの引き戸。
 畑へと、わずかな距離を歩く。
 日光がこぼれだして、だんだんと注いでくる面積を増やす、その道程の間。すれ違う人はいなかった。
 熱中症防止に、昼の日ざしを避けて、早朝に農作業時刻をズラす必要は。もう、とっくにないのだ。
 斜面に広がる畑の、ふもとにある倉庫の扉を、重くガラリと引く。
 早朝独特の、色彩すべてが白けるような光が、屋内にも広げられてゆく。
 倉庫は、どこの農家でも同じように。乾いた土の匂いが漂い、ほこりっぽい。
 目を上げた位置には、先日、修理を終えて戻ってきた、真っ赤なスポーツカーもどき――スピードスプレーヤーの車体が光っている。
 今日これからの作業に欠かせない道具だ。
 短く息を吸って、背後を小さく振り返った。
 ……父親が、もしかしたら。
 例によってお人好しで。教師の心……のようなものを出して、指導に起きだしてくるかと思っていたのに。
 さすがに、年齢も年齢だ。これから来る収穫のハードスケジュールに備えて、今日のところは睡眠時間を優先させたらしい。
 ――あるいは。
 ――豊が、来るかもって。
「っ……」
 そう思い浮かべたとたん、プラスとマイナス、二極にふりきれる意志。
 心拍につられて、急激、荒くなる呼吸。
 首筋を中心に、全身から汗が溢れてきて、あっというまに背中まで濡れ、服が貼りついてくる。
 右に引きつけられた反動の、罪悪感で、左に向かいたくてたまらなくなる。
 自分のものであるはずの、意志も感情も。狂った羅針盤のようにぐるぐる回り、まったく定まらない。
 目眩につられて、実際にかしいだ体。
 土を強く踏みしめて、こらえる。
 仕事をすませるために倉庫に入る。
 スピードスプレーヤーに乗りこんで、鍵を回す。
 エンジンの振動は、うなり吠えるよう、倉庫に広がっていく。
 まずは農業用水の場所を目指して、スピードスプレーヤーを走らせる。
 昨夜、念入りに確認した手順に従って、散布する液をタンクに作り始める。
 木酢液の原液を、スピードスプレーヤーに備えつけられた、タンクに入れると。
 もわり、と周囲をつつむ、焦げたような木酢液の匂い。炭焼きの副産物としてできる液体らしいから、当然だろう。
 用水の水を、ポンプで、本体タンクに汲み上げていって。原液から、父親に指示された倍数にまで、希釈した。
 そうして用意を調え、ふたたびエンジンを響かせて、帰ってくる。
 変化はなく、無人のままの林檎畑。
「…………」
 スピードスプレーヤーから降りて。
 もうじき見れなくなる風景を、目に納めた。
 あまりに見事な豊穣。
 群れる緑に、誇らしげな紅。
 さわさわさわ、と、子守唄のようなリズムで、耳をなだめる。風が、葉を渡っていく音色。
 眩しさに目を細め、地面へと目線を流せば。
 草むらを、ころころとダンスする。水玉模様のような木漏れ日。
 なにより愛しく。
 だからこそ同量に憎い、この風景。
 清浄な風が、また、さわざわ……と渡っていって。体をつつんできた。
 反射的に快くさせられる、自然の芳香が、鼻腔をくすぐる。
 いつか豊が言ったように。
 林檎の皮からの、最も良い香りが、鼻に届いてきている。
 果肉や果汁に、加工されてからでは、感じとれない。
 甘ったるいだけではない、あくまでも爽やかである薫り。
 新緑のグリーンのイメージを含み従えた、青林檎にも似た匂い。
 こらえきれずもう一度、目を上げる。
 最高の品種、最大の収穫。一年かけてやっと噛みしめる秋の実り。
 こういう。
 たわわに丸々と、熟した林檎を。
 目の前にしての、その、収穫の喜びを。
 台風で。感染症で。虫害で。
 そんな自然災害で……めちゃくちゃにされること、こと以上に。
 そこまで最低なこと――以上に。
 最悪で『耐えられない』ことなんて。
 ……あるわけもないだろう、と、あの頃までは信じていた。

 ◆

「父さん、あの……赤いデッカイはさみ、どこやった?」
「一番大きいはさみ? えっとねー今朝、農協に出荷に行ったときに……」
 慌ただしいやりとりを、眼前で終えて。
 尋ねた側である豊は、答えを聞くなり、バタバタと去っていく。
 だいぶ紅の減った、果実がもがれた区画の、畑。
 収穫カゴの載ったカートを、倉庫方面へと押していきながら、そのやりとりを横目に見かけた。
 倉庫脇に辿り着くと、そこには姉がいて。中腰の体勢で、一心不乱、両腕をめまぐるしく動かしていた。
 林檎の収穫は、手でもがれ、収穫カゴに入れられる。重量が軽く、丈夫なわりにはある程度の柔軟性もある、竹編みの収穫カゴが一般的だ。
 その収穫カゴいっぱいにまで詰めて、地面に置いておき。自分が今押しているようなカートで、回収していく。
 一箇所に集めてから、農協に持ちこむため。ビール箱と同じようなプラスチック製の、大きな果実用の箱へ、詰め直される。
 その時どうしても。姉がこうしてやっている作業を、経る必要があるのだ。
 色むらあり、傷あり、割れあり、L、M、S……などに、分類していく『選果』作業。
 ジュースなどの加工用原料にしかまわせない、小玉のSサイズや、傷が多いものは、この作業で除かれる。
 明らかにフルーツとして売れる、スーパーで見かけるような農協規格の品、に適わないものは。事前に取り去ってから農協に出せ、ということだった。
 そういう除いた、規格に適わない分も、結局やっぱり農協だよりで、ジュース用などに安くさばいてもらうのだが。
 ……この収穫の時期ばかりはバイトの手を借りているといっても、収穫作業だけで一日一日が精一杯というのが本音。
 毎日、こういった選果が済んでいない林檎が、倉庫に残り。その消化に翌日の作業時間が当てられ、そのせいでその日本来のノルマがこなしきれなくなり。
 要は、残業がたまっていくのと、夏休みの宿題と、同じ法則で。雪ダルマ式に『昨日、選果しきれなかった林檎』の総量が、日々増えていっている。
 ……その手の回りきらない、笑うしかなくなるような状況は。
 慣れ親しんだものと、やっぱり懐かしく、同じだった。
「あーもー忙し……」
 ようやくきた休憩時間。
 やたらレトロな雰囲気で、年季も入っていそうな木箱……もしかしたら父親が若かったころの昔、ダンボールで出荷されるようになる前の時代に、実際に林檎出荷に使っていたものかもしれない……に、腰かけて一息いれている、豊が。
 頭部を胸元へしまいこむような、非常にうなだれたポーズで、ぐったりとボヤく。
 収穫が始まって、すでに一週間。
 全員に疲れが見え始めている。
 店の仕事を最低限に抑えて、ここ最近は林檎仕事に明け暮れている姉にも、それは言えた。
 今は、バイトに来てくれてる、近隣の人、数人に。くるくると立ち回る、せわしない動きで、手早く茶を配っているのが、遠く見える。
「お兄さんが……今日の夜、手伝いに、帰ってきてくれるんですよね」
 緑茶をすすりながら、言い出してみた。
「うん、だいたい毎年そーだけど、正月休みつぶして来てくれる。でも、今年も三日間だけだねぇ」
 豊と同じように。ふだんは道具箱になっている木箱をひっくり返し、イスにして座っている父親が、返してきた。
「作……長男も疲れてるとこ、せっかくの帰省でこきつかって、悪いなぁ、とも思うんだけどねぇ。どうしてもそーなるねぇ」
「親孝行になって、いいと……思ってると思いますよ」
 しみじみとそう言ってやれば。父親は、ぱっと、笑顔になって。
 あっさり嬉しそうに同意してくる。
「そうだね〜。おれ、もうトシだしぃ」
 その父親の傍ら、豊が。
 うなだれて筋肉を休ませるのをやめ、首をぐるぐると回しほぐしながら、呟いた。
「あーやっと、明日から、入ってもらえる、かぁ。遠慮なく働いてもらえる人、一人増えるって、すっげー助かるー」

 日が落ちてしまうのに合わせ、男三人、畑から引きあげて、家に戻ると。
 姉がちょうど、玄関で靴をはいているところに鉢合わせた。
「これから買物いってくるけど……なんかいるものあるー?」
 あいかわらず何かあわただしい雰囲気を漂わせて、クセである早口気味に言う。
「作、夕飯までには帰ってくるから〜。お刺身、忘れないでね香」
 こちらは対照的に、のほほんと。何の悩みもなさそうな調子で、父親がリクエストを出す。
 姉は、少し困ったような。むしろ子どもを、叱りかねている、という感じの表情になって。
「買ってくるけど……つまみにして、あんまり飲みすぎないでね? 明日があるんだから」
 と、釘を刺した。
 子どもにも学校を休ませることがある、一大事な時期なのだ。やや高齢でも、逃すわけにはいかない労働力、ということだろう。
「うんうん」
 そんな、よい返事をかえした割には。
 全く『今日は飲むぞ〜』というオーラを隠さない父親。
 やりとりに忍び笑いして、豊が肩越しで、親しげに囁いてくる。
「兄貴は、刺身、べつに好きでも何でもないんだけどね……。せっかく帰省してくるんだから、お刺身くらいないとって、毎年、用意しないと気がすまないの。よーするに、自分が好物だから食べたいんだよね」
 ちゃっかり便乗している父親をからかっている。
 いつもどおりの。
 くだらなくて、ささいで、ちっぽけな団欒。
 失ってから思い返すなら。
 それはきっと、楽園のような。

 心置きなく飲んで、そのまま眠りに入れるように、だろう。
 珍しく、夕食前から父親は、風呂に浸かりにいった。
 買物に行った姉ものぞき、豊と二人で、少しでも出荷作業を進めていく。
 縁側から洩れてくる、家の明かりをたよりに、こなしていく選果作業。
 庭に停めた軽トラックの荷台に、畑から持ち帰った林檎が、山と積まれている。
 収穫カゴに詰まったままのそれを、どんどん出荷箱に詰めなおしていく。暗くて見えづらく、たまに傷を見落としそうになる。
 軽トラックの荷台に上がっている豊も、同じように作業している。
「あ」
 高い位置から、何かに気づいた声がして。
 顔を上げると、荷台の上、直立している豊が。
 家前の道路を眺め、作業を完全に中断してしまっている。
 その視線の先を追うと。ジャア、とタイヤの音をたてながら、一台のタクシーが、家の前道路を通りかかっているところで。
 そして玄関の前で、停止した。
 待ちかねていた人物の、ご帰還、ということだろう。
「兄貴、帰ってきたみたい。出迎えてくるねー」
 そう言って、荷台から両足揃えて、ぴょんと飛び降りる。
 しばらくその背中を、見送ってから。
 豊を、ゆっくりと追いかける。
 Mサイズの箱に入れようと、ちょうど手にしていた林檎は。
 ふりかぶって、地面へ捨てた。がつりと果肉がへこむ音が、暗く、わずかに響く。
「あー、やっぱこっちは寒いな」
 聞いたことのない新しい声が、耳に届きはじめる。
「フリースもってこよっか? ねーちゃんが明日から、畑で着れるように、いろいろ用意してくれてる」
「ああ、うん。たのむ」
 玄関で靴を脱ぎながらであろう、会話。
 まだ失っていない、家族との。
「荷物、茶の間にでも置いてねー。寝るのも今回は、茶の間でお願い」
「ああ、短期の手伝いの人が……オレの部屋に泊まりこんでるんだっけ?」
「そうそう、原本さんっていって。すぐ紹介するから」
 フリースを探しに行きながらなのだろう。遠ざかっていく豊の声が、言い残していく。
 茶の間から廊下に、最後の一歩を踏み出し。姿を現す。
「あ、――……」
 長男の『作』が、挨拶をしてこようと、会釈にさしかかる動作を、して。
 ふいに、目を伏せられなくなったように。首をわずかに曲げたまま、固まる。
 意外だった。
 直接、顔を合わせたことはないのだ。
 だけど知っていたって、おかしくはない。
 うちは、家族写真を飾る習慣はなかったが――完全にうちに馴染んで、栽培の相談によくのっていた、この男なら。
 うちの林檎畑がどんな林檎を育ててきたか、その歩みを説明するのに使っただろう写真に、おれが映りこんでいる写真なんか、大量にあったはずだ。
 その時、「どなたですか」くらいの会話は、当然あっただろう。
 後から、警戒のため。その顔を、記憶に焼き付いた顔に昇華させることも、そりゃああるだろう。
 それだけの事をしたのだから。
「初めまして、作さん」
 なんとなく、相手の感覚を、共有できた。
 まるで、見飽きた実家の廊下が、すぅと細く地獄へ伸びて。
 別世界。冷たい悪夢に迷いこんでいくような。
 得たい得たいと思っていた――十年目の結実を、ほおばっている今。
 ほおばられている男のダメージを。
 食らっているからこそ。手に取るように知ることができた。
 恐怖一色に染まってから。
 さらに恐怖という限界を超えて、狂いたいほどの濃い恐慌に、じっくりと支配されていく。
 男の表情を、細部まで見つめる。
「……顔、ご存知でしたか」
 本当の苗字で。
 名乗りなおさないといけないかと思って、いた。
 厚本を、原本、に。
 農家に短期間もぐりこむのに、必要な身分証くらいは、なんとか偽造できたのだけど。
 下の名前はとても誤魔化しきれなくて。
 追いかける、終わりの見えない旅の中、ずっと不安だった。
 この男に。探しているのを察知され、逃げられたら、どうするんだ、と。
 フタを開けてみれば、手がかりの繋がった先に、本人は住んでいなくて。
 実家との連絡はたまにである、という状態だった。
 ――家族が壊されていくのを知れない。
 ちょうど自分が大学生だった、あの頃。
 壊されつつある予兆も。この男の『作』という名前どころか、水沼という名字すら、知ることがなかったのと。同じ状況だった。
「長男の冬樹です」
 無茶な転職の影響か、日々、忙しくしているこの男には。
 離れて暮らす家族から、臨時アルバイトである自分の『冬樹』という下の名前が伝わることは。
 結局、手遅れになった今日まで、なかった。
「お会いしたかったです、ずっと」
 ずっと。ずっと。
『作』という名前を、『冬樹』と同じように。
 大地を信奉し生きる親に、贈られたくせに。
 その名が司る事象そのものを、汚染しきった男に。
「あれから…………」
 呆然と紡がれる、うわごとのような、怨嗟。
「あれ、から、ずっと?」
 捨てられた故郷からは、一切。
 この男の情報を、聞き出すことができなかった。
 犯人の情報をどうか与えてくれと、どれだけ懇願しても無駄だった。
 この男の勤務先、結婚相手やその実家、近所までを含め、完璧な漏洩防止だったのだ。
 その堅固な守秘を、一人一人へ徹底するために。
 誰かの命令も、指示も、申し合わせすら、要りはしなかっただろう。
 おのおのが、おのおのへ対してのスパイであるかのような。監視の目。
 若かった自分が嫌った、仲間意識だ、田舎の空気そのものが。
 ――そのまま『連帯責任』という鎖と化しただけ。
 そんな旧い、実体もない強力なものに、かなうはずもなかった。
 どうしようもなく爆心地だった故郷に見切りをつけて。
 より頼りない情報しかない、ほとんどあてのない旅に、出るしかなかった。
『私の実家も林檎農家なんですよ』
 って。
 まだ平和だった頃、おれの家族に。セールストーク混じりの世間話で喋った、その一言のみを手がかりに。
 青森から逃げた男を。
 寿命のあいだに回りきれるものかどうか、疑いながら。
 長野、岩手、林檎の園を。
 一つの農家ごと、しらみつぶしにして――生きさらしてきたんだ。
 わななきだす、この数分間で、乾燥しきった唇。
 感染が広がっていくように、あっというまに、全身。ぶるぶると、指の一本一本に至るまでが震えだした。
「ずっと――? オレを?……たったあれだけの手がかりで?」
 膝までも、震えのあまりガタガタと崩れさせ、呻いている。
「そんな……――……」
 風にあおられたように大きく、あまりに希薄な軽さで、よろめいて。
 倒れる寸前、ようやく背中ですがりつく。
 背比べ記録の傷がある、ささやかな幸福を謳歌する、大黒柱に。
「ゥ」
 そして、ぐう、と喉をつまらせた。確実に、胃の中のものを、吐き出しかけているこもった喉の音。
 その背後、洗面所から。豊が、灰色のフリースを丸め、胸前に抱えて、出てきた。
 すぐに、廊下に立ち尽くしている兄に目を止めて、
「兄貴?」
 どうしてこんな所で立ち話してるんだ、と。
 声をかけ、横顔を見上げた。そして、
「あれ?……なに、寒かったの? 風邪ひいちゃった? むちゃくちゃ顔色が……」
 矢継ぎ早に心配を、投げかけるが。
「ぅ……」
 兄は、ぶんぶんと頭を、ふりまわし。
「――うるさい……」
 吐き捨てるように、強引に会話をシャットアウトした。
 ……たぶん、その一言を絞りだすだけで、精一杯だったのだろう。
 どれだけ不自然であっても、今ここから逃げ出せる。
 知られるわけにはいかない豊の目から、いっときは逃れることができる。最短で成る拒絶。
「…………」
 無言のまま、兄は踵を返し。
 豊と入れ替わりに、洗面所に入っていった。
 ぼーっと豊は、その後ろ姿を見送って。
 そしてこっちに向き直ってくる。
 何か、そう多分、『兄貴どうしたんだろ?』とか。きっと、そんなことを、話かけようとしてきて。
 ……この場に残った空気を吸ってしまったのか。
 突然、口を固くキュッと閉じた。
 毒霧を拒絶するように。

 姉が食事の準備を終えて、家族それぞれに呼び声をかけはじめると。
 どこかに隠れていた兄も、どうしようもなく、といった呈で。茶の間の、電灯の下に出てきて、よたよたと席についた。
 できるものなら、あのまま。
 この家からすぐに、逃げ出したかったのだろうが。
 家族に罪を打ち明けられない以上――せめて留まって、こちらの出方を監視するしかなかったのだろう。
 今にも断ち切れてしまいそうに、ビィンとこっちに緊張の糸を張って、座っているのがわかった。
 その隣。少し前に風呂から上がり、食事前につまみで既に並べられていた刺身で、始めている父親は。もうご機嫌に赤い顔をして、崩れきったあぐらでいる。
「あ。……香〜。もうちょっとあっためて……」
 好物な刺身をぱくつきながら、純米酒が入ったとっくりを傾け。残り少なくなったのに気づいて、姉に熱燗のおかわりを催促しだした。
「あと一本ね? もーいい気分になってるじゃない」
「うーん」
「十分でしょ!」
「ううーん」
 煮え切らない返事ながらも、しかたない、といった風情で引き下がる。
 同意を引き出してから、姉がとっくりを手に、サッと膝をのばして立ち上がり、台所へ去る。
 そのタイミングを見計らって、
「あの……木酢液って。なんで、収穫に近い時期にまいても……残留農薬検査にひっかからないんでしょうか?」
 本当は知っている知識を。せいぜい教え子らしい態度で、尋ねた。
「うん、あのねぇ。木酢液は自然のモノだから、効果が弱いんだよね。だから法律で、農薬じゃないっていう扱いなんでね? 検査項目でそもそも、問題にされないんだよ。……特定農薬、っていう『農薬的な効果がある、だけども人体に無害なもの』に、法律で指定しようって話があったけど。結局やめになった位に、効果が曖昧なものなんだ。だから、ほんと、気休めなんだよね……でも、やらないよりマシだっていう実感があるんだけどね? 無農薬野菜の方なんかには、特にさ」
「そうなんですね……匂いなんかは、けっこうありましたけど」
「あぁ。ふじの最後の、木酢液の散布、原本さんにやってもらったものねぇ。結局、一人だけでやらせちゃって……見に行こうと思ってたんだけど、つい起きれなくてさ? ご苦労さまでした」
「いえ、無事に終わりましたし」
 なんとか動かしていた箸が。
 いつのまにか完全に止まっている兄を、視界のはじに捉えながら、続けた。
「ところで、農薬にも」
 きっと、豊だったら、つっかえたり。一部を覚えてなくてすっとばしたり、するんだろう。
 そんな事を思った。
 セリフをたどっている、この一瞬に。
「いわゆる有効期限ってものがありますけど……。長く時間が経つと、薬の効果というか……強さが、かなり抜けてしまうんでしょうか?」
「いや。そういう事じゃないと思うよ? 薬が変質するといけないから、有効期限内に使わなきゃいけないの。人が食べる作物に使うもんだからね〜慎重にね。でも、殺虫剤なら殺虫剤で。有効期限が切れてても虫、死ぬだろうし、あんまり効果は変わらないと思うよ〜そりゃ」
「そうですね……たとえ」
 満を持して、予定通りで。台本の筋書をたどっていく。
「十年くらいの、長い年月でも。慎重に保管しておけば」
 聞かせたい人物は、一人だけだ。
「きっと薬としての強さは、変わらないですよね……。――毒が、毒じゃなくなることなんて。ないみたいに」
 ひょろりと長細い体の、全体が硬直していた。
 もともと青白さのある顔色が、さらに病人のようになっている。
 それを点々と彩る、いかにも苦しげ、重くねばついていそうな脂汗。
 ……震え上がることすら、できてはいなかった。
 屍になった肉のように、ピクリとも動きはしない。
 ただ、地味にしたたり落ちる汗だけが――兄の、時間経過をあらわしている。
 停滞している、奇妙な静けさに包まれた。
 そんな――……地獄の開始、は。
 最初に、父親から連絡を受けた、大学生のあの時の自分、そのままだ。
 電話ごしに話を聞くうち、欠けるはずはないと思っていた、自分が立ってる地面が。端からぼろぼろと崩落していくようで。電話を切ってからも、想像すれば想像しただけ、その墜落スピードは加速していき。ついには自分自身の足元の地面まで、穴と、化した。
 ようやく、といった伝達速度で。
 兄の身体が、反応しだした。
 ガタガタとさかんに震えだしたアゴ、その揺れが、あっというまに肩口にまで広がって。
 こわいだろう。
 さっき帰省の道すがら。
 あいかわらず、どうしたって帰るのが一日がかりな、ほんものの田舎だ、と。いまいましく毒づきながら。
 ああ今年も素晴らしいなぁ、そう、つい微笑ましく見やっていた。
 眺めるだけで胸がいっぱいになるような、ひとりでに何者かに感謝をささげたくなってしまう。丸々とした大きい実を沢山ぶらさげた、林檎畑のシルエット。
 さっきまで美味に目にしてたんだ。
 しようと思えば手にすることができた。
 匂いなんて嗅いでいた。
 そんな、一年をかけた、他のなにより地道で、正当で、確かな実りを。
 土地に深くはりめぐったはずの、根までも。完璧に燃やしつくされる。
 そんなのありえないだろう。
 ありえないとあの頃、まだ信じていた。
 誰だって。
 あの子だって、あの人たちだって、そう信じていたんだ。
 だって。暑い日も寒い日も痛む日も。もくもくと地に這うように。生きてたんだから。
 どうして、どんな罪状があって。
 そんな残酷なこと。されなきゃいけない。
 そう思うだろう?
 だから再現を。
 くりひろげてやるんだって、劇みたいに、わかりやすく。
 登場人物はぴったり。
 いちずに林檎を育てる父親、代償をはらいながら皆をささえる女、幼さを残す子ども。
 罪のない人々。
 いつかと、まるっきり同じようだ。
 わかりやすいだろって。
 そこまでしてやって、ようやく。
 自分が何をしたのか。
 一体なにを、根こそぎ奪ったのか。
 きっと、骨まで、わかるんだろう?
 そのためだけに。
 一人だけ、爆発を迎えるしかない悲劇から。
 目をそらせない、耳もふさげず、逃げられもしないように。待っていてやった。
『ジョナゴールド』の収穫期には、帰ってこないと言うから――。
『ふじ』の収穫まで、だらだらと、ここで。

「しゅっ、……か」
 大量の汗が流れる首をさらしながら、わなわなと兄が言い出した。
「なに? 出荷?」
 未だに何も感づいていない父親が、暢気に返す。
「ふ、じの、最初の、しゅっか。……いつ。だっ、た」
 ……出荷の時期を確かめにきたか。
 思ったより。
 腹をくくるのが、早い。
 被害の大きさを考えれば、それも妥当、当然すぎることなのだが。
 ――だけど。
 ここで腹をくくったって、遅すぎる。
 わかるだろう、ここまであからさまに。
『おまえへの復讐は、おまえが起こした最凶と同じになるように、実行してやったよ』
 そう、わかりやすく示唆しているってことは――もう、おまえが打つ手は。
「先週の金曜日だったよ?……ど〜したの」
 ここから巣立っていった、ふじ林檎たちが。
 全国の店先に並び、買われて、食べられてしまっている。そう示す答えに。
 絶望的な手遅れを悟って。
 もう、罪を告白すれば被害を、甚大ながらも最小限――……それだけで抑えられる、そんなタイミングを逃してしまっていると、知って。
 古びた大きな座卓に、前のめりにへばりつくように、兄の体が、かしいだ。
 とっさにバシン! と体重をこめた音を響かせて、机上に掌をつき、体を支えた。
 そのまま、茶碗や醤油さしを、ガチャンガチャンと盛大に揺らしてしまいながら、ぐらりと立ち上がった。
 あまりに奇妙な立ち上がり方に。
 ようやく家族全員で、兄へと注目した。
 ああなるのも当然だ、本当は立ち上がる気力なんかあるわけもない、と。
 理解できるのは。皮肉なことに。
 今、この場には、自分だけ。
「兄さん? 食べないの……」
 怪訝そうな姉の呟きにも、
「作ぅ〜?」
 気楽な父親のよびかけにも、反応をかえさずに。
 ふらふら、夢遊病のごとき足どりで、家屋のどこかへと逃げ込んでいく。
「……なんか。さっきも変だったんだよ。具合、悪いのかなぁ……」
 豊が、代わりに弁解してやるように、そう言いながらも。
 兄の去ったほうを見るのは、いち早く止めて。
 顔を巡らし、真正面にこちらを、じっと見つめた。
 どこか。
 原因がそこにあるんだ、と。理解しはじめた表情で。

 ◆

 いつもどおり台所で、なんか忙しくしてる姉ちゃんが、目に入って。
 ちょうどいいから声をかけた。
「兄貴、見なかった、ねーちゃん?」
 台ふき片手に、首を回してこっち見た、姉ちゃんが、
「作? 部屋にいな……、部屋は今、原本さんの部屋になってるか。お風呂にでもいない?」
「いない。茶の間にも……いないし」
 いつも通りに酔いつぶれて寝た、父さんの部屋まで。さっきまで順々にのぞいたけど、姿が見えなかった。
「庭は? 林檎の選果作業、してくれてるんじゃない?」
 首を横にふって、返事してみせる。
「うーん、じゃ、出かけてるのかもね……? 携帯に電話でもあったんじゃないの、地元友達から」
 どうだっていいじゃない、という雰囲気で。姉ちゃんは、シンクについた水滴を、台ふきでぬぐい始めた。
 確かに、気にすること、ない。
 普段なら。
「なんか……」
 だけど。
「夕飯の時……ヘン、だったじゃん……。だから……」
 わからない、理由を説明しろって言われても、ハッキリとは並べられない。
 でも、わかるんだ。
 兄貴がなんか『おびえてる』みたいなのと。原本さんが兄貴を見る、あんな強い視線には、きっと関係がある。
 原本さんが『おどしてる』のかもしれない、そう思うほど。
「……林檎」
 それにはきっと。
 林檎が絡んでる。
 大事にされてるかどうかなんてわからないけど。
 大事にされているものは、知っている。
 あの人はきっと、すごく、演技とか得意だ。
 銀河鉄道の夜のセリフだって自分につきあってるだけなのに、三回目には完全に覚えてて。
 けっこう、演技されてるんだと思ってる。
 敬語だってフタなんだ、多分。
 むきだしの態度を。隠すための。
 けど、本物で接してきてくれてるって、感じる時もある。
 林檎はおいしいですからねって、しみじみ言ってくれた。
 一生ここで林檎を育てていきたいっていうの、目をうるませて、喜ぶような羨むようなまなざしで聞いてたり。
 それにこの間。
 敬語じゃなくて、優しく、伝えてきたんだ、『林檎が、実るよ』って……――。
 林檎。やっぱり林檎。
「……林檎畑、行ってくる」
 気分がざわめく。落ち着かなさにせきたてられて。
 言い残して、木ビーズののれんを、くぐろうとすると。
「え、わざわざ?」
 姉ちゃんが、ちょっとあきれたみたいに言った。
 ……林檎畑に忘れ物をしたり、作業のし残しをやりに行ったり、そんなの日常茶飯事だ。
 散歩気分で行って帰ってこられる距離なんだし、そこまで反応されると思わなかった。
 だから振り返って、姉ちゃんの顔を見ると。
「だって……」
 目線でちらっと、窓の外を示した。
「ちょうど雪、ふってきたのよ」

 今年、何度目かに、舞いだした雪。
 天気予報じゃ、ふりだしてもすぐ止むだろうって言ってたから。気にしてなかったんだけど。
 わりと今は、雪の密度が激しくて、視界が悪い。
 懐中電灯の小さな光で、あてなく畑を照らしまわっていくけど、兄貴がいるのかどうかよくわからない。もしも木の影にでも隠れているんなら、全然、気づけない感じだ。
「作ー? いるのー?」
 結局、ついてきてくれた姉ちゃんが。ベージュのダウンコートの、フードふちの毛皮のふわふわを揺らしながら、自分の懐中電灯をあっちこっちに当てて、高い声を出すけど。
 反応はどこからも返ってこない。
 しかたなく、どんどん山頂の方へ登っていく。ますます下がってくる気がする空気に、着こんできた紺色のダウンジャケットが頼もしい。
 ふじの畑にいなければ、ジョナゴールドの畑の方にも行こうか、おぜの紅、野菜畑の方には……いないかな、と考え始めたとき、
「あれ……いたんじゃない?」
 姉ちゃんが、なんでか自信なさそうに言った。
 そっちを見ると、細長い影が見えて。
 ああ、いたんじゃん、なんでそんな自信がなさそうに言うんだろう、と、ホッとしながら思った。
 ……でも直後に。姉ちゃんが、自信なさそうに言った理由が、わかった。
 人影なのに、人っぽい感じがしていない。
 なんか、まるで、枯れ木のような。
 異常な雰囲気が立ち上っている。
「兄……貴ー」
 カラ元気な声を絞りながら、そっちに足を踏み出す。
 ほとんどお化け屋敷を進む速度で、姉ちゃんが後ろからついてくる。
 近づくと。なんで遠目にも、おかしいことが見てとれたのか、ハッキリしてくる。
 つま先立ちで、ピンとせいいっぱいに背伸びしてるポーズ、なのに。
 全くグラついたり、揺らいだりしていないのだ。ほんとに、枯れ木みたいに。
 そんなポーズをたもってるだけでも、異様なのに。
 夕飯の時に着てた、灰色のフリースしかはおってない。
 ……そんな薄着で、林檎畑のここまで、登ってきてるわけはないんだ。
 実際に目の前にしてるのに、ありえない信じられない。
 ここは兄貴の実家で、育った土地だ。この季節の外の温度なんか、知り尽くしてるはずなのに。
「……――」
 おそれ、みたいな感情に。いったん足を止めさせられていたけど。
 ようやくその釘のような感情が解けてきて、雪をさくさく踏んで、兄貴の横にまわりこむと。
「な……にやってんの? 兄貴」
 兄貴の手は、激しく動いてて。
 フリースの袖で、ゴシゴシ、林檎の皮を磨いてるのだった。
「兄貴」
 続けて呼びかけるけど、反応がない。
 無視されてるのかと思った、でも。
「兄貴、ってば」
 ――違う。
 聞こえて、ない。みたいだった。
 ぎらぎらした目で、磨いてる、その林檎の玉だけを見てる。
 唐突に、ゆらり。
 数秒前、無反応だった兄貴が、横方向に一歩、動いて。
 姉ちゃんが、ヒッ! と上げた悲鳴が、後ろから耳をかすめた。
 ……兄貴は、林檎の玉を、また手にとった。さっきまで磨いてたのとは違う、新しい。
 それを再び、あらためて磨きはじめる。
「さ、……く?」
 姉ちゃんが、おそるおそる、続いて呼んでみたけど。
 やっぱり聞こえてない、感じだった。
「……やだ、何やってんの、作。こんな薄着で……、バカ、林檎、りンご、磨いてんの? なんで? ほんと何、やって……?」
 今まで怯えていたのの、反動のように。
 姉ちゃんがいっぺんに喋りだした。
 喋ることで怖さを打ち消そうとしてる、そんな感じもした。
 叱りながら、腕をのばして、兄貴のひたいに触れようとする。
 こんなに薄着で、もう数時間は外にいるはずだから、発熱してないか確かめようとしてるんだろう。
 おまけにこんな……林檎を磨きまくるという、奇行に集中してる。熱があるんだと思うのは、当然だった。
 同じように心配しながら、伸ばされていく姉ちゃんの腕を、眺めていたら。
 ぶん、と。
「……っ、ちょ!」
 兄貴、と続けて叫ぼうとしたのは飲みこんで。
 体のほうを優先して動かした。
 兄貴が、ぜんぜん手加減なく。肩から円を描くように、右腕をぶんまわして。姉ちゃんをはじき飛ばしたんだ。
 ……慌てて支えた姉ちゃんを、のぞきこむと。
「あ、……ごめ、ん」
 ぱちぱち、と瞬きしながら。
 暴力すれすれに振り払われたってのに、混乱してるらしい、なぜかおれに謝ってきた。
「ごめん、じゃないって……」
 はー、と、息を吐き出した。
 いっぺんふき出してしまった冷や汗のせいで、余計。
 さっきから這い寄ってきてる、無視したい……正体不明の、嫌な寒気が、ひどくなる。
 おばけを怖がった子どもの頃みたいに、二人でくっついたまま、兄貴を窺う。
「林檎……? 林檎、磨きたいの、か?」
 おれが必死に凝視して、考え込んでいれば、
「やだ……。やだ、どうしちゃったのよぅ……作」
 姉ちゃんも兄貴を見つめたまま。泣きかけに震えた声をだす。
 ……珍しすぎる、数年ぶりに聞いた、そんな声に。
 こっちまで動揺してくるんだ。情けないけど。
 だって。
 いなくなってから、母さんの、肝っ玉ぶりを継いだのは。姉ちゃんだったのに。
「や、……」
 なんとか安心させてやんないと、って。
 一つ可能性を口にしようとして、……でも、いっぺんは、飲みこんでしまった。
「インフルエンザ、とか……かもしれないし」
 それでも、無理に口にした。
「インフルエンザ?……ああ、ふらふら高いところから飛び降りちゃったりとか……するらしい、わね」
 じゃあそれなのかな、という風に。
 いくらかホッとした感じで、姉ちゃんがつぶやく。
 この外見から……予想してしまう事態よりは、ずっと軽くおさまりそうな原因で、納得しやすかったんだろう。
 だって見た目には。
 こんなの、きっぱり『気が狂ってしまった』行動、そうとしか、見えない。
 ――でもインフルエンザじゃないだろう。
 逆に、おれは。安心させようって口に出すその寸前に、確信してしまった。
 夕飯の時から……違う、廊下で原本さんと向かい合ってた時から。
 ずっとヘンだった。ものすごいプレッシャーにさらされてる感じがした。内心では絶叫していたかもしれない。
「とにかく、……このまんまじゃ凍死しちゃうかも。家に連れて帰らないと」
 そう言ったら、突然。
 むしろさっきまでよりも。姉ちゃんは、オロオロしだしてしまった。
 さっき、なぎ倒されかけたのを、思い出してるんだろう。
 家までけっこう距離もある、あんな抵抗されるのなら力ずくで連れていけないだろうし、どうしたら。そう心配してるのが、わかる。
「林檎しか見てないみたいだから……。そうっと林檎もいでみようよ。そしたら」
 提案しながら、兄貴の行動の邪魔は、しないように。
 林檎のつるにだけに指を添えて、つるを、大きくつまみ上げるようにした。
 収穫の時の要領で、枝から離れていく実。
 ――いきなり枝から離れたはずの林檎を。
 ボール遊びしてもらってる猫、そんなふうな反射神経と、焦点がぶれない真っ黒な目で。
 木から落ちることがわかってた、みたいに兄貴は。しっかり、掌にはさんで持った。
 ……磨けていれば、それでいいみたいで。そんな事をされても、やっぱりこっちには、目もくれない。
 林檎に没頭しきった、視界と動きを。妨害されなければ……それでいいみたいだった。
 これだけ一心不乱に、しかも正常じゃない人間が磨いていれば。
 林檎の皮なんてとっくに、へこんだり、傷ついていったりしていても、おかしくないのに。
 磨くという行為に集中しきってるのと同様に、力加減も、全力でコントロールされているようで……兄貴の林檎はただピカピカに、綺麗になっていってるだけだった。
 兄貴の肩をつかんで、力任せ、ぐるっと反転させる。
「行こ」
 姉ちゃんを促すと、うなずいて。
 兄貴の背中に、その手を当てる。一度、いたわるみたいに、さすってやってから、押し始める。
 合わせておれが、二の腕を前方にひっぱると。
 兄貴は意外とすんなり歩きだした。
 抵抗して踏み止まるより、されるがままに歩いていく方が、林檎を磨くことに集中できるからだろう。
 山を降りる道中で。道路を歩いていく最中で。
 何度も、背後の兄貴を。
 その掌の中を、振り返った。
 どうしてだろう、不吉そのものな気がした。
 赤い豊潤。
 いつだって平和とか、仕事とか、そういうものの象徴だったのに。
 その果実を『怖く』感じるのなんか、ありえないはずだったのに。
 いま、惹きつけられるように何度も何度も、背後のそれを見てしまうのは、怖いから、ひたすらそれだけだった。
 兄貴の両手のなかで、命がけで大切にされている、林檎というもの。
 磨かれれば磨かれるほど。
 赤い輝きが増していく。

 掛け布団をかぶせようとすると、磨く作業の邪魔に感じるのか、暴れるので。
 とりあえず敷布団に兄貴を座らせて、石油ファンヒーターをガンガンに最強でつける。
 兄貴に熱風が当たるよう、角度を調節していると、
「豊」
 茶の間に入ってきた姉ちゃんが。
 自分専用のサイフとは別の、スーパーで日用品を買うときとか専用の買い物財布を、こっちに差し出してくる。
「これから熱、きっと出てきたりすると思うから。買い出し、してきて」
「あ、うん」
 ……インフルエンザじゃない、と、おれは、感じてるけど。
 雪の降る外に、あれだけ薄着で、長時間いたんだ。熱くらい出てくるだろう。
「いつもの風邪薬と……。それから、熱さまシートの大人サイズ」
「うん」
 頷きながら、サイフを受け取る。
 そのまま玄関に向かおうと、廊下に出ると。
「豊、免許は?」
 追いかけて茶の間から出て、姉ちゃんが呼び止めてきた。
「……あ、忘れてた」
 なんせ田舎だし、そうそうネズミ捕りにひっかかることもないはずだけど。
 ドラッグストアのあたりは、下り坂でスピードがのりやすいから、張られてるポイントらしい、し。
 さらに年末だから、ちょっと危ないだろう。
 どたどた階段を駆け上がって、自分の部屋にあがって。サイフを開いて、免許を確認する。
 そうしてまた一階へ戻ると。まだ廊下に、姉ちゃんが少しボーっと立っていて。
 来たのに気がついて。また話しかけてくる。
「ね、田島医院さん、最近よく休んでるけど……。明日やってるかな」
「行きがけに見てくるよ。あそこ急な休みなら、張り紙してあること多いし」
 自分のサイフを、ジーンズの尻ポケットにしまいこみつつ、返事して。
 ……それから姉ちゃんを、ちらっと見上げる。
 だって、口調が変だ。
 ちゃんとこうやって、必要なものとか、段取りしてくれてるけど。
 早口気味がどっかいってる。なんか、弱音、吐きたそうな感じに、声自体に強さが出ていない。
「……平気?」
 こんな、『弱気になってもいいよ?』みたいな。誘いかけしたら、ますます弱気に拍車かけるか? って迷いながら。それでも声かけたら。
 図星を突かれたっぽく、眉を寄せて、
「うん……。でも、大丈夫よね? 作」
 やっぱりそんな、姉ちゃんらしくない事、言ってきた。
 弟のおれに、……こんな、わずかにでも『すがる』みたいに。尋ねてくるなんて。
 不倫のことが、おれにバレて。いつの間にかこうなっちゃってたのよ、どうしよう、って、たどたどしく相談してきたとき……以来だ。
 ……おれだってわかんねーよ、とは、とても言えなかった。
「いざとなったら、父さん起こしなよ。起こせば起きると思うし……。細かい説明は、しなくても……。なんか、ホラ、兄貴がインフルエンザかもってだけ、言えば。しばらく起きてて、うろちょろ……しててくれるだろうから」
 受け狙いで、わざと『役にたたねーけど』ってニュアンスで。うろちょろ、って言った所で。
 狙いどおりに、姉ちゃんが、ほっと笑った。
 こっちも少しは力抜きながら、
「誰か一人いれば、心細くないだろ?……すぐ帰るし」
 そう続けると。
「すぐ帰るんなら、起こさないわよ。よっぱらいだし期待できないもんね」
 強気と早口が戻ってきた声で。
 おれと同じく父さんを肴にして、そう言ってくれた。

「うゎ」
 玄関を閉めるなり、ビュウっと体を叩いてきた、強風ひとつ。
 さっきまでより風が強くなってた。
 それが、つもったパウダースノーを吹き上げて。
 上からだけじゃなく、下からも、雪が舞っている。
 天地から雪につつまれる世界。
 親しんでる、0視界状態に踏みこみかけてる。
 ……まだ、0視界には遠い、けど。
 ほんとに朝までに止むのか? と思いながら軽トラに乗りこんだ。
 まずはドラッグストアへの道を、迂回して。
 よたよた立ち上がる感じが不安な、おれが子どもの頃から既におじいちゃんな先生がいる、小さな田島医院に向かう。
 とっくに診察時間の終わった暗い入口を、車の窓から首だけ出して、目をこらして眺めると。
 四角い貼り紙らしきものは、貼りだされてなかった。
 先生の調子が悪くて休診、っていうよくある事態には、なってないらしい。
 熱が出るようなら朝一で連れて行けるな、と、ほっとしながら座りなおす。
 買い出しを済ませるために、別方向にハンドルを切った。
 二十分走ると。ドラッグストアとコンビニが隣り合った、この辺じゃ一番、夜でも明るい通りに出る。
 事故なんか起こらない見晴らしのいいとこだけど。そのくせここは、スピード違反でのネズミ捕りポイントだから、意識してブレーキを踏む。
 車じゃさして『坂』って体感できないほどゆるい、なのに、すごい長い下り坂になってるから、思った以上にスピードがのる。
 そこを、坂の終点に目立たないように隠れてた警官達に、パクッとやられる。
 免許とったら、近所の皆に、一人一回順ぐりで……一人は一回でも総合すれば何十回、で、嫌になるまで教えられた。
 ドラッグストアの駐車場に入れて、店に駆けこむ。
 風邪シーズンだから、大量に、目立つように陳列してあった熱さまシート。
 すぐに手に取って、次の風邪薬カプセルの売り場へ歩き出したけど……途中で気がついた。
 カゴの中のパッケージ、真っ赤なほっぺでうなされてるキャラクターが、子どもだ。
 ……そういや『大人用』って釘を刺された。
 さすがに姉ちゃんは、家族がやりやすそうなミスを、よくわかってる。
 けど、やっぱり、おれも動揺してるみたいだって自覚した。姉ちゃんもいまいち弱気だってのに、それじゃ困るのに。
 会計して、自動ドアをくぐると。また雪まじりの風が吹きおりてきて、店内で温まった頬を、凍らせる。
 車に戻るとき、目に入ったポスト。
 ショートケーキの生クリームみたいに、綺麗にまぁるく盛られた雪。
 ……明日の収穫作業が、とっさに頭をかすめた。
 今、この積雪量で。
 まだまだ止む気配がないんだから、予定通りにはいかないかもしれない。
 タイヤはもうスタッドレスにしてあるから、運送には影響ないけど……雪かきできるように、スコップを倉庫から出すとか、色々やらなきゃいけないことが増えた。
 ――考え始めると、すぐに。
 なんとなく、何に対してだろう。
 兄貴に? 原本さんに?
 ちがう、兄貴と原本さんが秘密にしてる、もやもやしたものに?
 何に誰に対してか、わからない、大きな罪悪感がおそってきた。
 たぶん、明日は収穫作業なんかしてる場合じゃないんだ。
 予感はしてる。
 そんな『日常』ができる事態じゃ……なくなってるんだって。
 明日は、そう、兄貴から事情を聞き出して……。
 原本さんがなんで、ずっと敬語を使うくらい、おれらに……。
 そうだ多分、『怒って』いるのか。
 きっと暴かなきゃ、いけない、そういう決定的な時がきたのに。
 それでも明日、収穫ができないなんて。
 どっかで考えてない、信じれてない自分がいる。
 ……兄貴がただの、原本さんは関係ない、純粋なインフルエンザだって思ってるわけでも。
 明日の朝にはちゃんと平和が訪れてるって、思うわけでもないのに。
 矛盾してる。
 多分、そう、大地震、起こってる、そんな状況に似てるんだ。
 土が。根が。
 壊れそうに揺らいでる。
 でも、そのせいでどれだけ揺れてても、たとえ家具が自分めがけて倒れてきてたって。
 おれはきっと、そのど真ん中で、これだと明日は何時から収穫できるだろ、出荷先の農協貯蔵施設までの道は不通になったりしないかな、とか。
 波打つ地面におたおたしながら、それでも、収穫できないって可能性は排除で、思っちゃってるんだ。
 大災害にならないだろうって、ただ馬鹿みたいに信じてる。
 それに根拠なんかない、自信だってない。
 ひたすら……信じたくない……だけ、なんだろう。
 ――でも、だって。
 収穫しきれない分は、ただ、無駄になるのに。
 いかにも日本の農家な、ちっぽけな家族経営で、作りあげた林檎。
 すぐかかる病気とか、足りない受粉用マメコバチとか、強烈すぎる真夏の日光とか。知恵を出して努力することで、なんとかして。
 体力つかって、神経つかって、寒いとか痛いとか眠いとか言わないで。
 聖書に載ってるような、わかりやすい苦行をはらって、育ててきた。
 たとえ天候あやつる神様にだって、壊される筋合いなんかない、自分が知ってるどんな労働より地道だった。
 一年をかけた。この。
 食べてもらうためだけの実りは。

 車庫出しの為に綺麗に停める、とか考えず。入ってきたまんま、庭に斜めに、軽トラを停めて。
 急いで、地面に飛び降りて。急ぎすぎの腕ふりすぎで、ダウンジャケットしゅかしゅか鳴らしながら、玄関を目指す。
 兄貴どうなってるかな、明日どうなるのかな。それで頭がいっぱいで。
 完全にうわのそら、気を抜ききってたからかもしれない。
 ――背後から二の腕を引かれて、ようやく人の気配に気がついた。
「っ……っ?」
 踏みとどまろうとした瞬間には、もう、体が、相手の力に持っていかれてて。
 バン! と、軽トラックの荷台のとこに、押しつけられた。
 相手が背後から、ぎゅうぎゅう、強く覆いかぶさってくる。荷台にすがりつくような体勢にされる。
 伸びてきた両手が、あっちこっちを、さわりだしてきて。
 しかも、財布奪おうとか、傷つけようとかいうんじゃない。
 くまなく体にふれてくる、優しい、いや……。
 優しいんじゃなくて、セクハラ、っぽい。
「……おい!」
 ――うわ、ヤス兄か。
 待ち伏せして、背後から襲いかかるとか、たまんねぇ。
 そこまで堕ちたかよ。
 内心キレながら、ばたばた暴れるけど。
 完全にこっちの力、無効化されるポジションで組み合わされてるから。相手の体へ、抵抗する力、ちゃんと伝えられない。
 腕曲げて、後ろに射出して、肘鉄、入れようにも。予備動作でバレるから、身を引かれるし。
 相手の靴、踏むのも、そもそも押さえつけられてるから、あんまり力強くは踏めない。踏みつけてもすぐに、スルンと逃げていかれて。
 のたうつ芋虫みたいに、ぐねぐねするしか、だんだん抵抗手段がなくなってきた。
 そんなささやかな抵抗でも、うっとうしかったのか。
 止めさせようと相手が、肩を、押さえこむ動作に出てきた。
 ……そのせいで一瞬、目の前に回りこんできた、相手の手。
 はっきりは見えなかった。
 なんせ粉雪に占領された視界。
 しかもスピードつけて動いてるから、その像はブレていて。
「……え……」
 でも、一瞬。目に映りこんだ、肌色な手の形が。
 明らかに変だった。
 ……『爪がないだけだ』って、本人は、言うし。確かに誰も、そこだけをじろじろ注目なんてしないせいか、気がつきにくいんだけど。
 でも、あの小指、ほんとはすごく特徴的だ。
 おれなら今じゃ、シルエットを見た瞬間に、わかるんだ。
 バランス崩した、力ない形。
 痛めつけられた右の小指。
「原本、さん?」
 小さく問いかけても。
 やっぱり無言のままだった。
 ひたすら、おれの体、さわってくる。返事もしてくれない。
 でも、……ほー、と。
 ため息といっしょに、緊張がぬけていった。
 ……されてることに変わり、ないっぽいけど……ヤス兄じゃないし。原本さんだし。
 けど、逆に。
 予感でだんだん、頬が、かっかしてくる。
 尻むけてる、脱がされやすそうな体勢も、気になってきて。
 だってここ、さすがに人が通るかもしんないし。
 つーか……こんな吹雪になってきてるとこで。
 でもこのさわり方、そうっぽいし。
 無茶苦茶……寒いから、最初より痛いことになりそうなんだけど……。
 まさか本気でそんな気なの、か?
 恥ずかしくなる以上に、青ざめるような気持ちで、パニクってたら。
「っ!」
 下唇へ。つい、と指が回ってきた。
 皮膚よりずっと敏感な、皮の薄い、指が一ミリ動いただけでも生々しくわかるそこを。
 丹念に、小刻みに、なぞり続けてくる。
 その手が、顔面を滑っていって。
 鼻のあたま、つるっと撫であげ、
「っ! ィ」
 目の中に、物理的に飛びこんできた。
 眼球の表面に、完全にくっついてる。氷の温度な、太くて長い指。
 しかも冬で乾燥しきってるから、かなり、チクチク痛い。
 ……指先に、水分を感じ取って。
 目を開いたままなの、わかってくれたのか……そうっと眼から出ていってくれた。
 それでもまだ、未練があるような感じで。目尻のあたり、さわさわと、円を描くようにさわってくる。
 ……そういう動き、知っていくたび。
 なんか、徐々に。
 頬のかっかした感じが、冷静へ、抜けていった。
 あんまり切実な、飢えているみたいな、手探りの仕方。
 これ……そういう意味で、さわられてるん、じゃない。
 やっと悟る。
 いや、そういう種類、なんだけど――そうじゃなくて……。
 セックス、するとか。キスするとかじゃなくて。
 ただ、姿、確かめられてる。
 まるで指に……記憶させようとしてる、みたいに。
 指紋の一皺一皺をひっかけて、そんなふうに全知覚を引き出して、そういう触れ方。
 ひからびた導管へ、ごくごく水を飲みほしていってる植物みたいな。
 貪欲な指つき。
 磁場みたいなものすら、その指先は、帯びてて。次々に、打たれたような震えが、首の裏にくる。
 イソギンチャクのようにわさわさ動き続けている、十本の指。
 あいかわらず目の周りでも、動いてて。
 まつげにも、何度も何度も、かすめてきて。
 ついに、くすぐったくて、たまらなくなり。うながされたみたいに、瞳を閉じた。
 ……ぱたん、と下がったまつげで。目が閉じられたのに、気がついたらしく。
 今度は、まぶたの上を。
 ゆっくり往復してさすっていく指。
 綿密に、優しく、まぶたなんか押されだしたせいか……膝からがっくり、力が抜けてって。
 軽トラックにすがりついてる体勢から、よたよた、って。背後の原本さんによっかかり、少し体重を預けた。
「……ど、したの」
 なんだか、出した声が。自分の耳へ、我ながら甘く……響いてきて。
 ねだっているように聞き取れた。
 けど、次の瞬間。
『え?』と、気づいたことがあって、
「コート、着てないの……?」
 すぐに尋ねた。
 相手との距離……密着しててホント服の厚みだけなはずだ……そこに、感じ取れるのは。
 ほぼおれのコートの厚みだけ、だった。
 相手はたぶん、フリースすら着ていない。
 水鳥の羽毛が入った、もこもことしたダウンコートやダウンジャケットは、この季節、この地方じゃ定番……必需品、なのに。
 0視界の吹雪はつまり、空気そのものが、雪と同化するほど冷えこむってことなんだから。
 ……その無茶な、薄着の理由も。
 できるだけ隔たりなく……おれを、抱き締めるためだろう、と、直感する。
 胸が痛くなる。
 これ、この痛さ、きっと。
 相手から感染させられてんだ。
 原本さんも同じ、いやこれ以上。胸、ギリギリ痛めてるから……。
 こんな、病的、なくらい細かく……さわること、可能になってるんだって。そんな気がした。
 なんで何にも言葉を発さないのか。薄着になってまで近づけてくるのか。こんなにも濃密にさわってくるのか。
 どれも、わからないんだけど。
 たった一つ、伝わってくること。
 接した、体ほとんどの面積から。
 溶け混ぜられてくように、深くへ、届けられてくる相手の意志。
 まるっきり、これは。
 乞われて、いるんだって。
 エリを立てて着てる、ダウンジャケット。その首元に、強引に、手先がさしこまれてきた。
 たまらず首をすくめる。目も固くつぶって。
 温かくて無防備な首筋を。
 氷の温度に冷たい手で、やっぱり、熱心になぞってくる。
「ん〜」
 涙の浮かんできた目、やっと、薄く開くと。
 白くもくもくと立ち上ってる、自分の呼吸に。急に、目を引きつけられた。
 この身を切る空気に、白く広がっていく息……だけどすぐに、強い風に消し飛ばされていく。
 雪は、不思議に行き交っている。
 風に運ばれるしかないパウダースノー、ぶつかりあう空気の対流が。左右から敵対しあい、衝突しあい、最終的には絡まり合う模様を、生み出してる。
 ふいに、全ての指の活動が、止まって。
 腕が遠ざかり、はずれていって。抱擁が、とかれた。
 原本さんがのっかってた背中の重みも、晴れていく。外気にひんやり冷やされていく。
「……ぁ」
 これでやっと……顔が見れる、って。後ろを、振り返ろうとした。
 でもその前に。
 とん、と、また背中に。何かが触れてきた。
 さっきまで触れていた、胸板より、硬いもの。
 おれの肩あたりの高さに、でっぱった丸い二点が、横並びになってる物……、ああこれ肩甲骨だ、原本さん、今度は背中をくっつけてきてる。
「……原本、さん?」
 今度はどうしたいんだろう。
 さっきほど、ぎゅうぎゅうに密着してこない。
 かすりあってるような、頼りない接触。
 呼吸でお互いの体が、わずかずつ上下して、動くせいで。一点も触れあってないような状態にすらなる。
 さっきほど……背中にぬくもりが、溜まらなくて。
 淋しいかんじがした。
 もぞ、と、服を脱ぐ時みたいに。肩を動かして、体をわざと少し、後ろへと動かす。
 原本さんの体を、捜した。けど、
「ぇ……」
 何も、背中にかすらなかった。
 転ぶような足運びで、ふりかえると。
 何もなかった。
 どれだけ目をこらし、耳をすましても。
 静かに。
 誰も、いなくなってた。
 空気にくまなく含まれた、雪結晶。
 透明なはずの、吹きおろされ、吹き上げられて、渦を巻いてる大気の乱舞が。はっきり目に映ってくる。
 まるで、空中に描き出された。
 白い迷い道。
「……っぁ」
 急にわきあがってきた。
 恐怖だった。
 命綱が切れた。体温が途切れた。道しるべをなくした。
 そうだ、繋がりが。
 なくなった……。
「ハッ」
 限界まで吸いこんだ空気が、胸を、ぱぁっと冷やす。
 その空気を逆流させ、喉、最大に叩き。
 せいいっぱいで、叫んだ。
「――……原、本、さん!」
 白くかすむ闇に。
 無残に、吸いこまれていく。
 どうしてだろう。
 予想できていた。
 返事は、かえってこない。

 髪や体に積もった雪を、ぶるぶる振り落としながら、玄関を引く。
 諦めきれずに、家のまわりで原本さん、ずっと探しまわってたから。なかなか落ちきらない、まとわりついてる白。
 ……どうしてか、家に先に戻ってるわけがない、その確信はあった。
 ふりかえった瞬間。
 いるはずの、原本さんだけを消して。
 右に左になぶられて、むなしく雪粒だけが舞ってた、あの風景。
 ……見失った、と強く感じたんだ。
 どれだけあの人が豹変しても……。
 崩さなかった敬語、かなぐり捨てて、キスしてきた昼も。首を絞めて、えぐってきた晩も。その翌日、罪悪感なさそうな平然とした顔、見せてきた朝だって。
 どれだけの衝撃、印象の変貌、迎えさせられても。
 一度だって、見失ってしまった、とまでは……思わなかったのに。
「豊、豊っ? 早く来て!」
 姉ちゃんの舌のもつれた絶叫が、いきなり耳に飛びこんできた。
 帰ってきた物音を聞きつけたんだろう。
 どうも『やっと帰ってきてくれた』『今まで我慢してた』っていう、切迫の響きがある。
 一人で我慢しないで、父さん起こすとか、電話すればいいのに……って思いながら、廊下を走る。
 茶の間に飛びこむと。
 何かに祈るようにしている男。
 尻だけ持ち上がった、両肘、両膝を地につけてる、大がかりなポーズ。
 ……そして、おでこを、ガンッと畳に。土下座のように打ちつけては。
 頭皮が、こそげ落ちてしまえばいいってばかりに――頭頂部にかけてを、力いっぱいごりごり、地面に擦りつけていく。
 うぅ、ぅぅ、って呻き声を洩らしながら……それを、繰り返してる。
 やっぱり完全に。
 正気がうせている、兄貴。
 あいかわらず、事情は、わかんないのに。
 この雰囲気から……いやでも訴えかけられるんだ。
 怯えてる。苦悶してる。後悔してる。
 何か、怒られて、当然なことを。
 ……原本さんが怒ってる原因、兄貴は抱えこんでる。
「さっきから、こーなのよ……」
 妙に女らしく、なよっとした形で座っている、姉ちゃんが。こっちを見上げて言う。
 多分また『止めなさい』って頑張ったけど、ふっとばされたんだろう。
「髪がこれだけ抜けちゃってるのに、全然、止まらないの」
 言われて、左右に目を走らせ、床にちらばった髪を確認する。あっちこっちに、こんもりと黒毛が密集してる。
 これだけむしっていけば、当然、痛みだってあるはずなのに。
 ざり、ごりぃ、と、狂気の音は。今も視界の端、兄貴から響いてくるまんまだ。
「畳との間に、ふとん差しこんでみたんだけど。すぐぐちゃぐちゃに……」
 言われて見れば、姉ちゃんと同じように、壁際にはじき飛ばされてしまってる敷布団が見える。
 ……とりあえず、このまんまだと。
 ほんとに頭皮がビリッと……切れかねない。
 怪我させてもいい覚悟で、兄貴に飛びかかって。
 両腕の二の腕を、思いっきりつかんで、力任せでダンッ! と壁に磔にする。
 すかさず姉ちゃんが、左腕のほうを、一緒に押さえつけ、サポートしてくれだした。
 それで、いちおう。兄貴の自虐的な動きは、止まる。
 ……間近に見るおでこは、真っ赤になっていた。
 かろうじてまだ、皮がめくれてない程度。むしり落とされた髪が、畳のあっちこっちに散らばってるのと同じよう、痛々しく、沢山くっついている。
 ふいに、兄貴の右手に、視線が引き寄せられた。
 引き寄せられた原因は、すぐにわかった。
 ゾッとすることに、そこにはまだ。
 呪いのように、鮮やかな紅があった。
 ……がりがり、と、また、嫌な物音がしはじめて。
 あわてて目をやると、兄貴は、今度は、後頭部を、がりがりと壁にすりつけていた。
 とにかく自分を痛めつけずにはいられない、らしかった。
「ぁあ……」
 壁をひっきりなしに軋ませながら、ほら穴のように黒く深く、口をあけて。
「ひどい」
 あえぐような、うわごとを洩らしだす。
「実った」
 はぐぁ、と、攣る喉の音を響かせながら。苦しげに息を取り入れて、
「実りが」
 グロテスクなほど大きく、ごっそり上下した喉仏。
「実りが、おれら殺す。なんて」
 頭の中に。
 ピリッと閃光が走るような、そんな衝撃があった。
 ――消えたあの人は。
 ――何て言ってた?
 光の道を作りだすような速度、窓を見やる。
 さっき銀世界へ消えていった、あの人の背中をたどる。
 そして頭の中、あの人が残した足跡を、追いさぐる。
 そうだ、動かない利き手の小指をなぞった、最後の晩に……。
『林檎が、実るよ』

 ◆

 ぷっちり行きかねないほどの、アキレス腱の伸びを意識しながら、登る、急坂。
 さっきから勤勉に、足を動かし続けているのに。未だに頂上が遠い。
 ……どうしたって帰るのが一日がかりになる。
 故郷とはいえ、ほんと、生粋な田舎だ。
 いまいましく再確認しながら、道の両脇を見渡す。
 晩秋で初冬なこの季節、元気をなくしてきている畑。過疎化が進んでいる状態にふさわしい、古びた家々。
 自宅への帰り道として、かつて、毎日見ていた。近隣の誰のものかも知ってる畑と、生まれた時からある民家たち。
 幼少期に、すっかり深層意識へと刷りこまれた、懐かしい風景だ。
 あいかわらず終わらない坂、足のだるさに悩ませられながらも。
 やっぱり、その慣れた景色には、心をなごませてもらえる。
『国光』――方言で『雪の下』という品種の時代に、日本最大の林檎産地としての地位を不動にした、豪雪地帯、青森県。
 大学のある東京から。一晩をかけて、ようやく帰ってきた故郷。
 深夜バスのノクターン号が、夜間に弘前駅まで運んできてくれるのはいいのだが……。
 毎回、帰省は深夜バスなんだから、そろそろ慣れてきたってよさそうなのに。
 狭いシートに、近い人との距離。眠れてる人間のいびきと、自分と同じく眠れてない人間の発するうるささ。
 今回もやっぱり、深夜バスは名前のまんま『深夜に走るバス』なんであって、『眠りを約束してくれるバス』じゃあないんだよな、と、思い知らされただけだった。
 浅い短い眠りを、断続的に掴んでは手放す状態を、下車までくりかえすことになり。
 結果、残ったのは、試験前の、追い込みの徹夜勉強のあと、によく似ている疲労感。
 たっぷりと居座る筋肉のコリ。肩をばきばきと鳴らし、何度目かにほぐす。
 そんな軽い体操をしながらも、足は止めていないのに……坂の頂上には、いまだに辿り着ける気配がない。
 一番近所のバス停からなら、この、山と言っていいような坂を。六個もこなす必要はないんだが……。
 このあたりは、待っていればすぐに次のバスに乗れるような時刻表にはなってない。
 むしろそれが当たり前だったから、東京のバス停には、同じ目的地に同じルートで行く、『無駄』としか言いようがないバスが、次々とやって来るのには驚いた。
 しかも、ちゃんと乗客もそれまでにバス停に溜まるから、無駄ではない。人口密集の勝利だった。
 人口閑散としたここに帰ってくれば、その便利さは望むべくもない。
 自宅に辿り着けるところを通りかかるバス、に三十分以内に飛び乗れただけでも、運が良かった。
 ただもちろん……その運よく乗車できたバスが、自宅に最も近いバス停を通ってくれるわけもなく。
 今日のパターンでは、自宅に辿り着けるただし『歩けば』、の、歩けばにあたる距離が。デデンとそびえる山三個……坂六つ、ということなのだった。
 ――けどまぁ、それを言ったら。
 家の最寄りのバス停に停まってくれるバスなんか、日に数本と言った方がいいレベルだ。
 なんせ元々、ベッドタウンという形容からはほど遠く、過疎化も進みきっている。走らせても採算が取れないとする路線バス会社の判断は、ものすごく真っ当だ。
 東京に慣れてしまった今では、異次元に迷いこんだように思う、足の無さだった。
 あいかわらず続く、いやがらせのように急な坂。
 汗ばむほどに、こうして足早に歩いていても。
 昼前で、日光もさんさんと照ってもいるのに、空気そのものの寒さで、指先は少しかじかむ。
 こうも坂続きで、不便な場所に。
 実家ならびに、同職の林檎農家たちが軒を連ねているのには……もちろん理由がある。
 おいしい林檎の生育には、サンサンとした日光が必要で。
 するとどうしたって、平地よりは、こういう山――急斜面に畑を広げていった方が、いいってことになる。
 ビルが建つと、背後の一般住宅に日が当たらなくなって、日照権でもめるのと、同じ原理だ。
 日照を確保しようとするなら、上に上に伸びていくのが、一番いい。
 山はビルのようなもので……最上階にあたる頂上まで、日照が、効率よく確保されているのだから。
 普通の平地だと、農作業しやすいし住みやすいとはいえ、こうはいかないのだ。
 ……それは重々わかってる。通学にも思いっきり苦労させられたこの土地の、そんなデメリットは補ってあまりある林檎栽培へのメリット、今更、ふりかえるまでもなくわかってる。
 それでも、都会の実際を知り、慣れてしまえば。うんざりするこの気分、抑えられない。
 大学に入ってから体育とおさらばしたせいか、高校の頃より息苦しい気がする。
 ようやく、山の頂上にあと三歩という位置に来て。ヤレヤレと歩を緩める。
 後は、坂を一つ下るだけだ。
 ひたいに浮かんできた汗を払うような、一陣の風がやってきた。
 爽快さに眼を細めながら、あと三歩を、ポンポンポンッと詰めた。
 ちょうど頂上で、いっぺん立ち止まって。
 てっぺんの高みで、目を開けば。
 視界右手に飛びこんでくるのは、鮮やかな三色、我が家の畑だ。
 ……反射的に、笑顔にさせられた。
 秋に、いつだって。
 ガキの頃から強制的に、この坂でくりかえした、くりかえさせられた。
 あらがえない笑顔、だ。
 息切れしながらも、足にだるさを感じながらも。
 どうしても勝てっこない、喜びの風景。
 深い緑色、渋い茶色、そこにまぶされた丸い紅。
 絶妙のバランスで、見事に配色された、豊穣の芸術。
 一年かけた両親の労働が実っている。
 ここまで来れば、あとは下るだけ。
 車道を挟んだ左手のすみには、ボロい我が家も見える。
 ……前のめりに転がる勢いでコケかねない、急坂につき。ブレーキにけっこう力が必要で、普通の下り坂ほど、ラクってわけじゃないが。
 それでも、あと少しでゴール、というのに気をゆるめて。
 畑の方に、寄り道で、靴を踏み入れた。
 収穫を迎えた、華やかな林檎畑を楽しみながら、家を目指すことにする。
 あまり林檎に、縁も興味もがない人が見れば。
 一様に驚くような、小さく細い木が、列をなす林檎畑が広がっている。
 つい先週も、食堂でしょうが焼きを食いつつ、母親からの写メを開いて、うっかり、
「あー実家、映ってる」
 とつぶやいたら……晒し者のように、周りでメシ食ってた皆が、のぞきこんできて。
「なんでこんなちっちゃい木ばっかなの!」
 という反応をされたのは、記憶に新しい。
 どうも、『大自然のなかにある林檎園……そこには、緑の茂る大木があって……数え切れないほど沢山の林檎が揺れていて……』というのが、皆と言うか、一般人のイメージらしかった。
 木と言えば、けやきやいちょうのような街路樹くらいしか、見慣れていないだろうから。そのせいなんだろう。
「あんまりデカイ木だと、手入れしにくいだろ」
 と言うと、一発で、全員納得していたのだが。
 さくさくさく、と、短い草を踏みしめ、少し歩いただけでも。
 あいかわらず、丁寧に手入れされてる畑だなぁ、と、しみじみ落ち着いた気分になれる。
 荒れ放題の山なんかでは味わえない。人が……神経の細かい日本人が、管理しきっている場所。
 人間のためにある庭とは、目的からして違うが。結果的に、劣らぬほど、居心地のいい空間に仕上げられている処。
 雑草はキチンと、芝生状態に短く刈り込まれていて。歩きにくいこともなく、散歩気分に進むことができる。
 木のまわりに、ミラー代わりのシルバーマルチがしきつめられていて。畑全体がキラキラと、さっきまでの歩道より、一段明るい。
 背丈や、幹の太さが揃った木が、遠くまで整列して続き。
 木の緑すら、もこもこと野放しに、葉を茂らせてはいない。剪定された庭木なんてものが、かわいらしく思えるほど、念入りに葉の量を調整されている。
 だからこそ。
 赤い林檎は、葉の緑をかきわけ押しのけるようにして、すべての個体が表面に出られていた。
 丸顔の輪郭をすっきりと晒し、日光を浴びれてる。
 赤い色が見えたなら、それは必ず『丸い形』として視認できる、と言い切れるほどだ。
 人がくまなく手入れをしているから……葉の緑に埋もれている林檎が、一つとしてないのだ。
 日光が、ちゃんと実に当たるよう、『葉摘み』作業を、今年も丹念にやってきたということだった。
 大切にされている林檎農園の証。
 林檎は、日光に当てられなかった部分があると、そのあたりは赤くならないまま終わる。
 そういう皮が真っ赤にならなかった、白っぽいムラのある林檎でも。ちゃんと完熟はしているのだが。
 赤くない=熟していない、というイメージのため、そんな仕上がりになったものは、フルーツとしての流通ルートにのせられない。
 だからこうやって、散歩気分で歩けるほどに、雑草を綺麗に刈りこみ、シルバーシートをしいて尻側も赤くし。
 なにより『葉摘み』をし、実が広く日光を取り入れられるように、お膳立てして。
 さらに頃合を見計らっては、林檎の玉を、くきを中心にそっと回転させ、『裏側が白』という事態を、防いで回る。
 ……これだけ労力をかけて、『隅々まで赤い林檎』というのを完成するのだから。
 皮を赤くしないと、林檎というのは甘くならないんだ。と。
 ミスで白い皮の部分を残してしまうと、そこだけ『ぽっかり』と、すっぱくて、甘くないんだ、と。
 子どもの頃、思ってた。
 まさか、子ども並みに純真でワガママな消費者が――そんな感じに思い込んでいるから、ただそれだけの理由で、これだけ林檎全面を赤くすることに心血を注いでいるだなんてこと、考えつきもしなかった。
 中学生で知った後も、なんだか、信じられないと言うより――ピンとこなかった。
 そんなの、アホらしすぎるから。
 ショックで、自分で実際に。白いところがだいぶ出来てしまったものと、全体赤い林檎を……食べ比べて、確認してしまったものだ。
 そして確認できたら、今度は軽くパニックになった。
 じゃあ、なんで。
 味も香りも歯ごたえにも、何一つ影響を与えないのに。
 皮を赤くなんてしてるんだ、こんだけ仕事を増やして。
 皮なんか、うさぎリンゴにでもしない限り、どうせ剥かれてしまうのに。
 ――くまなく赤くする作業のために、痛くなる腰。
 その毎年の積み重ねで、孫もできてないのに、明らかに腰が曲がってきてる母親とか。なんなんだろう。そう震えた。
『市場の反応って言うじゃ。店で、赤いのど、白いのあっただば、どちらば選ぶ?』と、珍しく父親から、さとされても。
 消費者に教えればいいじゃないか、と、反発心てんこもりで、かたくなに思うだけだった。
 あれだけ毎日、テレビの情報は、泡のように現れては消えていくのに。
 どうして誰もそれを、テレビの向こうへ、毎日のように伝えてはくれないんだ。
 農家の子どもである自分だって、知らなかったのだ。
 きっと、知らない人がたくさんいて、だから『林檎は赤くしなきゃいけない』ようになっちゃってるんだ。
 このとんでもない手間を省ければ、何倍も林檎が生産できる。
 農家も、食べる人のほうだって、みんなが幸せになれるはずなのに。
 そう憤っていた。幼かった。
 ……今なら。
 たとえ林檎農家が一致団結して、大々的に『赤くなくても甘い』ってCMキャンペーンを組んで。今年からは白い部分をのこすぞ、全体真っ赤な林檎を作る農家は、ハブるかんな、って……協定を結んでも。
 やっぱり、『でも美味しそうに見えるから』で、赤い林檎ばっかり、買われていき。
 するとポロポロ、今までのやり方に戻す農家が発生してって……。
 それってつまり、ようするに。
 意味ない、んだろうな、と。分かるのだが。
 ……美術の時間に、テーブル上のフルーツ籠をスケッチするんじゃないんだし。
 知識で補強できなくて、なにが人間だよ……と、つくづく思うのだが。
 実際、日本よりはるかにおおざっぱなセンスを持つ、諸外国では、林檎はムラありで平気で売られているんだから。
 そりゃ、実際の国産市場じゃあ、まだら赤なんて買い手がつかないんだけど――。
 でも不満に思う、おかしいと憤る。
 林檎は赤くなきゃなんて意識、変わらないかなと、呪ってる。
 ――こんな性格である限り。農業は、向かないんだって。
 なにより親から、そう学ぶのだ。
 両親には、こういう鬱積、そもそもほとんどない、みたいなのだった。
 自分とは大違いだ。
 消費者意識なんて変わってくれっこない、今までもそうだったんだから、っていう『諦め』ではあるだろう。
 だからこそ、誰にでもできる仕事じゃないんだぞ、っていう『覚悟』でもあるだろう。
 けどそれ以上に、なんか「お客さんのためなら」っていう。
 へりくだった精神が、自分とは比べものにならないほど、両親にはある。
 ――美味しく食べて、もらえるなら。
 ただそれだけの、思わず、目を逸らしたくなるほど……善人に綺麗な、輝く誇りが、語らないまま透けてくる。
 我が親ながら、宇宙人みたいだと思う。
 そりゃあもう。
 親の……そんなとこを、尊敬はしているのだ。
 でも『自分もこうなりたい』とは、とても思えない。
 だから……親としては尊敬してるけど。
 特に同性である父親は、男としては尊敬できてないかもしれない。そう思う。
 こんな内心。
 伝わってないといい、バレてはいないといい、と、後ろめたく思いながら、も。
 ……継ぎたがらない段階で、バレバレになってるような気も、するんだけど。
 ……そのへん秋実は、両親の子どもだ。
 将来の夢を尋ねても、子どもの頃から。「ここで林檎をずっと育てたい」しか出てこなかったし。
「お嫁さんになる」くらいは……挙げてやれば同意しなくもなかったが。
 具体例として挙げてやる、スチュワーデスとか、看護師さんとかさえ、まるで外国の音楽でも聞かされたみたいな、薄すぎる反応で返してきた。
 そして、やっぱり。
 両親と同じように。
『林檎、全体ピカピカに赤ぐなくてもいいど思わね?』という中学生なおれの意見に、同意しなかった人種でもある。
 ……おれよりも若いくせに。
 どうも、年齢だけに由来するもんでもないらしい。
 ああいう、精神ってものは。
 謳歌してるように、木、葉、実のそれぞれが、主張の強い色で咲きそろう――秋の林檎園。
 そんな事を思い返しながら、足を進めていると。
 ……ぽつり、と白い色彩が。
 まだ遠い木の下、にじむように在った。
 動かない、その白。
 木の幹にまぎれこむような、茶色い毛並みが。その白色の、てっぺんに、ふわふわと脆そうにのっかっていて。
 ああ……。
 白いソレの正体に、思い当たると。
 なんとなく心底から、味わうように長く深く、ホッとした。
 ――まるで、子どもの頃から家に住み着いていた、妖精や座敷童が。
 あいかわらずそこに居ること。
 居てくれたこと、に安心する。
「秋実!」
 届くよう、腹から発声して、大きく呼びかけると。
 ぴく、と。
 草原で耳を立てる、うさぎみたいに。
 うつむけていた頭を揺らし、こちらに顔を向けて。
 ……ふわ、と微笑が。
 その、白い顔に広がっていく。
 控えめな目鼻立ちが、やっとはっきりする。
 頬に、遠目ですら明らかに、赤みが差して。
 身内ですら珍しく目にする、全開での笑顔。
『お兄ちゃん、お帰り』いかにもそう、語るようで。

 ……近づきながら。
 妹が、寒いのに……こんな所でうずくまっていた理由の、予想をつける。
 と言っても、いつも通りの日常ではあるのだけど。
 落ちこむことがあった時、秋実は、この林檎園に居たがる。
 幹のこげ茶色によりかかり、葉の緑に埋もれ、口紅のような紅に飾られて……時間を過ごす。
 まるで林檎の木々に、慰めてもらうみたいに。
 ……今日も『ももちゃん』に、何か、言われたかな。
 それが一番、ありえるだろう。
 いつだって、それくらいの些細な理由なのだ。
 幼稚園の頃からの妹の親友、百花ちゃんは、別にきつい性格ではない。
 むしろ人見知りとか激しい秋実のフォローを、よくやってくれてる、面倒見のいい子だと思う。
 ただ、あんまりと言えばあんまりな秋実の内気さに、たまに手を焼いて。
 もはや姉妹レベルとなってるつきあいの長さもあいまって、けっこう『言い過ぎる』ことはあるらしい。
 そして、そんな揉め事のたんびに、秋実は落ちこむのだ。
 怒らせちゃったと怯えた表情になりっぱなしになるのは、昔っから。
 秋実の前の地面を、さく、と踏みしめて。
「まだ何、落ち込んでんだ?」
 眼下に話しかければ、
「……だって」
 ほのかに口元に残してた笑顔を、消してしまい。
 もじもじと、こちらから目線をはずす。
「ももちゃん、怒らせちゃったか?」
 常に三日後には『仲直りできた!』と、ホッとした顔になる日を迎えるくせに。
 夏休みや冬休みの、長期休み中に、そんな風に揉めた時すら。例外なく、その短期での解決なのだ。
 そこまでたわいもない諍いに、よくもまぁ毎回……ここまで律儀に落ち込めるもんだと思う。
 そんなに、ももちゃんに嫌われたら。
 次の、クラスメイトの中での親友、を見つける自信がないんだろうか。我が妹ながら。
「いっつも、考えすぎなんだよ。怒ってたんじゃなくて……もっと喋れとか、そういうアドバイスだったんじゃねーの?」
 そう促してみると。
 やっぱり、そんな内容の悩みだったようで。うつむいたまんま、答えてくる。
「……ももちゃんの友達。ついていけない話、する子で」
 その一言で。たぶん大体の、全貌がつかめた。
 ももちゃんが、新しい友人でも、連れてきたんだろう。
 それで三人でしばらく話して。
 で、新しいその子が、都会的というか……街まで遊びに行こうとか、そこの店がどうとか、そういう話題したがる、派手めの子だったのだ、おそらく。
 秋実とは、いかにも合わない。
 その子に上手く、調子を合わせられなくて。それで、ももちゃんが『もーちょっと愛想よく喋れ』とか、苦言を呈したに違いない。
「せば、帰るぞ?」
 とにかく、もう。
 ふじ林檎の収穫しようかっていう、冬に近い季節なのだ。
 肩がけカバンを直しながら、秋実に、帰ろう、と催促した。
 すなおに秋実が、コートの裾をひるがえらせて、立ち上がって。
 ……ずいぶんと真っ黒なコートを、妹が着ていることに。その時、やっと気づいた。
 あからさまに通学用だ。徹底的なまでの黒さと、慎ましさを追求しすぎたのか膝下かなりまである丈。
 ここまでロングコートだと、魔女の全身ローブっぽくすらある。
 けど妹が着てしまうと。
 魔女っぽさは消えて。なんか、魔女印象から古めかしさだけが残って。
 結果的に、和服のような印象になってて。
 秋実にはよく、似合っていた。
 ……大和撫子って言ったら美化しすぎですけど、んな子なんですよ、柔らかに扱ってください、って。一目で説明してくれるみたいに。
 多分、のびた身長に合わせて買ったばかりなのだろう、新しいコートを、しげしげ観察しているうちに。
 秋実が、また木に、腕を伸ばしていた。
 今度は、背をあずけるのではなく。正面から、抱きつこうとしている。
「私……ぜったい」
 カサ、と、葉に、おでこをぶち当てる。やや自虐的な音がざわめく。
「都会って合わないと思うから……ずっとここにいたい」
 そうして。
 かばってもらうように、木の奥へと、身を潜らせていく。
 親の毛皮に隠れる、子猫のように。
 木の緑や、林檎の赤へと、深くまぎれこんでいき。
 急に、目の前にいるのに、白い秋実の存在が、弱まる。
 ――ああ、ずっとここにいればいいじゃないか。
 ついさっきも考えたくらい、ホント。
 おまえこそが、林檎栽培に向いた精神、受けついでるんだよ。
 おれは継がないんだし、ちょうどいいんだったら。
 そう考えながら見つめていた。
 どことなく絵画のような光景。
 妹と、林檎の木の。
 頼り、頼られあう関係が。よく描かれているような。
 なんか、ちょっと、見とれてる、とか。
 兄馬鹿すぎるよなぁ、と、思いながら。
 秋実がなごりおしそうに、木の葉に、ひたいを甘えるようにすりつけるのを、見守っていた。
 ――いつごろ、どんな、大人に。
 なるんだろうな。
 父親が娘へ感じるのに、近く、掌につかんだ感情。
 手を離れていってしまう寂寥と。
 それよりずっと、待ち遠しい歓び。
 いつか来る。
 あたりまえの未来。

 林檎の軽やかな香りがほのかに漂う、畑を出て。
 自宅側に渡るために、車道を二人でよぎる。
 横断歩道も、信号も、何もないが。そもそも車が滅多に通りかからないから安全だ。
 秋という、黄金色の季節にふさわしく。
 盛大に『灰色じゃなく』なっている、車道のアスファルト。
 このあたりの風物詩みたいなものだ。
 青森のこの市は、『林檎の名産地』であると同時に、独自ブランド米すらある『米どころ』でもある。
 育てるのに適した場所は、林檎は丘陵地、米は平地、と分かれるので。
 ちょうどよく住み分けできる、農産物の組み合わせ。
 秋は、そんな田んぼへ、さぁいよいよ稲刈りだ! と、コンバインで稲刈りに乗りこむわけで。
 で、ここは終わった! 次のうちの田んぼは、あの山を越えたところだ! となり。
 その離れた田んぼへと、移動するため……当然コンバインで公道を走ることになるので。
 移動区間にある道路には、このようになすすべもなく、コンバインのキャタピラ……ゴム製のクローラーから、『落し物』を一方的に贈られることになる。
 さらにそれが、風や、車のタイヤで広げられ。
 結果しばらくは、アスファルトにかなり薄汚いアートとなって居座るのだ。
 おまけに大きめの岩っぽい、乾いた土塊も、あっちこっちに落ちていて、ときに足どりを危うくさせるし。
 道路にひときわ派手にくっついている、柔らかな泥は、靴底にネットリとへばりついてくる、犬猫の何かを連想させる感触すら伴う。
 マナーも何もあったもんじゃないが。
 こんな農業地帯で、本気で目くじら立てて激怒する人もいない。
 たまたま通っただけの観光客なんかは、公道なのに何考えてる、キャタピラの掃除をしてからアスファルトには乗り入れろ、と怒ってるらしいが。
 確かに、掃除してから道路に乗り入れれば、こんな、東京の黄砂が可愛くてしょうがなく見える汚れは見せないのだが――実りの秋は、とにかく忙しい。
 掃除といったって、田んぼでそう簡単にできるわけもなく、軽く掃除した程度じゃあいかわらず道路に汚れはつくしで。
 つまり、ここら辺の住人が本気で激怒しない限り、この風物詩は続くだろう。
 で、住人が怒る可能性といえば、ない。
 農家率がめちゃめちゃ高いから、お互い様だしね、という仲間意識でもって許されるのだ。
 それで思い出して、傍らの秋実に、問いかける。
「垣田さんのどごの、米の収穫、どだった?」
 うちでは米は育ててないのだが。
 近所に一軒、毎年必ず、うちが手伝っているところがある。
「うん、今年も手伝ったよ? おじちゃんが、豊作ってほどでもないけど……まぁまぁだなって。秋実ちゃんがよく手伝ってくれたおかげだって、おばちゃんが、おこづかい、くれた」
 少しはしゃぐような雰囲気で、秋実が答える。
 ……自分の家の手伝いくらいなら。
 自分だって、自分の同級生だって、もちろんして……させられて、いたが。
 親戚、近所の農作業まで手伝え、となると、ぶぅぶぅ文句を言い、時には逃げ出す。
 それが普通だったのに。
 特に自分は、『勉強のため』という理由で、理詰めに、そして責めるように反抗し、逃げたから。
 さぞかし親としては扱いかねただろう。つきあいってもんがあるのに。
 とにかく、まぁ。
 ほんわかと嬉しげに、近所で手伝った米収穫の結果を伝えてくる、この秋実の気性の良さは……尋常じゃない。
 女子だって似たように嫌ってたはずなのだ。近所づきあいの農作業なんて。
 中学生として、なんか、間違ってる反応。
 そりゃ悪いことじゃあないが。
 あいかわらず黄土色に汚れた地面。
 その黄土色の上にかぶさる、二つのいびつな影で、ふと、思い出が蘇る。
 昔は。
 お兄ちゃん、と、手をさしだして、ねだってくる秋実と。
 この影を繋げて帰っていた。
 ……もう何年も『手を繋いで帰る』なんてしていないのに。
 そして、これからも、ないだろう。
 いくら秋実が、子どもらしいままだからって、手を引いて歩けるはずもないのだ。
 別に。
 妹と手を繋ぐという行動を、積極的にしてた覚えも、楽しみにしてた覚えもないのに。
 もう二度とできないんだな、と思うと。
 またもや、ほんのり淋しかった。

「……そーいや父さんと母さんは?」
 最高に忙しい、収穫、出荷シーズンなのに、なぜ畑にいなかったんだろう。
 そう思い、秋実に尋ねる。
「さっきまで、私と一緒に収穫作業してたよ。でも、お客さんが来るからって、帰ったの」
「お客さんって?」
 一番邪魔されたくないこの時期にか、と思ったが、
「お客さんって言っても、農協の人だよ?」
 付け足しに帰ってきた返事で、納得した。
 おおかた、出荷の打ち合わせか何かだろう。
 それなら断れないし、そもそも短く済む。向こうも忙殺シーズンなのだ。
 そう聞いてから、家の方をよく見れば。
 家のまん前からは少しだけ離れた所に、農協のものらしき車が見えた。
 その車体についてる緑のポイントは、確かにJAマークっぽい。
 まだ家にいるんだなぁ、と思いながら進んでいると。
 ちょうどその時、おじぎをしながら玄関から出てくる男性が見えた。あの人がお客の、農協職員なんだろう。
 そのまま急ぎ足で車に近づき、姿が車内に消える。
 挨拶すべきかな、と考えていたが、そのヒマもなかった。
「水沼さんだ」
 秋実がぽつりと言った。
「知ってるのか?」
 内向的な秋実が、たまに訪問してくる程度の、農協職員の名前を覚えるなんて、珍しい。……と言うより、初めてだった。
「すごくよく来るの。秋実ちゃんがいると助かるって、たまに通訳みたいにされる……」
 ぽつぽつと、秋実が説明してくる。
 若いのと、そもそも口数が少ないのがあいまって、秋実にはほぼ標準語でしゃべるというクセがある。
 それで、在宅時には『両親との通訳に』と頼られるのだろう。
「青森の人だば、ねのか」
 地域密着を地でいくJAだ。
 自分が子どもの頃から見てきた限り。農協職員はいつも、方言ばりばりに駆使して、両親としゃべってる、その光景であたりまえだったのに。
「めずきやしいなー」
 このへんの就農者は高齢化していることも相まって、方言の強い人が多い。
 よその地区から来たなら、かなり、言葉で苦労してるだろう。
 うちの両親は、気をつけていれば、ほぼ標準語という感じで喋れるのに。
 それでも秋実を通訳に立てることがあるということは、相当、まだなじめていないという証拠だった。
 門がないというのに、金属の柵に曇りガラスがはめこまれただけの玄関。
 檻のように柵がめぐらせてあるとは言え。ガラスを割られて、にゅっと手をつっこまれたら、鍵を普通にはずされる、泥棒ウェルカムなつくりだ。盗るもんって主に林檎しかないんだが。
 東京にいったん慣れると、大丈夫なのかよ、と思わせられてしまう、このへんの犯罪に対してのゆるさ。
 ……いや、犯罪に対してと言うより。
 もう、ここから自分の住居です、立ち入り禁止です、と声明しようとする意志、そのものが、すでに弱いと言えそうなのだ。
 お隣と境界線で揉めることはあるにせよ、『どさからがうちかのんて、近所はみーんな知ってる。間違って迷いこむことのんか、ね』という。
 事情や歴史――この土地のそれを、知らない者。
 よそもの、を、最初から……悪意もなく除外視してる。
「おかえり」
 たまたま玄関そばにいて、ブザーを鳴らすまでもなく、家の中から帰宅を知って。
 玄関をあけてくれた、自分とさして身長の変わらない父さんが、そう一声かけてくる。
 靴を脱ぎながら、
「農協の人、今帰ったんずや? 車とまってたけど」
 と尋ねると、
「んだ、最近よく来てぐれるんだ。担当の人が変わってな。今度の人は熱心で、ちょぐちょぐ今年の予測どが、伝えになぁ。今年は気象予測がこうだてがきや、この作業、ちょぺっど遅きやせるほうがいいし、どが。農業指導だべ」
 それを聞いて、頭の中、重なるイメージがあった。
 そう、このあいだ、受けたばかりの集中講義で。
 大学でできた、学部が違うからまだあんまりよく知り合っていない、彼女が、好きな、
「宮沢賢治みたいだの」
 大講義室のスクリーンに投影されていた、生前の宮沢賢治の写真。
 両手を背の腰あたりで組み、やや難しい顔つきで歩いてる、モダンなコートと帽子が印象的な男。
 視線は、地面をじっと観察していた。
 学者がフィールドワークしている風景に見えた。
 農民に農業を指導してた、というエピソードに、ぴったりな写真だった。
 さっき、農協ロゴがついた車にのりこむ所を見かけた、スリムでひょろっと長い、後ろ姿と。
 農業指導という単語だけで繋がった。
 その感想は。
 ――後から考えれば、運命的なほどの『形容詞』となった。
 ……その授業で、宮沢賢治って。
 新興宗教にハマって親友に勧めまくって、うんざりで縁切りされる。
 新しい農薬を熱烈プッシュで薦めまくって、結果的に農家に大失敗させる。
 そういう『随分な人』という面を持っていた、ってこと。
 意外さに驚きながら、知った。知った直後だった。
 なのに。
 農業指導家って宮沢賢治みたいだって。
 そんなシンプルな感想しか、浮かんではこなかったんだ。
 せっかくだ、聞いたばっかだった、そういう実情。は。なんかあんまりにも、人間臭すぎて。どっちかって言うと嫌な話だって、切り離されがちで。

 ああ、かすってもよかったんじゃねぇの?
 完全に聖人。
 無欠に公正。
 そういう光り輝くばっかりのイメージを放つものには。
 こっそり何か、隠されてはいないかって。

「まぁ、いろいろ、買わされるんだげどの。ローンも増えた」
「ああー、それはの……」
 とても美談にはなれない、綺麗な話でもないが。
 しかたないと理解できる話ではある。農業指導というか情報提供と、ノルマとが結びついた、ギブアンドテイクだ。
 高校生の頃より、ノルマありきの『ありがち』話に。
 深い同意のあいづちを打ちながら、コートを脱いでいった。
 暖かい茶の間へとひっこんでいく父さんを尻目に、洗面所の引き戸を、ガラガラと鳴らし開く。
 古びていて、木板が湿気を含んでいるせいで、シンシンと冷え込む洗面所。
 身震いしながら、手洗いとうがいを済ませ。自分も温まりに後を追う。
 エアコンが稼動してる茶の間、既に父さんは、コタツに深く納まっていた。
 自分もならってコタツに、両足と両手までも、潜りこませる。
 寒さに縮こまっていた全身が、ほっとゆるむ。
「冬樹ー。おかえり」
 続き間になっている台所から、藍染めののれんをかきわけて。
 母さんが、ひょっこり顔を出し、話しかけてきた。
「ん」
「昨夜は眠れだが?」
「まねじゃ」
 ため息まじりに、無理だったと報告する。
 コタツ正面の父さんが、ボソボソ言う。
「眠れる段取りでいちゃ、なーもなぁ。エコノミー症候群とか心配だべ……めおどすこともあるきやしいし」
「平気じゃ」
 たしかにエコノミー症候群ぎみ、ではあるけど。
 死ぬことまで心配されるほどじゃあ、全然ない。
 さすがに心配しすぎだ、と否定しつつ。
 ただ、こういう事の積み重ねで、死んでしまう人間がいるのは……こういう帰省をするようになってから、わかるようになった。
 体感的に、ありえるって、そこそこ近くに知れるのだ。
 もちろん、ありがたい疲れではないのだが。
 それでも、こうやって長距離期間を往復するのが――父さんや母さんではなくて良かったと思う。
 せめてもの救い、と言うか、まだマシ、と言うべきか。
 やっぱり若くて、血行とかがいいからだろう。
 疲れたとか、コリがきただ言いながらも。
 自分の場合は一眠りすれば、すぐ抜けて、深刻からはほど遠いダメージ。
 同級生の父親が、出張続きで倒れたとかいう話を聞くにつけ……こんな無理は、老いてきた親にはとてもさせられない、と思うのだ。
 自分が、この役回りで、よかったって。
「……んぁー」
 指を組み、両腕を天にのばし。
 ばきばき、と、骨を鳴らしながら、伸びをする。
「お茶のみまれ、うって。それがいいきやしいがきや」
 伸びをしたのを見咎めるような反応速度で。
 茶の間に入り、コタツへと膝をかがめかけていた母さんが。
 いかにも働き者に、膝をふたたび、シャキっとまっすぐにし、台所に飛んでいく。
 父さんはどこか他人事のように、ぼんやりとした顔つき。
 でも、母さんの言葉を受けてだろう、『飲むが?』と言う風に、自分がすすっているはずの、机の湯のみを差し出してくるので、
「いきやね。母さんが今、沢山もってくるがきや」
 と、目を閉じて、首を振った。
 ほどなく戻ってきた母さんが、大ぶりの湯呑みを、自分の前に置いて。急須からこぽこぽと緑茶を注いでくる。
 それを手にとり、ずー、とすすり始めると。
 コタツにちょっぴり、膝頭だけつっこんで、緑茶をいれてた母さんが。またも立ち上がって、台所へと消えた。
 ……と思ったら、間髪をいれずに戻ってくる。
 手に、平べったい皿を持っていて、その上には、
「わいはー。『しとぎ餅』だばねか」
「冬樹、好物だがきやね」
 五個つみあげられたそれに、思わず喜ぶと、満足そうに母さんが答える。
 さっそく手を出して、一個ぱくつく。
 もち米で作った生地に、あんこをたっぷり入れて包み、油をしいたフライパンで焼き上げる、この地方のおやつだ。
 元は、神棚へ生で供えたあと、回収して、人間が焼いて食べるものだったらしい。
 その焼くという調理法なせいか、大福のようにもちもちとした感じではなく。おやきに近い食感で、ものすごく素朴な味がする。
 母さんの作るおやつの定番が、これか、『林檎入りの何か』だったから。秋実も自分も、これが好物と言うか……慣らされた懐かしい味、で。
 たしかに実家に帰った時、つまめれば、嬉しい味ではある。
 だけど。
 ……忙しい時期なのに、だからこそ人手として帰省してきてるのに。
 たいして複雑なおやつじゃあないが……わざわざ、自分のためにって、作ったんだろう。
 何をやっているんだか。
 この分だと、夕飯も自分の好物が、数も多めでもって並ぶ。
 ……くすぐったいけれど、いつものことなのだった。
 一個を食べきってしまってから、緑茶の残りを、ずずーっと啜る。
 小腹も満たされ、リラックスした気持ちで。
 また両手もコタツにもぐりこませ、アゴを机にくっつけて、楽な姿勢をとる。
 背を丸めた、でかい図体でのそんなポーズが、面白かったのか、……あるいは懐かしかったのか。
 母さんがほのかに笑う。
 そんな、見慣れた、でも久しぶりな笑顔の、背にあるのは。
 四隅がはがれかけて、黄ばんだ壁紙と。
 醤油でも一回ぶっかけられたように、渋色になったふすま……しかも豹柄みたいに、まだらに濃い部分と薄い部分があって、ほんと見苦しくなっている。
 ……先着順の寮に潜りこめなかった自分が入った、学生アパートより。更にずっとボロい、この家の風景。
 でもなんでか。
 ここはやっぱり。
 忙しくしている普段の生活のなかでは……帰りたい、と、思い浮かべるとか、しないくせに。
 この世で、最高に落ち着ける場所だった。
 はっきりした美点を挙げることはできないのに、自分だけには確かにわき上がる、この、得がたいほど心底からの安心感。
 ――生家ってのは偉大なもんなんだな。
 生まれ育った場所だけが持つんだろうこの威力に、そう悟らされながら。ますますだらーっと、コタツに身をすりつける。
 ふと気づくと、いつのまにか茶の間に入ってきていた秋実が、コタツにもぞもぞと潜りこんでくるところだった。
 自分の部屋にひっこんだようだったから、勉強するのかと思ってた。
 中学三年の、冬になりかけた秋という。この時期だから。
「勉強しねでいいのか?」
 のんびり一家団欒っぽい感じになってていいのか? と声をかけると、
「青石高校のんだし、志望は。一番近いし。まず落ちね、言われてるんだし」
 と、父さんがフォローしてくる。
 青石は、聞き覚えがありすぎるような高校名だった。中学の同級生が一番多く進学した高校。
「もう一個高いどご、狙えるって言われてただばねか。安全圏にするんだてか?」
 そう、傍らの秋実に尋ねると。
 口を結んだまま、こくり、と。
 やっぱり物静かに、『おかっぱ』っぽい茶ボブの頭を、小さく揺らす。
 そうしてから、思い出したように、そっと口を動かした。
「ももちゃんも、青石高だし……」
 やっぱそれが第一理由かよ。
 反射的にそう思った。
 もーどうしようもないな……、と、笑むしかなくなってしまう。
『ももちゃんが行く』ということにこそ、価値があるらしい高校。
 この上は……、ももちゃんも秋実も、無事合格するように願うしかない感じだ。
「まぁ、冬樹ほど、勉強がんばきやのぐてもな」
 コタツに落ち着きにきた、最後の一人、母さんが。秋実と父さんの間という、スペース的には無理のある角に、すとんと正座をして。
 傍らに座る、まだ大人より一回りと少し、小さい頭に。掌を置き、なでなで、と円を描くようにしはじめた。
 秋実の髪質は、柔らかすぎるから。軽くそう可愛がられただけで、頭頂部がすごいことになりかけている。
 小学校の頃にやった……下敷きでの静電気いたずらみたいに。ふわふわと天を見上げて毛羽立ち始めていた。
「秋実はこの畑、継いでぐれるんだばて」
 頭をなでるのを止めないまま、母さんが、そう補足する。
 父さんはいつもどおり無口で……つまり、無言の肯定というか。軽く頷いたようにすら見えた。
 ……近所に嫁にやるつもりなんだろうか。それとも……。
「オイ、なんか……嫁こさ、行かねごどさ、のてるぞ」
 現在、中学三年生の妹の、結婚のことなんか。
 誰も具体的にプランとして見通していないのだが……それでも、からかうように、口をはさんだ。
 んー、という風に、秋実はボンヤリと。
 思春期の少女らしくなく、恥ずかしがったり嫌がったりも薄い感じで、あやふやに首を傾けるだけ。
 ……あいかわらず彼氏とか興味なしなのか?
 口うるさい親戚のオッサン状態に、そう成長度合をはかる。
 けど、同性に人間関係を広げるのだって。
 この妹は、苦手で苦手でもてあましてる性格なのだ。
 これでもしも突然、かなり年上の彼氏とか連れてこられても……だまされてるんじゃ、と、兄貴としては全力で勘ぐってしまうこと、間違いなしなのだが。
「人見知りはげしーの、全然、直きやねなぁ……。お約束の『特に仲のいい友達は誰ですか?』って新学期のアンケート。また百花ちゃんだけしか、書けのぐて。先生に呼び出されるはめさ、のたんだばねか?」
 ももちゃんがいるので、なんだかんだ言ってこれまで、この妹は、学校生活をうまくやっていけてる。
 いじめられたり、深刻に無視されたり、という目には、一度も遭わなくてすんでいるのだ。
 だけど、新学年になった時の、その手のアンケートに、いつも一人しか親しい友人名を書けなくて。
 それに気を回した担任から、職員室に呼び出しをくらう、という。
 笑えない、ほぼ毎年の春の恒例行事が、秋実にはあるのだ。
 引っ込み思案なところを『責められた』と感じてしまったのか。
 こんなただのからかい半分を、かわすこともできずに。秋実は困った顔を見せた。
 あんまり表情の変化が出にくい、おそらく薄味に分類される顔につき。
 少し寄った眉毛と、やや不満そうに結ばれた唇くらいしか、感情は出てない。身内くらいしか気づけない微小な喜怒哀楽。
「そんなことない、……ももちゃんが連れてきた、子も、書いたし……」
 ……って。
 待て、おまえの交友関係の狭さからすると。
 さっき林檎畑で落ち込んでた原因じゃないのか、その書いたもう一人っていう、ももちゃん経由の友達は?
 ぜんぜん仲良くねーよ、ソレ。
 冷や汗をかくような気持ちで、口を閉じた。
 ちょっと手を伸ばしすぎた感じだ。本気で心配になってくるし、この辺でやめておこう。
 なんつーか、ほんと。
 シャレにならない内向的さではある。
 ……でも、この。
 身内にしか打ち解けず、笑顔も見せないよーな所は。
 長所でもあるんじゃないか、と思っている。
 八方美人とは真逆な、かたくなさと実直さが。
 この子が心を許しているのは自分にくらいだ、だから、自分こそが守ってやらなきゃ、っていう感情に。繋がる。
 年の差が五歳もある女の兄妹っていうおまけもつくから、当然だが……自分にも明らかにその感情があるし。
 もちろん両親にはもっと強く強くあるみたいだ。
 ももちゃんも、多分。
 そういう愛らしさに、ほだされて、面倒みてくれてんだと思う。
 だから欠点とばかりも言えない、のだ。
 ……たいていの人間にとってそうだが、長所は短所でもあるんだよなー。
 そんなとりとめもないことを考えながら、またコタツ中央のしとぎ餅を、一つ手にとる。
 あー、と口を開けてから。視線を感じて、いったん、かぶりつくのをやめた。
 秋実がじっと、こっちを見てきていた。
 けっこう物欲しそうな目だ……子ども二人が幼児だった頃はともかく、母さんも、秋実が中学に上がる頃になってからは、お菓子を作ることはあんまりないから。
 このしとぎ餅、秋実も久々に見かけるんだろう。
 でも、母さんが、誰用にこれを作ったか知ってるから、遠慮しているらしい。
 ……皿のはじを指でつつき、秋実の方にず、ずず、と押しやると。
 食べていいの? と語るように、秋実が目を輝かす。
 五個あるし、帰省期間に自分が全部、食べきるとは思わない。夕飯にも好物が並ぶわけだし。
 だから『いいに決まってんだろ』と、二度ほど頷くと。
 ぱぁ、と、控えめに前歯を見せて破顔する。
 なんだかなー、ほんと兄馬鹿じゃねーの、と思いながら。
 これはもう強制的にだ、その笑顔に和む。
 ……まー。
 素直で、生意気じゃなくて、騒がしいとは逆なタイプ、である以上。
 度を越した内気さは問題点だなーと思いはしてても、兄貴としちゃ、わりと抵抗の余地はないわけだった。
「そうだ、冬樹に見せねど、あれ。お父さん」
「ああ、そうだの」
 横でわいわいと、両親が何事か、相談しだした。
「何?」
 自分の名前が含まれてるのに反応して、尋ねると。
「いや、今年がきや、農薬、変えたんだし。おどどしも、去年も、台風が来のがたがきや、豊作で。それは良がたんだけど、流通量が多ぐのりすぎて、値下がりが……げーだての?」
 ――いわゆる、豊作貧乏、か。
 ピーマンなんかの、野菜と同じだ。消費者のニーズ以上に作物が収穫できてしまうと、一個一個の値段が下がるという市場反応を見せる。
 それでも、その安売りにのっかっていくしかない。
 保存にだって費用がかかるし、そのうち腐ってしまう以上、どんどん売らなければ借金になっていってしまう計算になる。
 豊作年の、農家の泣き所。
「無農薬どが低農薬だど、そのぶん価格、上げてもきやえるがきやの。ほかの林檎農家のみんなども、前がきや言ってたんだ、チャレンジしてみたいのて」
 確かに、時代の変化に押されて、作り手にもそんな風潮があるらしい。おととしあたりも聞かされた覚えがある。
 ただ、
「低農薬はともかく……。無農薬なんか無理だろ」
 大黒柱として、先陣きって、林檎、育ててたわけではないが。
 四季折々につけ、見てきたのだ。
 あいつらがどれだけ、薬に頼らないと生きていけない生き物か。
 ため息をつく両親の様子と共に、よく焼きついている。
「あぁ、無農薬は無理だの。でも低農薬を目指すごどは、けっこうできるみたいのんだ。んで、ちょうど、さきたの農協さんの、アドバイスでの? 新しい農薬で、いいのがあるみたいだったがきや、今年は切り替えたんだし」
 さきたの――さっきの農協職員は、そんな新しい商品も薦めてきてるのか。
 まぁ、農家の農薬ったら、どうせ普通、農協で買うものなのだが。
 なんせ農業資材は、何もかもだいたいを、農協から買う。
 とくに、スーパーで安心して手にとってもらえる、JAマークがついたパッケージ袋なんかは。JAマークがついてるが故に、農協に売ってもらうしか選択肢がない。
 勝手にJAマークつければ犯罪だからだ。
 農家と農協の関係って、一般社会に照らし合わせれば、独占禁止法に抵触しまくってる、も、いいとこなのだ。
 ……なのに、その袋につめた後の作物でも、普通に……大きすぎるとか、色づきが悪いとか、変形してるとかで『農協規格に合格しない』と、突っ返されたりするもんだから。経費的に苦い。
 JAマークがついてるが故に、マーク無しのものより、ずっと高いのだから。
「で、散布のスケジュールどがも大改変だし」
 その農薬変更のせいであった、どたばた苦労でも思い出したのか。父さんは、なんか遠い目をしだした。
「だがきや、変えた薬ど、のぐした薬ど。あどスケジュールで変わったどご……冬樹さ、おべておいて、ほしいのし」
 その後を引き継いで。
 母さんが、話題に出した理由を告げてくる。
 要するに、おれはこれから。変えた薬を確認し、なくした薬を把握して、スケジュールで変わった部分も覚えないといけない、らしい。
 ……多分。
 おれに、跡を継がせる、ことは……。諦めると言うか。
 継がせたい、とも、最初から。そんなには、考えてなかったと思うのだが……。なにしろ、昔っから継ぐのを嫌がっていた。
 それでも、中学からは。いや、大学生の今になっても、依然として。
 たまにこんな感じで『後継者へ教育』のような態度をとられる。
 なんだかんだで、これからも林檎の『栽培要員として頼る』つもりはあるってことなんだろうか。
 あるいは単に。『秋実が継いだ時は支えてやってくれよ?』という程度のことなのか。
 もしかしたら、こんなのは考えすぎで。そのどっちでもなく。
 万が一、両親が二人とも……倒れるとか、あるかもしれないから。そのとき林檎園が野放図にならないように、予防くらいの気持ち、でこうしてるのかもしれなかった。
 いわば、『留守番を頼む子どもへ、やらなきゃいけないことメモ』を渡すようなもんで。
 けど、実はちょっと。
 こういう話題を出されて、教育するよ、って捕まるたんびに、プレッシャーと言うか『重い』のだが。
 ……だって、がんがん東京へ馴染んで、あっちで就職ももちろんするつもりで。
 どんどん林檎と縁を切っていこうとしてる、今。いざという時はおまえも林檎を守れ、みたいにされると……ちょっと抵抗がある。
 東京かここか。
 どっちかでしか、おれは生きられなくて。
 もはや拠点は東京で。
 ――二箇所ともは選べないんだから。
 ここの林檎に何かあったとしても、ほとんど、何にもしてやれないだろう。
 ……けど、これ位はしょーがないのだ。
 嫌だな、気が重いな、と反射的によぎった内心を押さえつけて。
 真剣に聞こうと、体勢から引き締めた。
 ごそごそ、足を正座に組みかえてみる。
 親孝行みたいなもんだ。
 いつもかなり真剣に、この手の教育を聞くことにしてる。
 多分、想定の中で一番軽い、『留守番メモ』程度の、備えってやつだろう、って。覚悟としてはそれ位で。
 あくまで、その重さで自分を追いこむことは、しないようにしながら。
 ふと、何かに気づいた、という表情をして。
 母さんが、首を巡らせて、脇の秋実を見下ろし、
「秋実。夏休みの宿題の……社会科の。部屋がきや、持ってきて? 今年の林檎の写真、いっぺ貼ってあるがきやね、役さ立つわ」
 と、穏やかに言いつけた。
「社会の宿題?……林檎の写真?」
 口をはさむと、
「今年は、夏休みの社会の宿題が、ほどんど自由研究みたいのものだったがきや、『うちの林檎』どいうタイトルで、観察日記の立派ののを、やてたんだ。夏さやった農作業は、全種類、写真さ撮影して……。何やてるか、どべこてソレ必要ののがも。まてーさ書かれてる、厚ぐて立派のノートさ、のたし」
 父さんが、誇らしげに、けっこう長々と喋る。珍しく。
 たしかに、夏の農作業すべてを、写真撮影して、丁寧にレポートしたのなら。そりゃぶ厚いものにもなる。
「力作だったのし〜」
 持ってきてあげまれ、と、母さんが再び、秋実をうながすと。
 ……面倒くさい、とか、せっかくこたつに入ったのに寒い、とか。
 自分が中学生だった頃なら、文句の一つも言いそうなもんなのだが。
 言われたままに、こっくり。茶色なことと、ふわふわな髪質を除けば、日本人形のようなボブカットを揺らして。秋実は従う。
 こたつを抜け出て。とたとた、大人になりきらない体重を響かせて、階段を上っていく。
 あいかわらず素直な、『反抗期いつ来んだ?』という、ただの子どもっぷり。
「けど、うちの林檎って……そしたきや日記みたいの、テーマさして、しがたのかし?」
 そんなテーマ良かったのか、と、秋実の後ろ姿を見送りながら、疑問を口に出すと。
「うん、めずきやしいテーマを選んだ、って、言われたみたいだげど。採点はすごぐ誉めきやれてたし。充実した内容だばて。こごは、林檎が身近な子は、いっぺいるけど、そしたきやテーマで出してぐる子は、いのがた、って。採点する側どしても楽しがただて、って」
 父さんが、やっぱり長めに言う。秋実の力作についての話だから、饒舌になるんだろう。
 まぁ、誉められる内容になったのは、納得する。
 プランターの朝顔の観察日記みたいに。水をやって、今日はこれだけ伸びてました、開花まであと○日です、って数行書くのが基本、ってわけじゃなかっただろう。
 真夏の暑さから果実を守る対策もろもろの事に始まり、農薬を撒く日もあれば、病気の木の手当てをする日もあるわけで。そのための機械や道具を説明するだけでも、他の、ぶなんなテーマより、よっぽど手間になった筈だ。
 秋実のことだから、真面目にやったに違いないし。
 しっかし。自分の意志で選んでいいってなると、そんなテーマを選ぶあたり……やっぱり――。
「あいつ、農業、好きだよな」
 素直に口からこぼれ出た言葉。
 自分とは違って、という意味が。
 意図せずのってしまった言葉。
 音の余韻が空間から消える瞬間、うわ、とそれに気づいた。
 ……いまさら、なんだが。
 ガキの頃からさんざん、農家になりたくねぇって主張しといて、ホント今更。
 生意気まっさかりな頃には、農家最悪ってくらいの辛辣さで、反抗することもあったんだから。
 ……でも、大学生にまでなった今また『自分はあなた達と違って農業キライですよ』なんて、改めて伝える必要も。意志もなかったのに。まずった。
 しまった、と父さんの顔をうかがうと。
 気まずさが顔にも出てしまっているはずの、こっちを、見ては、いなかった。
 けどこっちの顔を見るまでもなく。言外についばらまいてしまった本音は、しっかり嗅ぎとってしまっているみたいで。
 視線を思いっきり下に落としてる……なのに、口元は苦笑している。
 おそらく『他の仕事でぎねーんだろ』とか、罵ってきた息子の姿を、せつなく思い返しているのだろう。ああそれ、埋めてしまいたい、恥ずかしい、青々しー姿。
「……まぁ、最近は女の子でも、跡継ぎ候補さ、普通さのる、みたいだがきやさ」
 気をとり直したように、しかし丸まったままの背で、湯呑みを手に取りつつ、父さんが呟く。
 娘があれだけ向いてるんだ、よかったさ。息子が向いてなくても。……みたいな心境なんだろうか。
「そうよー。小山内さんのどごの林檎畑、今、どうのてるか、話したっけ?」
 ややしんみりした空気に、あえて染まらずに。
 あっけらかんと、母さんが高く言う。
「いや?」
「あそこ、娘さんがいるんだげどね。その人が跡継ぎさ、のて、林檎育ててぐれてるんだし」
「あそこの娘さんって……? どっぐさ結婚して、しそ行ってたんだばねの?」
 そりゃ、いるには、いたのかもしれないが。
 おれが見かけたことも聞いたこともない人、ということは。
 とっくに嫁に行ってしまって数十年単位でよその土地に居ついてて、帰省もたま〜に、という人なはず、だ。
「や、小山内さん、今年の初めに。たいしたごど、のがたきやしいけど……倒れきやれてねぇ。奥さんは、その看病もあるし。だがきやもう林檎園は、たたもうかって話さ、のてたんだし。ついさ、引退生活さ、のるし、って笑ってたんだ」
「あーついにか」
 現役で農家やってる、八十歳超えが、なんとゴロゴロしてる現状。
 定年がないから、体が動くかぎりずっとできる、と皆。仕事量を減らしたりはしながらも、元気にやっている。
 ザ、長寿大国日本って感じなのだった。
 とはいえ……さすがにいつかは、その時期って、やってくるのだ。
 なにせ、軽い作業だってあるとはいえ、基本的には肉体労働であるんだし。
「でも、たたむって言っても、今のこのあだりだば……林檎園を買ってぐれる農家のんて、いねし。間借りだばて、どさも、でぎねし」
 はっきりと後継者不足なので、農地ははっきりと過剰だ。
『育成状態のいい林檎の木つきの、林檎園』として売り出しても。
 自分のところで精一杯、これ以上育てられない、そんな農家ばかりだから、どこも買えない。
 せめて一部だけでも借りてもらう、というよくある手に出ようとしても、それだって借り手がつかないほど、就農者不足だ。
 このまんまだとこの故郷が、マッハの勢いで過疎化していくばかりだし、新規就農を奨励するような、政策でもあればいいんだが――。
 ……それでどうにかなる話でもないか、隣の市かなんかで、そういう奨励金を出したら。わりと沢山、人がきて。でも数年でほとんど去っていってしまったって、母さんが話してたことがあったな。
 思った以上、覚悟した以上に。
 農業って普通の仕事と違うのだ。
 普通……町の仕事から移って、馴染むには、まず『時給はない』これに慣れなきゃいけない。
 おれみたいな農家の息子からしたら、そっちが自然で。
 東京で初めて、コンビニでバイトしたら……頭じゃそりゃもちろんわかってたのに、やっぱり感覚で驚いたものだ。
 客が一人もこなかったような一時間でも、客がずっと列をなしていて途切れることなく接客した一時間と、変わらない額で出る。
 そりゃそんなのも平均して、計算した額ではあるんだろうけど。
 こんなん大丈夫なのか? と、まったく余計なお世話に不安になった。
 その漠然とした不安感を雑談で話したら。店長が言ったっけ、
『さすがだなぁ、農家も自営業だもんなぁ。経営意識があるよ』
 って。
 商品補充すらなかった、ほとんど休憩になったような一時間は……ほんとは他の一時間と同額出したら、赤字なのだ。あたりまえだけど。
 だからもちろん経営者としては、少し時給からカットしていい? と言いたいらしい。
 やったら従業員がはだしで逃げ出すから、やれないのだが。
 そう、時給が減るなんてありえない、が、あくまで普通の感覚で。
 ――だから台風で果実が落下したとか、病気でダメになったとか、原因は不明だけど甘みがなくてとても売り物にならないとか。
 地道な仕事のわりに、そういうのが当たり前にある農業は。
 わけわかんないくらいギャンブルな日常、に映るだろう。
 普通の感覚、で育っていると。
 保険……共済もあるとはいえ、全部それで損失補填できるわけもないし、原因不明で甘みが抜けたなんてことに関しちゃ、なんの保険もかけられない。
 結局、そんな『感覚面の素質』でも、農家の息子は農家に向いてるのだ。
 だって農家の息子には、自分を赤ん坊から育てきってくれた『親の仕事』の常識が、潜在的に焼きついている。
 どれだけ大人になろうが、世間での当たり前を知ろうが、その、新しい普通、では、塗り消しきれない。
『時給なんてあるわけない』という常識が。
 その面で最初っから『普通じゃない』から、普通の仕事から移ろうとする人に比べて、わかってなかったとか慣れないとか、ないし。
 農家の息子なのに、仕事を手伝ったことがなかった、なんて、レアケース中のレアだから、実作業的にも手慣れるのが早い。
 なるほど、納得できる効率の良さではあるのだ。
 跡継ぎって、システムは。
 ……だけど継ぎたいかって言われると、だから、おれは、ごめんなんだけどな。
 結局こういう結論に行き着いてしまう奴、特に都会では、多いみたいだ。
 家賃とかの物価が高いせいもあるだろう。
 東京に出てから見かけるようになった『住宅街の中にあらわれる、みょーに唐突な栗林』なんかは、その現状を反映してるらしい。
 バイト先の友人にも一人、やたらと秋、母親が茹でたという栗を、おれにくれる奴がいて。
 でも包丁であの硬い皮をむくのが面倒くさすぎるし、なんだったら指切るし、で……。ホントはもてあましてる、と、本人に愚痴ったら。
 すまん、食えない分は捨ててくれ、と謝られた。
 跡継ぎがいない農地に、何か植えなきゃいけないので植えてある栗の木で、ほったらかしで育ててるから、まずくて売れずに、処分で配っているだけなんだって、事情を説明された。
 詳しく聞くと、なんか、東京とか近畿圏とか――要は都市だと、『農地』でも税金って、かなり高いらしいのだ。
 土地代の差を考えれば、『宅地』での税金が都市では高くなるのは、ものすごい納得できるんだが。
 ……でも、農業はどこでやっても、作業効率とかそんなには変わらないんだから。『農地』で税金が高いのは、なんか違和感がある。
 そりゃー。いざ土地売るってなったら、農業委員会の承認とかさえもらえば、すんなり宅地へと地目変更登記できるんだから。ギリギリまで農地で持ってて、売る前にすかさず宅地にするっていう卑怯、ができないようにするため、そーなってるってのは理解できるが……。
 なら、都市の農家はぜんぶやめろ、って国は言ってることになるんじゃ?
 農業やってたら追いつけないほど税金高かったら、農家やってられるかって話になるもんな?
 と思ったら。
 さすがに農家用の抜け道は、用意されていて。
 生産緑地っていう「ずっと農地でいる予定です!」って宣言をして、畑にその標識を立てれば。
 相続税をまるごと執行猶予……猶予されて。
 おまけに『宅地の五百分の一』くらいの固定資産税で済むようになるっていうんだから、ちょっとクラクラする。単純に五百万の税金が一万になる計算。
 こんなもの、本気で農家やるなら、誰だってその宣言をするに決まっている。
 でも。これには嫌な後日談がくっついてきてて、その宣言をしたばかりの頃は、問題なくても――。
 一転、「農家やってたおじいちゃんが亡くなって、跡継ぎがいないから農業を維持できない!」って状態に後年なると、追いつめられるわけだ。
 これが例の、食いきれない栗というミステリーに直結してる。
 生産緑地、宣言したのに、就農者が死亡で、就農者じゃない息子とかが、ふつうに相続すると。
「生産してない緑地じゃない土地になってるじゃないか」と、税務署から怒られて――メリットとして執行猶予されていたはずの相続税が、『免除当時』のバブルな土地評価額とかで、喜んで帰ってくる。
 まさに感涙のご対面、「おおこんなに大きかったのか……」という感じだそうだ。
 で、それを今の『下がった』土地評価額で用意しようとすると、土地のほとんどとかふっとぶ。ちょっとした崖の上とかで、すぐには売れなくて、用意できないこともある。
 それでも、おれみたいな田舎者にしたら。
 東京とかに土地があるだけ、スッゲーいーじゃんか、贅沢な悩み、って感じだったのだが……。
「畑で誰もが納得してた土地だぜ? 駅まで二時間かかるし、コンビニどころか自動販売機すらチャリじゃないとイヤんなる距離にしかねーし! おまえ住んでくれる? ねー住んでくれる?」
 と、詰め寄られたので。
 まー都市っつってもすみっこはそんなもんなのかな……と少しは認識を改めた。
 実際、その生産緑地、宣言っていうのは。
 就農者が死亡して農業を維持できなくなった場合は――自治体が時価で買い取ってくれるっていう約束の上に、成り立ってる制度だった、はず、なのだが――。
 自治体の財政難がささやかれまくってる昨今だ。
 現実にはその約束は、破られまくってる。
 ニュースなんかじゃ一言も報道されないが、実際に買い取ってもらえる確率って、三百分の一程度らしい。
 トクベツに、五百分の一の税金にしてあげますよ、って甘言にのったツケが。三百分の二百九十九での約束破り。
 農業やってなきゃ、陥らなかったはずの落とし穴。
 ……おそらく。
 農業いじめなんかどれだけやってもいー、これはこたえられませんなぁ、とか、国には思われてる。
 で、そんなに困るなら、もういっそ丸ごと相続放棄しちゃえよ、と。
 そうすりゃ農業用機械のローンとか、借金面の方も、相続しなくて済むし……どーせ農業やる跡継ぎいないんだし、と。
 長男だが、特に相続すべき土地も持ってない……そりゃ家と、畑の一部くらいは、貯金代わりのこの家の財産だけど、なにせ秋実が農業やりそうだ……。
 って立場の、おれは思うのだが。
 先祖代々、守ってきた土地だったとか。親の形見がわりなんだとか。
 と言うか、そもそも、ほとんど政府に『騙された』状態なんだから、うちの唯一の財産、取られてたまるかー!
 とかいうので、相続側が編み出した方法が。
 栗の木を植える、という手段なのだった。
 それまでの作物を整理して、栗の木に替えて、何が変わるのかって言うと。
『手入れ不要』これに尽きる。
 ほぼ放置しっぱなしでも、雨にも風にも虫や病気にも負けず、あのトゲトゲにくるまれた実を、立派にぼてぼて落とすのだ。味が旨いかどうかは別にして。
 そうすると、曲がりなりにも「農作物ができてる状態」ってことで。税務署の目を逃れられる。
 そのへんはお役所仕事で、『別に出荷してるかどーかとかはチェックしない』のだった。
 土地に、何か農作物ができそーな植物が生えてりゃ、生産しそーな緑化ってことに見なされ、それでいいのだ。アホらしいことに。
 栗林の他にも、トウモロコシも強い植物なので、人気らしい。トウモロコシは放置では、さすがに実るとこまで育てられないが、それも生育不良で誤魔化せるし。
 トウモロコシの畑は、まだ見かけたことはないのだが。
 どうも、根っこでは農家サイドの人間なせいか。東京でもわりと目についてしまった、そんでうっかりそれなりに詳しくなってしまった農業事情を、思い返していると。
 母さんの声が、また響いてきた。
「そしたきやねぇ、東京さ、お嫁コさんさ行った、長女さんが。『すぐ跡継ぎさ帰るがきや、整理したりしねで!』って、すごい勢いで、電話してきたんだばて」
「へー」
「もうずーっど、結婚してがきやは、東京でいきやしたんだげどね」
 やっぱり東京から帰ってこれない族か。
 まるで知らないわけだ、と納得する。
 で、あの小山内さんのところの、八十歳超えを地でいく夫婦の、娘さんなら……。
「六十歳ぐきやいか?」
「そうね、ハッキリおべてねけど、ねしね」
 それなら第二の人生ってやつを考えだす時期でもあるんだろうから……農家になることが頭をよぎるのも、わかる気がする。
 しっかし。
「こしたきやどこさ、一緒にひっこむの。しぐ、旦那さん説得できたの。それども、一緒にやるのか?……か、単身赴任、の逆?」
 定年後の人生ってやつが始まる頃にせよ。
 ここへ来るのは、『慣れ親しんでいた故郷』へ帰ってくる娘にはともかく、夫にはすごい決断だ。見知らぬ田舎にひっこむことになるんだから。
 よっぽど協力的な夫か。気が合うことに、将来は農業やるのもいいな〜と思ってくれてる夫、だったんだろうか?
 ……ああ、同じくここの出身って可能性もあったか?
 そうとりとめもなく推理していると。いつのまにか長く、ちょん切れている会話。
 不審に思い、父さんと母さんの方を見やると。
 二人して、なんだか苦笑いのような……それでいて感嘆してるような。
 呆れと尊敬の混じってしまったような、複雑きわまりない表情で。お互いの顔を見合わせている。
「それがねぇ『熟年離婚して来ますた!』って、本人が笑って、みーんのさ説明しでるのし」
「え」
 思わず変な声が出る。
 父さんが、引き継いで説明を加えた。
「もう有無を言わせず、離婚届、テーブルさ置いて……引き止めきやれる間ものぐ、出できちゃった、きやしいし」
 うわー、と及び腰になりながら、感想をかえす。
「熟年離婚ってやつかー」
 とはいっても、『離婚ってものが世の中にはあるらしい、うちがそうなったらどうしよう?』と遠く想像していた、子どもの頃、昔ほどには。驚愕はやってこない。
 大学の友人にだっているのだ、熟年離婚した母親と暮らしてる奴が。
 そいつはむしろ自慢げに、
『母さん今は働いてるし、将来も年金あるから、夫いなくても困らねーんだよ、だって熟年離婚が増え増えだから、法律がちゃーんとカバーするんだぜ、その辺。母さんも、父さんと七対三になるようにしてもらえたし。それに母さん、財産分与ってことで、自分名義の通帳に家計からコツコツ移してたんだって、いやー女はすげーよな』
 と、誇らしげ、に語っていたものだ。
 離婚に踏み切った母親のことを、むしろ鼻高々、くらいに思っている。
 一般的な例に洩れず、いやそれ以上にだろう、そいつは、明らかに母親の味方なのだった。
 ……離婚っておれには。
 子どもに悪い、とか、どうすんだ、とかいうダークイメージしかないのに。
 熟年離婚……子どもが大学生になってから、つまり思春期は過ぎてからの離婚だったから、という面があるにせよ。
 こんな稀有な、子どもに悪影響になってない例もあるんだな……、いやもー、現代社会についていけてねーおれ、と。
 ヒシヒシ田舎者は感じたものだった。
 青森のこのへんじゃまだまだ、離婚自体が、『もちろんあるけど珍しい』ことで。熟年離婚なんてもっと数少なくて。
 情報や新常識の発信地である、東京とは、比較しようもないけれど……。
 それでも余波くらいは、打ち寄せてき始めてしまったんだろう。
「新時代の女だのー」
 しみじみ、そう呟くと。
「パワフルだしの」
 急須から、緑茶を注ぎ足していた父さんが。出がらしの色になってきた茶の入った湯呑みを両手で包みながら、いつもどおりに、ぽそっと言った。
「けど、ああいう人生だばて、あるんだの。女の子だがきや、どっかのお家さ、お嫁こさんさ行っちゃう、って。決まってるわげだば、ねのがもの……これがきやは」
 おいおい、と引きつりながら。
 こわばる口元で、話しかけた。
「本気で秋実、嫁さ、やきやね気かしー?」
 いくら娘が可愛いからって。
 うちの娘はやらん! なんつー頑固親父タイプでもないくせに。
 なにせ、おれを殴ってしつけたことも、ほとんどないのだ。
 教育はわりと無口なせいもあいまって、母さん任せだった、という事実を加味してもだ。そもそも乱暴に扱われた記憶自体が、皆無。
 だから頑固親父タイプなんて、とても形容できない人なのだ。
 せいぜいで無口親父ってとこか?……まるで離れてるじゃねーか。
 むしろ、嫁入りの日には、娘をくれぐれもよろしくお願いします、と泣き崩れるようなイメージがある。そんな性格のくせに。
 ……からかい半分に言ったこっちに、少し慌てて。父さんは弁解するように言った。
「いや、お嫁こさんだばて、いいど思べこ。秋実のしたいしうさ、すればいいけど……」
 でも、なんでだろ。と。
 妙に静かに、確信しているように、言った。
「ずっどあの畑さ、いるような気が、するんだ」
 根本的に、その予感を信仰してしまっているような。
 自然な舌滑り、耳ざわりで。
 ……なんとなく無音が訪れた。
 たぶん、この場の全員が。
 反射的に納得してしまったのだ。
 雰囲気からそれがわかって。
 やっぱ父さんも母さんもそう感じてるんだなぁ、と、思い知った。
 ……さっき、坂に悩まされながら、帰ってきたときを、思い出す。
 坂の頂上から眼下に広がった景色。
 右側、やっと目にした、うちの林檎畑。
 分け入っていけば、そこに。
 埋もれるように生息していた娘。
 森をすみかにする妖精……つったら。
 んな外国風の顔かよ、とやっぱり思うけど。
 畑をすみかにする座敷童、そのイメージなら、完全にしっくり来る。
 座敷童なら家を守る妖怪なんだけども。
 ……うん、和風にしちゃえば、しっくりくる。
 怖いほどに、違和感ない。
 昔から緑、茶、赤にまみれて、あそこにいて。
 あそこに居るのが好きなようで。
 あそこに生かされている、そういう――……。
 植物に似たかんじの、静けさを抱えた。
 ちょっと儚い。
 大切にしなきゃいけない、白い、生き物。

 タンタンタン、と、誰のものかすぐわかる、やや小さな階段をくだる足音を響かせて。
「お兄ちゃん」
 ひょっこりと、すぐに秋実が、廊下から顔をのぞかせた。
 ちょっと感慨にふけって、静けさが滞留していたその場が、やっと活き活きと動き出す。生の秋実の存在に、風をふきこまれるように。
 ……まぁ要するに。
 家族全員、妹バカの傾向があるのだ、自覚はある。
 秋実は、この性格だから。過保護ってか、離しがたいと思ってしまうのは、もう仕方がないだろう。
 おれでも秋実が、これから万が一しっかり者に豹変してしまい、留学でもしてしまおうもんなら、確実に、ものすごく淋しい。……めったに帰省しないにも関わらずだ。
「ああ、あったし?」
 母さんが、秋実に顔を向け、優しく声をかける。
「押入れの、古い座椅子の奥になってた……」
 随分、奥まった所から引っ張り出してきたようだ。
 単に、おれに対する、農薬種類変更の説明の、サポートのためだけに必要……いや、必要と言うほどでもなく、『あればいっかな』程度だったのに、ご苦労さんなことだ。
「あきや、そしたきやどご、だった?」
 そばにやってきた秋実を、自分の脇に座らせながら、母さんはその分厚いノートを受けとる。
 普通の大学ノートだった。ページに色々写真を貼り付けてあるためだろう、厚みが不自然に膨らんで、シルエットが少し崩れている。
 扱いが丁寧な秋実の私物にしては珍しく、表紙が、やや薄汚れている印象をうけた。
 よくよく観察してみると、土汚れが何度かついたような形跡。……多分、畑にまで持ちこんで熱心にレポートを書いて、その時についた土が、落としきれなかったんだろう。
 ノートを机の中央に置いた母さんが、そのままページをめくると、秋実らしいちまちました文字が並んでいた。丸くて小さいとしか形容のしようがない、女の子らしい、おとなしい筆跡。
「すごいでしょー。この大学ノート八十ページあるけど、ほどんど全部埋まったのし」
 そう解説してくる母さんが、ある程度めくってから、おれが読めるように、ノートをくるりと回転させた。こっちの視界に、上下を、合わせる。
「へー」
 腕を伸ばして、ぺらぺらとめくる。
 まだ食えない時期ながら、赤くはなってきてる林檎の写真。生命力にあふれてピンと力強い、葉の写真。
 それを手入れしている父親の指のアップや。作業中を撮られている母親が、日よけのつばの大きな帽子の影、こらえきれずに浮かべている照れ笑い。
 四ページに一枚は、何か写真が貼り付けてあり、その写真解説として、丸い小さい文字が、けっこうぎっしり並ぶ。
「がんばったな」
 おれの価値観としては。
 自由研究にここまで熱意をそそぐ位なら、受験勉強に当てろよ、となるのだが。
 秋実は高校の選び方からしても、おれとは全然、目指してる方向が違う。
 入学してもいないのに気が早いが、おそらく、高校卒業後はもう、専門学校にしろ短大にしろ、学校ってつくものには、行かないだろうと予想もつく。
 だから学生時代は、好きだと思えることを、のびのびやって過ごすのが、きっと最良だろう。
 そう思いながら、密度の濃いページをめくっていると。
 ひょろりと長い、見知らぬ人影が写っている写真が、目に留まった。
「誰? これ」
「これは、農協の水沼さん……。ここに書いてあるよ」
 答えながら、解説文の一箇所を、秋実が指差す。
「……あーさっき、家の前にいた人か?」
 秋実を通訳がわりにしてる、という農協の人。
 尋ねかけると、こく、と、秋実は控えめに、一つうなずく。
「水沼さんのことなら、こっちに長く紹介して……あるよ」
 言いながら、淀みない手つきで、ぱらぱらぱらとページを前に戻していく。
 林檎の木の前、はにかむ表情で佇んでいる、スーツ姿の青年。色が白くて、のっぽで。さっきJAの車に乗りこんでいた人物と、確かに合致する。
 解説箇所に目を走らせる。

 今日は、夏の直射日光を少し弱めてくれる寒冷紗の、補修作業です。
 動物があけた穴を繕ったり、風で傾いた支柱を打ち直したりします。
 お昼に、農協職員の、水沼作さんが来て、お話しのついでに手伝っていってくれました。
 作さんって変わったお名前です。農協さんにぴったりです。
「私の実家も林檎農家なんですよ。それでこんな名前にされちゃったんです」
 と、由来を話してくれました。
 今日も農業指導を、とっても熱心にしてくれていました。
 今年は春からの気温の上がり方がよかったので、どこの林檎農家も、豊作予想だそうです。

 そこまでを読んだところで。首を伸ばして、開かれたページを覗きこんできながら、母さんが言った。
「ああ、この水沼さんだし。今回、農薬変えるごど、熱心さ薦めてけだのも」
「ふぅん」
「『実家も、これを今、使ってて、すごくいいんです』って。どうも、これからも林檎農家やっていきたいなら、いづかは変えなきゃいけない、みたいでの。確かさ、低農薬どがどんどん消費者も厳しぐのるし、思い切っての」
 同じく林檎農家をやってる実家が使っているから、安心ですよ、という口コミ的なパワーは、かなり強力だ。
 自分で愛用しているものって、少なくとも、その人はいいと信じている、良品に違いないのだから。
 ……薦めてきた人間の名前も、またよかったのだろう。
 作という、オシャレな名前の多いこの現代で、まーありていに言えば……うっわ、という感じに分類される。
 子どもによっては拗ねても仕方ないであろう響きの、名前。
 でも悪い名前じゃない。
 おれらのような農民は、すごいストレートな名前だな、と苦笑ながらも、つい、ふところに招き入れてしまう。その力のある名前。
 うちの両親が、年若い、しかも来たばかりの担当に、薦められるまま農薬を変えたのにも。その名前の加護があるだろう。
「今まで使ってた農薬の、半分ぐらいの散布回数でいいんだばて。で、今年の林檎、その回数でちゃんど、つやつやさ、出来たんだし。それでも、今までの農薬より強い、ってわげでも、ねきやしぐてー」
 半分の散布でできたのか……しかもちゃんとつやつやに。そりゃあ快挙だ。
 薬も改良されていってんだな。
「だがきや、まどめ買いさせきやれちゃった。……そぅだ、その現物が、一袋あるがきや、持って来るね。見でおいて」
 新品がまるまる一袋あるのか。
 なんか、順調にセールスされていってるようだ。
 うちも大概お人好しだから、息子ほどの年齢な担当を可愛がりすぎて、断れずに売りつけられるものが、増えないといいんだが。
 あれだ、老人狙いの床下換気扇や、屋根修理の押し売りセールスのごとく。
 今のところ、いるものを購入してるわけだし、高く売りつけられてる様子もない上……そもそも家業の手伝いを最低限しかしない自分には、そう注意しろとつっこめることでもないんだが。
 農協さんとの距離感にも関係してくることだから。
「このままもっど農薬を減きやしていければ、減農薬って銘打てるがきやの……。調子がいいしうだば、ずっど使いたいの……」
 また席を立って行ってしまった母さんの後を、補足するように。
 ボソボソと父さんが、呟く。
 ふん、ふん、と、納得の相づちで、頷いた。
 国産であろうと、完熟であろうと、大玉であろうと、どんどん安く買い叩かれる、現代。
 こんなに大切に育てているのに、どうして、と。本当に心底、思うけれど。
 ――この現状こそを、まさに、デフレスパイラルと呼ぶのだろう。
 だからこそ、いわゆる『食の安全性』を高めたブランドなら、標準より高く評価される……せめてその点にのっていかないと、本気でキツイ。
 もちろん、随分前からうちでも、頭を悩ませていた懸案。
 今や、どこの林檎農家だって。
 せめて一部分でも、低農薬栽培を目指していきたいなと思っているのだ。
「冬樹、これだし」
 母さんが、見慣れぬ白い袋を片手に、廊下に現れる。
「……早がたのー」
 てっきり、わざわざコートを着て外に出て、畑にある倉庫にまで取りにいくのかと思ったら。外に出かけた様子はない。
「冬樹さ、見せしうど思って、玄関まで持ってきてあったんだし」
 おいおい教育熱心だな、なんかやっぱ頼られてるし……と苦笑半分な気持ちで。
 差し出された白い厚手のポリ製の袋を、受け取った。
 瞬間、違和感に包まれる。
 その袋は、全面白。
 何も印刷がないパッケージだった。
 説明文の一行すらない。それどころか、薬品名称そのものさえない。
 業務用とはいえ、あまりなそっけなさ。
 ――その時、反射的に口をついて出た意見を。
 ――今も呪いのように覚えてる。
「なんか……麻薬とかのヤバい薬みたいだな」
 まるで、見た目には。
 種類を印字してあればかえってまずい。
 売れない、使わせることができない。
 使用禁止農薬のような。
「んだっきゃ、印刷費の削減でそうしてもらってるんだばて。お役所も、がんばるしうさ、のたしのー」
 ……確かに役所も、一昔前に比べたら、経費削減にがんばるようになった、らしいけど。
 けどそもそも、農協って役所じゃねぇけどなホントは……。と、母さんに、内心でつっこみながら。
 まだ未開封のその袋を、しげしげ見つめた。
「農薬を変えるど、林檎の様子が変わるんだばねかって。決心するまでは、さんざん心配したんだげどねぇ」
 母さんが座りながら、そう不安だった気持ちを吐露したのに合わせて、
「思い切ってチャレンジしたんだげど、木の調子も、しぐての。林檎の実自体の出来もしぐて……助がた」
 と、父さんも、ホッとしたように言う。
「うん。ホラ」
 おまけに、秋実まで。
 自分の部屋から、ノートを手に戻ってきてからは……いっぺんもこたつから出ていないはずなのに。
 どこに転がっていたんだか。まぁさすがの林檎農家、この季節には家中におやつとして転がってると言ったって過言ではないのだが。
 掌に、林檎をのせて、見せびらかしてきた。
 売り物にならない落下林檎であることがうかがえる、尻の一部が茶色く、ぶよぶよと変色している林檎。
 けど、その変色部分を除けば、黒点が出ていることもなく、虫にかじられているわけでもない。
 文句なしにつやつやと、よくできた林檎だった。
「これで、その種類の薬は、半分の農薬散布で済んだのか」
 落下防止剤とか、殺菌とか、ダニ剤とか、撒く農薬の種類はいろいろあって。
 ある一種類が半分にできたからって。
 低農薬って謳える基準――その地域で一般的に生育に必要とされ使われている農薬の、半分以下で育てること――への、道のりはまだまだ遠いのだが。
 それでも、めざましい効果には違いない。
「ああ。新しい薬はすごいの。薦めてもきやって、感謝しねどの」
 父さんが、神妙に言う。
「今年の林檎、特にきれいだよね」
 秋実も嬉しそうに。
 まるで語らうように、こたつの上に移した林檎と、顔を合わせている。
 その朴訥で、真摯な姿勢、は。
 性別も年齢も逆ほどに違う、自分が背中を見て育った、父さんに。
 不思議なほど似通っていて。
 幼いようで、なのに円熟してしまったような風格も、漂っていて。
 ……ますます跡取りだなぁ。
 うん、まぁ……立派だよ。
 くすぐったく内心、噛み締めながら。
「おれの代わりに、頼むな、ここ」
 他力本願に。
 内気で頼りないはずの人物へ、託しておく。
 この件に関しては、妙に頼りがいがありまくる、妹。
 秋実は、口に出しては返事をせずに。
 だけど雪みたいな白い頬を、はしゃぐように、ふんわり紅くして。
 何かを大事に、手前に抱えこむような感じに。
 大きく、柔らかに、頷いた。

 ◆

 魔法の土地。
 農耕で生きる人びとが、そこから思い浮かべるイメージは。
 種をまけば、作るまでもなくひとりでに育ち。農薬などなくても、病気をせず豊かに実り。いかにも快い美味なる香りをまきちらす。
 つまりは、楽園風景。

 人は禁断の果実を食んで、楽園を失った。
 登場人物は、そそのかす蛇と、手をのばした女と、口にした男。
 落とされた地上。蛇のごとく男女は、土をぞるぞると這い生きてゆくエンディング。

 どれだけ恋いこがれようとも、どれだけ信じようとも。
 どんな聖書に謳われている楽園――エデンも。
 どんな童話に描かれている楽園――イーハトーブも、この地上にはない。

 それを実現する。
『魔法の薬』も、また。

 ◆

 林檎の木は、とにかく弱く。
 虫で、病で、すぐに死の淵に立たされる。
 だから農薬とは切り離せない。
 幾種類もの、殺菌、殺虫、の合法農薬を、時期に合わせて散布していく、その作業が欠かせない。
 それでも、淵に。
 立たされてしまったのなら。

 追いこまれきったそんな状況を。
 魔法のように覆す、その薬。
 ――どうしようもなくなった時は、よく効くから『あの薬』に頼れ、と。
 細くひっそり、赤い実をつかさどる人々のごく一部で、信奉されてきた。
 昔から、固有名詞は口に出されないように、パッケージにも印字はされないように、意識的に用心されつつ。
 影で渡り、影で渡され。
 手を出すことをいとわない農家へだけ、秘匿されながら、細く細く流通し。そして活用されてきた。

 ちょっとだけなんだから。
 人に害なんて、今までだって出たことないんだから。
 平気なんだよ。

 それは昭和の影法師。
 まだその影踏みができる平成に。
 たとえばJA――農協の、倉庫の片隅、脈々と生き残っていた。

 ◆

 農家を助けるものとして出来上がった、農協という組織。
 戦後すぐの頃はともかく、今や、公務員と勘違いされるほど役所化し、ありがちな硬直化も抱え。
 その翼下とする農家とは、さまざまな意識の乖離、軋轢がある。
 また農協は、農家に――農薬散布量などについて指導する立場でありながら。
 同時に、生産のための資材――農薬等を買ってもらっている立場という顔も持っている。
 農協職員の個個人の、『売り上げノルマ』が厳しいのは、珍しくなくどこでも聞かれる実情だ。
 不必要と思われる家具や、消費しきれないであろう生活用品を、押し売りされる農家。
 そこで――もちつもたれつ、と。
 融通してあげるから融通しろと、そうなっていくのは、自然な流れで。
 一部の農家からの強い求めに従って。
 合法ではない農薬の流通は、『天下のJAがまさか』の傘の下で続く。
 そんな、産地にわだかまった――風習を残したまま。
 永田町からやって来たのは、法律の厳格化。
 ポジティブリスト――農産物ごとに残留してもよい農薬の種類、量が決められた――ことに代表される、基準の強化。
 隣接園地との壁の無さを、農薬飛散の汚染は二十メートルには及ぶことを。つまりは生産拠点である畑を現実としては知らない。
『数値で割り切れない』ことはないと信じがちな。
 現代化された、日本人口一割がひしめきあう中心地、東京から押し寄せた、津波。
 消費者保護の名の下に。
 年々、その残留農薬検査等の正確さも、上がっていき。
 ……そろそろ行き場のなくなってきた、奇妙にシンプルなパッケージのその袋は。
 売って処分できれば『成績』になりそうな在庫品として。
 田舎の倉庫の一角、ぽつりと、存在し。
 そして。
 そこから起爆した。

 ◆

『禁止農薬を使っていた林檎農家があったらしい』
 最初は、新聞の隅の記事で。そのニュースを見かけた。
 よりによって青森県の、さらにピンポイントな。
 わが故郷、市内での事件。
 どうも、早い段階で記者が『残留農薬検査にひっかかった林檎』の情報を、かぎつけて記事にしたものらしく。はっきりとした情報が載っていない。
 夜、実家に電話をかけてみた。
『今、大騒ぎののし、こっちも。まだはっきりしたごどは、何〜さもわがねんだげど、疑心暗鬼って言うか。噂だげで疑われてる農家さんだばて、あるみたい……』
「だよなぁ。無理ないよ」
 数年は残る、あの産地の林檎はヘンな農薬使ってるからダメだ――という、事実無根な風評被害。
 だけに、留まってくれない。
 農協に依存した出荷――ほぼ全部なわけだが――は、生産者ごとに分けられて行われているわけではないのだ。
 流れ作業のベルトコンベアに載るまで、が、どこの農家のものか判断できるギリギリで。
 それ以降は、出産地しかわからない状態でダンボール詰めにされ、全国へ散ってゆく。
 ……だから、ひとたび違反農薬が問題になれば、『その林檎がどこからどこまでに混ざっているか判別できないから、今年の、その産地の林檎は、できる限り全量回収』という事態に……。
 もしこの情報が正しければ、なってしまう、のだ。
 その確定した損害だけで、既に甚大。
『一体、どさだべねぇ、そしたきや物、使ったの』
「ふざけんなよなぁ」
 常に電話口に出てきたりはしない、父さんとは違い。
 女らしく、話題がなくったってとりとめもなく長電話しようとしてくる母さんと、普段よりは長く喋り続けた。
『そしたきやごど、されちゃ困るのに』
「たぶん、自分だけ良けりゃ、よかったんだろ」
 共有してる井戸に、毒薬を放りこまれるようなもんだ。
 最悪に罪深い、罪をおかされてしまった。
「ったく……死刑一回じゃ足りねーよな」
 ――そう、そう言った。
 心底そう思ってそう言ったんだ。
 こんなに広範囲に、こんなにも深く迷惑をかけやがって。
 死ねばいい。
 一点の曇りもなくそう言った。
 この時点での、この、こんな。
 自分の態度は。
 まるで他人の鏡となる。残酷さで。

 二回目の電話は、向こうから、こちらの携帯へ入った。
 珍しく、父さんが語り手で、
「……え? だって」
 そして、無口なせい、だけではない。重々しい声で聞かされたのは。
 昨日の、夜遅くに。
 農協の顔見知りなんかじゃない、お偉いさんがた――県の農協中央会の会長を始めとした、見たこともないような面子が、ぞろぞろとやって来て。
 どうも、お宅が、例の違法農薬な林檎を栽培していた『汚染源』であるらしいと、確認されてきたと、告げていった、と。
「うちなわけないだろ、だって、……」
『……あの新しい薬が、そうだったきやしいって。今年、撒いた残りが、まだ入ってる袋があるって知って……出してぐださいって。証拠さのるがきやって、もっていったんだ……』
「……。な、ら、それは……。もう、確かめてもらえよ。もし……、もし……それが、使用禁止農薬だったんだと、したってさ」
 詳しい経緯は、帰省の際に聞かされたばかり。とても鮮明かつ平和な記憶。
 言ってたじゃないか、あの新しい素晴らしい農薬は。
 家の前で見かけた、ひょろりとのっぽな、作というすげぇ名前の。『農協の人に薦められて買ったんだ』と。
「これいいですよ、安全で、もちろん合法のものですよって。ちゃんと農協の人が、あの、水沼さん? が。しっかり保証して売ってきたんだから」
 狼狽しきりの自分の声。
 こんな頼りない声、何年ぶりだよ、と、脳のほんの一部分が。酷い冷静さで思ってた。
 ガキ引きずってた中学時代くらいから、ご無沙汰なほど。できることならただ泣いてしまいたくて。
 根がぐわんぐゎんと、揺れてる、ゆらいでる。
『……売ってねって、売るはずがねって。電話では、農協に言われたんだ……』
 当然、どういうことなんだと、まずは電話連絡したのだろう。
 消え入りそうにぼそぼそと、用意してあったように父さんが答えてくる。
『だがきや、どもかぐ、今朝……母さんと、農協さ行って、水沼さんさ、会おうどしたんだげど……』
 言わんとしている先が、予想できてしまう。どこまでも長く暗い、失意の声。
『でも配置換えさのたって、会わせて、ぐれねーんだ……』
 すぐ、父さんを叱咤する気持ちで、強く返事をした。
「会わせてくれないって。引きずり」
 早口でそこまで言ってから。
 急に怖くなって。
 すっと、息を、止めた。
 自分から今、零れ落ちていった、言葉が。
 まるで何かの証明問題の解。
 気づいてはいけないほど恐ろしい、この、果てしない『怖さ』の正体を。図らずもつまびらかにしてしまったようで。
 あわてて打ち消したくて。
 でも言葉はもう、空気に拡散していて。
 集められなくて、拾えなくて。
 ――だから、ひときわ太い、冷や汗に、変わって。
 背筋を一筋。つぅとなぞり伝った。
「会わせて」
 認めたくないのに、どうしようもなく。
 絶望の響きってものを、ずるりと、伴う。
「……引きずり出さないで、どーすんだよ……」
 自分で、言った端から。
 空気に、黒い糸が、クモの巣状に分散していくような。そのクモの糸が、自分達をからめとってくる、そんな量感。
 あっというま、それは、拷問のようにがんじがらめにしてくる。

 引きずりだせるのか。

 さっき、父さんに対して、やれと。強い語気で口にした要求が。
 舌からじわじわ、この全身を侵していく。
 どんどん鉛色に侵食された体が、重くずぶずぶと。腐ったスポンジのように脆く、傾いて、崩れだした床へと。沈んでいく、呑まれていってしまう。
 そう『地域密着を地でいく』。
 地元農家の次男以下が、縁故採用で入ることが絶対的に多い、地域とゆるぎなく癒着できている組織。
 そして農家にとって不可欠な、農機のメンテナンスから、肥料や農薬や種までもを、ほぼ管理しきっていて。
 なにより出荷、現金収入、つまり生命線を。一手に握っているJA。
 役所ではないのに役所と勘違いされているほど、公明正大な絶対的権力のある、日本のあの巨大な一柱が。
 農家ばかりのあの土地で。
 何かを、誰かを、隠そうとしたのなら。
 ――その隠された人間を。
 引きずり出せたり、するものか。

 堅実すぎて真面目すぎて、つまらない、だからこそ揺らぐことがなかったはずの家業。
 そう信じていた。
 自分の世界そのものの基盤。
 ガラガラとはじから、崩落していく。
 パズルピースのよう、どっかふんわりした速度で、暗黒に吸い込まれていく破片達。
 そんな世界のかけらを、腐ったスポンジに埋まって動かない体で、見送る。
 なすすべはない。
 もうすぐここまで、足元まで。その崩壊が辿り着く。
 だから自分も――もうすぐ奈落の底へ。
 地獄の、底へ。

 ……それでも体の一部は。
 ひとつ、現実的な答えを出す。
 とにかく今は、駆けつけなきゃいけない。
 実家の助けになるよう、すぐさま帰らなくちゃいけない、んだと。
 きっと母さんは、泣くに泣けないでいて。父さんは心労で倒れてもおかしくないところで踏みとどまっていて。秋実は、秋実なんか……あの内気な妹がどうなってるのか、想像するのすら痛ましい。
 だけど。
 実行のため、立ち上がれはしない。
 故郷の家族の、今の状況――四面楚歌を。
 ただ予測しようとするだけでも、吐き気が襲い、ガンガンと骨から頭が痛む。
 あの土地で、林檎という作物を、こんなふうに穢してしまった一家は。
 想像がつく、想像より悪いはず、想像ではおそらく――……。
 生ぬるい。

 みんな農家。
 みんな仲間。
 みんな土地を守りたい。
 それは鎖のような結束を生むものなんだ。
 そこで育った人間だ、よく肌で思い知っている。
 あんな結束した『全体』を。
 裏切って、迷惑かけて、つぶそうとして――。
 そんな存在どうしたい?
 どうしたいって、そう。ついこの間。
 母さんとの電話で。
 まさに、自分が、吐き捨てた?

 思い巡らせるまでもなく、目に迫る。
 それはまさに四面楚歌だ。
 罵声をあびせられるか。憎しみをこめて睨まれるか。冷酷無比に責め立てられるか。
 もしも言い分を……少しは聞いてくれて少しは信じてくれる人が、いたとしたって……――周囲が周囲なのだ、きっと無視がせいぜいの……取ってくれる擁護的な態度だろう。
 それってどうしたって……消極的な排斥、で……。
 やっぱり、味方では、ない……。
 なってくれようはずも、なくって……。
 ――そんな状態で。
 もう狂人だって思われることなんか覚悟の上で。
 なりふり構わず。とにかく誰でもいい、人を一人でも捕まえて。事情を説明し、信じてもらいたい。
 おれがそう思うよう……両親も秋実もそう願っているはず。
 でも、その手段って。
 また、ありありと浮かぶイメージ。
 息をひそめて、自分たちを『村八分』にしてきている、外を、うかがう。
 あの呆れるほど懐かしい、鉄格子のはまった玄関扉から。
 そして通行人が来たら。曇りガラスを開け放って。
 門がないから道路との境目があやふやな、あの庭を、一気に走り抜けて。
 相手が誰だってかまわない、わめく。
 あの農薬は、農協職員が売ってきたものなんです。
 そんなの、あなただって、もしあなただったとしたって、信じて使うでしょう?
 もしも、その通行人に、聞く耳を。
 持って、もらえたとして。
「どこにいるの、そいつは」
 ええ、ここにいます。証言もしてくれます、と。
 そう答えるためには。
 農協に、水沼に――……会わせて。
 会わせて、会わせて、引きずり出して。
 認めさせて、謝罪のかわりに、公の場で証言をしてもらって。
 ――隠された、人間、を――、――ものか。

 暗いままの部屋の中。手にあたったものを、とにかくバッグに詰めこんで。
 目をふさぎ、耳をふさがなくても、何も見ない聞かないでいられる、闇色の道を走って。
 彼女の家に転がりこんだのは、その翌日。

 ◆

 そして。
 先のことなんか考えず、授業すべてを休み。
 彼女にすら、ほとんどの授業を休ませて。
 完全に引きこもった。
 不安になれば、彼女を相手にセックスに耽って。
 目を、耳を、必死にそらし続ける。――現実から。
 ……それでもおそるおそる、どうしても見てしまう。
 そして予想通りの暴虐の嵐に、また、息を、止める。
 ――新聞やテレビのニュースが、いっせいに、『その農家』を責め立てている。
 全量回収で、青森の林檎農家は大変な打撃を。
 流通先であるスーパーなどの小売店では、今朝も混乱が続き。
 イメージの問題から、林檎全体の購買量までもが、落ちている状態で。
 さきほどの現地インタビューのように、地元の林檎農家の方は、憤りを隠せない。
 禁止農薬を使った、問題の農家が、特定された模様です。
 違う、違うんだ。
 知らずに使ったんだよ。
 おれらこそが被害者なんだ。
 だってわかるだろう、日よけの寒冷紗も、日光反射のシルバーマルチも、農薬だって。
 たいてい、農協から買うものだ。
 今回だって。
 アレを売りこんだのは、薦めてきたのは、農協職員なんだ。
 もちろん安全な農薬だって言われた。
 むしろ、低農薬につながるって言われて……。
 だから農薬を弱めようって――。
 それが流行なんだろ? 消費者の要望なんだろ?
 いいこと、なんだろ?
 だからわざわざ、あの農薬に切り替えた、のに。
 そんな強力な薬剤だなんて、わかったわけ、ないじゃないか。
 おれらは撒くだけなんだ。
 父さんは普通に高卒だ、農薬を取り扱えてはいても、知識なんてないんだよ。
 パッケージの印刷がないのも『経費削減』のためだって、説明されたんだ。
 悪いことする気なんて全くなかった。
 完全にだまされただけなんだ。
 ――そんな。
 ――違反農薬に『手を出した』農家の言い分、誰が信じてくれる?
『問題農家の特定』と、おんなじくらいの重要度で、問題となっていいはずの。
『購入先の特定』は、なぜかニュースでも、人心でも、問題になってくれないっていうのに。
 ……父さんは、今日も、故郷で必死に訴えているはずなんだ。農協職員に売られたんだって、調べてくれって。
 でも、その主張の存在の影すら、チラリともニュースでは。
 どうしてか触れてもらえていない。
 そんな謎の原因は。
 ……こんなとこで、こんな小さくなって、こうみじめに。
 ひたすら震えてるだけの人間にだってわかる。察しがついてしまう。
 だからこそ恐怖で、立ち上がれずにいる。
 対峙することなんてできっこない。
 最初から負けきっている、この戦いに。
 農産物全体が不審に思われてしまうような、日本の巨大な一柱の『不正』は。あばかないように。さわらないように。
 どっかで何かが。
 ――いいや、全ての場所で。
 必ず、その組織やコミュニティの一部分は、隠蔽へと、蠢いている。
 まるでウイルスに直面した時の生物。
 ウイルスに必ず効いて防ぐ、免疫抗体のように。
 やましいからこそ鉄壁である、隠匿機能が発動している。
 農家どうしの口コミでは、あんな農薬を使うなんてどうかしてる、なんて傍迷惑な、と、ことごとくが口を揃えて。
 心当たりがある、まさに違反農薬を使っていた、売らせていたような、需要先である真犯人に近い農家すら。
 後ろめたいことがあるからこそ、発覚しないように、白を切って、調子を徹底的に合わせて。
 農協では、今回のようなことは、ありうることだ、と。
 田舎で高齢化も進んでる、つまりは古い人間が多い産業だから。
 農薬の基準や種類をどうしてどんどん厳しくしていくのか、ピンときていない、違反したらどうなるのかもよくわかっていない、昭和感覚を引きずった人間も多いのだから、と。
 そして農家とべったりと癒着せざるを得ない一面がある、農協という組織は。
 求められて、してはいけない指導や助言もすることがままある、延長で違法な物の販売を行うことだって――。
 ――だからきっと、自分が所属しているこの地域の農協だって、掘ればきっと何かは出てくる、と。
 その不安から、ひたすら、口をつぐみ。
 そしてマスコミでは。
 そんな、敵にまわすような報道をして。
 農協という巨大な勢力に睨まれてもいいことなんかないから。
 むしろ、安易に違反農薬で楽をしようとした、こんな悪い愚かなやつらがいたんですよ、――そいつらのせいだったんでもう大丈夫、という、方向の。
 シンプルな像の方が、世間にとって『望ましいニュース』。
 この農産物不審を、早期に、小被害に治めることもできる。
 農薬汚染は農協に端を発したなんて。
 それは農協を、全農家を、日本の農産物すべてを。
 いっぺん疑ってみる、全国民に疑わせてみるというというリスクを覚悟しなけりゃ、直視できない。
 準備が熟成してなきゃ受け入れがたい、世間に大崩壊をもたらす、『誰も喜ばないニュース』だ。
 ……もしも、もしもこの万が一、に選ばれてしまったのが、自分の一家でなければ。
 おれだって隠蔽に蠢く一部だったろうと。
 いりもしないのに残る、普段の冷静さで。歯の根も合わなくなるような推測をしてしまうほどに。
 それは、秩序を求める世間の動きとして、ありえてしまう、あたりまえの動向で。
 農協は、決してそんなことはしていない、もちろん取り締まっていたけれど、たまたま今回のケースの農家が特に悪質で、だからもう心配はないのだ、と。
 たった家族一つを。
『生贄』にしたら誤魔化せるのならと。そう。
 どこもかしこが、判断している。
 実際に――。
 誰も、どこも、迷ってはくれていない。
 発覚からずっと。
 ひたすらだ。
 昨日も今日も、うちだけが、串刺しにされ続けてる。

 ふいに、床を見つめる自分の視界が、一段、陰って。
 上から降ってきた、控えめな声。
「何があったの」
 彼女の一言に、こわごわ、顔を上げる。
 照明を背後にして、彼女の表情ははっきり見えない。でもきっと、不安そうな、気づかう目で見てきてくれているだろう。
 そうわかっているのに、ぶるりと、肩が大きく震えた。その見えない表情が、怖かった。
 彼女だって他人だ。
 おれたちを、うちを。責め立てて、押しつけて、残虐に罰してきている他人だった。
 もはや、一蓮托生である、家族以外は。
 みぃんな、自分たちを迫害してきている、得体の知れないもの。
 ……そっと頭上から、優しく伸ばされてきた、いたわりの指すら。
 わずらわしくて、首を振って払った。
 つるり、と、単に落下するようなスピードで。妙に、全く摩擦なく、頬を滑っていく。彼女の細い指。
 ……知らないうちに、顔をぐしょぐしょに濡らしていた涙に、気づく。
 でも、女々しい情けない、とさえ思えない。
 こんな所で、こうやって。
 わかってる、彼女を利用して。
 せいいっぱい逃げ隠れして、目をそらしてはいても。
 加速する現実は、頭に、突きつけられ続けられている。
 ……こうして唯一のやりどころ、スケープゴートに選ばれてしまった、うちは。
 あの農家だらけの土地で。個人が責任を取れるレベルじゃとてもない甚大な被害、その怒り矛先に、否応なくされていってしまう。
 出荷を全回収するということは。
 今年一年間の収穫の大部分が、その段階で全滅だ。
 そんな最初の被害の苦労は、これからやって来る。
 現金が入ってこず、農具のローンや借地代を返せないから、走り回って頭を下げ、金を工面しなきゃならない。
 さらに風評被害で売れないから、せっかく腰を痛めて収穫した林檎を、自分の畑で『轢き』潰すなりなんなり、しなければいけなくなる。
 問題の青森産である林檎ということで、直売契約を結んでいたような所に、取引を停止される。
 そして、産地のブランドイメージを落とした影響は、のちのちまで続く。
 しぶとい被害はそのたびに、農家の苦痛を増す。
 被害者は加害者を求める。
 密閉された小さな社会では、影響がはねかえっては、執拗に連鎖する。
 加害者されている者が、真実は、そちらも被害者であったとしても。
 そんな解明をする余裕は誰にもなく。
 現代日本にあってはありえないような、まさに『生きてもいけない村八分』の空気が完成される。
 その、孤立無援が是とされる。それをもって罰とする、袋叩き。
 さっき、わずらわしくて。
 虫のように邪険に追い払った彼女に、腕を伸ばして、引き寄せて。
 ――……また耽ることでなんとか、恐怖を閉じ込めていく。

 ◆

 そんな地獄ほんの一歩手前の、煉獄が、終わりを告げたのは。
 ほんの些細なきっかけ、だった。
 彼女からの、つき放しとも取れる、一言。
 彼女は……。
 彼氏が転がりこんできた事、自体は。
 初日は、緊張しながらも、はにかみ喜んでいた。
 翌日も、その翌日も、喜んでいたように思う。
 だけどだんだん。
 一緒に閉じこもることを強要されるせいもあってか、その顔は曇ってきていた。
 彼女のことを気にしていられる精神状態でもなかったから、積極的に顔色を窺ったこともなかったけれど。それでもかすかずつ、日を重ねるごとに、憂鬱そうになっていった目元を、覚えている。
 ロフトが天井近くにおまけとしてある以外は、キッチンとの境目もない、一Rの学生アパート。
 空間すべてが個人のスペースだったものが。カーテンすらない状態で、ずかずかと半分、占領される。
 つきあっている相手とはいえ、今までメイクをした顔しか見せていなかった、その距離にあった他人の男に、突然に。
 ……迷惑以外の何物でもなかっただろう。
 恋心がごまかしてくれてただけで、浮かれはしゃぐ最初の時期を過ぎてしまえば、鬱陶しくなって当然だったのだ。
 要するには、忍耐の限界が来た。
 たぶん、それだけで出された。
 別に思いやりとかじゃなかった、言葉。
「フユ君も、お正月くらいは帰省したほうがいいんじゃないの」
 迷惑だという感情を隠そうとして。
 けれどもはや隠しきれないことに罪悪感を浮かべた、眉間。
「…………」
 それに、どろりとした目を向けて。
 もちろん、ハキハキとした返事なんかできなくて。
 でも。
 どうしてだろう、帰る、その事象に、その時は正面から向き合えた。
 たぶん、おれも、限界だったんだろう。
 新聞を怖くともめくる回数が、抑えきれずに増えてきた頃だった。
 もう逃げ続けるのも怖くて――。
 彼女が限界を迎えると同時、自分も限界になってきてた。タイミングがたまたまかみ合っただけの話。
 けど、おかげで。
 ストンと、ようやく。
 今までの逃避がまるで嘘みたいに、胸に落ちてくるよう、『帰ること』を、受け入れられた。
 そうだ、いつまでも逃げられるものではない。
 むしろ、なんで今まで逃げていたのだろう、とすら思えた。
 ――とっくに身長を追い抜いた父親も。愚痴を言わない母親も。あんな繊細な妹も。
 放っておいていいわけがない。
 わかっていたことじゃないか。
 ……それまでの頑なな鈍重さと激変して、すんなり腰を上げた男に。
 彼女は驚いて、目を剥いて見上げてきた。
 それを脇目に。床に転がっていた自分のバッグを持ち上げ、目につく私物を拾い上げながら、直線で、玄関を目指して。
 玄関で靴を履いてから。
 初めて、ふりかえって。
 あっけに取られてまだ、座りこんだままで。こっちを、ぽかんと見てきている彼女に。
 小さく、礼のようにうなずいて見せて、その学生アパートを出た。
 結果的には。
 それが、もう一生会うこともない、別れの瞬間にもなった。

 いつも通り深夜バスのルートを選びそうになって。
 それだと悠長に、夜まで待たなければならないことに気づいて。
 費用面から普段は避けている、入学式で青森から出てくるのに一度だけ使ったことがある、飛行機を選んだ。
 レストランすら三つしか入っていない青森空港とは、まるで村と国ほどに規模の違う羽田空港に手間どりながらも、チケット片手に搭乗ゲートをくぐる。
 はやる気持ちとは逆に、更にこれからバスに乗り、遠くに停められた飛行機そばまで移動するらしかった。
「またバス移動しないと乗れないの〜。人気ない便だからって、こればっか……」
「地方でも、観光客いる北海道行きとかなら、絶対、このまま乗れるのにねぇ」
 と話している女性二人組の声が、聞くともなしに聞こえて。
 バスに乗り込むため、自動ドアをくぐり、建物外へ出ると。
 青森の寒さには及びもつかないけれど、それでも暖房にゆるんだ頬には鋭利な寒風が、びゅうと、横っ面を打ってきた。
 雪混じりでもおかしくない冷たさに、つられて、空模様を仰いで確認する。
 既に日が暮れていてもわかる、荒れを孕んだ天気。
 黒に砂がかっているような、嵐の粒子がうかがえる、濁った色。
 ……これからの前途を占い、その結果までもを示すような、空色に。
 しょうこりもなく、おびやかされるような気分になって。
 それでも、やっと。
 もう、引き返したいとは、思わなくなっていた。

 青森空港から、弘前バスターミナル行きの最終バスに乗りこみ。
 そこからまた、家そばのバス停を経由する、最終に近いバスに飛び乗る。
 ……坂が忌々しい、見慣れ過ぎた風景に。
 バスの階段から降り立つ頃には。
 青森空港に着いた時には、そうでもなかった雪が。すっかり激しくなってきていた。
 そうして、そんな空からのものだけではなく。
 スニーカーに白化粧するように渦巻く、足元からの、けぶるような雪。
 見下ろしていたら、ふと。
『津軽は下から雪が降る』という、伝わることわざのようなものを、思い出した。
 すでに積もっているサラサラとした質の雪を、巻き上げてゆきながら。天と地の間を、強い風が渡っていくのだ。
 上からは……撒かれるように降りしきり。
 下からも……嬲るように吹きつける。
 0視界は、雪国の習いだと。
 白の舞踏に、紛れるようにしての帰郷になった。
 ついこの間も登ったばかりの坂を、ようやく一歩、登り始める。
 帰省を見咎められれば――もはや、石でも投げられかねないと。
 勘ぐっていた近隣の目は。
 今は、まるで守ってくれているかのようでもある、この白いベールのおかげで。
 まるでなく。

 入口の曇りガラスの扉を、重く、ひっそり引く。
 家からは、人の気配がしてこなかった。
 ……きっと居留守を使っているのだろう。
 責めに来る人間が、いつ押しかけて来たっておかしくない。
 だけど避難する場所も、もはや、どこにもないのだから。
「母さん、父さん」
 きっと奥で三人、息をつめて隠れ潜んでいる。
 そう思い、マフラーを解きながら、居間に向けて足を進める。
 あまりの暗闇に、覚えてる位置、廊下の電灯のスイッチを求めて。壁に手を伸ばし、さぐり当て……。
 パチリと入れる前に、やめた。
 居留守を使っているのなら。
 ここの電灯をつけてないのも、わざとなんだろう。
 明るく窓から在宅を知らせてしまえば、誘蛾灯のように不幸が訪れるに違いない。
「秋実」
 だから、抑えた声で呼びながら。
 すり足のように慎重に歩き、居間の入口まで辿り着いた。
 居間が広がっているはずの、ぽっかりとした暗黒の空間。
 シンと静かなそこに、目で確認できたのは。
 ぽちりと小さな、一個の緑点。
 エアコンの作動ランプだけだった。
 動いてはいてもエアコンは最低限なのか、ひんやり冷たい室内に。
 それだけが、まるで朗々と。
 じょじょに暗闇に慣れてきた目で、
「父さん? 母さん? いる?」
 居間に一歩、踏みこんで。
 ……それでも返ってこない返事に。
 もしかしたら本当にいないのか、と。
 ついに、居留守のための暗闇じゃないかっていう、気がねは止めて。覚えている位置のスイッチを、パチンとはじいた。
 いつもそのあたりに、皆、居るからと。
 こたつの辺りへ走らせた目。
 ちょうどその高さの目線に。
 白と薄ピンクと黒の。
 冬用の厚ぼったい靴下が。
 三角に、むっつ。
 つま先が尖って、下向き矢印、のように浮かび上がって。六つ。

 頭に、事象が届く前に。
 体が、動いてた気がする。
「ひ」
 反射的に、なぜか体が、半回転した。
 そのせいでもつれた足に、たたらを踏み。
 けどもその反動で、畳の上を、首を振り回してぐわり、すべて見渡して。
 横倒しになった、ふみ台だったはずの脚立。林檎の収穫に使ってたうちの一台、倉庫から持ち出されたそれを、見つけて、すぐに走る。
 たふ、どん、タッ!
 大股に、バラバラと、響く足音はまぬけで。今とかけ離れて陽気で、タップダンス踏んでるみたいに。
 畳に蹴りとばされている脚立に指をかけ、がしゃがしゃ持ち上げて、Aの字に広げながら力任せ、打ち立てる。
 頭振り乱して、さっきまでの暗闇に慣れてた目に眩しい、天井にらんで、ただ一点めがけて、足かける。
 おろす、おろす、おろす。
 頭に、警鐘のように、途切れることなく響きわたる。
 祭りのお囃子にも似て、祈祷のようにリズミカルに、全霊を支配してる。
 他の動詞が、行動が、考えが。
 とれない。
 今なら。間にあう。
 そう信じたわけでも信じきれていたわけでも。
 すでに無かった。
 そうもう無かった。
 直後に帰ってこられたなんて幸運ない。
 実際ほぼ死後一日たってた。
 体温のそよぎがない空気から。
 鏡面のように反応ない眼球から。
 おしろい粉をはたいたごとくの顔顔顔から。
 ほぼ打ちのめされていた。
 ただ他に逃げ場所なんか。
 他に、手をかけて引き戻せる距離の、『息吹』なんかないで。
 だから。
 操り人形のようにひたすら回転しておどって。
 その。
 もう『息吹』であってはくれない。
 名残の躯に。
 ない可能性に。
 必死にしがみつこう縋りつこうとしてただけで。
 どうして一番身長の低い、一番手の届きにくい、妹の足首をまずつかもうとした。
 多分、一番。
 生きていてほしかったから。
 一人が死んでいても。
 二人が死んでしまっていても。
 この一人だけが生きて、生きていてくれたなら、まだ救われる。
 あるいは。
 あとの二人が、両親が――……。
 救われてくれるんじゃないかと、そう。
 割れるように。
 わひゃ、ふひゃ、舌が、妙に、口の中で暴れ。
 そのせいでの、はしゃぐような呼吸が、わんわん鼓膜のとこで反響して。
 自分しか、ここには。
 ちゃんと、呼吸、してくれてる人間がいないのに。
 かん高く大きくて耳ざわりで。
 脳をも揺さぶらんばかりに鳴ってて。
 うるさい、と。
 罵り口走ったつもりの単語は。
 無音、かすめるように頭の中だけを、ブツ切れのテロップのように、速く流れていく。
 だらりと垂れ下がった足をつかむと、釣った魚のよう、ふりこの反動で手元から離れてゆきそうになって。
 二本の脚を揃え、押さえ込みながら、腕の中に引き寄せる。
 神経壊れたように、わなないてる両腕で。
 生まれて初めて。洋風のお姫様だっこ、みたいに、妹を抱いた。
 やっぱり農作業用に使っていた、ロープが。顎下に深く、食い込みきっている。
 だけど雫型になったロープの、輪の直径は、秋実の頭より、ずっとずっと大きくて。必然的に首上のあたりには、ロープはまとわりついていない。
 ……これならすぐに外せる。外さなきゃ、と。
 ロープをぐいぐい、秋実の鼻方向へ、引っ張り上げる。
 多分、力ずくになった。
 どれだけ、そうっとやろう、そう誓っていたとしても。
 白すぎる顔でも、唇が乾いていようとも、それでも『息吹』を追っていたのだ。蘇生の可能性があると。はかなく追えていた、その時刻はまだ。
 だから早く、早く外してやんなきゃ、って。
 自由な喉を、取り戻してやんなきゃって。
 ――きっといつのまにか、むちゃくちゃ乱暴に引いてしまっていたんだろう。
 唐突に。
 掌のなか、妙な手ごたえ、があった。
 どこか異質で、でも無視できない確かな重さで。
 ……べぐっと、乾いたようで――こもったような、歪な音が。同時に、耳に届いてきて。
 首が。
 妹の白い首が。
 ひょろっと、妖怪のようにのびた。
 縄の圧迫で、折れた首の骨、とりはずそうと引きまわされる、体の遠心力に耐えられず――。
 首の皮が、首の肉が、首が、くびが。
 ――……容赦のかけらも残さない絶命のあかし。
 たった今、眼球から流しこまれた衝撃に。
 たった今、自分こそが鎌を下した現象、遺体からムクロへのおとしめに。
 耐え切れず、ひぁ! と。
 ぶざまに悲鳴をはじけさせ、脚立から落下した。
 ……目を閉じてしまって、から一瞬、慌てて振り仰ぐと。
 ぶぅらりぶぅらり。
 秋実の体が、宙空にブランコを漕いでいて、まるで遊んでる、弄ばれてる。
 さらに首長にのばそうとするように。
 もっともっと殺そうとするようにだ。
「ぐ、かぁ」
 ますます、舌が、太くなってしまったかのよう、口の中で邪魔で。呼吸しにくくて。
 そんな喉奥に丸まってくる舌を、何度も、何度も、安定しない歯でガチガチョと噛んでしまいながら。息を、吸って、吸って。
 もう一秒ごとにフッ、フッ、鼻息を五月蝿く、飛ばしながら。
 抜けてしまった腰、でもすぐに秋実の、そばに行かなきゃ――転げて、四つん這いに体勢を整え、脚立にとりつく。
 がちゃがちゃ。
 震える腕のせいで、普通に寂然としている脚立の安定を、自分自身でもって脆くしながら。
 ゆらぐ腰をふりまわし、立たない足腰、一番ふぬけになってる膝下をあきらめて……。膝頭でなんとか段を、登っていく。
 死から遠ざけたい。
 これ以上も。
 白く長く、のばしてしまいたくない。
 そう急いて、心だけは疾走して。
 なのに衝撃で竦みきった下肢は、ガクガクのろく。
 腕力をたよりに、のたうつよう、一段一段を這い上がる。
 やっと辿り着いた頂上付近、両腕を掲げて。
 秋実の、伸びきった弱い首をかばうため。今度は抱くだけではなく、脚立の段に、秋実の尻をのせて、その体重を安定させる。
 ……老人かアル中毒みたいに、ぶるぶる震える、不器用な指で。もう一度縄をはずしにかかる。
 がっちゃがちゃ、自分の身体から生じる振動で、あいかわらずガタつきっぱなしの脚立が奏でてる、騒音。
 べったりと、いつのまにか大量の汗をかいていた自分が、鼻息まじりでフゥ、フッとひっきりなしに秋実に吹き付けてしまう呼気。
 まるで対比のように。
 頬寄せる距離の、とにかく静かで白い、秋実の顔。
 騒と静。熱と冷。
 ……知る、直面するしかない。
 これは。時間が止まってしまっている、顔なんだって。
 もぅ、生者にはありえない首の長さで。
 切れた頭と胴の接続で。
 だから、こんな、表情が微動だにしないのも、当たり前で……。
 生きてない生きてない、生きてないよ。
 もう。ほんとに。
 目まわりが真っ赤に熱くて、滲む涙すら蒸発し、視界が曇っていくようで。
 へぐへぐ、情けない嗚咽をまきちらしながら。とにかくこれ以上、秋実を、損壊、させないように、ロープをゆっくり、ほどいていく。
 がちゃがちがっちゃ。
 脚からは、風鈴のようにひっきりなしで激しい、脚立の金属音。
 しょうこりもなく震えっぱなし、まるっきり鎮まってない自分の体に引きずられて、共鳴して激しくなっていくばかり。
 がちャ!
 危なげな音を奏でていた脚立のバランスが、またついに、崩壊して。
 再度、宙に放り出された。
 だけど、今度は、秋実の目元あたりまでロープを外せていたせいと、最後までロープを離さなかったせいだろう。
 ふっとばされながらも、なんとか秋実を。
 ロープから、分離することができて。
 二人まとめて投げ出された畳の上。どすん、と。
 ちょうど膝枕するような重なり具合で、秋実ごと、着地できた。
 ――……女の体で一番重心が集中した、尻を、打ちつけたせいだと思う。
 着地の衝撃で。
 ぬじょり。
 泥色の、濃い匂いを放つ排泄物が。
 盛大にまくれた制服スカートからのぞく、白い下着から、漏れ出した。
 ……ぎぃ、と喉仏をきしませながら、愕然とそれを目にした。
 冷めているのに、なお。
 獣じみた汚臭をはなつ流動体。
 まるであざ笑うように、秋実の腰まわりを、辱めていく。
 あわてて制服のスカートを、広げ、押さえつけた。
 多分、生理の血をそそうした、初潮まもない時期の妹を、他人の目からかばう気持ちでそうした。
 体の震えが、止まっていた。
 ザクリと頭の芯にさしこまれた氷柱は、あんまりに太くて。
 とっさにつまんだプリーツの折り目は、ヒヤリと指を刺すようで。
 その残った手ごたえが、指の腹に硬質すぎて。
 死後硬直あとの筋肉のゆるみによって、穴が、緩んで、もれだした。
 遺体ならば当然のことだって。
 そんな、理性的に。
 その時。噛み砕けた、わけがない。
 上塗りの無慈悲に、震えが止まったまま。
 視界の四隅が、薄墨に覆われ、知覚している空間が、キュッと極小に縮んでいく視野狭窄。
 帰ってきたら、三人とも、一列に並んで――真っ白な顔で。
 まだ生きてるって急いだら、首の骨を、自分でへし折って、長く伸ばしてしまって。
 あげく糞尿でもって――冒涜して。
 もう、壊れてしまいたいほど、むごたらしい――。
 ……ふいに、指の爪先に、ひっかかりを感じて。
 つられて自分の指を見て、初めて、気づく。
 いつのまにかふわふわ、自分の指に。
 絡みつき、溜まっていた、妹の髪、茶色い毛玉。
 秋実の頭を、無意識に何度も、何度も、撫で摩っていたようだった。
 もはや、体温が残ってない、硬くすらある頭皮。
 さわれば触るほど、死を、確信しなきゃいけない、のに。
 なのに、止められず。
 今度は意識して、ごしごし、掌で秋実の頭を、撫で回す。
 拠り所にした。
 濁流の中たった一つの、よすがみたいに。
 可愛がると、むしられたように指に移ってくる、幾本かの細い茶髪。
 動物の毛並みみたいなんだよ、ふわふわすぎだっつの、独特の――。
 漂ってくる匂いの源から、必死に目をそらし、秋実の顔だけを食い入るように見つめる。
 唇からのぞく、まだ幼児の気配を残す、顔の大きさとの対比でもって、大きめに見える前歯。
 身長ものびたのに、大人になった姿を予想してみるほど大きくなったのに、それでも、やっぱり、まだ子どもの大きさのあたま。
 が、ぐったりとこう、膝上で、首骨お、って。
 ――膝の上の妹が呈している、惨状からのがれて。
 目を上げれば、ゆらり、ゆらり。
 脚立が倒れる時に、どこかが当たって揺らしてしまったのか。
 軽く回転を見せている……ぶらさがる両親の体。
 バレリーナ風、つま先立ちでもって、かろやかにダンスしてるような。
 吐き気がせりあがる、きっかいな動き。
 いったりきたり、交互、まるで迷子のガキ。
 また膝上に目線を戻す。
 元々白くて、今は、紙みたいに色がなくなっている。秋実の頬。
 べたべた、さわって、すがりついて。
 でも、びっくりも、嫌がったりもしない。
 やっぱり死んでる。
 目を上げると。
 まだ回転してる、つま先でおどっている、二人。
 やがて。
 どれだけ見ても、どの角度を見ても。
 ……何の変化もないことに、狂う。
 生者はもはや、自分一人だっていう、袋小路。
 バカみたいにカクカク、首を上下に反復運動させることも、もはやできずに。
 力尽きて結局。
 視界は、呆然、上方で固定された。
 やっぱり三角、下を目指して、矢印なつま先。
 さっきまで秋実もそうだった。
 どうしようもない。
 浮いてる、死んでる、取り返しがつかない――……。
「――――!」
 涙でやたら、水晶じみた輝きをおびて、きらめく視界に。
 空中を筒状に、尾をひいて、飛んでいく。
 胸いっぱいの空気。
 息、音、響。
 自分の悲鳴が。
 絶叫が、かぁんと高く高く満たしてぬけていって。

 こんな。
 こんな『むくい』を受けなければいけないほどのこと、しましたか。

 畑のすみで自給自足する野菜を、『旬だがきや、今がいぢばんうまいの』あぐらでくつろぎながらそう言って、夕食で箸につまんでいた。
『どっか気取ったどごへ、行ぐ予定はねし』そう言って平気で、小さい体、早々に曲がる気配を見せてきた腰に、二十年前から同じコートを纏っていた。
 緑のなかに丸い、赤い恵みの色彩の下、『都会って合わないと思うから、ずっとここにいたい』そう不安げな顔をして、木の幹に抱きついた。

 儲からない、国にも冷遇されてる、はやらない農業ってものに――あきれるほど朴訥に向き合って。
 小市民そのものに、誠実に。
 寒いも痛いもそうそう言わないで、暮らしてきたのじゃなかったか。
 なぁそれは。
 つつましい暮らしって言わないか。

 ◆

 遺書は残されてなかった。
 けれど、わかる。
 ご迷惑をかけたお詫び、とかじゃない――。なにより無罪だったのだから。
 かといって……。
 地元の仕事仲間からの排斥に、傷ついたからとか。
 いわれのない、ぶつけられる非難が苦しかったからとか。
 返済のめどが急激に立たなくなった、金に追いつめられてとか。
 ――そんなんじゃないことは、息子の自分には、わかっていた。確信すらあった。
 そんな『弱々しい』両親じゃ、なかったんだ。
 主張なんか、日本人らしく控えめに、しなかったけれど。
 儲からないけど、しんどいけど。
 誇れる育て方で、誰にも自慢したい林檎を……毎年、送り出しているんだって。そういった類のこと、息子に語ってみせる時だけは、年より若く見える、きらきらした瞳だった。
 明らかなプライドを、胸の中、築き持っていたんだ。
 それを裏打ちしていたのは、日々積み重ねている勤勉な地道さ、で。
 苦労の代償として、正当な強い自負を、しっかりと持っている両親だったのだ。
 ……かといって。
 死という、持てる絶対唯一を犠牲にしての、最大級にできる抗議でも……なかったはずだ、と。
 家族としての感覚は伝えてくる。
 これだけの責任のない不幸に、一方的に見舞われたって。
 そういう、どっか尊大な御旗、ひるがえらせること、できる、人たちじゃなかったんだ。
 たとえ、比喩なく命と引き換えである賭しを、代償にかけていたとしたって。
 ほんと馬鹿らしいほどに謙虚で。
 ただもう、きっと。
 このへんの農家では、借地も含めれば一番畑の面積が広くて。
 栽培知識も豊富で、味だっていいと評判で。
 ……低農薬化にすら熱心で。
 尊敬だってされている、いわばリーダー的な林檎農家として。
 一点の曇りもない誠実な生産を、三十年続けてきたのに。と。
 ただもう――きっと折れた。
 悔しかった、から――なんだって。

 そして。
 秋実は――。
 秋実は。繊細で、敏感で、幼くて。
 そう『弱々しく』て。
 ほんとに。ただの愛しい子ども、で。
 ……できたわけがない。
 自殺を考えてるらしき雰囲気を滲ませる、両親から、離れること。
 心を鬼にした両親に、家から放り出すように……強引に、出ていけって、背を、力いっぱいに押されたって。
 あの玄関から一人きり。
 四面楚歌の外界へと、歩きだせたわけがない。
 首をひたすら左右に振りまわして、置いていかないでと泣いて懇願する以外のこと。
 できたわけがないんだよ。
 おれが――。
 おれがいなかったんだ。
 死ぬ気なんかないと。
 とにかく出て行けと。
 いいから連れ出せと。
 おれに託すことができなかった。
 目の届かないところで二人、実行することができなかった。
 泣くのを哀れんで、ゆく末を不安に思って、ただ可愛くて。その結果。
 一緒に伴っていってしまった。
 おれがいなかったんだ。
 大学を中退すれば、就職があたりまえにできる、とっくに一人前に働ける男。
 秋実一人くらいはどうにかできる。
 そうだよ。
 あたりまえに頼れたはずの。
 そのはずの兄が、一番必要な時、逃げていた。
 全力で、現実から隠れていたんだ。
 誰よりあの時、家族を見捨てていたんだ、みす。
 見捨てて――……。

 ◆

 情報提供は、ここまでの悲劇になってしまってから、やっと、ほんの少しだけはあった。
 何もかもが手遅れになってから。
 押しつけて、無視して、いたぶって、何もかもを奪ってしまった後でなら。
 そこまでする気はなかったのにって。寄ってたかって殺してしまった、骸を前に、青褪めるように。
 最初は、葬儀の日。
 葬儀会社の人間と、坊主以外は、三人しか来なかった、その三人目の口から――。

 家族が死んでいる、と警察へ電話すると、駆けつけてきたパトカーにのせられた。
 そして、もう息はないとはいえ、家族と、あんなことになった直後の家族と、離されて。長時間での事情聴取。
 その後、やっと案内された、警察署の裏にある遺体安置所。
 蛍光灯だけがまばゆい、どれだけ明るくしたって、底ない暗さが拭えない室内で。再度、家族と対面して。
 あいかわらず絶望してるのに、秋実の頬をさわりながら……どっか、安心を抱えていた。
 それだけ事情聴取で引き離されてたのが、不安だったのだ。
 もう、目を、離したくない、そういう気持ち。
 首でぶらさがってたり、体の一部を損壊されたり、目の届かないところで、いつのまにか、また、そうされているんじゃないかって。そんなことになってるんじゃないかって。
 今さら、監視できてたって遅いのに、せめて生きていた二日前にそうできていれば全然違っていたのに。
 まったく滑稽な心理――。
 自分を痛めつけるような微笑が浮かんできて、歯止めをかけるために、上げた顔。
 死の匂いで湿った底冷えのする室内。その雰囲気をたっぷりと吸いこんだ、濡れているようにすら見える壁。かかった看板が、目に入った。
 白と黒。あとはわずかな青だけで色付けされた、花が一輪描いてあるだけの看板。
 シンプルなはずなのに、その看板が放っている強制力みたいなものに、突き動かされるように携帯を取り出していた。
 ……予感にせかされたんだろう。
 看板の葬儀社の電話番号を、その場で携帯にメモしておいた。悲しい予感だった。
 このへんは、近所の人間が集まって葬儀の段取りをするものだ。
 伝染病を防ぐため、遺体処理が、近隣――村社会の管理対象であり、責任でもあった頃の名残。
 コミュニティとしての特色。
 そういった、田舎の因習と呼ばれる種のものを、頑なに守っている土地なのだ。
 昨今は葬儀社を、助力として使うことも増えたけれど。
 主導はなにもかも、地域の世話役のような、年長の人々が決める事になっている。その人達の意向に従って、葬儀社だって決めるのだ。
 自分のような学生であってすら、その地域常識を、知っているのに。
 ……離れたくないっていう未練をふりきって、家族を置いて、葬儀の段取りの為、もう誰も電気をつけてくれない闇に沈んだ家に戻ってきて……思い知る。
 ――噂を聞きつけた人々が、家の前に、集っていない。
 その予兆になりそうな置手紙……すらもない、玄関先だった。
 人が死んだという噂は、勤め先への弔事の連絡や、死んだ人がかかっていた医院の近所住人から、あっという間に広がる土地柄だ。
 まして、うちの場合では。パトカーが駆けつけたことから、絶対にすぐさま知れ渡ったはずなのに。
 ……いや、やっぱり、と言うべきなんだろう。
 妹までも伴った一家心中、そこまでの悲劇に追い込んでも、それでも。
 いまだに続行しているのだ。
 釈明すら許されず、一方的につきつけられた、この罪の、断罪は。
 全員が、村八分を決めこんでいる。
 全員で示し合わせてるか……もう少しはマシで、もしも、示し合わせてないにせよ。
 それはある意味、さらに酷い……もはや示し合わせる必要もないほど、皆の内心が一致してしまってるって……ことなのだ。
 結果は同じく、この現状なんだから。
 とにかく憎いか、とにかく、関わりあいになってしまって『うつされ』たくはないか――。
 うちの家族は、そういう。
 目に入れることすら、はばかられる。そんな存在とされてしまった。
 いっぺん名づけられたなら、もう土地から逃げるしか、そのレッテルを払いようがない。
 死亡による恩赦すらもない。
 徹底して――関係を絶ちたい、自分から切り離したい、無視したい、それほどに恐ろしいもの。
 そうだ。
 忌み嫌われる、『穢れ』と、された。

 葬儀は結局、地域住人にはいっさい声をかけずに、準備していくことに、した。
 その年長の因習を守っているメンツは、公式な自治会長なども、当然かねていたはずだったから。
 既に向こうから。助け合うべき住人、の対象から、除外されてしまっているのに。
 こちらから伏して連絡を取れる気に……なれるわけもなかった。
 警察の遺体安置所にあった電話番号へ、携帯のメモを呼び出して発信する。
 すぐに出た業者は、お悔やみ申し上げます、と。
 気づかう言葉こそかけてくるものの、電話口で交わすやりとりの流れは、ひたすら事務的で。
 料金の高い葬儀をセールスしてくることすら……、なんか、含みがなくて、かえってありがたかった。
 平等なマニュアル対応は。
 村八分が当たり前になってきている……麻痺してきた自分には、嬉しいほどに健全で。
 もちろん。この接客してきている、葬儀会社の人間は。まだ知らないはずで、だからこそ、この対応なんだろう。
 この相手だって、この土地か、少なくとも近郊に住む人間だ。林檎栽培をしている人間と無関係でいられるわけもないから、この無知さも……そう持続してくれるわけでもないのだろうけど。
 予算をかけようとしていない、できるだけ小規模を望んでいる、儲けにならなそうな葬儀だって事で――がっかりした雰囲気だけを滲ませている、それほど、単純な、向こうの様子。
 ……送るのが『両親と妹』という部分にだけは、ギョッとしたようだったが。
 交通事故か何かだろうと、とりあえず見当をつけたらしい。
 これからすぐに伺わせていただきます、と、電話を切り上げてくる最後まで。向こうの平和さは変わらず。
 ビジネスライクな部分には、村八分も、行き届かないのだろう。
 葬儀屋は告げた通りちゃんと、葬儀プランとオプション等のパンフレットを携えて、やって来た。
 挨拶から、電話応対の人間と、同一人物だとわかったけれど……口調や表情が、電話でのイメージより硬かった。
 おそらく会社で、言い含められてきたんだろう。どういう状況にある家なのか。
 もはや近辺一帯において、有名な一家だった、うちは。
 そんな気まずい状態でも、葬儀に至るために、決めるべき内容は一定量ある。
 事務的な話をこなさなけりゃいけないぶん、無言をもてあまし、困ることはないのだ。
 やや引きつった顔で、パンフレットをめくる相手に、素直に応じた。
 ――埋葬はしなけりゃいけない。
 それだけは。
 誰に説得されるまでもなく、思えていたのだ。
 家族と『離れがたい』も何もなかった。
 むしろ早く早く、と……遺族にしては、とんでもない潜在意識すら……あった。
 早くしなけりゃ。
 もっと壊れて、もっと無残なことになる。
 首だけじゃなく、あちらこちらが、もげるって――。
 そんな強迫観念が、異常なほどにあった。
 焼かずにおきたいなんて思わなかった。
 そう思う余裕は。秋実の首を、自分の手で損傷した段階から、すでに贅沢なものと成り果てていた。
 だから取り乱すこともなく冷静に、送る支度は決めていけた。
 話している内容が……内容なせいで。強迫観念の源、脳裏に沈めても沈めても浮かび上がってくる、妹の首折れた情景と、向き合わされながら。
 ひたすら業者の話に頷いたり、頭を振ったりし、決定していく。
 質素どころか――一人も参列者を見込めない。
 勤勉であった生前の行いに、まるで比例しない。
 理不尽な葬式を。

 手配のために、葬儀社の人間がいったん引き取るのを見送って……。
 葬儀準備の費用や、葬式代のため、自分の貯金をおろしに行くことにした。
 その頃は。『金融機関が死亡を知った段階で、故人の口座には遺産凍結がかかり、遺産はいったん一切が動かせなくなる』という一般常識を、まだ知らなかった。
 ただ、借金が……。
 きっとこの先、返せなくなると。
 両親が死んで、続けられなくなった林檎栽培があって。農機のローンや、ケタが違う今回の農薬汚染での莫大な賠償がらみとか……。
 そういうもので、きっと、後にどうしようもなくなる。
 だから遺産は一円も動かさない方がいい、という予測が……なんとなくだけど、あったのだ。
 のちに、葬式代くらいは許容されること知ったが。この時は、わかるわけもなくて。
 けど、家を出る段になって、細かい事で迷う。
 これから、遺体の迎え入れや、門に貼り葬儀の日時を知らせる忌中札、花やぼんぼり、などの運びこみで。業者の出入りが少なからずある。
 だから鍵をどうするか、一瞬迷ったのだ。
 普通はこんな、葬儀という一大事では、身内や友人等が集まってくれて――金の工面に出かける間くらい、留守は誰かに頼めて当然なのに。
 あまりにも、人に……優しさに窮した、この現状。
 再確認して、むなしくて、だけどどうしようもないから……すぐに、踵を返した。鍵はかけないまま、放っておくことにした。
 どうせ、今は。
 泥棒すらも寄り付かない家だった。

 農作業のための道具が、山と積まれたままの軽トラックに乗りこみ、すっかり日も暮れた闇の道路に出る。
 不思議なのが。
 昨日からずっと、近所の住人と会わないことだ。
 パトカーが停まっていた時は、さすがに遠巻きに見ている人影があったが……それを境にパッタリと。周辺がまるで無人地区にでもなったかのように。ひとけが途絶えている。
 ……たぶん、こそこそと、動向を窺われているのだ。
 避け、きられてるんだろう。
 でも、こちらとしても。付近住人と顔を合わせないでいられるなら、その方がいい……のだろう。
 今、向こうから『農薬被害をどうしてくれる』という罵りと共に、殴りかかってこられれば。こっちも、わけのわからない音を大声で喚きながら、殴り返してしまいそうだ。
 石をぶつけられるかと恐れていたおとといまでと――。
 石をぶつけてやるのにと思う今日――。
 あまりの差異で、また、病的な笑いを浮かべてしまう。
 完全に、逆転した……。
 奪っていった者から、奪われた者へ。

 噂の農家の息子だと、さすがに全員が知ってるわけもない、町までおりて。
 アルバイト代が入るようになっている口座から、たいしたことない残高の、半分を引き出した。
 その現金をポケットにねじこんで。車に戻ろうと急ぐ最中。
 ふと、数メートル先の、スーツ量販店の明々とした電飾表示が、目についた。
 そういえば。
 もう高校生ではないから。
 葬儀で……制服は着れないのだった。
 大学に入ってからは、距離を言い訳に、親戚の法事なんかとは無縁だったから、忘れていた。
 今までは当然のように、母親が気をまわして準備や指示をしてくれていた。だから自分で用意したことってなかった、そういう場での衣装。
 もうありえない習慣を噛みしめながら。思い巡らし、一番最近の式典……大学の入学式のために購入した、黒のスーツがあったはずだ、と思い当たる。
 けれど、ネクタイの黒はないはずだった。だからその足で量販店に飛びこみ、葬儀、告別式用のフォーマルネクタイだけを買い。
 どす黒い重さがとぐろを巻いているような村へと、車を戻す。
 帰宅してすぐ、包装されたままのネクタイをこたつに置き、まずは居間のタンスを開いた。
 ほんとうは、母さんに聞かないと、まるでわからない。入学式スーツのありか。
 すぐに用は済んで邪魔になったから、息子の晴れの入学式に出席しに、上京した母さんに。押しつけ、持って帰ってもらって。それっきり、どこかにしまってあるはずで。
 自分のものだけど、まったく置き場所なんかわからない服。
 今までは、聞けばそれで済んだ。
『母さん、出して』そんな傲慢な一言で、いつだって。
 翌朝までには、絶対に、準備してもらえてた。
 ――後悔とか感謝より、ただただ、もうない事なんだ、ありえない事なんだ。
 そんな歴然とした事実にだけ、心を鷲づかみにされて、下向きに、座り込むように、引っ張られる。
 それでも、居間のタンスをあさり終え……けど発見できずに。自分の部屋、続いて父さんの部屋、と調べていった。
 母さんの部屋まで探し終えても、まだなくて。
 物置よりは可能性が高い、秋実の部屋に、足を踏み入れる羽目になった。
 タンスはない、家の中で一番、小さな部屋。シワにできない制服なんかさえ、ふだん窓際にハンガーがけしてあったのを覚えている。
 だから押入れしか、見るべきスペースはない。
 居間と同じく、やっぱり茶渋のような経年のせいでの汚れがついているふすまを引くと。
 几帳面な秋実らしく、キチンとした感じに、ボックスやダンボールが詰まっていた。
 主が死んだことがわかっているように、どこか近寄りがたさも放っている空間。
 ……それに、妹の荷物を漁ったことなんか。秋実が中学生に上がってからは、思春期を気づかって、一度もない。
 だから探す位置や手順が、頭の中で、まるでまとまらないまま。
 とりあえず、いたずらに。
 一番手前、背よりやや高いところにあったダンボールに、手をつけた。
 さほどの重さでもない箱を、掲げる体勢から、床におろそうとする。と。
 バサバサ、降らせるようにして畳にぶちまけてしまった、何かの一群。
 どうやら、今、動かしたダンボールの上に、のっていたものらしい。
 ああ、やってしまった片づけないと、と、ふらりと視線をやって。
 ……ぎくり、大きく目を開かされ、釘付けにされる。
 脳に焼きごてされたように、記憶に鮮烈な、妙に厚ぼったいノート――大量に貼りこんである写真ぶん、厚みが膨らんでいる。
 今となっては、おそろしいノートが、去年のものらしい教科書などの、一群の中にまぎれこんでいた。
 目をそむけたい、走って逃げ出したい、そんな不吉さを封じこめているノート。
 ……けど、この。
 息を止められそうな忌まわしさは。
 反面、このノートが貴重な、証拠の一つだから、でもある。
 潔白を証明する、足がかりになる。
 そもそものきっかけを、あの農協職員との関わりを。
『実家も、これを今、使ってて、すごくいいんです』って善意を装って言われた頃を。
 家族の無防備さを、残酷に切り取れている、時のかけら。
 そう認識した瞬間。
 胸に、なにか灯りかけた。
 怒りに近い、けどそんな一色の感情じゃない複雑な……それでいて輝度は高い、澄んだ感情。
 その輝きに促され、灰色めいた世界すら、バアッと、順々にあざやかに色付いていくような。
 なぜか、急に空気が、塊で大量に吸えるようになる。
 体温すら……なにかに守られているように、上昇していく。
 急激に、救いのように立ち上った、その生々しい感情を。
 とっさに……押さえつけた。
 こみあげてきた燃えるようなエネルギーを、覆い隠す。仕方なく。
 今だけは。
 まだ、後まわしだ。
 まずは送らなきゃいけないのだ。
 大切に、大事に。愛していたぶんに。
 はやる胸を押し留めながら、大学ノートを拾い上げる。
 これはこの後、必ず必要になる。
 秋実の置いていってくれた大切な、証拠になる一つ。
 送るのが済んだら。沢山のやつらに、つきつけてやらなきゃいけない。
 ――つきつけてやるんだって。
 農協、同業者、マスコミに。
 このノートを始めとし、父さんの栽培記録なんかの、証拠を揃えて……どうにか勝ち取ってやるんだって。
 無罪を認めさせ、後悔させ、謝罪を引き出す。
 最終的には、日本の農産物を食ってるすべての奴らにさえ。安易に無農薬林檎を望んだという、潜在的に犯していた罪を、つきつけてやることができるんだって。
 その時は。
 それが可能であると、信じていた。

 結局、スーツは、自分の部屋を、一つ一つ丁寧に調べ直したら、奥にちゃんと隠れていて。
 ようやく見つけだしたスーツに袖を通すとき、ふと、まぶしさに目をやってみれば。カーテンの隙間からは既に、明るさがのぞいていた。
 遺体を返してもらえてなかった昨夜と同じく、一睡もできないまま。それ以前に眠くもならないままに。
 夜明けは、もう、来ていた。
 一般的な起床の時刻には、まだ早かったが、出勤時間になれば捕まらなくなるから……親戚に電話連絡を開始した。
 わかってはいた。
 ニュースでは、もう、問題の農家が一家心中、と、流れているはずなのだ。
 おそるおそるながら、確認した新聞にだって、急に萎縮したような論調で……スペースも小さくなり、事件の続報として載っていた。
 そんなニュースや、地域の噂話を。
 親戚たちは、とっくに耳に入れてるはずなのだ。
 農機のローンの保証人になってくれてた人もいた――ならば、うちがこの事態で返済をできなくなることによって、まわって来る回収を心配して、情報を当然チェックしていただろうし。
 思いやりのない意地の悪い親戚だっている――ニュースに基づき、父さんと母さんを、外野と一緒に責め立ててる奴らだっていただろう。この大不祥事の源である一家と親戚関係、というだけで、自分たちにとばっちりが来るんじゃないかと腹を立てて。
 なのに。
 電話をかける前に。既に、わかっていることとしては。
 死亡をもう知っているはずなのに……誰からもまだ、『葬儀はいつだ』と尋ねる連絡は、来ていない。
 だから覚悟を、腹の底に、忘れず決めておく気持ち。そんな予防線を張りながら、受話器を上げた。
 父さんと母さんは、見合い結婚だった。
 こんな田舎だし、珍しくもない。もちろん恋愛結婚だっているけれど、多分いまだにそっちの方が少ない。
 結婚適齢期にさしかかって、予定がまだないようであれば、いやおうなく親なんかが勝手に見合いの段取りをして。よっぽど変わり者でもなければ……その流れを拒否できず、勧められるがままに家庭を持つ。
 時代が昔であればあるほど、そんなケースが圧倒的だ。
 そのスタンダードな型どおり、父さんも母さんも、お互いこの土地の出身で。
 則して、父方、母方とも親戚は、だいたい、この林檎栽培の地に広がっていて、だから。
 ――多大な迷惑をかけられた、とでも、親戚たちは認識しているのだろう。
 生返事とでも形容したくなってしまう。
 冷たい……絶縁、と体言するような、短い返答ばかり、かえってきた。
 ――日本の農産システムを揺るがすわけにはいかないと。
 この世のすべての人に。
 貧乏くじを押し付けられたのだという現実を、察しているはずなのに。
 昔は家族だったはずなのに、今も身内なのに。
 どうしてちゃんと信じてくれてないんだ。
 あの騒ぎの中、味方を探す父さん母さんから、事情を釈明されたはずだろう、と、喉を裂いて、さらけだしたくなる。
 溜まっていくやりきれなさは、押し殺すしかなく。
 母さんが作り、電話のそばにぶらさげてあった電話帳のリストを。とにかく下まで進めていく。
 とにかく、なるべく沢山の人に、参列してほしかったのだ。
 近隣からの出席が、まるで望めないだけに。どれだけ迷惑そうに応対されても、全滅に断られていっても、リストの親戚、全部に電話しきるまでは、やめられなかった。
 どうしてだろう。
 あの日、電気をつけるまで。ぶらさがっていた六つもの靴下を見せつけられるまで。
 死体なんてどうでもいいものだと思っていた。
 夏のクソ暑い日に、墓の草むしりに行く父さんを、
『わざわざこの真夏に。熱中症になりに行くのかよ』
 と、蔑んだ目ですら眺めていたのに。
 まだ、死がまるで実感できない年齢、のせいもあって。心底、そう思っていた。
『おれ死んだら、ホント墓とかいらない、焼いてもらって、……灰を海にまくとかもウザイ、だいたい海、遠いじゃんか。木の根っこにでも埋めてもらえれば』
 ……でも死んだのが親なら、ありえない妹なら。まるで違う。まるで違った。
 集まられ、惜しまれて、そういう空気に守ってもらいながら、せめて送り出したい。
 こんな、人の悪意や冷遇にだけ、晒されて行くなんて。
 だってあんなに誠実で、馬鹿みたいに真面目だった人達なんだ。
 誰からも評価されてたって、おかしくない人達だった。
 親戚一同、近隣一同に。優しく見守られながら送られるのが。
 当たり前だったような人達なんだよ。
 ぬれぎぬ着せられて、絶望のなか死んでいって。
 それでもまだ、やり足りないって、憎々しいって、黙殺されたまま焼かれていくなんて。
 そんなのありえないだろう。
 折れない狂信だけを支えに、プッシュを続ける。
 たとえば、身内中の身内である、親ならば。
 おれにとっての、おじいちゃんとおばあちゃん……。
 父さんと母さんの『親』だけは――。
 親なんだから、来てくれるはずだって思った。
 父方の祖母、と、母方の祖父が、両家一人ずつ、もう亡くなってたけど。
 父の父、母の母、それだけは絶対だって。
 生きているなら間違いなく、愛する子どものとこに。なんで先に死ぬようなことになったんだと、駆けつけてきてくれる、泣いてくれるはずだって。
 けど、一人暮らしのはずの祖父の家にかけたら、女の声で、誰か出た。
 高校生の頃、誕生日や、敬老の日にかける電話に、ちゃんとおれも出ていたけれど、女が出たり、背後で女の声がしたりなんてこと、なかった。
 初めてことに動揺しながら、こちらの身元を名乗ったら……。
 祖父の面倒を、子どもたちの中でもメインでみている次男――父さんの弟、の嫁さんで。
 つまりおれにとっては、叔母さんで。
『おじいちゃんは入院してて、とても、外出できる状態じゃないの。その入院の世話で、私も、申し訳ないけど……。……主人はね、仕事の都合をつけられるかどうかがね。もしかしたら、欠席ということになってしまうかも……。ごめんね』
 そうやって、やんわり、全てを拒絶されて。
 おじいちゃん、とは。
 直接話すこともできなかった。
 入院が本当なのかどうかだってわからない。
 それに『もしかしたら』という言い回しにしてはいたけど。叔父さんは、絶対に来る気はない。
 ごめんね、は、来ないからこその付け足しだ。
 恨まれるのだけを防ごうと。そんな響きが、傷つけられるほど、香った。
 灰色のベールに阻まれた。そんな感じだった。
 その当時は。
 信じられない、そう呆然として終わりだった。
 親が子どもを見捨てるなんて。
 いくら年老いてるからって、どれだけ具合が悪くったって。
 生きてるんだから駆けつけるくらいできるだろう。
 こんなことになった息子に、馳せ参じてやれないんなら。
 そんなら、生きてる価値なんてあるのかよ、今すぐ死んだって一緒だよ、と。罵りが吹き巻いた。
 秋実を見捨てられただけあって。
 子どもと紙一重なほどに、若かったのだ。
 それから十年、アルバイトで食いつなぐうち、世間に揉まれ、嫌々ながらわかるようになった。
 叔父さんは、地元の食品加工会社に勤めてた。原料となるのは野菜や肉で、だから当然――地元農業と密接な関係があったはずで。周囲の監視の目を、この上なく気にしていたはずで。
 おじいちゃんは、老朽化の激しい……昔は本家だった家は手放して。同じ市内の、雪かきは管理会社にしてもらえる、小さい部屋のマンションに移ってて。
 近所に住んでいる叔父さんの、助けの手を、折々につれ借りて、暮らしていた。
 その、自分の息子からの、庇護の手は。
 長年の兼業農家で痛めた体には、必須だったって。
 そして息子の世代ですらよくわからない農薬制度改革――ポジティブリスト制度だの、禁止農薬の種類だの、違反すると世間からどれだけ罵倒されるのか、だの。
 そんな『新しくて複雑で』『難しい』『わずらわしい』事に。もう、柔らかく頭が働くはずがなく。
 どんな対応するのが最善なのか、って自分で判断するのは、とても、難しかったんだって。
 愛情面でも、次男と長男の間に、はさまれてしまって。
 今、面倒を近くみてくれている子どもの方へと……日和見――になって。
 選択はできないままに。
 叔父さんの説得に、耳を傾けるうち、時だけは流れてしまって。結果的には父さんを見捨てることになった――。
 ……葬儀すらも、叔父さんの意向に沿う形で、欠席することになったんだろうって。
 わかりたくもない、そんな。
『人間の老い』って事実。
 家族が一家心中するまで、逃げ回ってたガキに、理解できるはずもない。
 ふらふらと茫然自失で、電話をするためにまた、受話器を再び上げることしか。その時、できなかった。
 寄せられる、にべもない断りと共に。
 どんどんとリストをたどる指は、下降していってしまう。
 順調なスピードすら伴って。
 そんな中。
 気づかって、あえて今まで連絡できなかったんだって……普通すぎる、温かい言葉をかけてくれる人もいた。
 そうなんだろうなと、こちらも心から信じられたんだ。
 なんだか、困り果ててる様子のような、まるで力の無い、声だったから。
 突然の大きすぎる悲しみを、どこにどう持っていけばいいのかわからない、そういう……。自分とおんなじ、ショックの渦中にある。
『当事者』ならではの声音。
 その人は、農協が農薬をセールスしてきた経緯だって、把握していた。
 よかれと思って使ったのよね新しい農薬を、って。電話で何時間も説明してくれたから、ちゃんと知ってるって。話してくれて。
 ……やっぱり、父さん母さんは。力の続く限りは。親戚達にだって主張していたんだと、わかる証言だった。
 大変だったね、今から行くからね。お母さんも連れていくからね。
 そう、挫けてしまいそうなほど、溶けてしまうような言葉をかけてくれたのは、母さんの姉にあたる人。
 母方の伯母さんで。
 おれにとってのおばあちゃん、母さんの母さん――も連れてきてくれるって。約束してくれた。
 けどリストの最後まで、指が辿りついてしまった時。
 出席をとりつけられていたのは。
 その、たった二人だけだった。

 結局、昨日の留守中には来ていなかった業者を、昼前に迎え入れ。花や遺影やレンタルのぼんぼりが、少しは人並みに飾られた。
 次いでやって来たのは、三人の体。
 死亡診断書に付随してしか、遺体は動かせないそうで……横たえ終えるなり、すぐに、「ではお返しします」と、忙しく診断書を渡されたが。そんな説明を受け、書類を渡されている最中も、目は、帰ってきたばかりの家族に釘付けだった。
 最後に見たときより、ますます白い顔になったような、両親と秋実。
 三人ともが、眠るのとは明らかに違う様子で、まさに川の字に並べられている。
 わかっていたはずの現実なのに。
 すぐに業者が去ってしまった後、一人、あらためて壮絶なショックにがんじがらめになる。
 居間を占領しきってしまう、親と子ども、三つもの布団――。
 自分自身さえ、別の世界へ強制的に引っ張っていかれそうな、あんまりな光景。
 発見時とは違う、窓からのまばゆい光溢れる、白々とした室内で。
 正座して家族のそばに付いていれば。
 胃や心臓をかきだしたくなるような、妙な……もがくほど『醒めたい』気持ちが襲ってきた。
 その場から逃げ出すなんてとんでもないから、あいかわらず正座したまま、どうしようも、なかったけれど。
 生きて暮らしてきた家で、こんな明々とした昼間なのに。
 三人ともしゃべらないし、立ちあがらない、咳とかもしない――ひたすら不可解な空間で。
 悪い夢に迷いこんだ、そうとしか、心は認識できない、みたいだった。
 あきらかに、もう、眠っている、とは違ってきた……。
 弾力を失ってて、ふれると水気が浮かんでくるような、感触の肌が、やっぱり死を感じさせてきても。
 布団をめくれば、特に秋実は、あちこち損傷しているんだってわかっていても。
 気づけば、ジッと見つめてしまって。次にハッとした刻には、長い時間がたっている。
 誰かと、話すこともできないから。
 たった一人、じんじんと精神はやられていく。
 救いにはならないけど、時の流れだけは速くて。
 あっというまに夜が来た。

 通夜は、出せるお布施が少ないこともあって……坊主は来ない。読経は葬儀の日だけの予定になっている。
 あるべきはずの、故人の思い出を語らう声、も聞こえてくることはない。
 親戚は今朝の連絡で、今夜が通夜だと把握している。だけど『行けないかもしれない』はやっぱり、体のいい断り以外の何でもなく。
 葬儀への出席を約束してくれた、おばあちゃんと伯母さんも、体調のよくないおばあちゃんの、薬なんかの支度があるそうだから、明日にならないと来れない。
 線香を絶やさないことだけが、かろうじて型どおりの、ひたすら無音の一夜。
 じっとりと恨みがつのる、孤独で削られていくような夜に。
 何度も予想してしまったのは、やっぱり……夜が明けた後の事だった。
 きっと。この孤独な通夜が、葬式でも繰り返されてしまうことになるんだろう。
 近隣どころか身内にさえ、黙殺されているような参列状態になる。
 惨めさを、再確認することになるだけ。おそらくそうなってしまう。
 ……一体、やることに、どれだけの意味がある葬儀なのか。
 薄々以上に元々、予想していたことだった。
 後ろ指をさされ、嘲笑をあびることになるだけかもしれないって。
 知っていながら、それでも葬儀だけは、常識通りにやっておきたかった、どうしても。
 だって、やましいことなど、一切ないんだから。
 堂々と開かなきゃおかしいんだ。
 無罪だったと世間に向けて言い放つ。その最初の行動でもあるんだって。

 通夜が明け。昼に近づいていくにつれ……むなしいとわかっていても、神経を、期待で張っていってしまう。耳が、人の気配を探してしまう。
 それでも、昼前にはようやく、諦めがついた。
 門に、葬儀会社の人間に持ってきてもらった忌中札は、ちゃんと。望み薄ながら、丸一日は貼ってあったけれど。
 弔問に訪れる人は、やはり全くなく。
 ……やっぱり、肉親の身内、たった三人で送るしかないのだ。
 見た目は、本当、咎人そのものの葬儀になってしまう。
 ……つい先日まで、全然、意義を感じていなかったモノだ。
 うっとうしい、面倒くさいだけの、古い人間達の趣味行事だって。
 じーさんばーさんの独壇場、若い奴はつきあわされてるだけ、田舎だから縁の薄いとこにも引っぱり出されちゃって、そのあおり、つきあいで出席させられている自分はかわいそう。
 そんな捉え方をしていた、葬式っていうもの。
 その出席者を。恋人よりも待ち望むことになるなんて、思ってもいなかった。
 この惨めさを、少しでもまぎらわせてくれるなら。
『味方』として参列してくれるなら。
 一番憎い、農協の人間が、顔を出してきたって。
 今だけはあがめるのに。

 昼の葬儀前、母方の伯母さんと、よろよろと歩ける状態の祖母だけが、予定通りに到着してくれて。
 並べておいた座布団を勧めながら……たった三人分しか埋まらない座布団――あんまりな光景に、わかっていても打ちのめされる。
 遺体を三人分も寝かせた時と、同種の、視覚から流しこまれるショック。
 閑散とか、淋しいとか、そういう形容を超えた……迫害をひしひしと突きつけられてしまう状況。
 先祖からの父方の墓がある寺の、坊主すら。
 呼ばれた以上はやって来たけれど、身の置き所がない、というような顔つきで、開始時刻の直前に、滑りこむようにやって来た。
 他顧客――檀家が多い近隣の手前、体裁が悪いのだろう。早く帰りたいという気配すら漂わせて。
 お経はちゃんと、短縮とかはなしで、上げてくれたと思う。けどそれだけだった。火葬場にも、予定が詰まっているという、疑ってしまう理由で、付いて来てはくれなかった。
 伯母さんと、おばあちゃんは……できれば泊まっていく、という予定だったけど。
 来る旅路での疲れ、それなりに長時間の葬儀、が、負担になったんだろう。一見しただけでも、明らかにフラフラな感じに、おばあちゃんの様子がなってきて……。
 おばあちゃんの体調不良は、数年前からずっとだったから、さすがに疑えない。
 心細くとも、もっと居てくれ、とは言えなかった。
 ……それでも、参列者のいない、あまりに哀れな葬儀に、二人とも心を痛めてくれたらしい。
 夕方、体調の悪化が限界まできたおばあちゃんが、ぐったりと舟を漕ぎだすまで、ねばって居てくれた。
 帰る時も、家の前の道路。
 後ろ髪を引かれるように振り返り、振り返り、タクシーに乗っていって。
 その心の伴った仕草には、随分、救われた。

 そんななりゆきで、やっぱり、一人きりに戻った、葬式の晩。
 風の音すらしない深夜に、玄関チャイムを鳴らす人がいた。
 ついにイヤガラセか、って、警戒しながら出てみると……。
 ある意味、予想どおり。
 近隣の人間が一人、玄関灯を浴びて、ぽつり、立っていた。
 ……相手によっては怒鳴りつけてやろうと思って、吸い込んでいた自分の呼吸を。
 思わず、ふ、と雲散させてしまった。
 そうしてしまう程度には、気を許した人物だったのだ。そこにいたのは。
 同じく林檎農家をしている、隣のおじさん。
 もちろん家族ぐるみで親しくしていた。父さんと兄弟のようにだって、自分の目には映っていた。
 幾つになっても、背をとっくに追い抜いても。おまえのおむつを替えてやったんだぞって、くだらない自慢をしてくるのが、うっとうしかった。けど嫌えるわけもなかった、馴染んだ人物。
 今回のことで、……この一家心中という結末からし、て、味方にはなってくれなかったはずだけど。
 多分、声高に責めはしてこなかっただろう……長い物には巻かれろという態度で、息を潜めていただろうけど。
 それだけではあっただろうと、そんな度合いに少しばかりは、信じられる人。
 ひょっとこ男にそっくりの赤ら顔を、今は、心なしか白くさせ、
「上げてもらっても、いが」
 ボソボソと、家に上げてもらう許可を求めてくる。
 言葉をぶつけられる前から、責められ、殴られたかのような雰囲気を纏い。
 知っている我が物顔の図々しさに、似合いもしない。
 今までの関係が、全て崩壊したことを意味する、悲しい殊勝さ。

 暗黙の了解で、仏前に案内する。
 寡黙なままに正座し、線香をあげだした背中を、黙って眺めていたら……。
 ――ずいぶん差がついたな、と、唐突に思った。
 既に、あの小さい箱へ、軽くなって入ってしまってる父さんと。
 落ちこんだ風ではあっても、まだまだ、人の形をし。生きているおじさんじゃあ。
 もはや比べようもない落差に。
 父さんが失ったものを、いや、『命まで全て』を失ったんだと、思い知る。
 それと同時に。
 人間一体とは比べものにならない、あの小さな桐の木箱に。
 死なせて、焼いて、閉じこめてしまった。
 あらためてその事実を突きつけられて、目眩がした。
 ――早く焼いてしまいたかったんだけど。
 もげる前に、腐る前に。
 だから骨を拾った昼間は、むしろ安心の方が強かったのに。
 あらためて、もう……蘇るはずのない所へ濃縮してしまったんだと、認識したら。
 さらに新たな罪を重ねたような気がしてきて、ふわふわと、上空へ引っ張っていかれるような……現実との乖離感がおそってきた。
 宙に浮いていく錯覚におそわれていると。
 静かに、仏前に手を合わせていたおじさんが。
 思い切るように、背筋をピンと正した後。
 いきなり、正座のままぐるりと半回転して。こちらに、真正面から向き直った。
 驚き、相手の表情を見ようとしたが、そのヒマもなく。
 拳にした両手を、ゴツと、強く畳につかれて。
 ……べったりと、地にすりつくような土下座された。
「すまね。どれだげ言っても足りねが――すまね」
 そう重い声で告げ、それから。
 苦しそうに話は始まった。
「あの農薬。使ってた農家は……農薬の取り締まりが厳しぐのる、二、三年前までは。けっこうあったらしい。おれだって、噂で位は、聞いたごどが、あったんだ。『魔法の薬』だって。どうしようもなくなった時は、それさ、頼れって。諦めるしかね、状態でも。魔法みたいさ、ぐつがえしてぐれる、って。ヤバい農薬ののは――誰でも、わかってたけど。ちょっど使っても、ばれねっていう、評判で。おれも、いざどいう時は、頼るがもしれね。だから、ずっど、長年、覚えてたんだ」
 聞かされるのは、地元の……農民のみが知る、後ろめたい内情。
 助けの手を、最後まで差しのべてやれなかった。きっとせめてもの懺悔。
「なまじ、『より良いものを』って誇りを持って、栽培暦三十年を過ごしてきた、おまえの親父さんは。そういう薬からは遠い場所さ、いた。それで皆……。親父さんはそういう人だばて、わかってるから。こういうやましい薬の噂は、怒られるって、耳さ入れようとしなかった」
 そんな潔癖ですらある、父さんの下に。
 農協という信頼しきった所を経由して……警戒など一度も意識もしないまま、すんなり手元へ来てしまったのだ。
 見た目なんか、他の、安全な農薬と、まるで同じ。
 真っ白に精製された粉。
「だから、撒布しても。そのはっきりしすぎた効果さ驚いても、わからなかったんだ。疑いすら浮上しなかった。撒いた時の効果で、ピンと疑いがくることも、なかったんだ。――もしかしたら『魔法の薬』なんじゃないかっていう」
 ドラッグを連想する。
 大麻、LSD、MDMA、そういう、都会の香りのする、お洒落にすら思えるような、違法の嗜好品。
 受験をやっと終え、春からの学生生活を、希望に溢れて思い描いてた。高校三年生の頃。
 東京の大学に行くのだから、あるいは、そういうドラッグを体験することもあるのかと。
 怖いような期待するような、相反する感情を、同量で抱いてた。
 ……結局、バイトに明け暮れる、飲み会にも最低限しか参加しない、田舎出身の学生には、縁がなく。
 未だに無知のまま。
 その手に入れ方も、見た目も、匂いも、見当も付かない。
 だから、もし他の薬だ、抗うつ薬だ、とでも偽って……そういうドラッグを握らされたら、おれも信じてしまうのだろう。
 そんな状況と同じくらい。父さんは、魔法の薬、に対して、無知だったんだ。
 手に入れさせられてしまったそれを、残酷に、信じきっていた。
 毒だとは思いもしなかった。
 そうだ無罪だからこそ。
 撒いたんだ、よりによって、あの――人生をこめた畑へ……。
「使い続けてしまったところからも、おまえの親父さんが騙されただけなのは、わかる。いい薬が開発されたもんだばて、ほんと信じてしまったんだ。禁止のもんだって、検査をおそれなくちゃいけないもんだって、知っていたなら。馬鹿正直に、普通に出荷のんて……。しなかったはずのんだ。撒布時期も濃度も調整して。農薬検査のゆるいルートさ、直売で卸すなりなんなり。ベテランなんだからいくらでも。わざとだったんなら、調整できたはずだ」
 農薬の専門的な知識はないけれど、農家には『実地の知恵』というものが培われている。
 その蓄積した知恵の中で。
 農薬検査が、結果的に『零』で終わる流通ルートが、現代にだってあることは――おれですら知っているのだ。
「だから、どっかがあの農薬でバレたらしいぞって、最初さ、駆け巡ったどき。きっと新米か、限度知らない奴か……とにかくベテランじゃないだろうって、思った。親父さんだばてわかった時は、驚いて――。ああもしかしたら、って、寒気が走ったんだ。そういや親父さんは。『魔法の薬』のごどさ、疎かった、って。親父さんが必死さ、事情を話しだした時。やっぱりそうだったんだって思った。きっと、おれだけじゃない……この土地の、林檎の農家の奴、みんな。弁解なんかじゃない、言ってることがそのまま真相なんだって。うっすら、見当ついたはずのんだ。でも誰も。そんな肯定、口に出せない、言い出せなかった。新聞にもテレビにも、少しも洩れていかなかった。テレビ取材のインタビューのマイク、あっちこっちで向けきやれたけど、おれも、とても言えなかった、おれも」
 ――恐ろしかったんだ。
 こごえる根雪に怯えるよう、実際に震えすらして。
 一言、しみださせた。
「おまえの親父さんの言い分、肯定しちまったら。『気を抜いたら、すぐ、そんな怪しい農薬がまぎれこんでしまう、危険な産地』なんだって、ごどさ、のる。ばれないような限定的な使用で、禁止農薬さ頼るのが……慣例にのてる。そんな、悪い農家ばっかりな、産地なんだって。そういうイメージ、ニュースで繰り返して、全国さ宣伝することに他ならない。……これ以上、風評を増やすなんて……。被害を大きぐ、長引かせるなんて――とても……。おぞましくて……」
『違法農薬を農協が推奨している地域』という宣伝ならば。
 一件違反が出た、ということから波及する風評被害とは。比べることもできない規模。
 何年で立ち直れるか、予測すらつかない。
「信じなかったわけじゃない、皆で、打ち合わせすらしないまんま、信じてないふりを貫くことさ、したんだ。どれだけ真実でも、誰も、認めてやることができなかった。産地の為に、結託して、そんな酷い事をしてしまった。しきってしまった。『そうだろうな』って知ってて、『そんなわけがないだろう、責任を逃れる気か』って、よってたかって批難すらしてた」
 そうドロドロと吐露して、むせび泣く。
「おれも、おれも同じだ。おまえの家、責めたりはしなかった、黙ってただけだった――。なんて、やっぱり言い訳のんだ。おまえ親父さんのために、おまえの家族のために。言わなきゃいけないのに、言えなかった。おまえに殺されるかもしれないって、思って、それでも行かなきゃって、今夜、ここさ来ることはできたのに。なのに。――――明日も、おれは言えそうにない。天秤にかけてすまうんだ。おまえ達と――故郷と仕事と家族……おれの全部、どを。これ……こんな……。とても、許してほし、なんてたのめね……――」
 土下座のまま、更に深く、顎を沈めて、うつむいていく。
「ほんとに……。……なんでこうのたんだ」
 息さえ、涙と鼻水の濁音で詰まらせ、泣き崩れはじめている。
 号泣している他人、というもの、きっと初めて目にしてる。
「いきなり世間が厳しぐのてきて、昭和のやり方が通じなく、のて。どうすればいいのか、わがらないんだ。林檎のごどだげ考えて、むったど、働いてきたがきや。それでよかったがきや。やて来れた。……いまさら難しいごど細かぐ考えろって、言われたって。ニワトリさ、飛べって……言ってるようなものなのに」
 畳に、ぼた、ばたと、涙を落としていく音が。混ざりながらの懺悔。
 ……隣のおじさんに。
 重要なはずのこと。伝えられているのに。
 返事の一言も返さず。
 どころか。
 どうしてか、集中しきれずに。
 土下座しているおじさんの、ウエスト回りのサイズが合ってない、キツそうな喪服が。パツンと張り詰めてやぶけそうになっている――。
 そんなどうでもいいことへ。
 いつのまにか、注目していた。自分に気がついて。
 そんな自分の精神の、異様さにうろたえ。
 視界までうろついて、あげく、仏壇前のテーブル……並んだ骨壷入りの小箱を、また見ていた。
 並ぶのは、おそろいのシンプルな桐の木箱二つ。
 追い討ちにもう一つ、淡いピンクの布張りの、一回り小さな木箱――。
 たぶん、今。
『保身に走ったんだよおれも』って。
 要約しちゃば、そういう意味の事。告白されたんだ。なのに。
 まるで燃え盛るものがなかった。
 秋実のノートが、押入れからこぼれ落ちてきた。通夜の喪服を探しててそうなった、あの瞬間のようには。
 怒りに、着火してくれない。
 まるで絵空事、他人事。
 さっきまでより酷く、今までで最大に。
 ようするに、乖離している、ようだった。
 まるで遠くからぼやけて響く、除夜の鐘の音を、捉えようとして、捉えきれない。
 四散して、怒りが、集められない。
 耳が聞こえていても、脳が。ぼんやりと麻痺し、機能していなかったのだった。
 えぐりとられるように失って。
 でも、とにかく葬儀へと、事務処理に忙殺されることで。なりゆきに平静を少し、取り戻したような気がしていても。
 今日、ついに灰にしてしまったことで。
 もう、もげたり腐ったりしないけれど――絶対に蘇りも宿りもしないんだ、いまさらそう悟って。
 ショックを新たに打ち込まれてしまっていた。
 そんな魂のぬけている、体では。

 結果的に、木偶の坊のように足を畳んで、座っているだけで。
 人形さながらの無感情さで、土下座している人間を、ぼやっと見つめていた、その時間。
 ……後からならわかる。
 家族全員に置いていかれるまで。
 気の済むまで、一生悔やむことになるまで、逃げまくった後だっていうのに。
 しょうこりもなく、その夜。
 また心が逃げていた。
 いくら灰にしたことがショックでも。
 もう腐っていく体すらなくなったんだと、人の形をしていないんだと、……たかが、そんな『現象』で。
 心を折っている、場合では、なかった。
 それでは、その先とてもとても、戦っていくことはできなかった、っていうのに。
 親しかったおじさんの、心の底からの懺悔すらも。
 裏返せば、『それでもおまえ達の擁護はできないよ』と、最後通牒されたに等しいものだった、のだ。
 林檎農家や、林檎に携わる人で埋め尽くされた、この産地。
 そんな産地全体の、人の心――。
 実体もない、そんな強力な……ものと。
 農協という巨大組織が、一体になった時。
 そうして一つの事実を覆い隠そうとした、時。
 勝てるのか。
 勝つ以前に。
『戦い』として、相手にされるか。始められるのか。
 それすらおぼつかない現実が、ひしひしと、焼けた鉄を押しつけられていく、みたいに、肉に、迫ってきてたんだ。
 一族すら、隣人すら、親すら。
 殺しはしないが、『見殺し』にしてくんだ、って。
 ……それでも、既に。
 怒りを捨てられないなら、逃れようもなく。
 そんな『戦い』が。
 その夜にはとっくに、始まっていた、っていうのに。

 ◆

 時間の経過、あるいは惰性、以外の……何物でもなく。
 そのまま葬儀一連は、済んでしまい。
 最後の来客だったおじさんが帰って、数時間後の朝には、もう。
 朝一番に来た葬儀社に、死者を送るもの全部、引き取られていってしまった。
 唯一、桜色で女物らしかった、秋実や母さんに……少しはふさわしく華やかだった、レンタルのぼんぼりも。そばから消え去ってしまった。
 線香の匂いは濃くとも。
 遺影と、戒名の書かれた白木の位牌。買い取った花、くらいしか残っていない、寂寥とした中。
 ……なんとか記憶から掘り起こし、物置から。
 昔は使ってた覚えのある『供え物台』というものを、ひっぱりだしてきて。
 ありったけの家中の菓子、そうめんなどの乾物も、かき集めてきて、せめて盛る。
 正座して向き合って、配置していこうとするけど――その供え物台は古い家具で、だから想定されてる身長が古すぎて……自分では、やりにくかった。
 母さんの正座の背丈にはぴったりだったのに。そのしっくりした後ろ姿を、記憶から掘り起こせたのに――。
 ちぐはぐに腰を屈めて、とりあえずの捧げ物を終え。
 位牌の前、ロウソクにもたもたと着火し、慣れない手つきで、線香立へ、新しく長い線香を立てる。
 ……こうなるまで、こんな信心の証、みたいな事、自分でやったことがなかった。
 母さんに促されて、手を合わせるのが、せいぜいだった。
 そうして今も、死を確認する作業みたいで……厭う気持ちがあるからか。
 もう既に、何度も繰り返した手順なのに。ちっとも上達しなかった。
 線香くらいしか、まともな弔いがないのだから。もし絶やしてしまうような事態になれば。それこそ自分が、追いつめられてしまうのに。
 線香の匂いが、ずっと鼻をくすぐり。
 強制的に気を落ち着けてくるようで。
 泣き喚きたい、叫び散らしたい、でも、そのどれもが発露にまで至らない。
 鬱に沈んでいる代わり、狂いそうにもならない……停滞したゆるい時空に、正座していると。
 ふと。
 自分の座っている位置からだろう。
 連想を、した。
 ……ちょうど、ここに、そういえば。
『布団を敷いていたよな』って。
 そう思った時だけは。
 なにか心が、懐かしく、やわく……拠り所によったように瞬間、和らいでくれて。
 その一度だけじゃなく。
 おままごとのようなサイズの供え物の膳を持ち、台所から居間に続く、藍染ののれんを、くぐった瞬間。
 トイレから帰ってきて、廊下から、居間の香りに包まれる瞬間。
 ――ももちゃん。
 妹が呼んでた呼び方で、その名前が。
 つられて面影が、よぎり続けてしまう。
 妹と同じくらいの背丈の、全く似てない雰囲気の、たいていショートカットだった女の子。
 どうして折々につけ、その名前を思ってしまうのか。
 見当はつく。
 小学生の頃は毎年の夏休みに、恒例で何日か『お泊り』に来ていた。
 この居間で、秋実と同じ布団に、小さな頭を並べて二人して。どうせ夜ふかししたんだろう、朝寝坊していた。
 朝ごはんの匂いと、朝っぱらからの暑さ、うるさいセミの声に包まれながら、眺めてた。
 軽くももちゃんの兄貴にも、なった気分でいた。毎年のいくつかの朝。
 よく知っている近所の子。
 妹の唯一の親友。
 ずっとずっと小さな頃には。その見上げてくるきらめく目から、あからさまに憧れや好意を、こっちへ放ってきていた。
『お嫁さんになってあげてもいいよぅー』と、なぜか上から目線で、言われたことすらある。
 ……だいぶ年上の、親友の兄貴、優しくしてくれる近所のお兄ちゃん、ってとこだもんな。
 初恋の対象になってんだろう、と。微笑ましく、くすぐったく思っていた。
 それほど身近だった関係。
 連想した時は、いや、無理だ、と、思い切れたけど。
 何か少しは腹に入れようと、皿を持てば、昔これにおやつを入れてあげた、とか。
 供え物の追加になるものを、押し入れから探そうとしては、このタオルケットはお気に入りだった、とか。
 そしてなにより。
 何の罪もなかった、少しもなすりつけられるべきじゃなかった、秋実の。
 一回り小さな……色づいた小箱と、それに寄り添わせた、秋実に一番似合うと思って、白ばかりにしてもらった小菊、を目に映すたびに。
 もはや頭から離れない。
 半日も経たないうちに、思いは、降り積もってしまった。
 ……妹の、実質たった一人の親友なのだ。
 そして『地域の人間』であっても、『大人』じゃない。
 まだ、子どもである女の子だ。
 大人ほど、地域にもたらされた被害の重篤さをわかってはいず。
 罪の重さを、正確に量れずにいるはずで。
 社会的制裁である……排斥すべき、という圧力も、おそらくそれほどには察知していない。
 なにより、子どもの純粋さで。
 日々の糧を生む、つまらなそうな仕事と金、なんかより。
 友情のほうが重いって、そう、きっと。
 比べ物にならないって、思ってくれているはずの。
 そんな価値観の……年齢だ。
 そして、あわよくば――、つい最近まではまだ。
 初恋っぽかったお兄ちゃん、として、おれのことを捉えていた、はず。
 本能的にもわかってた。
 この人物に――『付け入る隙』がなくて、他の誰に、付け入る隙があるんだ、って。
 本物の親友に、ほんの一本の線香で、悼みを捧げてもらうことでさえ。
 どう考えたって、当たり前、であること、さえ。
 まるっきり、弱みや思い出に付け入るような、汚い戦略、で……勝算を練らなきゃ、もはや見いだせない希望なんだって。
 その情けなさや悲しみには。
 もう、目を向けてられない、かまっていられなかった。

 翌日、昼過ぎに家を出た。
 道脇にある、話し込みやすい木陰の下、待ち構える。
 この先にはももちゃんの家と、ほか数軒、くらいしかない、という地点。通学路を守る守らない以前に、帰ろうとするなら、絶対にここを通る。
 帰宅時間にはまだだいぶん早いはずの時間帯から、念入りに待ち伏せた。
 クソ田舎でも、当然、人通りはある――むしろ、雪かきをする、雪の下にある白菜を畑へ取りに行く、などで。日中はそれなりに、人影がよぎるものだ。
 眉をしかめて睨みつけながら通っていく人間に向けては、自分からも睨み返し。
 顔を確認した瞬間、はっと驚きを表情に浮かべ、小走りに駆け抜けていく人間には……こちらも渋い顔の反応を示すしかなく。
 そんな中でも。小学生のほんの低学年の二人組が、なんにも知らないのだろう、雪道を器用にキャーワーと追いかけっこをするようにはしゃいで、走り抜けていったのには、救われた。全くの無反応だったから。
 今の子どもたちは、単に、おれの顔を知らなかったのかもしれない、けども。
 やっぱり、子どもなら、わかってない、村八分が徹底していないのかもしれない。
 そんな数人をやり過ごした後、
『恥ずかしいことなんかしてないのだから』
 と、堂々と立っていた、これまでの待ち時間――。
 それで生じていたデメリット、に思い当たる。
 この辺では、中学生に携帯を持たすことは、あたりまえではない。
 やっぱり田舎の気風で、親や、教育に口を出す祖父母が、いい顔をしないのだ。
 そして都会の子どもたちのように、塾をはしごする過密スケジュールを生きているわけではないので、連絡を取りたければ自宅へ電話するか、それで捕まらなければ、いそうな場所へ、『遊びに行けばいいじゃない』と言われることになる。あるいは『明日でいいじゃない』と。
 当然、それじゃ面倒くさいと子どもたちは反発するわけだが、交渉は難航するのが普通だ。
 秋実はそもそも、反発するような子じゃなかったので、まだ携帯を持っていなくて。
 必然的に、ももちゃんが持っているかどうかは、わからなかった。
 秋実が電話で喋ってる、という事象で、察しようがなかったのだ。
 ……でも、もしも持っていて。
 この村ネットワークを介し、ももちゃんの親に『あいつが待ち伏せている』という情報がいってしまい。
 それで、ももちゃんの親が、『耳を貸すな』と、携帯経由でももちゃんに言い含めたとしたら。
 いや、もっと言えば、『迎えにいくまで別の場所で待っていろ』という手を打たれてしまえば。ももちゃんと直接、話をする機会が奪われる。
 その恐れから、手遅れながらも木の影へ、身を隠した。
 多分、その行動に意味はなかったんだろう。
 隠れた数分後に、待ち望んだ人影が見えてきた。
 秋実と同じ制服を、ダウンコートの端々からのぞかせて。
 秋実と同じくらいの身長で。だけど、髪型から雰囲気から、全然違う女の子。
 こっちに歩いてくる。その輪郭が、どんどん鮮明になっていく。
 前に家で見かけた時より、ショートカットは少しお洒落なデザインに。それもあってか、ずいぶん子どもを脱した容姿になっている。
 あと十歩ほどのタイミングで、木の幹から、道へと踏み出した。
 ……人が思わぬところから出てきたことに、単純に驚いて。
 ぽかん、と見上げてきた。そんな無防備な顔は、昔とどこが変わったのかわからず。
「百花ちゃん……」
 声をかけると。
 肩を硬直させ、息を飲んだ様子に、一変した。
 ……そんなに、警戒されるべき相手じゃない。
 何もおれは変わってない。
 幼なじみとも言える、兄がわりのまんまなんだよ。と。
 さぁっと胃の底からせり上がってきた、嫌な予感に彩られた数々の泣き言を。
 警鐘のように耳の後ろに響かせながら。
 ポケットから手を出し、腕をもちあげる。
 ももちゃんを促すように、指を、さしのべる。
「いっぺんだけでも、秋実に」
 ――会いに来て。
 そう、伝えきることすら。できなかった。
 停止させていた息を、はッと吸いこむなり。
 ももちゃんは、断片的に表してた、怯えきった表情を。ついに、顔いっぱいに広げた。
 そこからは、まるで、足元の地面が爆ぜたような、反応速度。
 跳ね上がるような足どりで、反転するような姿勢に、こちらから距離をとり。
 声をもう一度はかけられないスピードで。家めがけて、一直線に駆けていった。
 ――それはまるっきり、『穢れ』にふれる関わる、うつされることを。おそれる。
 崩れ落ちることすらできず、呆然と。
 伸ばしかけた指すら、マヌケに、そのままに。
 今あったことを、体いっぱいに、受け止めていた。
 依存に、甘えに。
 その裏にあった『見くびり』に。
 見事に、手酷く、断ち切られて。
 ――中学生だから、親に強く言いきかされて、盲目的に従ってるだけだ。
 ――また説得すれば、誤解をとけば、きっと。
 ――明らかに子どもで無罪な、秋実まで、嫌うはずはないんだから。
 ……そう楽な方へ逃げようとする頭を。
 なんとか冷静へ、残酷へと、ぐちょり、引き戻す。
 違う、あれは。
 本人の意思だったはずだ。
 走り去るあの横顔の、あの罪悪感には、見覚えがありすぎた。
 おとといの夜の『おじさん』と同じ種類。
 自分の手で、自分が大事にしていたはずのものを、握り殺す。
 おぞましい苦さと、しかしそれを支える、開き直りがあった。
 穢れとは何か、病気でもない、死霊でもない、なのに徹底的に接触を避けなければいけない、その原理を。
 地域限定の法律を、理解しているからこその反応だった。
 ああ、そういうの。
 どこかで、いつも。
 ――そうだ、生まれ育った、ここで、だよ。
 いつだって折々にふれて、見て、来た、はずだ。
 シングルマザーは、妾とその子どもって、普通に言われてた。
 葬儀屋は、人様の死で金むさぼってる卑しい奴らだって、肝心な時以外は白い目で見られてた。
「冬樹ちゃん、あそこの子ど、遊びさ行ぐの?……仲良いの?」
 って。
 近所の人に、普通に、声かけられたりしてたんだよ。
 明確な差別に昇格してしまうから、しつけとして禁止することはできない、頭から叱りつけることはできない。
 だけど不本意ですよって。
 そういうの、大人が皆。
 よってたかって、もやもやとかぶせてきたっけな。
 ただ、もう。
 いいも悪いも、新しいも古いも、正しいことだ誤っているも。もはや関係ない。
『ここで、生きていくのに、良く、ないよ』
 って。
 この土地での、自分の人生、遡ってパラパラめくっていけば、そんなシーンが多々、こびりついている。
『なんでそんなこと言うんだよ』
『別にそんなの関係ねーじゃん』
 そう反発して思いながらも、自分だって。
 よっぽど、その子ども本人と気が合う、とかでなければ。
 なんとなく距離を取る、疎遠になる、一歩か二歩引いた、気後れムードに。自然、もやもやと包まれていた。
 そんなの――村社会にしかありえない『迫害』だったんだ。
 仲の良さは、連帯感は。
『価値観にそぐわない者への排斥』あってこそ、成り立つんだって。
 自分は、昔から知ってたじゃないか。
 みんなそうやって、子どもの頃からそう、毎年、数滴ずつ、毒に慣らされていくような。
 鍛え方をされていたんじゃないか。
 初めての彼女をすぐさま近所が知ってたのは、若い男の性生活が正常かどうかを、見張っているからで。
 秋実の初潮で赤飯を炊かずにおかなかったのは、幼子が女の頭数に入ったかどうかを、把握したがる文化があるからで。
 ほのぼのした情けない笑い話に擬態してやがるけど――。
 そういうの既に、ここが一個の、統率された掟ある『組織』以外のなにものでもない事、証明してるって――。
 嗅ぎ取って、嫌ってたんだ。
 この閉塞感が、いかにも田舎だ、嫌だなぁって。
 こんなとこの一員として、いつのまにか、考え方とか、骨の髄までしみついちゃってる、教育されちゃってんだなぁって。
 自分が『よそもの』として、忌避されて無残に扱われることがなかったから。
 これまでは強く意識上に浮上させないでいられた。
 今までにだって……平和という平々凡々の包装紙の内側、ちゃんとあった。
 あたりまえに在ってきた。
 生まれ故郷である『日本の田舎』の、残虐な裏側。
 公平に偏見零に接してくれるものなんて。
 ……期待はどれだけ空しかったか。
 この集団の中で一粒だって、あってくれるはずなかった。
 鎖で繋がれたその連帯から、ただの穢れとして、はずれて、初めて。
 まだどこか、掌返しの底を知れずに、ぬくぬくとしているその顔に。
 手加減も親しみもなく、初期状態以下での鉄の掟を、ぶつけられた。
 仲間意識、肉親の情、隣人の気安さ、幼い友情、淡い初恋、全部。
 すべてが、いっせいに、根から燃え上がるように。
 猛々しく牙をむいてきたんだ。

 ◆

 夢遊病のようにふらついてしまう足どりを、叱咤しながら、帰路につく。
 帰りの道すがらも、行きと同じように、通りすがる人には、睨みつけられた。
 妹分の少女に裏切られたのと……見事に一致する。
 敵しかいない、と再認識させてくる情景。
 往路の様な、睨み返す気力もなく。
 反射的に、皮肉な自嘲がこみあげてきて、あえて逆らわずに嗤うつもりで――だけど、ヒクつく喉から、一つ、自分だけに聞こえる声量で洩れたのは。
 高いかすれた音程の、ごまかしようのない嗚咽だった。

 弱りきった態で、家のそばまで辿り着くと。
 雪かきで溜められた、道脇の雪山の影になっていたため、すぐには気づけなかったが。
 明らかに、うちの前に停まっている、一台の車があった。
 ……この車は何か。
 その車体を見つめながら、歩いていく。
 うちを訪ねてきたのだろう、あるいは監視か。それは間違いない。
 マスコミが、この責任をどう取るつもりだと、父さんにぶつけたような質問をしに、まだやって来たのか。
 あるいは農薬を売った農協が、口封じに来たか。
 それとも、風評被害で損失を出した農家が、責任を取れと叫びに来たのか。
 視線をあからさまに向けたまま、家の前で、いったん停止すると。
 カチャ、バン。カチャリ、バン。
 待ちかねたようなタイミングで、響き渡る音。
 重い車のドアが開けられ、そして閉められる音が、二連続。ふぞろいに、耳に届いて。
 ……目の前に立っていたのは、落ち着いたダークグレーの、品の良いストライプスーツを着た。ほとんどの銀髪な初老の男。
 警戒心が高まった状態で観察しているのに、第一印象が『紳士』だった。
 穏やかな顔立ちと、雰囲気を醸し出しているせいもあるだろうが……原因はスーツだと判断できる。
 父親のようなブルーカラーの農業従事者は、まず持っていない、仕立ての良いスーツ。
 少なくとも、おとといのおじさんのような、生地のそこかしこがテカテカと光っている、うらぶれた喪服とは、一線を画している。
 次いで、右側の運転席ドアから出て、こちらに回ってきたのだろう。ヘッドライトの方から、もう片方の人物が、回り込んできたのが目に入る。
 年配の男とは、二十は違いそうな。インテリ風のスクエアな銀縁めがねをかけた男。理数系な雰囲気を漂わせている。
 初老の男と同じく、抑えたグレーのスーツを着ている。
 ――こいつらは農家じゃない。
 一見して、そう思った。
 じゃあ、今訪ねてきそうな人間の種類は、あと二つ。
 マスコミか……農協か。
 マスコミなら、まさにハイエナ。
 死肉をむさぼりに来たようなものだ。
『お父さんが責任を取って自殺されたこと、どうお思いですか』
 なんて追い討ちをかけられたら、襲いかからない自信もない。
 だけど、これから先の事を考えれば。
 マスコミに、大っぴらに喧嘩を売ってはいけない、のだ。
 ニュースで広げられた汚名なら、ニュースで晴らすしかないから。
 農薬をうちに騙し売った、元凶の農協職員を、探して引きずり出すと――。
 父親の後を継いで。絶対に成し遂げると、決めているけれど。
 いざ、その農協職員に告白させる、となっても……おれ一人に懺悔させたって何にもならない。
 ならばマスコミに擦り寄らないと、おそらくどうしようもなかった。
 取り扱いやすい情報だけを意図的に流して、秋実達を死に追いやったマスコミに、どうして怒りもぶつけられなんだと、鬱積ばかりが溜まるけど――。
 濡れ衣を晴らす手段を、それ位しか。
 今の自分は、思いつけていない。
 ……だから、対応を決めかねながら、ただ立っていると。
「厚本冬樹くんですか」
 紳士風の男の方が、そう口火を切ってくる。
 頷くと、既に用意していたらしい名刺を、差し出してきた。
 受け取って、目を走らすと『青森県りんご協会、会長』という単語が、目に飛びこんでくる。
 ……半端な立ち位置を示す役職名に。
 つい、眉をしかめた。
 りんご協会というのは、生産者組織だ。
 林檎農家の寄り合いの、もっと大規模なもので……名前の示すとおり、青森県全体をまとめている。
 国に、林檎の値段が下がりすぎてるからなんとかしてくれ、と林檎農家を代表して交渉したり。こういう病気が流行ってるから皆気をつけろ、と会員に知らせたり、そういう活動をしている。
 うちも、会員だったはずだ。
 もちろん恨みのある相手なのだ。
 誰かを袋叩きにしたいと暴走する農家達を、止めてくれなかった。あるいは煽ったかもしれない会なのだから。
 だけど、恨みなら。
 既に、抱いていないものが、もはやほとんどない気がする。
 効き目の強い農薬を売ってくれと、要望し続けて、禁止農薬の流通を続けさせていた農家が憎い。
 地域の産業を守ろうとして、一家に罪を全部なすりつけて終えようとした住民だって憎い。
 いつもただ安く買って食うだけのくせに、マスコミに踊らされて、安易に、最低な農家、怪しい産地と、一斉に離れた国民だって憎い――。
 でもなにより第一に、群を抜いた鉄火色に、憎いのは。
 やっぱり、禁止農薬だと告げずに騙し売ってきた農協職員と――そんなものを商品としていた農協で。
 りんご協会というのは『なぜ守ってくれなかったんだ』と、『なぜあんな農薬がある現状を取り締まらなかった』と、憤りを喚き散らしたい相手ではあっても。
 相手の出方もわからない今。
 理性を捨てて、そう、できてしまうほどの。
 極悪、な相手ではない。
 ……望みは薄いが、一家心中という事態でようやく悔いて――無罪を証明するのに力を貸そう、と、申し出に来た可能性もあるのだから。
 現実的に見立てて、悔しいがその可能性は低いが。
 無罪の証明の、天秤の、向こう側にのっているのが。
 禁止農薬に頼る農家がいる地域、その禁止農薬を農協が流してやっている地域、の証明に、他ならないから――。
 とにかく。まだ怒りを隠して対応できるところの、所属の人間だ、と。自分自身に折り合いをつけて。
 ふと、隣のインテリっぽい男も、りんご協会の人間なのだろうかと、疑問に思う。
 秘書か何かなのだろうか。
 つい目線を、隣の四十歳くらいに見える男に、走らせてしまった。
 その視線の動きに気がついたのだろう、おそらく紹介でもしようと。会長は、口を半分、開きかけて。
 しかし、ためらった様に、閉じてしまった。そして、
「……まず、お線香を上げさせていただけますか」
 そう静かに求めてきた。
 一拍考えてしまってから――どうぞ、と、告げて。玄関を開けるために背を向けた。
 怒りを露にして対応できないとはいえ、決して、招き入れたいと思えるような、人間達でもなかったが。
 その行為を、断りようもない。
 これが――親族や、友人に囲まれての葬儀後だったなら。
 まともに、人間らしく、送られた後だったなら。
 あんた達だってどうせ、生贄に捧げた奴らの一員なんだろう、どのツラ下げて、と。門前払いにして。塩をぶちまけて。もしかしたら、そんなことも、できたのかもしれないけれど。
 何の用件で来たのか、わからないながらも――完全に敵にしかならないと、判定できるわけでもない相手から。
 悼む行動を捧げさせていただいてもいいですか、と、求められたら。
 粛々と招き入れるしかなかった。
 正座して線香一本、そして、手を合わせてもらうことが。
 心が伴っていようがいまいが、とりあえずはどうでもいいほど。
 こんなに貴重に、惜しく思えるなんて――。
 そんな古めかしい、年寄りみたいな価値観。ほんと、なかったのに。
 両親に、秋実に。
 そうしてくれる人達が。
 まさか赤の他人含めて、五人かそこらで終わりそうになるなんて――。
 改めて噛みしめさせられながら、カチ、と開錠した。

 儀礼的に、形だけ、という雰囲気を漂わせることもなく。
 両人とも時間をかけて、線香を上げていった。
 それを横目にしつつ、茶の準備をする。
 茶を出す必要なんてあんのか、と、忌々しくも思ったが。
 味方になる可能性があるという面を、拭いきれない相手なために……どう対応したらいいか、姿勢が揺らぎっぱなしだ。
 やがて、勧めた座布団に二人が座り。
 変則的な三角形に、三者共が落ち着き、本題が切り出されそうな気配になる。
「こちらは……」
 まず会長が、手先で示しながら。
 隣の、インテリ風の男の、紹介のために口を開き、
「…………」
 再びだ。消え入るように、口をつぐんでしまった。
 玄関先でも目にしたような、不自然なためらい。
 なんで、自分の名刺はすぐに出したくせに。
 隣の男の……正体……だけは、言いにくそうにするのか。
 さっぱり読めない相手の態度に、困惑し、無言でいると。
 会長は、いきなり飛躍した事を、
「農業を続けて……くれますか」
 おぞましい事を、尋ねてきた。
 とっさに、二の句が継げないまま。
 それでも筋肉が、勝手に攣られた。
 首を、ぶん、と横にしてしまった。
 こんな厭らしい土地、こんな恐ろしい職業、頼まれたって。
 もう見ること触れることが、只ひたすら――。
 敵意丸出しの、いや。
 殺気のこもった目、になったと思う、にらみつけた。
 ふざけてるのか。
 この状況で、未だに続く村八分の真っ只中で。
『違反農薬の汚染源な農家』の看板を背負って、畑を継いで、林檎を育てていく。
 そんな事できるような人間がいると思っているのか。
 ……どうやら、ただの確認だったんだろう。
 もっともだ、という反応速度で……だけども残念だ、とも滲ませるような、ノロノロと首を曲げる速度で、神妙に会長は頷いて。
 やや背後に座布団をずらして座っている、隣の若い男を、肩越しに振り向き。
「こちらは、名取先生といって。協会がお世話になっている司法書士の先生です」
 ようやく、そう紹介した。
 その職業名には、聞き覚えがあった。
 大学の、他学部の友人が。弁護士試験は難易度が高くてきついから、もうちょっと易しい、その職業を目指すと言っていた。
 どんなのなんだと聞いたら、
「ミニ弁護士って感じ? 法的な難しい書類を作るのがメインかな。裁判とかも、少額訴訟なんかのはやるしー」
 と、おおざっぱな説明を受けたことがある。
 しかし、弁護士のような人間を、この場に連れてきて……何がしたいのだろう、この会長は。
 責任を全て貴方がたに被せて、申し訳ないと。謝罪に来たのか、と……まとう雰囲気から、推測しだしていたのに。
「おたくの畑は、借地ですか」
 脈絡のない、ぶしつけな質問が。続いて会長から発せられて。
「…………」
 驚き、無言を貫くしかなかった。
 確かにうちの畑は、借地がほとんどだ。
 だけど一部の畑は持っているし。この家が建っている土地も、評価額はともかく財産で。どれだけ建物に価値がなくても持ち家ではあるのだ。
 いくら、たいしたことがないとはいえ。
 どれだけの財産があるかなんて、初対面の他人に話すわけもない、返事できるわけもない内容だった。
「スピードスプレーヤーなどの……。農具のローンは……? ありますか?」
 こちらの沈黙に、文句をつけることなく。
 とにかく伝えることだ、とでも言うように。相手は質問を重ねていく。
 意図がわからないながらも、渋々、この問いには、首を縦にした。
 さっきまでの、所有の土地なんかの、財産に関する質問とは、逆だったから。
 借金がどれだけあるかということは、恥ずかしいことでありこそすれ。
 狙われるのかも、と、警戒する内容ではない。
 農家用の農具……乗車して操作するような、大がかりな物は。
 そこらのホームセンターなんかで手に入る、人力で使うスコップや、ツルハシなんかとは世界が違い、長くローンが残って当然だ。
 そのローン年数たるや、高級車となんら変わらない。
 撒布のためのスピードスプレーヤーは確か、三〜四年前に買い替えたばかり。まだまだローンが残っている状態なはずだった。
「家屋土地と、ローン等の借金を比べたら……。ローンの方が多い状態、ということで……かまいませんか?」
 高い品格が薄れるほど、遠慮がちな声で、そう回答を促されて。
 ハッとした。
 ……この隣の、弁護士のような男を……連れてきた理由というのは。
「遺産放棄をしないと。これから先、風評被害を受けた全ての農家から、損害賠償の訴訟を起こされる可能性があります。遺産放棄とは、三箇月以内には済ませてしまわなければいけないもので……。畑も、家屋も……諦めてもらわなければなりませんが。どちらにせよ相続しても、先々、裁判で消えていくでしょう。そして、それで足りるわけもない……」
 ――善意だ。
 ようやく察して、同時に信じられてしまって。
 無言でいると……こちらが先方を怪しんでいるものだと誤解したのか。
 沈痛な面持ちで、
「この上、君に、ご家族の忘れ形見の、全てを放棄しろなどと。あんまりな要求なのはわかっています。しかし、君の身を……この手段でしか、守れない」
 君のためにここへ来た、と、控えめに主張してくる。
 会長のあんたがもっと守ってくれれば、と、罵られかねない立場だから。遠慮なく明言できないだけで。
 これは明らかに、おれを守ろうとする――更に事態が悪化するのを防ぐ、そのための助力だった。
 ……今回の農薬汚染での賠償が。自分に来るということは、既にある程度、考えてはいた。
 そして、確かに、そんなものにかかずらっていられる時間はないのだ。
 濡れ衣を。
 一刻も早く、一人でも多くの日本人に対して、解かなきゃいけない。
 残った最後の生贄、たかだか一人の大学生に、明らかに背負いきれない賠償を払わせようとする、腹いせ訴訟に。関わっている時間は無いのだ。
 しかし、ためらいが、一つだけあった。
 遺産放棄をしたならば。
 両親は無罪であった、という証拠が、持ち出せなくなる、のじゃないか。
 例えば、あの秋実のノートに類するような。
 父親がつけてた、農協からの購入した物品の記録が記してもある、栽培記録。母親の途切れながらも続く日記。
 父母で作っていた出入金記録、それに貼りつけられた封筒に入っていたレシート。
 そんな感じの――無罪を証明できる一端になるものたちが。差し押さえられてしまうなら、困る。
 そういう考えがよぎってきて。
 仕方なしに、その疑問を、ちょうど目の前にいる専門家にぶつけることにする。
「……遺産放棄すると、明日あたり出ていかなきゃいけない、んでしょうか? それに、家族の形見……日記とか、そういった物も、持ち出せなくなるんですか?」
 完全に味方と判断したわけじゃない。だから、コメントが信用できるものなのかどうかは、後でまた用心深く、調べ直す前提での質問。
「いえ。たとえば仏壇や、遺骨や位牌などは……財産とは見なされませんので、完全に持ち出せますし。故人の日記など、換金できないとされるものは、債権者――借金を取り立てる権利があると決まった者が、目くじらを立てませんので、少量ならば大抵は持ち出せます。それに、その債権者が、家の抵当権を主張して立ち退きを通告してくるまでは、あなたにここにお住みになれます。むしろその期限までは、注意をもってその財産の管理を継続し、引き渡す義務があるということになっていますから……。今週中にどうこう、ということは、ありえません」
 ほぼ安心できる回答ながら、一抹の不安が残った。
 秋実のノートはともかく、父親の栽培記録はどうなのだろう。
 栽培知識が盛り込まれている、とも言えるし。畑の特徴や、木の生育のコツ、もメモされているはずだから……。
 もちろん事前に隠してしまって、さらに、証拠能力は薄れるだろうがコピーなどのバックアップも複数取っておくつもりだが。
 いざ裁判などをする時に『それはこちらの財産のはずだから合法ではない』というような話になってしまうと困る。
 ……しかし逆に発想するならば。
 農協の人間なんかが、自分達が売った証拠を消そうと。
 もしも『秋実のノート』までも、置いていけと、言いがかりをつけてくるのならば。
 なぜこんな価値がないはずのものを欲しがるんだ、と……その様子を録音、録画しておくなりなんなり、手段を講ずることで。
 あるいは――無罪の訴えの発端にすら、なりえるのかもしれない。
 実際に、そんな事態が起こってくれないと、取らぬタヌキの……となってしまう、無罪証明へのとっかかりではあったけれど。
 そんなケースがありえるならば、もう、ためらう理由はない。
 ……ためらうが、ためらっていられる状況ではない。
 確かに、家族の全てが染みこんだ家だ。
 廊下を歩くことがなくなり、ふすまに手をかけることがなくなって見慣れた角や空間を見れず、家具の一切も目に映すことがなくなる。
 それは、丸ごとの形見を、失ったとも言えるだろう。
 だけどそれで。
 精神的に一層のダメージがくるのでは、なんて。そんな心配はしてはいられない。
 とにかくこの濡れ衣を、どうにかして晴らさなければ。
 精神の落ち着きなんて一生得られない。
 この家を相続することが、行動の足枷になっていくのだとすれば、未練を覚えている隙は、どうしてもなかった。
 両親の誇りだった林檎畑も、なくなってしまうが。
 おれがこの土地で、誰かからは優しくされて、だから、これからも生きていける。そういう。
 ありえない希望も……ちょうど数時間前、綺麗さっぱり零に断ち切られたところだった。

 遺産放棄には、戸籍謄本などが必要書類としているそうで。
 司法書士の男が、それらの取得を代理人として代行するための、委任状を取り出し。それに署名押印を求められた。
 騙されてやしないか、と、ざっとチェックしたが……後から何か文章を付け足せそうな、不自然な空白もなく。
 具体的に書かれている委任事項にも、『戸籍謄本一通の交付申請の件』など、言われている以外のものはなかったので。素直に、署名押印で、その書類を完成させた。
 次いで、こちらも今週中に記入しておいてください、と本題の『相続放棄申述書』も取り出され。
 司法書士が、おれが記入する場所を、ポストイットを貼り付け、いちいち指示していった。
 そうして、遺産放棄の話に、完全に区切りがついた後も。
 しばらく司法書士に話を譲り、一言も発していなかった協会長は。まるで辞する気配を見せなかった。
「……私は力不足でした」
 待っていたように、その口から滑り出てきたのは。
 神妙を絵にしたような、実のある声。
「一報を聞いたとき、まだ、どこの農家のものかはわかっていなかった。そして、誰もが『どこの農家が発端だ』という問いしか、発しませんでした。誰の目も、怒りのぶつけどころを探して、鬼が取り憑いていて――」
 ……詫びを言おうとしてる、と感知した瞬間。
 思わず尻ポケットの携帯に手を伸ばし、ムービー機能を起動していこうとした。
 協会長、という立場の人間から。
 この地域に『禁止農薬がはびこって』いたのだという言質が取れれば、マスコミも動くかもしれない。
 そうすれば、そういう闇を知らなかった父親が、たまたま騙されたのだ、という主張を、ニュースで流させるとっかかりになる。そう思って。
「もう既に出荷の最盛期が終わってしまい、――般家庭で食べられてしまっていた時期での発覚でした。食べさせてしまったからには、取り返しがつかない。産地の責任が問われ、風評被害が巻き起こること、避けられない。だからこそ、皆の心がこの状態のままでは、いずれ酷い事になると――」
 だけど、相手も、それくらいは警戒している、らしかった。
『ここの農協が禁止農薬を売っていることを知っていた』とか『禁止を知っていながら違反している農家が山ほどいた』などと。
 率直なことを喋ってくれる気配は、まるでなかった。
 それに、ボタンを押す直前で気づいたが、携帯をマナーモードにしていない。
 ピッピッという操作音が、まぬけに響き渡れば、いくら背後で手探りに操作したところで、何をしているかは筒抜けだ。
 とりあえず録音は諦めることにして。
 話に、耳をかたむけた。
「犯人探しは止めよう、と、すぐに呼びかけました。見つけ出したなら――その誰かに。怒りを、よってたかってぶつけなければ気がすまない、そうなるのは目に見えていた」
 禁止農薬にまだ頼っていたという地域の因習、大元の原因にせよ。
 汚染された林檎だけを回収することはできない、全回収になってしまう、という、改革にかかるコスト面から今も昭和時代のまま、放置されている流通システムの不備にせよ。
 どこか一農家に責任が集約されるような……そんなレベルの問題なわけがないのに。
「最初に徴集された会議の場でも、もう、どこの林檎のせいだ、そればかりでしたが。犯人探しが重要なのではなく、こんな事態に、これから先は、もう二度とならないように。そう動くことのみが肝心だと、ただ言い続けました」
 雫に濡れてはいなかったが、男泣きを幻視させてくるような。
 皺が寄りきった、悲痛な目元を見せ。
「第一報からずっと――犠牲を、おそれていました」
 一流にも思われるスーツで、ゆっくりと、崩れ落ちるような土下座をしてくる。
 皮肉にも、おととい目にしたばかり――自己嫌悪という勢いのあったおじさんの土下座とは。また違うもの、だった。
 糸が切れたような。
 戦い疲れたような。
「正論は、力ないと、わかっていても。それでも一定の力はあると思っていた。誰かを殺して気を晴らす、そんな間違った結果にはならないと――信じて。あの日まで、やってきた」
 ぶるり、と、肩を震わせ、体を小さく縮めるように。
 協会長は、ますます腰を折った。
「私の声は」
 圧倒的な力不足に、挫けきった声。
「届かなかった」
 誰にも届かなかった。誰も止められなかった。
 じっとりと絶望のしみこんだ、声。
 畳の目へ、ただ現実の重さを伴って、黒く沈みこんでいく。
 そういう結末の通知を、最後に残して。
 無力な良識の代表者は、帰っていった。

 二人を送り出した玄関の、戸締りをしながら。涙腺から刺激されて出てきた、鼻をすする。
 ただの生理反応だ。すっかり感受レベルが低くなった、人の行為を『優しさ』と感じてしまうライン。それに、ひっかかってきてしまった人。
 それでも。
 あいつは、役には立たないな、と……すでに、見切りをつけてはいた。嗅ぎ取っていた。
 見上げた態度だった。
 事件の最中も、事後の対応も、今、この瞬間までも。
 きっと協会長としてこれほどはない、くらいに。立派な倫理を持った人物だった。
 違反農薬の反応を出してしまい、問題の露呈を招いてしまった農家……うちですら、公平さをもってなるべく庇ってくれた。
 その父性にあふれた慈愛と品位。
 転じて、それは――。
 どの子も――どの農家も差別せずに、道徳的に守ってくれるということで。
 なら、つまりは。
 死んだ子なら、特別に大事にしてくれるってわけでも、ないんだろう?
 ボイスレコーダーを警戒して、地域の違反農薬問題への言及を避けたことから。聞くまでもなかった。
 沢山の。他の、生き残った子ら、を捨てて。
 こっち側についてくれるわけも――ない。
 偉く立派な『良い人』も、父さんと兄弟のようにすら見えた『良い人』も、例外なく。
 この一家心中の、真相を。
『揉み消したい』ことに変わりはないんだ。
 むしろ、だからこそのあの、土下座だ。
 力になれない。
 こらえてくれ、産地の為に。
 この悲劇を忘れてくれ。と。
 そういうことだった。
 すん、すん、と、鼻をまた啜った。
 いつのまにか、だらだら、首筋まで垂れてきてる涙が、冷たくて。
 もうとっくにわかってきてたはずの事だった。
 一緒に戦ってくれる人、一人もいないんだって。
 だけど今日、ようやくわかった気がする。
 捨てられたんだ。
 あは、は、と、泣き笑いで上を仰ぐと、ぼやけた古い裸電球。
 今、エプロンつけた母さんが、寒かったねって出迎えてくれたって、なんの違和感もない。
 ど田舎の、見慣れたまんまの、我が家の風景。
 おれは、せっかく出迎えてくれた母さんに、ただいまも言わずに『あー』って程度に返事して。
 今日も帰りがけに、近所のじじばばに話しかけられた……どこ受験すんだとか、彼女と別れたのかとか、嫌がらせかこの過干渉、と無言で辟易しつつ、ぐるぐるマフラーをほどいていって。
 そんで、こたつに根が生えたように座る父さん、ざしきわらしのように話しかけるまでは黙りこくっている妹がいる、こたつが暖かい居間へと、歩いていく。
 土地は変わってない。風景はなんも変わってない。
 故郷って、地名のことを示すんだと。
 普通なら思う。おれも思ってた。
 違ったんだ。
 その容器の中に詰まった『人』だったんだ、なによりも。
 中学生の女の子をよってたかって殺す、三人の死を線香で悼んでもくれない、すれ違う人の誰もが睨んでくる。
 隣人は忘れてくれないと困ると土下座し、友人が関わらないでと手を払う。
 一粒の、味方もいない。
 そんなとこ故郷じゃない。
 どんよりしたねずみ色の空と、空間を0視界に埋め尽くす砂のような雪の、長い冬を抱えこむ。
 高齢化がどんどん進んで、若者には捨てられるばっかりな。
 過疎極まりない、しょぼくれた故郷。
『出ていかれる』そのワンパターンしか、見たこと、なかったのに。
 おれだって、罪悪感を覚えながらも、いつか。
 だって仕方ない、と、自分の意志でここを脱出していく気だったのに。

 ああ、故郷が、おれを。
 故郷に捨てられる、なんて、こと。
 あるんだ。そんなこと。

 ◆

 遺産放棄の話を固めた、次の日は。
 司法書士は、ああ言っていたけれど。いつ出て行けとおしかけられたものか、わかったもんじゃないと警戒して。
 父さん達の無罪を証明する物品を、家屋や倉庫から探し集めるのに集中した。
 秋実の日記に始まり、父さんの栽培記録や、帳簿の類。母さんの家計簿にも、何かヒントがあるかもしれないと、かき集めていく。
 父さんの帳簿にはレシートが沢山貼り付けてあった。
 深夜バスで帰省した際、教えられた。問題農薬を使用したはずの日付から、レシートを探す。
 禁止農薬は農協から売られたのだと証明できるレシート。
 農協から出ているもので、怪しいものが、一枚だけあった。
 だけど狡猾にも、レシートではなく、『農業用資材購入証明書』という領収書にされていた。
 但し書きにあたる部分が、農業資材として、とまとめられているだけに。
『農薬名』がまるで判断できない。
 何を買ったのか明細がわからない状態にされていた。
 ……レシートではなく、こういう領収書を渡されることは、珍しくなんてない。
 農業用、つまり仕事用だって事がわかれば、帳簿上、問題はないものだから。レシートでも領収書でも、どっちだって良い、というのが風潮だ。
 だけど、悪意を感じた。
 やっぱり農協は、セールスしてきた人間は。
 秘して流通させなきゃいけない『まずい農薬』であることを知っていて。だから最初っからこんな、具体的な農薬名をブラックボックスにつっこんだような、領収書をよこしてきているんだろう。
 そう、確立されていくようだった。
 農薬名がちゃんと記載されているレシートだって、こんなにあるのだから。

 他にも、全く新たに、重要な物が出てきた。
 いきなりあんな、地獄のような騒動になったから、それどころじゃなくなって。
 父さんも母さんも、あることは覚えていても。どうもしなかったのだろう。
 異様な迫力で倉庫にあった。
 白い厚手でポリ製の一袋。
 薬品名称も、説明文も、何の印字もない袋。農協から売られた、安心なはずのものだという、先入観なく見れば。まさに麻薬の袋のよう。
 開封もされていなかった。
 新品のままの問題農薬。
 深夜バスで帰省した、平和だったあの夜に。まさに、おれが見せられたものだった。
 ……二つ購入したうち、使いかけのだった袋は。汚染源の調査に来た連中が、持って行ってしまったはずなのに。
 こんな危険な農薬、よく持っていかなかったものだ……と思ったが。
 どうせ売っている農協でも、ずさんな管理だったんだろう。
 調査に来た奴らも、どれだけの違反農薬が、農家に渡ってしてしまっているかなんて。今もって把握できていないに違いない。
 だから父さんと母さんが言い忘れたら、もうこれ以上はないものだ、と処理されてしまったのだ。
 ただ、この新品の農薬だけで。
 無罪の証明になるのか言えば……たぶん、否だった。
 今、証拠隠滅を謀る敵が、どこにでもいる状態なのだ。
 これは確かに農協が売ってきたものだ、調べてくれ、と頼んでも。きちんと調べてもらえる可能性は、低いはずだ。
 セールスしてきた水沼を見つけ出して、自白させて、どこかのマスコミに動いてもらって。
 それ位の準備が整わないと、握りつぶされてしまうかもしれない。
 慎重に扱わなきゃいけない、今は隠すべき、証拠だった。

 そのまた翌日は。探しだした物品を、隠すのに専念した。
 これらの『それも財産だろう』と言いがかりをつけられて、奪われては困るものを、車に積んで。
 町に出て、紙の書類はコピーをし。
 家電店で、これから必要になるであろう、ボイスレコーダーを買って。
 それから、保管のために必要な、密閉できる缶をいくつか購入し。
 秋実のノートや、農薬そのものを詰め――ちょうどタイムカプセルのようなものにしたその幾つかの缶を。埋めるために、軽トラックで山中に向かった。
 隠し場所については、さんざん悩んだのだが。
 缶に何重にも詰めて、埋めることに決定したのは。
 貸し金庫などを契約して保管しておいても。
 かえって、おれがそこに大切な証拠を隠していることは、明白になってしまい。
『財産』として、法律を盾に奪い取ってこようとするならば。
 相手にとっては、保管場所がわかっている分、手間が省けて。差し押さえがやりやすい、くらいのものになってしまうだろう。
 貸し金庫を偽名で契約する、という手も浮かんだが。それこそ、日数も下準備もかかりそうで。
 準備している間に、立ち退きを迫られ。何にも、持ち出すことが許されないまま、追い出されるということになりそうだったから。
 結局、自分しか知らない場所に埋める方がいいと。結論を出したのだった。

 埋めることにした場所は、子どもの頃、何度か。
 遠い親戚の土地なんだと、父さんに連れて行かれた山。
 その土地の、最低限の管理――『危険につき立入禁止』の札をチェックする、などの仕事を、父さんが任されていた事があって。それに何度か同行させられたことがある所。
 田舎に残った人間には、そういう義務が押しつけられることがあるのだった。せっかく先祖伝来の土地にいるんだから、ちょっとくらいいいよね? 都会に移ったからできないんだ自分達では、という理論で。相続などの権利は全く譲渡される気配はないのに。
 今もそんな、うちの親族の名義なのかどうかは、知りもしないが。
 どうせ熊が出ると言われても信じるしかないような、もしかしたら秘境と表現したってさしつかえないかもしれない、手のつけられない山奥だった。
 数年や数十年で、住宅に姿を変える、などという可能性はありえないから。そこにすることとした。
 数年間行っていない、しかも自分で運転して行くのは初めてな山中に。迷わずに行くのは、全く無理で。
 ただでさえ冬季の、しかも日暮れの早い山間部。
 しかも除雪車などが入らない悪路だ。
 予想はしていたが、見覚えのある『危険につき立入禁止』のある風景に、ようやく辿り着いた時には、完全に日が暮れていた。
 それでも、軽トラックのライトだけを頼りに。
 トラック荷台に元々つんであったスコップで。まずは積もった硬い根雪へと、スコップをふるった。
 傍から見ていれば、サスペンスドラマで死体を埋める狂気そのままだっただろう。
 そのうちに痛みだす、手の皮や、節々を。無視したまま、追われるよう作業を進め。
 最後の缶に、土を念入りにかぶせ。
 掘り出した、土混じりになる前の根雪を。カムフラージュとしてかけ直して、踏み固めた瞬間。
 ようやく戦いに行ける――と。
 びしょ濡れの体で、息をついた。

 ◆

 購入したばかりのボイスレコーダーを持って、翌日、早朝から。命がけの気持ちで、いよいよ戦いに赴いた。
 父さんと母さんが通いつめていた、地味な銀行のような外観の、地元農協の自動ドアをくぐると。
 それだけで多分――注目を集めた気がした。
 気のせいではなかっただろう。あからさまでない視線も含めれば、おそらく八十パーセントほどの確率で、警戒の視線を当てられていた。
 父さんに連れられて、農協に来たことは、何度かある。だからおれの顔を知っている職員は、何人かいるはずだった。
 そうではなくても、近いうちに一家心中の生き残りが乗りこんでくることは、想定していたはずで――来客の年恰好が、ちょうどそれに当てはまるようなら、緊張が走って当然だった。
 受付デスクにいる女へ、わざとフロア全体に聞こえるように大きな声で、
「こちらの水沼に、禁止農薬を販売された家の者ですが」
 と言った時。ますますそう確信した。
 女は、少しは引きつった表情を見せたものの。少々お待ちください、と落ち着いて返してきて。
 その落ち着きに比例するように、職員は、少なくとも表向きは、無反応。
 隅で何かの書類を書いていた、四人ほどいた客でさえも。聞こえたはずなのに、少し頭を振るような動作をするだけだった。
 ――やはり地域ぐるみで、隠匿されようとしてる。その雰囲気をひしひし嗅ぎ取るのに、十分な反応だった。
 卑屈な目つきで、そんな周囲を観察していると。
 別の女性職員が近づいてきて、こちらへどうぞ、と、促してきて。そうして奥まった応接室へと、押しこまれた。
 ……こんな人の目も耳もない、応接室なんかで話をするより、客がいる入り口付近で話がしたい。
 さっきの四人は無反応だったが、いつかは、地域の暗黙の了解に、染まっていない客が来て、話を聞いていくかもしれない。
 そういう希望を持ちながらも、とりあえず。すぐに来ると言われた担当者を、狭い応接室の中、冷めていく緑茶を前にして、待っていた。
 口をつけない緑茶が冷めるのが、あっと言う間だったと感じるほど。なかなか誰も、来なかった。
 いらいらと時計を見て、しびれを切らしかけたタイミングでようやく、見計らったように一人の職員が訪ねてきた。年配の小男だった。
 しかし、では本題に入ろう、と切り出すと。
 いいえ私はご挨拶に来ましただけで、私の上司がこれから来ますから。
 そう言って、部屋を去ってしまった。
 農協だって事態は把握しているはずなのに、なぜこんなに待たされるんだ、と、限界まできている不信感を、更に積み上げながら待っていると。
 また文句を言いだす前のタイミングに、別の職員が入室してきた。そして。
 ――話すべき担当の者は、この後、参りますから。
 そう頭を下げたのは、背の高いロングヘアの女。
 ――すぐに地区に詳しい者をよこしますから。
 そう言って退出したのは、髪が非常に薄い男。
 それぞれの言い回しで、それぞれに応接室を去っていき……。
 そして、いつの間にか。
 応接室に差し込んできている日光が、昼下がりの角度になっていることで、やっと気がついた。
 これが作戦であるということに。

 ……このまま馬鹿正直に、通い詰めては、待たされて大人しく帰るようなら。
 いつまでも丁寧な対応の皮をかぶった、部屋に閉じこめての放置を、続けるつもりなのだ。
 事件が風化しきってくれるまで――たとえば数か月程度、こうやって引き延ばせたならば、人事異動で水沼はいなくなりました、当時の職員も大部分異動になりましたので事実関係はもう何も確認できません、と、そんな台詞も吐けるのだ。
 そう気づいた瞬間から。
 おそらく数分の記憶が、ない。
 多分、応接室を出て。誰かにつかみかかった。
 ストレスなんて家族全員の死体を見た、秋実の首を折った日に、とっくに限界を超えていた。いつ暴発したっておかしくはなかった。
 記憶があるのは、農協の窓口のそば。
 まず、息が苦しい、という感覚で、我に返ったようだった。
 次いで耳に入ってきたのは、幾つかの怒号、小さめの悲鳴。
 ……何人もの男に、取り押さえられて、下敷きになっている自分の姿を。だから息が苦しいのだと、わかったのは、妙に遅いタイミングで。
 怒りで頭が真っ白になったせいだけじゃないのだろう。おそらく取り押さえられる時に、頭を打った。だから……。
 ――どこかぼんやりしていて、ろくに文句もつけられないまま、駆けつけた警察に引き渡された。
 ただ、ぼんやりとしてはいても。
 それでも、自分の現在置かれている状況に、どうしようもない違和感があった。
 自分の両腕を、後ろ手に拘束している男は。職員のようだったけれど、スーツ姿に偽装している警備員です、とでも言われなければ、信じられないような、立派な体躯の男だった。あんな、妙に荒事に向いてそうな職員、この農協にいたためしがない。
 そして、取り押さえ時には多少、怒号や悲鳴が聞こえた割には。いざおれが拘束されたら、職員全員が、落ち着いたものだった。
 警察に通報したらしき、囁き声が聞こえた後は……ガサガサと紙の音すら聞こえてきたから。仕事を再開したのでは、という疑惑すらよぎった。職員に強く体を固定されていて、そちらを見れなかったため、確認は取れなかったが。
 そうして、しばらくしてからパトカーでやって来た。若いのと老人、二人の制服警官。
 その、引き取りに来た制服警官の、老人の方と。農協職員一同は、どうも顔見知りらしかった。
 お手数おかけします、と職員一同が頭を下げる。いえいえ、と、さも鷹揚に頷いてみせる。そのやりとりに、初対面同士ではない雰囲気を、ひしひしと感じた。
 そう、まるで事前に相談を受けて、段取りができていたかのような――。
 やたらに淡々とした、すみやかな予定調和の中。手首に冷たく手錠をかけられ、他人のペースで歩かされて、パトカーに頭を押さえつけられて乗りこむ時。
 そこでも。やっと、気がついた。
 いつだって遅れて気がついたのだ。
 ここも作戦であるということに。

 記憶が飛んでいても、職員の誰かに詰め寄ったような、朧げなイメージがある。当然、冷静沈着にそうできたわけはないだろうから。
 ――威力業務妨害罪で逮捕、と聞いても。
 そんなには驚かなかった。もちろん、予定通りだったんだろう、卑劣な、とは思ったが。
 一家心中により、バッシングにしすぎたと急に沈静化したマスコミが……また喜ぶんだろうな、とか。妙に地に足のついてない心もちで考えた。取り調べが始まる前の、交番の取調室。
 あの厚顔無恥な一家の生き残りが、よりによって農協に責任があるなんてほざいています、ありえないですよね。そんな論調になるのだろうか。
 だけど、取り調べが始まると。老警官は、予想とは違った論調で、責めてきた。
 要は、おまえは初犯だし、被害としても怪我人もいない。起訴猶予になるようにしてやるから、家でおとなしくしていろ――。
 なんで暴れたんだ? そんな質問の一言すらなく。ひたすら丸めこもうとしてきた。
 なんとなくわかった。寝た子を起こしたくはないのだろう。
 マスコミはまるで、この禁止農薬の真相を、調査しようとも報道しようともしてくれないけれど。それでも、生き残りまで逮捕、起訴されたとなれば、また取材に来ないとも限らない。風吹けば水面が波立つようなものだ。それは、とにかく早く風化させたい『地元全体の意向』に、沿うことではない。
 だから起訴猶予を餌にして。おれの行動を、封じたいのだろう。
 ……まるで犯行理由を聞き出そうとしない警察側と、首を縦に振らない自分とが、いたずらに時間を浪費していき。
 深夜近くになって、ようやく解放された。しかも起訴猶予前提なので、家に帰っていいと言う。
 ……起訴猶予も何も、おそらく暴れるというほど暴れてはいない。ただこちらの弱みを握って、どうにかしたい地元の総意が、警察をも動かしているだけだ。
 怒りを抱えながら、ちょうど解放寸前から雪のちらつきだした外へ、踏み出した。
 そう言えばこのコートじゃ少し寒いな、と、やっと思った。東京で着ていたコートを、あの帰郷の日から、ずっと使っている。本来は、帰ってくれば母さんが、高校時代に愛用していた、青森にぴったりなコートを出してくれるのだ。そういうものだった。
 今は、一人。コートのありかもわからずに、交番から、車が放置されたままの農協へと、なんとなく手錠の余韻の残る手首をさすりつつ、とぼとぼと歩いていくしかない。
 そして、車にやっと乗りこんで、帰り着いても。
 誰も、生きて住んでくれてはいない家なのだ、もう。

 そしてその翌朝。
 農協と交番で、半分ずつみたいに無駄にさせられた前日を、取り返す気分で。今度こそと農協に赴くと。
 ――車から降りるなり、息を呑むはめになった。
 最初から、見覚えのある警官二人組が待ち構えて、農協の自動ドアそばから、こちらを見ていた。
 ……それでも、ひるんでる場合ではない、と、おれが足を踏み出せば。
 どやどやと足音も荒く、その自動ドアから出てきて――何が職務質問なのか。
 どちらが悪者か――正確には『地元にとって』都合の悪い者なのか、最初からもう決まっているその態度で、またもやパトカーに乗せられた。
 そうして、結局丸二日。
 無為に時間を費やして、また悟った。
 父親も……警察は絡まなかったにしても。こんな風に、話し合いの席に着いても、着かせてももらえず。
 そして時間が過ぎていき、濡れ衣が、確定、となっていってしまったのだと。
 そう察した時、次の自分の行動への。腹が決まった。

 そのまた翌日は、警察にさんざん言い聞かされた通り、家でひっそりと時間を過ごして。夕方を待った。
 冬の青森の夕方は、夜と変わりない。夜陰にまぎれて車を出し、農協からわずかに離れた場所へ路上駐車して、徒歩で農協を目指した。
 昨日のように、警官に連行されないよう、身を隠せる物陰を探すが。そう都合のいいものはなかった。
 だけど、暗さが味方をして。電柱の影に隠れていれば、なんとかなりそうだった。通行人が通りかかれば、適当に携帯で話しこんでるふりでもして、やりすごせばいい。
 そう決めて、その位置から、農協の自動ドア出口をうかがっていると。
 狙い通り退社時間になったのだろう。人が、ぱらぱらと吐き出され始めた。
 最初の人影は、駐車してある車の一台に向かっていき、そのまま乗りこんでしまった。当然、車で公道まで出てきて、走り去っていく……見送ることしかできない。
 二人目も、三人目も同じだった。男か女かもわからない人影が、手出しできない堅固な鉄の塊に乗りこんで、去っていく。
 四人目はやっと、生身のまま、農協の敷地内から出てきた。
 カツカツというヒールの音と、シルエットから判断するに、女だった。
 思い描いた、狙うべき人物像だった。迷う点があるとすれば……マイカーで帰宅せず、公共交通機関を使おうとする、今日、最初の人間だから。もしかしたら罠かもしれない、そういう懸念だけ。
 だけど、今更そんなことで迷っていても、仕方ないのだ。
 警官がいるかもしれない、農協を警戒しながら。足早に女に近づいていく。
 人影に気が付いて、はっと農協職員の女は振り返った。年齢は四十〜五十歳くらいで、落ち着いた茶色のロングヘア。背が高い。記憶にかするものがあった。
 初日に、おれをあしらう対応した、二人目だ。
 もはや怒りなんてわかなかった。水沼以外の、誰か個人を恨んでいるヒマなんてない。とにかく早く、水沼を捕まえなければいけないのだ。
 キャア、と叫びかけた女の口を、容赦なく掌で覆った。あざになるかもしれないほど強くふさいで、低く脅しつける。
「……あんたも事情、わかってるでしょう。おれは絶対に引けないんですよ。水沼の住所、教えてください」
 鼻から下を全てふさがれた女が、怯えきった目で、ぱちり、と大仰なほどのまばたきをした。
「水沼かばう義理なんかないんでしょう。あんたから聞いたとは、もちろん誰にも言いませんし。……おれが農協に火ぃつけたり、包丁持って強盗まがいなことする前に。教えてください。有耶無耶にするのは無理なんですよ」
 掌の圧力で、女の頬をへこませたまま、言い終えると。
 女は、目から怯えの表情を消して。
 少々鬱陶しそうな、とすら表現できそうな……不機嫌な、そして冷めた、目元になった。
 そして顎をしゃくるような仕草をした。どうやら、掌を外せという指示らしい。
 恨みのある農協職員になんでそんな仕草をされなきゃいけないんだとか。掌を外したら悲鳴を上げるんじゃないかとか。
 そういう事を考えていても仕方ないから。指示通り、掌をはがした。叫ぶようならまたすぐふさげるように、ほんの数センチだけ浮かす形で。
 女は、ふう、と短く息を吐いて。
 落ち着いた態度で、右手を自らのバッグの中にさしこみ、手帳を取り出した。手帳の表紙にはペンがひっかけてあり、そのペンを、女は右手に取った。
 様子を観察しているこちらをよそに、女は、スッと手帳の、最後の方のページを開いて。
 思案するような顔で、手帳に文字を書きつけはじめた。二行くらいのその文字は、すぐに書き終えられて。女はまたバッグに手を差し入れ、一冊の手帳を取り出した。
 そのもう一冊の手帳を開いて、今、自分で書いた文字と、照合している。そして、最初の手帳の、書きつけたページをびりりと破いて、
「……どうぞ」
 やはり嫌そうな、抑揚のまるでない声で言いながら、こちらへ差し出してきた。
「…………」
 想定したよりははるかに、あっさりと進んだことに。意外さを覚え。
「……ありがとうございます」
 隔意がある相手だとはいえ……一応、礼を言いながら、そのメモを受け取った。
 そして、また警官が来ないうちに、と、素早く踵を返す。
 すると、背を向けた瞬間、響いてきた。
「でも。もう。引っ越されてますよ」
 ――その言葉は。
 耳の中、意味として形を成して。一瞬後、その形は崩れた。意志で崩した。
 崩さなければ、歩きだせなかったから。

 教えられた住所に、ようやく辿り着くと。
 目にまず映ったのは、庭に放置してある、幾つかの粗大ごみだった。鏡台と、物入れだったらしいボックスと、それからとぐろを巻いた水道ホース。
 空き家なのは……もはや、いくら信じたくなくても。信じるしかなかった。
 どの窓にもカーテンがない。そして、そのカーテンがないという視認すらも困難なほど、生活感のない闇に沈んだ家屋。
 震えだしたいのに、震えることすらできなかった。
 泣き叫びたいはずなのに、禁じられたように、それすらもできない。
 ああ、手がかりが。
 ちぎれた――。

 ◆

 一縷の望みをかけて、引っ越し先を知るために。
 水沼の近所の家を、何軒も、訪ねて回った。
 ……予想通り、こちらの身元を、知っているのだろう。
「水沼さんはね。旦那さんが会社やめて、離婚して出て行って。そのすぐ後に、奥さんもご両親と一緒に、出て行かれたのよ」
 応対に出た主婦達は、ゴシップのような話題だけは、洩らしてくれたが。それも、こちらを諦めさせるためだったのだろう。
 引っ越し先がわかりませんか、わかる人を知りませんか、そういう問いをぶつければ、
「誰も知らないのよ」
 断言口調で、そう告げてくるばかり。
 水沼の行方を、近所から探ることを諦めて。
 それからすぐに、マスコミに当たった。社会問題を問う、正義を謳っている、そういう会社に、いくつも電話をかけた。
 話をまともに聞いてくれたのは、一名きり。
 だけどその一名は、こちらの長い話――経緯の細かい説明、証拠になりそうなもののリストの読み上げ、農協の最後の対応まで、口を挟まずに全て、聞き終えてくれたのだ。そして、
『君はね、かわいそうだよね』
 単純な所感を述べるような響きで、ぽつりと言った。
『普通は、地域住民とかが、自分がそんなぬれぎぬ着せられる立場になったらたまんないって、力を貸してくれるもんなんだ。でも、この件は。君に手を貸したら、隣人さん達はまず、自分の仕事がなくなるわけでしょう。だから君には敵しかいないんだ。もし僕がね、この事件を取材しても。君もわかってるでしょう? 何十箇所からすぐさま圧力がかかって、そうだな、まだ季節が早いけど、桜の見所とか? そこの場所取りのコツとか。そういう記事にさしかえになるだろうね……すぐに』
 経緯は理解した、証拠も把握した、嘘もないと信じている。そういう誠実で、真剣さだってある態度だった。
 それでも、哀れみしか、鼓膜に届いてこない。
 そして励まし以外の何物でもない声音で、最後に残した。
『忘れるしかないよ?』

 電話を置いて。よろりと立ち上がり。
 死人のような足どりで、刺すように寒い、廊下に出た。
 雪で傷んだ、たわんでしまっている雨戸を、横目に入れながら。ギシギシと床を鳴らし、歩いていく。
 林檎協会から紹介された司法書士から、ついに、この家を数日中に引き渡すように言われていた。
 家族の遺品持ち出しは『チェックはされると思うがわずかなら構わない』と言われている。
 まずは、妹の部屋に入って。まだ大人用ではない、小ぶりな、机や、カバンや、制服を目に映していく。
 ――女の家で猿の行為にふけって。
 没頭することで、逃げていなければ。
 きっと両親が、帰郷したおれに預けてくれた、手が、届いたはずだった存在。
『お昼に、農協職員の、水沼作さんが来て、お話しのついでに手伝っていってくれました』
 林檎畑にひっそりと、まぎれこんでいた、あの白い姿。その声で、ノートの一節が、蘇る。
『作さんって変わったお名前です。農協さんにぴったりです』
 あの内気な子が。ノートにあんな風に、いくらか親しげに書くってことは。
 信頼しきっていたんだろう。だって農協の人間だったのだ。そしてよく来てくれて。
「……作」
 同じ林檎農家として、親身にだって、なってくれて――。
「水沼。作……」
 たとえば、さそりの星座なら。
 闇夜が暗く深いほど。赤く耀く。

 ◆

 どこだ。
 ひとところに影を留まらせず、まさに流れるように生きる。
 どこだ。
 ひたすら足を止めず歩きつづける。
 どこにいる。
 いつの年のどの季節からか動かなくなった小指と、その痛み、治療も無視して、八十八箇所巡礼するように歩く歩く前のめりに歩く。
 おまえは。
 詐欺師の吐いたほんのひとかけらの情報、ゆいいつの手がかり『実家も、これを今、使ってて、すごくいいんです』実家が使っているという言葉が嘘であったのに、実家が林檎農家というのが果たして本当なのか、それすら考えないようにして。
 おまえはどこに。
 春ほろびるサクラ吹雪、夏もやすセミの声、秋おくるモミジの雨、冬ひきとめるコオリ地面。

 同じことをおまえにしてやる。
 同じ立場においてやる。
 父親が、母親が、妹が。
 妹がほんとうに。
 ほんとうに死ななければならなかったのか。
 おまえの育った土地で、おまえの根がある場所で。
 同じことをして確かめてやる。

 そしたら、そう。きっと。
 孤独に震え凍え。
 後悔で狂い叫ぶ。
 同じ手遅れで自業自得な。
 星ない夜空よりもなんにもない。
 暗い深い広い闇に。
 たったひとり。
『おいていかれた』

 ◆

 昏睡状態、とすら形容できそうな状態から、一週間ぶりに脱した兄貴は。
 布団に上体を起こした姿で、長かった告白を終えた。
 とても他人事には思えない、同じ林檎農家に降りかかった悲劇――兄貴が、降りかからせた悲劇だった。
 父さんが、ゆら、と立ち上がって。
 殴りつけるためだろう。兄貴によたよたと近づいていった。
 こぶしが握られてて、そのこぶしが、怒りのあまり、ぶるぶると震えている。
 だけど、兄貴の下に辿り着いた瞬間。
 父さんのそのこぶしは、夢のようにほぐされて。
 どかっと座りこんだ父さんは。その手で、自分へと倒れこませるように、兄貴の肩を強く、かき抱いた。
 瞬間、兄貴のわめくような泣き声が、響いてくる。
 ぽす、と。
 背後の、父さんを止めようと立ち上がっていた姉ちゃんの、すねに、おれは遠慮なしに背中あずけて。
「……アッマ」
 と呟いた。
「ぞ、ね…………」
 返ってきた、妙に濁った声に、振り返った。
 姉ちゃんを仰ぎ見て……ため息を、一つつくことになった。
 おれも立ち上がって。ボロボロと球体をころがし続ける姉ちゃんのほほを、曲げた指でぬぐっていってやる。
「泣きやんで、息しないと死ぬ、姉ちゃん」

 ◆

 服従の心理、という心理学の実験レポートがある。別名アイヒマン実験とも呼ばれるものだ。
 それは、ナチスの大量虐殺に加害者側として関わった人間は、異常な人間、あまりに特殊な人種であったからこそ、虐殺を実行できたのだ、と証明することができるのではないかと思われた実験だった。
 まず人を一般から募り集め。
 その集団をくじ引きで、罰を与える『教師役』と、『生徒役』の半々に分ける。
 だが、くじ引きはヤラセであり『生徒役』は、実はサクラである。
 何も知らない『教師役』の人々は、まずは自分がどんな罰を与えることになるのかを体感するため、四十五ボルトの電気ショックを受ける。そして正しく『四十五ボルトのショック』を、認識する。
 それからペアとなる『教師役』と『生徒役』で、別々の部屋に、それぞれに入室する。その二つの部屋は、インターホンによって対になっており、お互いの音声のみが伝わってくる状況となっている。
 実験は『教師役』が四択問題を出していくことで進む。『生徒役』がミスをすると、四十五ボルトの電気ショックを与えることになっている。間違えるたびに、十五ボルトずつ電圧を上げるように、との指示も受けている。
 そして出題が開始される。間違いが蓄積され、百三十五ボルト、百五十ボルト、となっていくため、そのたびに『生徒役』は苦悶の声を上げる。電圧につれて当然エスカレートし、ついには壁を叩きながら『実験を止めてくれ!』と悲鳴を上げるようになる。
 もちろん、サクラである『生徒役』に、実際に電気ショックは与えられていない。苦悶の声も悲鳴も、録音されたものが流されているだけである。
 しかしそんなこととは知らない『教師役』は、当然、電気ショックをもう与えられない、と言い始める。
 すると、白衣を身にまとった博士のような男が、いわば『権威役』として現れて。『続行してください』あるいは『あなたに続行していただくことが、不可欠なのです』等と通告する。
 この実験は、白衣の『権威役』が、四度に渡って中止を拒否し、続けるように通告しても、なお『教師役』が実験中止を訴えるか。
 あるいは最大ボルトである四百五十ボルト――すでに三百七十五ボルトの位置には、危険という表示がある――が、三度も『教師役』によって流されるか、によってのみ、終了する。
 四百五十ボルトのスイッチを押すのは。
 たとえば、禁止されているとわかっている農薬を、それを今年使ってしまうであろう農家に売るほどに。
 死なないかもしれない、という期待が、無責任な行為。
 だけど、白衣の『権威役』に。『あなたに責任は問わない』と、高圧的にうながされ続けることで。
 思考停止に陥り、判断力が信じられぬほどに削られて。
 結果への責任を『権威役』にあずけ、インターホンの向こう側、ついには悲鳴さえ上げなくなった『生徒役』へ。
 ある者は緊張しきった顔面で、ある者は狂いかけのように引きつった笑い声を立てながら。
 六十二%が。
 最終段階の、四百五十ボルトボルトの実行へ、いともあっさりと踏みこむ。
 村社会などまるで関係がない、命令拒否しても罰則などない、たかだか一回限りの雇われた関係ですら。
 人は、その割合を誇る。

 ◆

 林檎畑の入口に、むぞうさに放り出してあった、一袋の農薬。
 自分が売ったものだ、と、まだ脱げないパジャマに、コートをはおって家から這い出してきた、兄貴が言った。
 袋までそのままだ。
 まだ保管してあったんだ。
 あれから十年、たったのに。
 涙も枯れ果てた、ひからびた表情で。兄貴は、パジャマの両膝を雪について、その袋にふれた。
 大切に大事に保管されていたんだろう、その『凶器』は、いたんでいるようには見えなかったのに。そのそっと落ちた指先のせいで、わずかにポリ袋に穴が開いた。年月に古びていた。
 そこからホロホロと、ほんの一、二グラムの粉が、こぼれて出て、広がる。
 その粉に、くりかえしくりかえし、指先を。かわいた指をさらに乾燥させるよう、すりつけて。
 まだ持ちつづけてきたんだ。
 ずっとオレが振りきろうとしてたあいだ。
 ずっと。
 涙が流れていないだけの表情で。そう呟き。
 信頼してくれていた人たち。自分が殺した人たちの顔を、きっと噛みしめながら。
 何も印字がされていない、パッケージがないことが特徴なパッケージのポリ袋を、見守るおれの横で、なでていた。
 ただでさえ慣れない仕事がやりにくい、方言も違う、なじみのない土地で。
 もう、課されたノルマを達成するつてもない時。売るものはないだろうか、そう倉庫をあさった時に、見つけた農薬だったんだそうだ。
 農家からも農協からも意図的に名称をぼかされてきた『魔法の薬』の在庫。
 兄貴にとっては、よくわからないけどやばい農薬、という認識だったらしい。
 だけど売ってはいけないものが。
 ここにあるはずはないのだから。
 そう思い、上すべりのセールストークで。
 口だけをなめらかに回転させ、顔を愛想でいろどって、販売してしまった。
 ――兄貴の懺悔をきいてすぐに。馴染みの検査機関に、今年のうちの林檎について農薬検査を依頼した。
 おそらく異常が出るだろう、そう怯えながら。
 だけど異常は出なかった。
 うちの林檎に、禁止農薬がまかれていないことが、はっきりした。
 まいてはいかなかったんだ、あの人。
 木酢液と水のはいった、スピードスプレーヤーのタンクに。十年持ち続けたあの農薬を、混ぜてしまえば、それだけで完璧な復讐ができていたのに。
 ……きっと、再現は完璧だった。
 自分たちに罪はない、だけど誰にも信じてもらえない。
 そもそもどこから来た禁止農薬なんだって質問に、それを答えられない、なら。
 十年前の自分の罪を、とても、告白できないならば。
 言っても信じてもらえないのと。ぴったり十年前と。同じ結果をもたらしただろう。
 もしかしたら一家心中、という惨劇までも。
 十年、つららのように、凍りついていた、この袋。
 確実に、その全てすら、うちの林檎畑に農薬散布できたはずなのに。
 厳しい冬を、これから長く越してゆく、枝ばかりの木に。
 収穫されずに残される、まじないの風習、ひとつの木守り林檎が。
 まさに守護してるみたいに。華やかに紅く、ついていた。
 その実りにすらつもった、雪の純白は、光を吸いこんで、目にまばゆく。
 冬空は、澄んで、どこまでも遠く青く。
 あの人。
 どこに。

 ◆

 大きなバッグに腰おろし、闇に沈んで見えにくい、山並みを、見てる。
 もうすぐ朝一番の長距離バスがやってくる停留所。
『なんのためにこれまで生きてきたんだろう』
 滅ぼすため、ひたすら目指した場所から。
 何も引き起こせず、むなしく去ること。
『どうして今も生きている』
 今こそ何にもなくなったのに。
 復讐という祈りの花束を、捧げることができなくなったのに。
 今度こそ絶望していいはずなのに、息を吸えなくて、吐けなくて、あたりまえなのに。
 どうして山なんかを。
 つるつる目尻から、だらしなく次々、涙をたらしながらでも、眺めていられるのか。
 なぜ。
 体のすみが、幸福なのか。

 身のまわりを包むのは、まだ夜をひきずった空。
 徐々に明るさを広めながら、山脈から、太陽が。
 光のかたまりが、のぼってきはじめた。
 闇を、はらっていく、無慈悲に。

 薄れていってしまっても、いいでしょうか。
 昇る朝日に、夜空が、青く明けていって。
 どんな赤い星も溶け消え、いつしか観測できなくなるように。
 あきらめてしまっても、いいでしょうか。
 誰も喜ばないのなら。
 誰も救われないのなら。
 だって。
 だって許してくれなんてことは最初から望みもしていなかったんです。

 ◆

 銀河鉄道の台本を手にとり、めくる。
 ジョバンニがカンパネルラの死を知るラストシーン。ジョバンニはいろいろなことで胸がいっぱいになり、なんにも言えなくなって、博士の前をはなれる。
 牛乳をかかえて、お母さんの待つ家へ向かう。
「おかあさん、おとうさんは監獄になんか入っていなかったよ、ラッコの毛皮の上着を持ってかえってくるよ。カンパネルラが、助けようとして、夜のような深い水にね、もう、かえって」
 真逆の二方向に走る感情。支離滅裂な内心を抱えて。
 制御しようもなく興奮する躯、爆ぜるような足どりで、駆け出すジョバンニ。
 大きくけずり奪われて、もう絶対に何を捧げようとその穴は埋まらなくて。
 けど、圧倒的に。
 顔を上げて見るその先が。
 罪悪感で涙するほど、ほの明るい。
 たぶん、それが。
 死を引き戻せず、死者にたむける花すら見つからないのに。
 どうしようもなく自分が、生きていて。
 それから、誰かが、生きているって、ことで。
 パタン、と台本を閉じて、おれはそれもリュックに入れた。
 クリスマスの芝居は大成功だった。泣いている女子までいた。これだけ大成功すると来年がプレッシャーだなぁと、後輩がつぶやいた。
 もう、三箇月も前の話だった。
 リュックを背負って、靴を履き始めると。
 いつの間にか玄関に出てきて、おれの背後に立っていた姉ちゃんが、尋ねてきた。
「行くの?」
「うん、きのう消毒終わったし――今しかないかなって」
 木守り林檎が、ぽつんと赤い季節もとっくに終わり。
 鳥につつかれた後、静かに落下し、土に還り。木守り林檎は、役目を終えた。
 行き時、なんて。待っていれば一生、訪れないだろう。
 心がかりがありすぎる。
 たとえば、おれと一緒に林檎畑を守っている、育ててくれた父さんの、年のせいで縮んだ身長とかだ。
 父さんの、少なくなった口数、すっかり見なくなってしまった笑顔、丸めていることが多くなった背中の。その原因となった存在を、求めて、旅立つのだけれど。心がかりは、どうしたって心がかりなままで。
「すごく水、さしていい」
 姉ちゃんが、冷めた声で言った。
「縁、切ってあげたほうが、負担にならないんじゃないの」
 不機嫌そうに、続けていく。
「こんな因縁のある家に、呼び戻したって」
 ものすごく現実的な意見に。
 しらけあうような。
 まったく逆に、緊迫しあうような。見つめ合っての、数秒間のたっぷりとした沈黙があって。
「……こりゃ男にモテないな……」
「あのね」
 その後、顔をそらしながら、おれがボソッと感想すると。
 喉がヒクついているような発音で、姉ちゃんがしぼり出した。
 そして姉ちゃんは、なんかインナーワールドに危なくうつむいて、「的確なこと言うんじゃないわよ、そりゃわかってるわよ、情けない元カレにも微妙にさけられてる始末よ」と、ただでさえキツめのまなじりをつり上げて、恨みぶしをぶつぶつ言っている。
「いや、ゴメン、ありがと」
 そう話しかけると、やや涙目になっている顔を上げた。
 姉ちゃんの言うことはもっともだ。
 そりゃあ、追いかけるとか、すがるとか……。
 こっちから……好きだとか、やりなおそうとか、言える。
 できる立場じゃないんだけど。本当は。
「でも――なんとなく。ほっとくと、小指以外のとこも、動かなくしちゃう気がするん……だよね」
 寒さも暑さ空腹も、我慢するより前、本当に薄くしか感じとれてなさそうで。あらゆる欲が遠そうで。
 満足に動かすことさえ叶わない小指も、痛くないんだと言い切る。
 その生の不安定さは、きっと。
 現世よりも、死者と、糸が繋がっている、あかしで。

 ほんとうに悪い責められるべき人たちのことだけ。
 憎めて、いましたか。
 茶色い弱い髪と人並みより白い肌。
 ちっぽけなそんなくらいで。
 そんな二つで。
 憎まれてるのかもと思うのと同じぶんだけ。
 慈しまれてるような気もしてた。
 それだけ。
 囚われるように思っていたの。
 おまえだけなら救えたって。
 おまえがいなくなってしまったのは。
 自分のせいだと、思って、たの。

 死なれてしまって謝ることも許されなかった、捧げる花束の花も摘み取れなかった、あの人は。
 責められない代わり、許しもない。あたらしい。
 こわくて足がすくむほど、踏みだすその先は。まっしろな。
 そんな『始まり』を。
 自分一人で、はじめることができるだろうか。

「……ええと。生きたいのか生きたくないのかわかんない、幼果ってあるんだ」
 イメージの重なる、林檎の栽培での経験を思い出す。
「なーんか、位置も判断に困るかんじだし、色も健康じゃなくて。生きたがってるんだか、ないんだか……わかんない小さい果実」
 春の終わりから、夏の半ばにかけての作業だ。太陽光が満足に当たる箇所でもないし、大丈夫か? 心にひっかかる、そんな果実。
「そういうのほど、その後、おいしそうに出来上がったりしてさ。なんだよ、やっぱり、おれの畑でおれに大切にされて、生きたかったんじゃん、って……。そん、な……」
 そこまで言って、おれは首を、ちょっと傾けた。
「かんじ? なの、か?」
「……なんで疑問形なのよ…」
 姉ちゃんは、怪しむように眉根を寄せている。でも、一瞬後、苦笑に変わってくれた。
 そこにつけこむように、
「ちょっと頼む、よ」
 拝むように頼んだ。
「『ちょっと』ねぇ…」
 姉ちゃんは唇を、横にひねるように、への字に曲げて。
「『だいぶ』かかると思うわよ?」
 と訂正してきた。
 それには頷いた。あの人がかけた、十年という歳月の、再現のような苦難を見込んでいる。
 相手が逃げようとする可能性が高いぶん、もっとさらに、奇跡に近い確率かもしれない、探しものだって。わかっている。
「でも、行ってきます」
 おれが玄関の引き戸に手をかけると。
 姉ちゃんは、わざとだろう軽々しい感じに、ハイハイ、と首を縦に何度も振って。
「ゆぅ君さすがにばっつこ、ねばりだしたら誰らりきかん、もんね」
 そう、口真似するように言ってきた。
『ゆぅ君はさすが末っ子、いったん粘りだしたら誰よりも言うこときかない』なつかしい母さんの口グセを、聞かされて。
 恥ずかしくて、くすぐったくて、ちょっと笑った。
「よろしくね」
 引き戸を閉める、ピシャンという音の寸前に。もう一言、届いてきた。

 ◆

 ――秋の風景をこえて、二両編成の列車が、ゆっくりとやって来ます。
 身長にたとえればチビすけな、その小ぢんまりとした姿で、ごとりごとり、ごつりごつり、一生懸命に近づいてくるのでした。
 それを無人駅のプラットホームから見やって、冬樹はふぅ、とひとつ、感情のこもった息をつきました。
 秋は、林檎のみのる季節です。
 それはとても、たくさんの意味で、特別なのでした。
 これだけ年月が経った後なのに、たむける花束もないのに、今さら。
 積極的に、後を追いかけて死んでしまうのも。
 一時たしかに見捨てた家族に、甘えているようで。
 それもできずに、壊れるまでは『生きさらそう』と、天には昇らないでいます。
 けれど、何をしたいという意志があるわけでもないので。
 結局、慣れてしまったように、旅に流れて、生きているのでした。もう探すべき憎い人間はいないのに。
 背中から、慰めのような、ほのかな香りがただよってきます。
 甘くてすっぱくて、うるおっていて、カシリと赤い皮をやぶり、今にもいっぱいに口の中に、歌うように広がりそうな香りです。
 リュックの中にずっしりと詰められた、林檎からの香りでした。
 今日までお世話になっていた農家の人たちは、いつかの三人のように、お人よしでした。
 もう食べあきただろうけど持ってきなさい、と、重たくて歩きにくいほどくれたのです。
 後悔はないだろうかと、自分にたずねるならば。
 今でもじわりと、にがいような、苦しいような。つらい気持ちがしてきます。
 そのためだけに生き延びたのに。
 一歩、あと一歩で、きっと達成することは、できたのに。
 そう迷うたび、ガラスの破片のように、家族の顔、ありきたりが積み重なった思い出、震えながら読んだ禁止農薬の新聞記事、自分こそが折ってしまった妹の骨の感触、そんなたくさんが降りそそいできて。
 刺さって、どうしたって痛むのです。
 武器をふりまかず、雪舞う畑にどさりと置いてきたことは。
 許してしまったことは。
 正しいことだったのかどうか。
 はたして一生後悔しないなんてことは、できるんだろうか、と。
 ……でも。
 林檎が、豊潤の果実が、ころころと赤く実る畑のまんなかでもって。
 あの、妹に似た。たまに父にも、母にも、どこか似ていると感じさせた子が。
 四月に芽がきれいな色だと、五月の花が元気だと、六月は安定した位置にいいふくらみがきたと、たくさん笑っている光景が浮かんできて。
 それは、涙を。
 新しい涙でもって、ぬぐうような。
 まぶしい、あかるい、光の救いに満ちていて。
 やっぱり何度くりかえしても。
 何度でも、なんにもできないだろうな、と思うのでした。
 冬樹以外、誰もいないホームに、列車がようやくやって来ました。
 滑りこんできた列車の、ドアの脇についているボタンを押して、ドアを開きます。
 青森でも、岩手でも。
 雪がたくさん積もる土地の列車では、暖房が逃げないように、ドアの開閉はそういうボタンでの合図によっておこなわれるのです。
 乗りこむと、背後でドアが、ぷしゃーあ、と、のんびり閉じてゆきます。
 冬樹は席を探そうと、ぼうっと顔を上げ車内を見通しました。
 逆光で、影になって見にくい座席に。
 一人、青年が、いました。
 それが誰か知って、あんまりにのんきに。おっとりとした速度で、冬樹はぱちり、ぱちり、とまばたきをしました。
 妹がそこに座っているのとおんなじくらいに、まぼろしに見えたからです。
 乗車した位置のまま、座席に動きだそうとしない人影に気がついたらしく。
 青年は、こちらに向けて、ついと顔を上げました。
 そしてビックリと、その目は、水晶玉みたいに開かれました。
『エッ、今?』という文字を、顔に書きだすような反応をしてから。
 きまりが悪そうに、青年は、いったんうつむいて。
 モジモジと、膝を交互にもちあげ、靴を行き当たりばったりに動かして。
 それから。
 ふと気がついたように、急に、ふたたび顔をあげました。
 肘を折って、右手を、顔の横に持っていって。その手をぱぁっと広げて。
 これしかないだろう、というやたらと満足げな、ほわりとした微笑をうかべて。
 嬉しげに息をはずませながら、口をひらきました。
「よろしく」
 ごとり、ごつり。
 鉄道はもう一度。
 あたらしく、まっしろに、発車します。

 林檎の祈り。
「いつかはどうか自分のことも、心の底から」
 秋実る祈り。